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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第84話 罰としての血



 血の匂いが、近かった。


 器ではない。


 床でもない。


 血瓶でもない。


 生きている身体の中を流れる血だった。


 灰銀の血。


 クラウディオ・ルジェリウスは、それを嗅いだ瞬間、喉の奥が焼けるように疼くのを感じた。


 嫌悪が先だった。


 そのはずだった。


 ルストの血など欲しくない。


 あの血は苦い。冷たい。古い。喉を通れば王血が軋み、心臓が止まり、身体の奥へ灰銀の楔を打ち込まれる。


 飢えを鎮める。


 傷を塞ぐ。


 血脈を整える。


 そのどれもが、クラウディオには屈辱だった。


 効くからこそ、嫌だった。


 毒なら吐ける。


 呪いなら破れる。


 銀なら砕ける。


 だが、ルストの血は違う。


 飲めば身体が覚える。


 飢えの底で、あの血が必要だと覚えてしまう。


 だからこそ、嫌だった。


 地下牢の石壁は冷たく湿っていた。


 銀鎖はまだ四肢を拘束している。首には雷鎖。脇腹には灰銀印。喉には消えない牙の痕。


 見えない檻は、ますます深くなっていた。


 ルストは、クラウディオの前に立っていた。


 今日は器を持っていない。


 血瓶もない。


 皿もない。


 その代わり、首筋の皮膚がわずかに露出していた。


 衣の襟元が、ほんの少し緩められている。


 そこに血がある。


 皮膚の下に。


 生きた拍とともに。


 灰銀の血が。


 クラウディオの牙が、かちりと鳴った。


 自分の音に気づいた瞬間、彼は怒りで顔を歪めた。


「……ふざけるな」


 声はまだ掠れていた。


 飢餓から戻りきっていない喉。


 それでも言葉はある。


 王の声には遠いが、獣の唸りだけではない。


「それを近づけるな、灰銀」


 ルストは答えない。


 クラウディオは赤い瞳で睨む。


「聞こえぬのか。貴様の血など要らぬ。お前の血は嫌だ」


 俺、ではなかった。


 お前、と言った。


 我でもない。


 クラウディオは自分でそこに気づき、わずかに眉を動かした。


 ルストも聞いていた。


 当然だ。


 この男は、聞き逃さない。


 見逃さない。


 クラウディオがどこで崩れるか、どの言葉で王の声が剥がれるか、どの匂いに喉が鳴るか、すべて見ている。


「嫌でも必要だ」


 ルストは言った。


 短い声だった。


「お前の飢えが戻りきっていない。王血も荒れている。皿の血だけでは足りない」


「だから貴様の血か」


「そうだ」


「罰か」


「そうだ」


 即答だった。


 クラウディオの喉が震える。


 怒りで。


 屈辱で。


「ようやく認めたな。これは治療ではない。給餌でもない。管理でもない」


「管理だ」


「違う。罰だろうが」


「罰でもある」


 ルストは、ほんの少しも揺れない。


「お前は人を喰うことに躊躇がない。吸血鬼を喰うことにもな。飢えれば床の血に這い寄る。皿の血を舐め、足りなければもっととねだる」


「黙れ」


「戻れば、それを恥じて怒る」


「黙れと言っている」


「だから覚えさせる」


 ルストの声が、さらに低くなった。


「血は自由に奪うものじゃない。必要な時に、必要な量だけ飲む。お前の王血が暴れるなら、俺の血で押さえる」


「貴様の血で、我を押さえるな」


 クラウディオは吐き捨てた。


「身体の中へ入るな。喉にも、脇腹にも、首にも、もう十分だ。これ以上、我の血の中へ貴様を入れるな」


 ルストは一歩近づいた。


 クラウディオの身体が、反射で強張る。


 銀鎖が鳴った。


 がしゃん、と。


 逃げようとしたわけではない。


 そう思いたかった。


 だが、身体は動いた。


 ルストの血の匂いが近づいたからだ。


 嫌なのに。


 欲しくないのに。


 喉の奥が疼いた。


 クラウディオは、その反応を憎んだ。


「見るな」


「見ている」


「見るなと言っている」


「喉が反応している」


「違う!」


 怒声。


 雷鎖が首元で低く鳴った。


 青白い光が一瞬だけ輪の内側を走る。


 クラウディオは息を詰めた。


 それも見られた。


 全部、見られる。


 腹立たしい。


「……貴様は」


 クラウディオは低く笑った。


「本当に、檻より深いな」


「そう作った」


「誇るな」


「誇ってはいない」


「なら、なぜその目で見る」


「必要だからだ」


「またそれか」


 クラウディオは、銀鎖を引いた。


 手首の枷が肌を擦り、足首の鎖が床を叩く。


 まだ力は戻りきっていない。


 だが、怒りはある。


 屈辱もある。


 それが王の言葉を少しだけ戻している。


「我は飲まぬ」


「飲ませる」


「断る」


「断れない」


 ルストは近づいた。


 その距離が、危険だった。


 血の匂いが濃くなる。


 クラウディオの牙が疼く。


 噛みたいのではない。


 飲みたいのではない。


 そう言い聞かせる。


 だが、身体は別のことを言っている。


 ルストの首筋。


 そこに流れる血。


 苦く、冷たく、古い血。


 王血を軋ませ、飢えを鎮める血。


 嫌だ。


 嫌なのに、身体が覚えている。


 「近づくな……」


 声が低くなる。


「それ以上近づくな、灰銀」


「噛め」


「嫌だ」


「噛め」


「命じるな」


「飲め」


「命じるなと言っている!」


 ルストの手が伸びた。


 速かった。


 クラウディオは身体を捻ろうとしたが、銀鎖がそれを許さない。


 両手首は頭上に縛られ、足首は床へ繋がれている。


 ルストの腕がクラウディオの背へ回った。


 抱きしめる、というにはあまりに強い。


 拘束だった。


 逃がさないための腕。


 暴れればさらに深く固定する腕。


 クラウディオの背が、ルストの胸元へ押し込まれる。


 灰銀の匂いが近い。


 血の匂いが近い。


 首筋が目の前にある。


「離せ……ッ!」


 クラウディオは身体を捩った。


 銀鎖が鳴る。


 がしゃん、と重い音。


 だが、ルストの腕は緩まない。


 むしろ強くなる。


 肋骨が軋むほどではない。


 だが、逃げる隙はない。


 首元の雷鎖が冷たく鳴った。


 灰銀印も脇腹で鈍く疼く。


 すべてが、ルストの制御へ繋がっている。


 「離せ、下郎……ッ」


 クラウディオの声が震える。


 怒りか。


 飢えか。


 恐怖か。


 自分でも分からない。


「我に、貴様の血を飲ませるな……!」


「必要だ」


「要らぬ!」


「嘘だ」


「嘘ではない!」


「喉が鳴っている」


「違う!」


 ルストの手が、クラウディオの顎へかかった。


 力任せではない。


 けれど逆らえない角度で、顔を傾けられる。


 ルストの首筋が近くなる。


 あまりにも近い。


 牙が触れそうな距離。


 クラウディオの唇が震えた。


 嫌だ。


 飲みたくない。


 お前の血は嫌だ。


 そう言いたい。


 言ったはずだ。


 なのに、牙の根が痛いほど疼いている。


 舌が乾いた唇を舐める。


 その動きすら、ルストに見られている。


「見るな……ッ」


「見ている」


「見るな!」


「飲ませる」


「飲まぬ!」


 クラウディオは最後の力で顔を背けようとした。


 だが、ルストの腕がそれを許さない。


 顎を支える手。


 背を固定する腕。


 銀鎖。


 雷鎖。


 灰銀印。


 いくつもの檻が、一斉に閉じる。


 そして、牙の先がルストの首筋へ触れた。


 クラウディオの身体が硬直する。


 触れた。


 まだ刺さっていない。


 ただ、皮膚に触れているだけ。


 それなのに、喉の奥が凶暴に鳴った。


 血が近い。


 薄い皮膚の下に、血がある。


 噛めば出る。


 飲める。


 飢えが、理性の底を掻きむしる。


 クラウディオの目が赤く濁りかけた。


 彼は必死にそれを押し返す。


「嫌だ……」


 低く、掠れた声。


「嫌だ、灰銀……ッ」


 ルストの腕が、一瞬だけ動きを止めた。


 クラウディオはその隙を逃さず、怒りで塗り潰すように続けた。


「我は、貴様の血など飲まぬ。あんなもの……我の血脈を軋ませ、心臓を止め、身体の中へ貴様を残す血など……飲まぬ」


 声が震える。


「我の中へ、入るな……」


 ルストは、耳元で低く言った。


「もう入っている」


 その言葉で、クラウディオの血が燃え上がった。


 雷鎖が反応しかける。


 灰銀印が熱を持つ。


 クラウディオの牙が、ルストの首筋へさらに押しつけられた。


 噛むな。


 飲むな。


 そう思う。


 しかし、身体は逆に近づく。


 血の匂いが理性を削る。


 ルストの血は、嫌悪と必要の両方を持っている。


 だから最悪だった。


「ふざけるな……ッ」


 クラウディオは吐き捨てた。


「我を、こんな……こんな形で……」


「これは甘さじゃない」


 ルストの声は冷たい。


「飢えと王血を制御するための罰だ」


「罰……」


「そうだ」


「貴様が、我に罰を与えると……?」


「与える」


 ルストは、迷わず言った。


「お前が飢えで人へ向かうなら。吸血鬼へ向かうなら。床の血に理性を失うなら。俺の血で止める」


「なぜ貴様の血だ」


「効くからだ」


 クラウディオの顔が歪む。


 効く。


 また、その言葉。


 効くから使う。


 必要だから使う。


 屈辱だから、なおさら刻まれる。


 「我は薬ではない……」


 クラウディオの声が掠れた。


「実験体でもない。調律される楽器でもない。王だ……吸血鬼の王だ……ッ」


「王だから制御する」


「違う!」


 牙が、ルストの首筋に固定されている。


 逃げられない。


 ルストの手が、クラウディオの後頭部を押さえている。


 強く。


 だが、噛ませる寸前で止めている。


 クラウディオは、牙を刺さないように必死で耐えていた。


 それ自体が屈辱だった。


 血が欲しい身体を、王の意地だけで押さえる。


 押さえられている。


 ルストに。


 ルストの首筋に牙を当てられたまま。


 「飲みたくない……」


 声が漏れた。


 クラウディオは自分でその言葉を憎んだ。


 命令ではない。


 罵倒ではない。


 拒絶だった。


 むき出しの。


「お前の血は嫌だ……」


 ルストは、ほんの少しだけ黙った。


 その沈黙が腹立たしい。


 憐れみなら殺せる。


 嘲笑なら噛み千切れる。


 だが、ルストはただ聞いている。


 クラウディオの拒絶を、記録のように。


 ルストは静かに言った。


「嫌でも飲め」


「飲まぬ」


「飲まないなら雷鎖だ」


 空気が止まった。


 クラウディオの牙が、ルストの首筋へ触れたまま動かない。


 雷鎖。


 その言葉だけで、身体が反応する。


 心臓が止まる記憶。


 青白い魔導雷。


 白目。


 泡。


 痙攣。


 床へ崩れる身体。


 見られる屈辱。


 全部が、首元の輪とともに蘇る。


 クラウディオの瞳が、怒りと恐怖と飢えで揺れた。


「……脅すか」


 掠れた声。


 ルストは、クラウディオを拘束したまま答える。


「そうだ」


「王を」


「そうだ」


「貴様……」


 雷鎖が、低く鳴った。


 まだ発動していない。


 警告だけ。


 だが、クラウディオの身体は覚えている。


 飲まなければ、心臓を止められる。


 飲めば、ルストの血が体内へ入る。


 どちらも檻だ。


 どちらも罰だ。


 どちらも、灰銀の中へ落ちる道だった。


 クラウディオは、牙を押しつけられたまま、低く唸った。


 血が近い。


 嫌だ。


 欲しくない。


 欲しい。


 飲みたくない。


 飲め。


 飲まないなら雷鎖。


 ルストの声が、耳元で落ちる。


「選べ、クラウディオ」


 クラウディオの牙が、首筋の皮膚に触れたまま震えた。


 彼はまだ噛まない。


 だが、もう逃げられない。


 雷鎖が、もう一度、低く鳴った。


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