第83話 人を喰わせるよりましだ
空の器が、まだ地下牢の隅に置かれていた。
低い器。
床に置かれるための器。
王の手に収まる杯ではない。銀盆に載せられて差し出されるものでもない。血杯管理官が震えながら掲げるものでもない。
それは、クラウディオ・ルジェリウスが血を舐めた器だった。
床に膝を落とし、舌で血を掬い、血がなくなった後も床を舐め続けた記憶が、器の縁にまだこびりついているように見える。
クラウディオは、その器を見ないようにしていた。
見れば思い出す。
思い出さなくても覚えている。
ぺちゃぺちゃと音を立てたこと。
血が喉へ落ちた瞬間、飢えた身体が歓喜したこと。
もっと、とねだったこと。
犬のようだとルストに言われたこと。
そして、理性が戻った後で、あの時の自分が本当に無様だったと告げられたこと。
クラウディオは、銀鎖に繋がれたまま低く息を吐いた。
喉はまだ乾いている。
だが、言葉は少し戻っていた。
完全ではない。王城で臣下を凍らせた頃の声には程遠い。けれど、獣の唸りだけではなくなっている。
怒りが言葉を引き戻した。
屈辱が、王の声を少しだけ拾い上げた。
皮肉なものだった。
ルストが地下牢へ入ってきた。
扉の重い音が、湿った石壁に反響する。
クラウディオは視線だけを向けた。
首元には雷鎖。
両手首と足首には銀鎖。
脇腹には灰銀印。
喉には消えない牙の痕。
どこを見ても、灰銀の管理がある。
その事実だけで、血が熱を帯びる。
だが、怒りを血へ乗せれば雷鎖が鳴る。
クラウディオは、怒りを底へ沈めた。
沈められるようになってしまった。
それが、また屈辱だった。
「今日は罰か。観察か。それともまた、犬の真似でもさせる気か」
声は掠れていたが、言葉は鋭かった。
ルストは少しも表情を変えない。
「確認だ」
「またそれか」
「戻り具合を見る」
「我を故障した道具のように語るな」
「道具なら楽だった」
「貴様のその返答は、本当に殺意を誘うな」
「乗せるな」
「分かっている」
言ってしまってから、クラウディオは自分の言葉に顔を歪めた。
分かっている。
雷鎖が鳴るから。
灰銀印が焼くから。
自分の身体が、それを覚えているから。
ルストは、そこを見逃さなかった。
「覚えているな」
「黙れ」
「怒りを沈めた」
「黙れと言っている」
「床の血も、皿も、雷鎖も覚えている」
「黙れ!」
雷鎖が低く鳴った。
首元の輪に青白い光が一瞬走る。
クラウディオの身体が、ほんのわずかに硬直した。
それを見られた。
見られたことが、さらに怒りを呼ぶ。
けれど、それ以上怒れば心臓を打たれる。
クラウディオは、喉の奥で低く笑った。
「見ろ、灰銀。これが貴様の作った檻だ」
「そうだな」
「認めるな」
「嘘をつく必要がない」
「本当に腹立たしい男だ」
ルストは、地下牢の隅に置かれた空の器を見た。
クラウディオの目が、わずかにそこへ引かれた。
器。
血。
床。
舌。
それだけで喉が反応しかける。
クラウディオは即座に視線を戻した。
だが遅い。
ルストには見られている。
「まだ反応する」
「するわけがない」
「した」
「黙れ」
「血が必要だ」
「要らぬ」
「嘘だ」
「我が要らぬと言えば要らぬ」
「お前の身体は違う」
「また我の身体を語るか」
「語る。管理している」
管理。
その言葉が落ちた瞬間、クラウディオの赤い瞳が冷えた。
「その言葉を、我の前で何度使う」
「必要なだけ」
「必要、必要、必要。貴様の口にはそれしかないのか」
「お前が必要を増やす」
「我が?」
「ああ」
ルストは一歩近づいた。
クラウディオの牙が反射でわずかに覗く。
飢えはまだ残っている。
理性が戻っても、身体の奥には血への渇きが残っている。
ルストの血の匂いに、喉が動きそうになる。
クラウディオは、それを憎んだ。
「お前は命を奪うことに躊躇がない」
ルストの声は低い。
「人間でも、吸血鬼でも、必要なら喰う。必要でなくても、欲しければ壊す」
「当然だろう」
クラウディオは即座に返した。
その声には、王の傲慢が少しだけ戻っていた。
「我は吸血鬼の王だ。血を選び、命を奪い、弱いものを踏み、従わぬものを砕く。それが王の権利であり、夜の秩序だ」
「だから皿で管理する」
ルストの返答は短かった。
クラウディオの表情が止まる。
「……何?」
「お前を人や吸血鬼へ放つより、皿で管理する方がましだ」
沈黙。
地下牢の湿気すら凍ったようだった。
クラウディオの瞳が、ゆっくりと深い赤へ沈む。
「貴様」
声が低くなる。
「今、我を何と比べた」
「人を喰わせるよりましだと言った」
ルストは淡々としている。
「吸血鬼を喰わせるよりもな。仕事が減る」
クラウディオの喉が震えた。
怒りで。
屈辱で。
そして、あまりにも冷静な正論で、逃げ道を塞がれたから。
「皿で管理」
クラウディオは、ゆっくり繰り返した。
「我を、皿で」
「ああ」
「人を喰わせるより」
「ましだ」
「吸血鬼を喰わせるより」
「ましだ」
「仕事が減る」
「そうだ」
クラウディオは笑った。
ひどく美しい笑みだった。
だが、その奥で血が沸いている。
「灰銀。貴様は本当に、我を犬だと思っているのだな」
「犬の方が躾けやすい」
「その口を今すぐ閉じろ」
「閉じない」
「我は王だ」
「知っている」
「ならば、王が血を奪うことを罪のように言うな!」
怒声が地下牢に響いた。
雷鎖が鳴る。
今度は警告だけでは済まなかった。
短く、心臓を叩く。
「ぐ、ッ……!」
クラウディオの身体が銀鎖に引かれながら跳ねた。
だが、彼は黙らなかった。
「王は奪うものだ。王は選ぶものだ。命は王の前に並べられる血杯だ。人間が怯えようが、下位の吸血鬼が震えようが、我が血を求めるなら差し出すのが当然だろうが!」
雷鎖が再び光る。
ルストはまだ本格的には発動させない。
だが、脇腹の灰銀印が熱を持つ。
クラウディオは苦痛に歯を食いしばりながら、それでも叫んだ。
「それを、皿で管理だと? 我が血を飲むことを、貴様の仕事量で測るな!」
ルストは目を逸らさない。
「測る」
「貴様……ッ」
「お前が一人喰えば、一人死ぬだけでは済まない。壊れた者が出る。血の匂いで寄る者が出る。王血が荒れれば、周囲の吸血鬼も狂う。人間側は怯え、狩人は動き、教会が騒ぐ」
冷静な声。
「それより、皿で飲ませる方がましだ」
「皿と人命を比べるな!」
「比べる」
「王の尊厳を、貴様らの命の都合で踏みにじるな!」
「踏みにじる」
即答。
クラウディオの怒りが、一瞬言葉を失った。
ルストは続けた。
「お前の尊厳と、誰かの命なら、命を取る」
地下牢に、静かな言葉が落ちた。
「だから皿で飲め」
クラウディオの全身が、怒りで震えた。
銀鎖が小さく鳴る。
首の雷鎖が、彼の怒りを拾って低く光る。
だが、クラウディオは今回は言葉を整えた。
血へ流さない。
雷鎖に奪われないように。
屈辱を、言葉へ変える。
「……我の尊厳より、人間一人の命か」
「そうだ」
「吸血鬼王の尊厳より、下位の吸血鬼一匹の命か」
「場合によるが、お前が暴走するならそうだ」
「貴様は、王を侮辱している」
「知っている」
「知っていてやるか」
「必要だからな」
「その言葉をやめろ!」
雷鎖が光る。
クラウディオは息を詰め、痛みを耐えた。
ルストは一歩近づき、地下牢の隅に置いていた低い器を手に取った。
クラウディオの目が、無意識にそれを追う。
追ってしまった。
それを自覚した瞬間、屈辱で顔が歪む。
ルストは器を持ったまま言った。
「これなら、死なない」
「誰がだ」
「人間も、吸血鬼も」
「我が死ぬ」
「死なせない」
「我の尊厳が死ぬと言っている!」
「尊厳では血は止まらない」
「貴様の理屈は虫唾が走る」
「お前の理屈よりましだ」
「我の理屈は夜の理だ!」
「だから止める」
短い応酬。
刃を打ち合わせるような会話だった。
クラウディオは、低く笑った。
「そうか。貴様は、我を王として見ていない」
「王としても見ている」
「嘘だ」
「災厄としても見ている」
「そちらが本音だろう」
「両方だ」
ルストは器を床へ置いた。
空のまま。
それだけで、クラウディオの喉がわずかに動く。
血が入っていない器。
それでも身体が覚えている。
皿。
血。
舌。
床。
クラウディオは、顔を歪めた。
「置くな」
「まだ血はない」
「なら置くな!」
「反応を見る」
「我の反応で遊ぶな!」
「遊んでいない」
「貴様はいつもそうだ。観察、管理、必要。すべてその言葉で覆えば、王を床へ落としても許されると思っている」
「許されるとは思っていない」
ルストの声は変わらない。
「やるだけだ」
クラウディオの瞳が見開かれた。
その言葉は、どこかクラウディオ自身のものに似ていた。
許されるかどうかではない。
やる。
必要だから。
欲しいから。
止めるために。
奪うために。
方向は違う。
だが、構造は似ている。
クラウディオはそれに気づき、吐き捨てるように笑った。
「貴様、やはり狩人より王に近いな」
ルストは答えない。
「灰銀。貴様は我を管理すると言う。人を喰わせるよりましだと言う。だが、それを決めている貴様は何だ」
クラウディオの声が低く甘くなる。
「誰の尊厳を踏みにじるか、誰を皿で飲ませるか、誰を生かし、誰を殺し、誰を管理するか。すべて貴様が決める」
赤い瞳が細くなる。
「王ではないのか」
ルストは、ほんの少しだけ沈黙した。
その沈黙を、クラウディオは逃さなかった。
「答えぬか」
「今は関係ない」
「関係ある」
「ない」
「ある。貴様が我を皿で管理するなら、貴様が何者かは関係ある」
ルストは、静かに言った。
「今のお前に必要なのは血だ」
「話を逸らすな」
「血を入れる」
「置くな」
「皿で飲めば、誰も死なない」
「我が殺したい」
「だから皿だ」
その言葉が、また刺さる。
だから皿。
クラウディオの殺意を、捕食を、王としての当然を、人命への被害として処理し、代替品として床の皿を置く。
それは屈辱だった。
あまりにも屈辱だった。
同時に、理屈としては正しい。
クラウディオを人間や吸血鬼へ放つより、皿で血を与える方が被害は少ない。
その正しさが、彼をさらに怒らせた。
「……我は、家畜ではない」
「知っている」
「犬でもない」
「知っている」
「危険個体でもない」
「それは違う」
即答。
クラウディオの眉が跳ねる。
「貴様」
「お前は危険個体だ」
「王だ!」
「王で、危険個体だ」
「並べるな!」
怒声。
雷鎖が強く光った。
今度は首元から心臓へ雷が走る。
「が、ッ……!」
クラウディオの身体が跳ねる。
銀鎖が鳴る。
息が詰まり、喉から泡混じりの小さな息が漏れかける。
だが、今回はすぐに収まった。
ルストが出力を抑えたのだ。
黙らせるための短い雷。
クラウディオは荒い息を吐きながら、ルストを睨む。
「また、黙らせたな……」
「暴れすぎた」
「我の怒りを、貴様が測るな」
「測る」
「殺すぞ」
「今は無理だ」
「今はな」
クラウディオは、痛みを噛み殺して笑った。
それは獣の笑みではなかった。
少しずつ、王の形へ戻りつつある笑みだった。
「我を皿で管理する方がましだと言ったな」
「ああ」
「覚えておけ」
「覚えている」
「我も覚える」
赤い瞳が光る。
「いつか、貴様の前に人間と吸血鬼と皿を並べてやる」
ルストは黙っている。
クラウディオは続けた。
「その時、貴様がどれを選ぶか見てやる。誰を守り、誰を捨て、誰を皿へ落とすか。貴様のその冷たい管理とやらを、我が見てやる」
ルストは低く言った。
「その時は止める」
「できるならな」
「できる」
「その自信が腹立たしい」
「知っている」
沈黙が落ちる。
空の器が床にある。
クラウディオは、それを見ないようにする。
だが、喉が乾いている。
血が必要だ。
ルストの理屈など聞きたくない。
皿で管理される屈辱など認めたくない。
それでも、身体は血を求めている。
ルストはそれを知っている。
知っていて、器を置いている。
「血を入れる」
ルストが言った。
クラウディオは、即座に返した。
「杯で寄越せ」
「皿だ」
「手で取る」
「手で取るな」
「貴様……」
「人を喰わせるよりましだ」
また、その言葉。
クラウディオの顔が屈辱で歪む。
「言うな」
「言う」
「言うなと言っている」
「皿で飲め」
「我は王だ!」
「知っている」
「知っていて、皿を置くか」
「ああ」
ルストは血瓶を取り出した。
クラウディオの喉が、裏切るように動いた。
その音を、ルストは聞いた。
クラウディオも聞いた。
地下牢に、ひどく小さな沈黙が落ちる。
クラウディオは、低く呟いた。
「……見るな」
「見ている」
「見るな、灰銀」
「血を入れる」
赤い血が、低い器へ注がれた。
とろりとした音。
クラウディオの牙が疼く。
身体が反応する。
怒りも、屈辱も、すべて血の匂いに押し流されかける。
彼は必死に王の声を保とうとした。
「我は……認めぬ」
「認めなくていい」
「この皿は、我のためではない」
「違う」
ルストは血を注ぎながら言った。
「お前が誰かを喰わないためだ」
クラウディオは目を閉じそうになった。
屈辱で。
飢えで。
怒りで。
しかし、目は閉じない。
閉じれば逃げたことになる。
彼はルストを睨み続けた。
床には血の入った低い器がある。
王の尊厳より命を取る男が置いた、管理の皿。
人を喰わせるよりましだと告げられた、屈辱の器。
クラウディオは、低く笑った。
「灰銀」
「何だ」
「我がこれを飲むたび、貴様は命を守ったつもりでいるのか」
「そうだな」
「なら覚えておけ」
クラウディオの赤い瞳が、冷たく燃えた。
「その命を守るたび、我への借りが増えていく」
「借り?」
「そうだ。我の屈辱で守られた命だ。いつかまとめて回収する」
「できるなら」
「その言葉も聞き飽きた」
「なら、やれ」
「今はやらぬだけだ」
ルストは何も言わなかった。
ただ、血の入った器を床へ置いたまま、クラウディオの鎖を少しだけ緩めた。
クラウディオは、その音を聞いた。
身体が反応する。
血へ向かおうとする。
彼は、それを必死に王の意思で整えようとした。
だが、喉はもう鳴っていた。
ルストは見ている。
クラウディオは低く吐き捨てた。
「……忘れろ」
「忘れない」
「なら、せめて見るな」
「見る」
「貴様……」
「皿で飲め」
命令。
クラウディオは、屈辱に震えながら床へ身を沈めた。
王としてではない。
危険個体として。
人を喰わせるよりましだと管理される災厄として。
それでも、目だけはルストを睨んでいた。
まだ折れていない。
たとえ皿で飲もうとも。
たとえ身体が血に喜ぼうとも。
その屈辱を、忘れないために。
クラウディオは器へ顔を近づけた。
血の匂いが、理性を焼く。
そして、舌が血に触れる寸前、低く言った。
「殺す」
ルストは静かに返した。
「まず飲め」
クラウディオの牙が、怒りで鳴った。
だが、次の瞬間には、血の味が舌へ広がっていた。




