第80話 血を寄越せ
血の匂いが消えてからも、クラウディオは床を見ていた。
そこにはもう何もない。
血はない。
赤い点もない。
舌で舐め取れるものも、牙で噛みつけるものも、喉へ流し込めるものもない。
ただ、湿った石床があるだけだった。
けれど、クラウディオ・ルジェリウスの目には、まだ赤が残っていた。
床に落ちた血。
舌で舐めた血。
血がなくなってからも、石を舐め続けた感覚。
舌の上に残る土と銀と古い地下牢の味。
それらが、飢えの奥でまだ生きている。
クラウディオは、銀鎖に拘束されたまま、低く唸った。
「ぐ……る……」
声ではない。
言葉でもない。
喉の奥で獣が爪を立てるような音だった。
王の言葉は、ほとんど剥がれている。
「我」もない。
冷たい命令もない。
優雅な罵倒もない。
血杯を落とした従者を処断した時の、あの鋭い声もない。
あるのは、飢え。
血。
乾いた牙。
そして、銀鎖が鳴る音。
がしゃん。
クラウディオが動くたび、四肢の枷が鳴った。
手首の皮膚は擦れ、銀で焼け、赤い傷がいくつも走っている。だが、その痛みはもうクラウディオを止めなかった。
痛みより血。
屈辱より血。
王としての尊厳より、喉の奥で暴れる血への衝動。
それだけが、地下牢に残っていた。
扉が開く。
重い鉄の音。
湿った空気が動いた。
ルストが入ってきた。
クラウディオの頭が、ぴくりと上がる。
顔を見るより早く、喉を見る。
手首を見る。
血管の位置を見る。
指先に血があるか。
衣に血がついていないか。
皮膚の下に、噛める血が流れているか。
赤い瞳は濁り、瞳孔は大きく開いていた。
だが、その奥で、ほんのわずかに認識が戻っている。
ルストの気配。
灰銀の匂い。
拒んだはずの血の記憶。
体内で王血を軋ませ、心臓を止め、飢えを鎮めた血。
クラウディオの牙が鳴った。
カチ。
乾いた音。
次に、喉から呻きが漏れる。
「……ち」
掠れた音だった。
ルストは足を止める。
クラウディオの唇が震える。
もう一度、声が出た。
「血……」
人語だった。
けれど、王の言葉ではない。
要求でも命令でもなく、飢えがたまたま形になっただけの断片。
クラウディオの喉が、さらに震える。
「血……よこ……せ……」
銀鎖が鳴った。
クラウディオが身体を前へ出そうとしたからだ。
手首の枷が引き、足首の枷が床を叩く。
届かない。
それでも、彼は前へ出ようとする。
「血、寄越せ……ッ」
その言葉は、かろうじて意味を持っていた。
しかし、その直後、言葉は崩れた。
「が、ぁ……ッ、がぁああ……ッ!」
意味のない声。
発作のように唇からこぼれる音。
喉が乾き、牙が鳴り、飢えが言葉の形を壊していく。
クラウディオはルストを睨んでいるようで、実際にはその首筋を見ていた。
血がある場所。
噛めば、出る場所。
舌を伸ばせば、届くはずのない赤。
「血……血、血……ッ」
ルストは静かに言った。
「少し戻ったな」
クラウディオの瞳が、かすかに揺れる。
戻った。
何が。
言葉か。
理性か。
王か。
そんなものを考える余裕はほとんどない。
ただ、ルストの声に反応した。
灰銀の声。
自分を飢えさせた男の声。
血を持っている男の声。
クラウディオの喉の奥で、低い唸りが膨らむ。
「ぐる……ッ」
ルストは、地下牢の床へ視線を落とした。
前に血を落とした場所。
クラウディオが舐めた場所。
いまは乾いている。
クラウディオの視線も、そこへ一瞬だけ落ちた。
床。
血があった場所。
彼の舌が、無意識に唇を舐める。
もうない。
ない。
ない。
それが分かった瞬間、クラウディオは激しく鎖を引いた。
「血ぃ……ッ!」
金属音が地下牢へ反響する。
がしゃん。
がしゃん。
がしゃん。
「血、寄越せ……ッ、寄越せ、寄越せ……!」
同じ言葉だけが繰り返される。
かつてなら、そこへ罵倒が続いた。
不敬だと。
王へ飢えを与えるなど許されないと。
下郎、狩人風情、簒奪者、卑怯者。
いくらでも言葉はあった。
今はない。
血を寄越せ。
それだけ。
「灰……ぎ……」
声が少しだけ崩れる。
「灰銀……血……」
ルストではない。
名ではない。
まだ、呼ばない。
飢えに言葉を削られても、そこだけは残っている。
クラウディオ自身がそれを意識できているかは分からない。
それでも、出ない。
ルストという名は。
ルストは一歩近づいた。
クラウディオの反応が跳ね上がる。
牙が鳴る。
カチ、カチ。
銀鎖が軋む。
クラウディオはルストの手首へ噛みつこうとしている。
距離など届かない。
拘束が許さない。
それでも身体は覚えていないように動く。
噛める。
噛みたい。
血が出る。
その衝動だけで、鎖へ全身を叩きつける。
「がぁあああッ!」
意味のない絶叫が漏れる。
喉が壊れそうな声。
王の美しい声ではない。
飢えた獣の発作だった。
ルストは、血瓶を持っていなかった。
器もない。
床へ落とす一滴もない。
それに気づいたクラウディオの反応は、さらにひどかった。
赤い瞳が見開かれる。
血がない。
血を持ってきていない。
目の前に血を持つ男がいるのに、与えられる血がない。
クラウディオの喉から、怒りとも恐怖ともつかない音が漏れた。
「ぐ、ぁ……血……ッ、血、血……!」
ルストは言った。
「今日は与えない」
その言葉は、地下牢の空気を裂いた。
クラウディオの動きが一瞬止まる。
理解が遅れている。
けれど、飢えは意味を拾った。
与えない。
血はない。
飲めない。
その意味だけが届く。
クラウディオの顔が、獣のように歪んだ。
「がぁあああああッ!!」
咆哮。
銀鎖が激しく鳴る。
手首の皮膚がさらに擦れ、血が滲んだ。
その匂いに、自分自身が反応する。
クラウディオは頭上へ引かれた手首へ顔を近づけようとした。
届かない。
届かないのに、噛もうとする。
首を反らし、肩を軋ませ、喉を伸ばし、牙を鳴らす。
カチン。
空を噛む音。
届かない。
その現実が、さらに彼を狂わせた。
「血ぃ……ッ、寄越せ……ッ、が、ぁ……がぁああ……!」
言葉と咆哮が混ざる。
もう、文章ではない。
断片。
血。
寄越せ。
灰銀。
がぁああ。
呻き。
牙の音。
金属音。
それだけが地下牢に満ちていく。
ルストは見ていた。
目を逸らさず。
クラウディオがわずかに人語を取り戻しても、戻ってきた言葉が血への要求だけであることを。
名前は呼ばないことを。
血を求める獣でありながら、灰銀という呼び名だけはまだ残していることを。
ルストは静かに記録した。
発語一部回復。
内容は血への要求のみ。
名は呼ばず。
捕食対象認識は血管部位中心。
王人格の言語復帰なし。
クラウディオの瞳が、魔導具へ向いた。
それを理解したのかは分からない。
ただ、ルストが何かを記録していることだけは、飢えた意識の奥に引っかかったらしい。
クラウディオは、低く唸った。
「ぐる……ッ」
そして、掠れた声で言った。
「見る……な……」
ルストの目がわずかに動く。
久しぶりに、血以外の言葉だった。
見るな。
それだけ。
クラウディオの中に残っている屈辱のかけら。
見られていることへの怒り。
王だったものの残骸。
ルストは静かに答えた。
「見ている」
クラウディオの喉が震える。
怒る。
怒りたい。
しかし、その怒りもすぐに飢えへ飲まれる。
「血……」
また戻る。
「血、寄越せ……灰銀……ッ」
ルストは近づかない。
クラウディオは届かない。
銀鎖が二人の距離を固定している。
その距離こそが、今のクラウディオには拷問だった。
見える。
匂う。
届かない。
血がある。
飲めない。
彼は、また咆哮した。
「ガ、ァアアアアアッ!!」
首元の雷鎖が低く鳴った。
暴走の兆候を拾ったのだ。
ルストはまだ発動させない。
今は観察している。
どこまで血への要求が続くか。
どこで言葉が壊れ、どこで咆哮へ戻るか。
どれほどで雷鎖が必要になるか。
クラウディオはそれを知らない。
知る理性が薄い。
それでも、見られていることだけは分かる。
「見る……な……ッ」
また言った。
喉の奥で震える、かろうじての言葉。
「見るな……血……血、寄越せ……ッ」
順番すら崩れている。
羞恥と飢えが、同じ喉でぶつかっている。
王としての尊厳は砕けている。
だが、見られることへの拒絶だけが、まだ血の下に残っている。
ルストは、地下牢の壁際に立った。
クラウディオから届かない距離。
だが、血の匂いだけは届く距離。
クラウディオの喉が、さらに荒く鳴った。
「ぐ……る……」
彼は疲れていた。
飢えのせいで。
暴れ続けたせいで。
銀鎖に皮膚を擦り続けたせいで。
それでも、止まらない。
落ち着いたように見える瞬間があっても、目は血を探している。
ルストの喉。
手首。
指先。
どこかに赤が滲んでいないか。
噛める隙はないか。
その視線は、もはや王の観察眼ではない。
捕食の目だった。
やがて、クラウディオの身体から力が少し抜けた。
鎖に吊られるように、肩が落ちる。
呼吸が荒い。
唇は乾き、牙が出たまま、瞳は濁っている。
それでも、彼は低く言った。
「……血」
ほとんど息だった。
「寄越せ……」
ルストは答えない。
クラウディオは、ゆっくり顔を上げた。
赤い瞳が、かすかに焦点を取り戻す。
一瞬だけ。
ほんの一瞬。
その奥に、クラウディオ本人が戻ったように見えた。
王ではない。
けれど、完全な獣でもない。
飢えで壊れた奥から、屈辱と怒りだけが顔を出す。
「灰銀……」
掠れた声。
呼び名だけが、かろうじて形になる。
「血……」
それ以上は続かない。
ルストではない。
名ではない。
まだ、呼ばない。
ルストは、静かに言った。
「落ち着いても、それか」
クラウディオの唇が震える。
答えはない。
答える言葉がない。
ただ、喉の奥で低い唸りが戻ってくる。
「ぐ……」
ルストは魔導具を閉じた。
「今日はここまで見る」
クラウディオの目が、血への失望で揺れる。
血は出ない。
与えられない。
その意味を、飢えた身体だけが理解する。
次の瞬間、クラウディオは再び暴れた。
「血ぃ……ッ!!」
銀鎖が鳴る。
がしゃん。
「血、寄越せ……ッ!」
がしゃん。
「がぁああああッ!!」
がしゃん。
発作的な咆哮が、地下牢に響く。
言葉はすぐに崩れ、獣の声へ戻る。
ルストは目を逸らさない。
クラウディオの声が、人語と咆哮の間を行き来するのを見ている。
血を求める断片だけが戻り、名は戻らない。
王の言葉も戻らない。
それでも、完全には消えていない。
灰銀。
見るな。
血を寄越せ。
その三つだけが、飢えの海に浮いている。
クラウディオは最後までルストとは呼ばなかった。
荒い息を吐き、牙を鳴らし、銀鎖に繋がれたまま、血を求め続ける。
美しい王は、ほとんど獣だった。
けれど、その獣の喉の奥に、まだ小さな拒絶が残っている。
名を呼ばない。
その一点だけが、飢えに沈まなかった。
ルストは、それも記録した。
地下牢には、クラウディオの咆哮と、銀鎖の音だけが残った。
血を寄越せ。
意味を持つ言葉は、それだけだった。




