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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第79話 獣の声



 言葉が、消えていた。


 地下牢の中で、クラウディオ・ルジェリウスは顔を上げた。


 赤い瞳は濁り、瞳孔は開き、喉の奥では低い音が震えている。


 それは、王の声ではなかった。


 命令ではない。


 罵倒でもない。


 灰銀と吐き捨てる声でもない。


 ただ、飢えた獣の唸りだった。


「ぐ……る……」


 濡れた石壁に、その声が低く響く。


 四肢は銀鎖に拘束されていた。


 両手首は頭上へ引き上げられ、足首は床の金具へ繋がれている。動けば銀が肌を擦り、血脈へざらついた痛みを流す。首には雷鎖。脇腹には灰銀印。喉には消えない牙の痕。


 それでも、今のクラウディオはそれらを罵れなかった。


 罵倒の言葉が出ない。


 王としての「我」も出ない。


 怒りを整える言葉も、屈辱を覆う笑みも、もう喉の奥で血への渇きに食い潰されていた。


 牙が鳴る。


 カチ、と乾いた音。


 次に、もう一度。


 カチ、カチ。


 何かを噛もうとして、何も噛めない音。


 ルストは、地下牢の入口に立っていた。


 片手に小さな血瓶を持っている。


 クラウディオの目が、それを追った。


 ルストの顔ではない。


 手でもない。


 血瓶。


 中にある赤。


 ただ、それだけ。


 ルストが一歩近づくと、クラウディオの喉が鳴った。


「ぐる、ぁ……ッ」


 銀鎖が鳴る。


 がしゃん、と。


 クラウディオは身を乗り出そうとした。


 両腕が引かれ、肩が軋み、手首の皮膚が銀枷で擦れる。足首の鎖も床を叩いた。


 届かない。


 血瓶に。


 ルストに。


 血に。


 それでも彼は動こうとした。


 美しい吸血鬼王だったものが、今は血の匂いへ向かって鎖を鳴らしている。


 黒髪は乱れ、白い肌には銀枷の跡が赤く残り、唇は乾いてひび割れている。だが、その顔はまだ美しかった。


 美しいまま、獣へ落ちていた。


 その落差が、地下牢の空気をさらに残酷にした。


 ルストは、血瓶の栓を開けた。


 クラウディオの身体が、びくりと跳ねる。


 匂いが広がった。


 温められていない血。


 濃くはない。


 王血を満たすほどの量でもない。


 それでも、飢餓の底にいるクラウディオには十分すぎるほどの毒だった。


 血。


 血。


 血。


 クラウディオの唇が動く。


 だが、言葉にはならない。


 ただ、喉の奥で潰れた音が鳴る。


「ぐ……ぁ……」


 ルストは床を見た。


 そして、血瓶を傾けた。


 ぽたり。


 一滴。


 赤い血が石床に落ちた。


 クラウディオの瞳が見開かれる。


 牙が鳴る。


 銀鎖が一斉に鳴った。


「ガ、ァアアアアッ!!」


 獣の咆哮。


 地下牢の壁が震えた。


 クラウディオは床の血へ向かって身を乗り出す。


 両手首の枷が皮膚を裂き、足首の鎖が床の金具を軋ませる。肩が無理な角度で引かれ、喉元の雷鎖が低く鳴った。


 だが、クラウディオは止まらなかった。


 言葉を失った王は、血の一滴だけを見ていた。


 届かない。


 届かない。


 届かない。


 その事実に、彼はさらに暴れた。


 がしゃん。


 がしゃん。


 がしゃん。


 金属音が地下牢に響く。


 皮膚が擦れ、血が滲む。


 自分の血の匂いにも、クラウディオは反応した。


 瞳が揺れる。


 手首へ顔を近づけようとする。


 だが届かない。


 両手は頭上にある。


 床の血にも届かない。


 自分の血にも届かない。


 何にも届かない。


 クラウディオは、喉の奥から低く唸った。


「ぐる、ぅ……ッ、ガ、ァアアアッ!!」


 ルストは見ていた。


 目を逸らさずに。


 王が獣へ落ちる場面を。


 美しい顔が血の一滴に歪み、王の唇から言葉ではなく唸りが漏れ、牙が鳴り、銀鎖が皮膚を傷つけてもなお床の赤へ向かう姿を。


 ルストは、血瓶をもう一度傾けた。


 ぽたり。


 二滴目が落ちる。


 クラウディオの反応はさらに激しくなった。


 身体が跳ねる。


 銀鎖が金属音を立てる。


 雷鎖が青白く光りかける。


 だが、ルストはまだ発動させない。


 代わりに、静かに言った。


「舐めていい」


 その言葉が届いたのか。


 血への許可という意味だけが、飢えた本能へ届いたのか。


 クラウディオの動きが一瞬止まった。


 赤い瞳がルストを見る。


 いや、ルストの口ではなく、床の血を見る。


 ルストは鎖の一部を緩めた。


 完全に解くのではない。


 頭を床へ近づけられる程度。


 喉を伸ばせば、舌が届く程度。


 その程度だけ、銀鎖が緩む。


 クラウディオは、ほとんど落ちるように床へ身を投げた。


 膝が石床に打ちつけられる。


 両手首はまだ上方に引かれているため、姿勢はひどく歪だった。足首の鎖も伸び切っている。


 それでも、床の血に近づけた。


 近づけてしまった。


 クラウディオは、迷わなかった。


 舌が床へ伸びる。


 赤い血へ食いつくように。


 ぺちゃ、と音がした。


 血を舐めた。


 床の血を。


 かつて血杯を落とした従者を許さなかった王が。


 床に落ちた血を、獣のように舌で舐めた。


 クラウディオの肩が震える。


 だが、屈辱を認識するだけの言葉はもうない。


 あるのは血の味だけだった。


 舌が床を這う。


 ぺちゃ。


 べろ、と。


 もう一滴。


 さらに、血の跡。


 床の表面に薄く広がった赤を、彼は必死に舐め取った。


 石の冷たさ。


 土の味。


 銀の匂い。


 古い地下牢の汚れ。


 そんなものは関係ない。


 血。


 血がある。


 それだけだった。


 クラウディオは、床へ顔を押しつけるようにして舐め続けた。


 血はすぐになくなった。


 たった二滴だ。


 当然だった。


 けれど、クラウディオは止まらなかった。


 血が消えた後も、舌が床を舐める。


 べろ、べろ、と。


 赤い跡がもう見えなくなっても。


 石床が濡れているだけになっても。


 そこに血があった記憶を舐めるように、彼は床を舐め続けた。


「ぐ……る……ッ」


 喉の奥で唸る。


 舌が床を這う。


 べろ。


 べろ。


 べろ。


 ルストはそれを見ていた。


 クラウディオの美しい顔が床に近づき、舌が石の上を這い、血のなくなった場所をなお舐め続ける姿を。


 王としての尊厳は、もうそこにはなかった。


 飢えが踏み潰した。


 言葉も、姿勢も、誇りも。


 だが、奥の奥でまだ何かが残っている。


 ルストとは呼ばない。


 それだけは、まだ。


 クラウディオの舌が止まった。


 血がない。


 床にも、もうない。


 濡れた石だけ。


 クラウディオは、ゆっくり顔を上げた。


 唇は汚れ、舌は赤く濡れ、瞳は開ききっている。


 喉が鳴る。


 カチ、と牙が噛み合う。


 そして、壊れかけた声が漏れた。


「……も……」


 ルストの目がわずかに細くなる。


 クラウディオは、床に顔を近づけたまま、さらに喉を震わせる。


「も、っと……」


 言葉。


 久しぶりの、意味のある音。


 だが、それは王の命令ではなかった。


 血を求める懇願に近かった。


 もっと。


 血を。


 床へ。


 落とせ。


 クラウディオの喉が、また鳴った。


「もっと……ッ」


 その瞬間、ルストの声が落ちた。


「調子に乗るな」


 クラウディオの瞳が揺れる。


 次の瞬間、脇腹の灰銀印が発動した。


 同時に、首元の雷鎖が青白く光る。


 魔導雷が心臓へ落ちた。


「ぎ、ぃいいいいいいッ!!」


 絶叫。


 獣の咆哮に近い声だった。


 クラウディオの身体が床の上で大きく反った。


 手首の銀鎖が張り、足首の枷が金具を叩く。


 心臓が止まる。


 一拍。


 戻る。


 どくん。


「あがああああああッ!!」


 身体が跳ねる。


 舌が力なく出る。


 口の端から白い泡が溢れる。


 目が上へ滑り、白目が覗く。


 下腹の力が抜けた。


 温かい感覚が衣を濡らし、石床へ広がる。


 それでも意識は落ちない。


 雷鎖が、落とさない。


 クラウディオは床の血があった場所を見ようとする。


 もう何もない。


 それでも見る。


 血の記憶だけを追う。


「ぐ、ぁ……ッ、も……」


 言葉になりかけた。


 もっと。


 その音が出る前に、雷鎖がまた心臓を止めた。


「――ッ!」


 声が消える。


 身体が硬直する。


 次の拍で戻される。


「ガ、ァアアアアアッ!!」


 大痙攣。


 背が反り、首が仰け反り、銀鎖が激しく鳴る。


 エビぞりのように身体が反り、四肢の枷が皮膚を擦る。


 白い肌に赤い線が増える。


 銀が血脈を焼く。


 だが、クラウディオはそれすら血の匂いとして拾ってしまう。


 自分の血。


 床の血ではない。


 それでも血。


 彼は本能的に手首を舐めようとするが、届かない。


 喉から、絶望的な唸りが漏れる。


「ぐる、ぁあああッ!!」


 ルストは見ていた。


 調子に乗るな、と言った後、灰銀印と雷鎖を同時に発動させた。


 罰。


 管理。


 境界線の提示。


 床の血を舐める許可は与えた。


 だが、ねだることまでは許していない。


 クラウディオにそれを理解する言葉は、もうほとんどない。


 だから身体へ刻む。


 血への要求が過剰になれば、雷鎖が打つ。


 灰銀印が焼く。


 心臓が止まる。


 戻される。


 また止まる。


 また戻される。


 クラウディオは床の上で何度も跳ねた。


 死ぬ。


 死んだように止まる。


 次の瞬間、無理やり蘇る。


 心臓が止まり、戻るたびに、身体は激しく痙攣した。


 泡が増える。


 白目が深くなる。


 舌が力なく垂れ、唇の端から濁った息が漏れる。


 失禁で濡れた衣が床に貼りつく。


 それでも、意識は完全には落ちない。


 落とされない。


 床の血があった場所を、まだ見ている。


 ない。


 もうない。


 それでも、そこを見ている。


 クラウディオの喉が震える。


「……も……」


 ルストが雷鎖の出力を上げた。


 短く。


 深く。


「ぎゃ、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


 クラウディオの絶叫が地下牢を突き抜ける。


 身体が跳ねる。


 心臓が止まる。


 戻る。


 また止まる。


 戻る。


 何度も。


 何度も。


 そのたびに、彼の身体は銀鎖に引かれて悲鳴のような金属音を立てた。


 がしゃん。


 がしゃん。


 がしゃん。


 王の身体が、鎖に吊られた獣のように暴れる。


 ルストは、目を逸らさない。


 美しい王が獣へ落ちる場面を。


 床の血を舐め、血がなくなっても床を舐め続け、もっととねだった瞬間に罰を受け、白目を剥き泡を吹き、何度も心臓を止められてなお血を探す姿を。


 逸らさない。


 クラウディオの尊厳は砕けていた。


 だが、その砕けた奥を、ルストは見ている。


 どこに戻る核があるのか。


 どこまで落ちても、何が残るのか。


 クラウディオの口から、もう言葉はほとんど出ない。


 だが、最後に一度だけ、低く濁った音が漏れた。


「……は……ぎ……」


 灰銀。


 崩れた音。


 ルストではない。


 名ではない。


 それだけが、飢えと罰と獣の声の底に残っている。


 ルストは雷鎖を少しだけ沈めた。


 クラウディオの身体が、びくびくと余韻で跳ねる。


 白目を剥いたまま、口から泡を零し、舌を垂らし、濡れた床に崩れている。


 銀鎖はまだ四肢を縛っている。


 心臓は不規則に動いている。


 生きている。


 壊れきってはいない。


 だが、王の言葉はもうない。


 今ここにいるのは、飢えに落ちた獣だった。


 美しい王が獣へ落ちた姿。


 それでも、奥底にまだ王の残骸がある。


 ルストは、それを見ていた。


 魔導具へ記録を刻む。


 発語崩壊。


 床血への許可後、即時摂取。


 血消失後も床舐め継続。


 追加要求発生。


 灰銀印および雷鎖による罰実施。


 意識維持。


 名は呼ばず。


 記録を閉じる音が、地下牢に小さく響いた。


 クラウディオは、まだ床を見ていた。


 血のなくなった床を。


 赤の記憶だけを。


 ルストは、低く言った。


「今日はここまでだ」


 クラウディオは答えない。


 答えられない。


 ただ、喉の奥でかすかに唸った。


 それは、血を求める音だった。


 同時に、まだ消えきらない怒りの音でもあった。


 王の言葉は消えた。


 だが、王の憎悪はまだ消えていない。


 獣の声の底で、赤く残っていた。

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