第78話 床の血
血が、床に落ちた。
たった一滴だった。
赤い点。
地下牢の湿った石床に、ぽたりと落ちただけの小さな血。
それなのに、クラウディオ・ルジェリウスの世界は、その一滴へ向かって崩れた。
音がした。
ぽたり。
雨粒より重く、銀鎖の音より甘く、言葉よりもはっきりと耳の奥へ届く音だった。
クラウディオの頭が跳ね上がった。
赤い瞳が、床を見る。
ルストを見るのではない。
自分を縛る銀鎖を見るのでもない。
雷鎖でも、灰銀印でもない。
床に落ちた血。
ただ、それだけ。
クラウディオの喉が、ひゅ、と鳴った。
言葉ではなかった。
呼吸でもなかった。
飢えた獣が、血の匂いを見つけた時に漏らす音だった。
ルストは地下牢の入口近くに立っていた。
手には小さな血瓶がある。
人間の血だ。
温められてはいない。
器にも注がれていない。
ただ、確認のために落とされた一滴。
クラウディオの飢えがどこまで進んだか。
床に落ちた血に、どれほど反応するか。
そのための一滴。
クラウディオには、そんな事情などもう関係なかった。
血がある。
床に。
届かない場所に。
「……ッ」
クラウディオの唇が震えた。
牙が剥き出しになる。
乾いた舌が、血の味を探すように唇を舐めた。
両手首の銀鎖が鳴る。
彼は腕を引いた。
頭上で固定された手首が、枷に食い込む。
白い肌が銀で擦れ、赤く裂けかける。
血が滲む。
自分の血だ。
それにすら喉が反応する。
だが、それよりも床の血。
他人の血。
そこに落ちた一滴。
「……血」
掠れた声が漏れた。
前よりも低く、荒く、喉の奥で引き裂かれたような声。
ルストは動かない。
クラウディオは、もう一度鎖を引いた。
金属音が地下牢へ響く。
がしゃん、と。
強く。
荒く。
銀鎖が石壁の金具を揺らし、足首の枷も鳴った。
クラウディオは床へ向かおうとしていた。
膝をつくことすらできない形で繋がれているはずなのに、肩をねじり、腰を浮かせ、足首を引き裂くようにして、床の血へ這い寄ろうとする。
届かない。
血はそこにある。
見えている。
匂う。
だが、届かない。
「血……」
声が濁る。
「血、血……ッ」
クラウディオの瞳孔が開いていた。
赤い瞳は濁り、理性の光は薄い。
王の言葉は、もうほとんど残っていない。
だが、血という言葉だけは残っている。
それだけが。
血。
血。
血。
「血ぃ……ッ」
銀鎖がまた鳴った。
クラウディオは腕を引きちぎる勢いで暴れた。
枷が手首の皮膚を擦る。
銀が血脈へ痛みを流し込む。
だが、彼は止まらない。
痛みなど、もう関係なかった。
皮膚が裂れようが、銀で焼かれようが、鎖が肉へ食い込もうが、どうでもいい。
血がある。
そこにある。
届かない。
その事実だけが、クラウディオを壊していく。
「血ぃいいい……ッ!!」
叫びだった。
命令ではない。
罵倒でもない。
王の声ではない。
飢えに喉を裂かれた吸血鬼の絶叫だった。
その後は、言葉にならなかった。
「ガ、ァアアアアアッ!!」
獣の咆哮が地下牢を震わせた。
クラウディオの身体が大きく跳ねる。
銀鎖が激しく鳴り、壁の金具が軋む。
足首の枷が石床を叩き、肩が拘束に引かれて不自然に震える。
彼は床へ這おうとした。
身体を低く落とそうとする。
届くはずのない距離へ、喉を伸ばそうとする。
牙を剥き、舌を伸ばし、床の血へ顔を近づけようとする。
しかし、鎖が許さない。
首元の雷鎖が低く鳴った。
ルストの声が聞こえた。
「クラウディオ」
名。
けれど、クラウディオは反応しなかった。
いや、ほんのわずかに瞳が揺れた。
それだけだった。
名前より血。
声より血。
ルストより、床の赤い一滴。
クラウディオの喉から、さらに低い唸りが漏れる。
「ぐる、ぁ……ッ、血……血……ッ」
「届かない」
ルストが言った。
淡々と。
クラウディオはその声に牙を鳴らした。
カチン、と乾いた音。
噛みたい。
裂きたい。
飲みたい。
誰の血でもいい。
床の血でもいい。
自分の手首から滲む血でもいい。
目の前の灰銀の血でもいい。
血が欲しい。
血だけが欲しい。
その衝動が血脈へ乗った瞬間、雷鎖が発動した。
青白い光が首元の輪を走る。
脇腹の灰銀印も同時に熱を持つ。
魔導雷が、首から心臓へ落ちた。
「ぎ、ぃいいいいいいッ!!」
クラウディオの身体が大きく反った。
銀鎖に吊られたように、背が弓なりになる。
心臓が止まった。
一拍。
戻る。
どくん。
「あがあああああッ!!」
戻った瞬間、身体が激しく痙攣する。
足首の鎖が石床を叩き、手首の枷がさらに皮膚を擦った。
血が滲む。
その匂いに、クラウディオの飢えがさらに暴れる。
自分の血なのに。
それでも血だ。
鼻腔へ届いた瞬間、彼は手首を口へ近づけようとした。
だが両手は頭上に固定されている。
届かない。
自分の血にも届かない。
床の血にも届かない。
何にも届かない。
「血……ッ、血ぃ……ッ!!」
叫びが壊れる。
「血ぃいいいいいいッ!!」
ルストは見ていた。
地下牢の湿った暗がりの中で、銀鎖に繋がれた王が、床の一滴へ向かって獣のように暴れる姿を。
かつて血杯を落とした従者を許さなかった王。
人間を餌場と呼んだ王。
弱い者が喰われるのは当然だと吐き捨てた王。
その王が今、床の血へ届かないだけで絶叫している。
王の尊厳は、飢えに踏み潰されていた。
クラウディオは、もうそれを隠せない。
隠す言葉がない。
「我」もない。
「俺」すら、ほとんどない。
残っているのは、血を求める声。
そして、ルストを名で呼ばない残骸だけ。
「はい、ぎ……ッ、血、血ィ……ッ!」
灰銀。
そこまでは出る。
ルストではない。
絶対に、まだ名ではない。
だが、その呼び方も血の要求に押し潰されている。
灰銀への怒りすら、血の後ろへ押しやられていた。
ルストの手が雷鎖の制御具へ動く。
クラウディオはそれを見ていなかった。
床の血しか見ていない。
もう一滴、血瓶から落ちた。
ぽたり。
床の赤が、二つになった。
クラウディオの瞳が見開かれた。
完全に理性が飛びかける。
鎖が軋む。
彼は全身で床へ向かって暴れた。
肌が擦れる。
銀が食い込む。
血が出る。
関係ない。
血。
血。
床の血。
「ガ、ァアアアアアッ!!」
咆哮。
獣の声。
その直後、雷鎖がまた心臓を止めた。
今度は長い。
クラウディオの身体が硬直する。
開いた口から泡混じりの息が溢れる。
瞳が上へ滑り、白目が覗く。
次の拍で戻される。
「ぁ、が、あ゛あ゛あ゛ッ!!」
身体が大きく跳ねる。
下腹の力が抜けた。
また。
温かい感覚が衣を濡らし、足元へ伝う。
失禁。
それを理解する理性は、もう薄い。
けれど、屈辱の記憶だけは反応する。
クラウディオの喉から、ひどく濁った呻きが出た。
「ぅ、ぐ……血……ッ」
羞恥より血。
怒りより血。
尊厳より血。
それが、この場のすべてだった。
ルストは低く言う。
「意識は残っているな」
クラウディオは返事をしない。
できない。
ただ、床の血へ顔を向け続ける。
雷鎖で心臓を止められても、身体が痙攣しても、意識は落ちない。
落とされない。
雷鎖がそうしている。
失神させれば楽になる。
だが、それでは飢えの反応が見えない。
だから意識を繋ぎ止める。
心臓を止めて、戻す。
身体を痙攣させ、尿を失わせ、泡を吹かせても、意識だけは床の血へ釘づけにさせる。
最悪の管理だった。
クラウディオの喉がひくつく。
舌が出る。
乾いた唇を舐める。
床まで届くはずもないのに、舌が血を探す。
「血……」
声が細くなる。
次の瞬間、また獣の咆哮へ変わる。
「血ぃいいいいいッ!!」
銀鎖が鳴る。
がしゃん。
がしゃん。
がしゃん。
地下牢中に金属音が反響する。
王の叫びと、獣の唸りと、銀鎖の音。
それらが混ざり合い、湿った石壁にぶつかって戻ってくる。
クラウディオは暴れ続けた。
四肢の皮膚が擦れ、血が滲み、銀で焼ける。
それでも止まらない。
痛みは、飢えに負けている。
王の尊厳は、もう踏み潰されている。
床の血に。
たった数滴に。
「クラウディオ」
ルストが呼ぶ。
クラウディオは反応しない。
「クラウディオ」
二度目。
赤い瞳が、ほんのわずかに揺れる。
だが視線は床の血に戻る。
「血……ッ」
それだけ。
ルストは、血瓶を閉じた。
床の血はそのまま残す。
クラウディオの目がそれを追う。
血瓶ではない。
床の血を。
舌を伸ばせば届きそうで、絶対に届かない距離。
銀鎖が許さない距離。
クラウディオは、そこへ這い寄ろうとして、また身体を大きく捻った。
足首の枷が皮膚を裂き、赤が滲む。
それも血。
自分の血。
血の匂いが増える。
それに彼自身がさらに狂う。
「ぐ、ぁ、血……血……ッ、血ぃ……!」
雷鎖がまた発動した。
短く、鋭く。
心臓を止める。
戻す。
止める。
戻す。
クラウディオの身体が、銀鎖に吊られたまま何度も跳ねた。
意識は落ちない。
瞳は開いたまま。
血を見ている。
見続けている。
口から泡が漏れ、喉がひゅうひゅうと鳴り、牙が空を噛む。
それでも、血を求め続ける。
王としての尊厳など、飢えの足元で砕けていた。
ルストは目を逸らさなかった。
彼は、このために見ている。
クラウディオがどこで言葉を失い、どこで理性を失い、どこで血だけになるのか。
そして、それでもどこに戻る核が残るのか。
クラウディオはまだ完全には壊れていない。
血しか見えていない。
それでも、ルストとは呼ばない。
灰銀とすら、もう崩れかけている。
だが名は出ない。
そこだけは、飢えが踏み潰しても残った。
クラウディオは、最後に大きく鎖を引いた。
床の血へ向かって。
届かない。
届かない。
届かない。
「血ぃいいいいいいッ!!」
絶叫が地下牢を震わせた。
次の瞬間、雷鎖が深く心臓を叩いた。
クラウディオの身体が硬直し、白目が上がり、泡が唇から溢れる。
失神しそうになる。
だが意識は落ちない。
落とされない。
彼は白く霞む視界の中で、なお床の血を見た。
赤。
そこにある。
届かない。
それだけが世界だった。
王の言葉は消えた。
王の姿勢も消えた。
王の尊厳も、飢えに踏み潰された。
それでも、クラウディオ・ルジェリウスは死んでいない。
壊れきってもいない。
床の血へ向かって獣のように唸りながら、まだどこかで、灰銀を憎んでいる。
ルストは、それを見ていた。
そして、静かに記録した。
床の血に強反応。
言語崩壊。
血への単語反復。
疼痛・銀損傷・失禁・雷鎖反応下でも意識持続。
尊厳崩壊。
名は呼ばず。
ルストは魔導具を閉じた。
地下牢には、まだクラウディオの荒い息と、銀鎖の震える音が残っていた。
床の血は、そこにある。
届かないまま。
王を獣へ落とすための、赤い点として。




