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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第77話 王の言葉が消える


 最初の三日は、まだ王だった。


 地下牢の壁に銀鎖で四肢を繋がれ、喉を乾かされ、血を一滴も与えられずにいても、クラウディオ・ルジェリウスは王の声を失わなかった。


 赤い瞳は怒りに燃え、白い喉には消えない牙の痕があり、首元には雷鎖が嵌められている。


 脇腹の灰銀印は、ときおり低く熱を持った。


 怒りが血へ乗るたびに。


 殺意が形を取ろうとするたびに。


 銀鎖を引き千切ろうとするたびに。


 だが、クラウディオはそれでも笑った。


「ふざけるな、灰銀」


 声は掠れていたが、まだ整っていた。


「この程度で我が折れると思うな。飢えなど、王が使う罰であって、王へ与えるものではない」


 ルストは地下牢の外側に立っていた。


 鉄格子の向こうではない。


 格子など、あってないようなものだ。


 クラウディオを縛っているのは、壁でも扉でもなく、銀鎖と雷鎖と灰銀印と、血を与えないという管理だった。


 ルストは黙って見ていた。


 クラウディオの喉が乾いていく様子を。


 牙の根が疼き始めるのを。


 瞳の赤が濁り、また理性で澄まされるのを。


 記録している。


 クラウディオはそれを見抜いて、唇を歪めた。


「書け。よく見ておけ。王は飢えでも膝をつかぬと」


 銀鎖が鳴る。


 彼は両手首を引いた。


 枷が白い肌へ食い込み、銀が血脈へざらついた痛みを流し込む。


 それでも、彼は笑った。


「我を獣へ落とすつもりなら、随分と見る目がないな」


 その日は、まだそう言えた。


 四日目。


 声の端に、乾きが混じった。


 五日目。


 罵倒の合間に、喉が鳴った。


 六日目。


 クラウディオは自分の唇を噛み、滲んだ血の味に一瞬だけ目を見開いた。


 自分の血。


 それすら、飢えた身体は拾った。


 舌が、勝手に血を探した。


 クラウディオはその事実に気づいた瞬間、激しく顔を歪めた。


「違う……」


 低い声。


「今のは、違う」


 ルストは何も言わなかった。


 それが、かえって酷かった。


 七日目。


 一週間が過ぎる頃、クラウディオの言葉は短くなっていた。


「外せ」


 銀鎖を引きながら、彼は言った。


「外せ、灰銀」


 以前なら、もっと長く罵った。


 王への不敬、狩人風情、下郎、卑怯者、簒奪者。


 言葉はいくらでもあった。


 けれど、飢えは言葉を削る。


 喉の奥が乾き、声を出すたびに牙の根が疼く。


 血を求める身体は、言葉より先に音を作ろうとする。


 唸り。


 呻き。


 喉の奥で震える、獣の音。


 クラウディオはそれを噛み殺した。


 王だから。


 まだ。


 まだ、王だから。


「我は……」


 言いかけて、喉が詰まる。


 舌が乾く。


 目の奥が赤く濁る。


 ルストの手首が視界に入った。


 血管。


 皮膚の下にある血。


 灰銀の血。


 拒んだ血。


 欲しくないと言った血。


 身体が、そこへ反応した。


 クラウディオの牙が、かすかに鳴った。


 自分でも聞こえた。


 カチ、と。


 小さな音。


 地下牢には大きすぎる音。


 クラウディオの瞳が震える。


「見るな」


 掠れた声だった。


 王の命令というより、拒絶に近い。


「見るな……灰銀……ッ」


 ルストは見ていた。


 目を逸らさずに。


「喉が鳴った」


「違う」


「牙も鳴った」


「違うと言っている……!」


 怒りが血へ乗りかける。


 だが、飢えた血は鈍い。


 雷鎖が鳴るほどの勢いにはならない。


 その代わり、灰銀印がじわじわ熱を持つ。


 クラウディオは息を詰めた。


 熱より、飢えが痛かった。


 九日目。


 クラウディオは怒鳴らなくなった。


 怒鳴れなくなった。


 声を荒げるだけで喉が焼け、牙が疼き、血がない身体が悲鳴を上げる。


 それでも彼は睨んだ。


 目だけは、まだ王だった。


 赤い瞳は濁りかけても、ルストを射抜こうとしていた。


「殺す」


 声は低い。


「必ず……殺す」


 ルストは答えた。


「殺意が弱い」


 クラウディオの顔が怒りで歪む。


「……黙れ」


「血が足りない」


「黙れ……!」


「王血が沈んでいる」


「我の血を……貴様が語るな……」


 その言葉は、途中でひどく掠れた。


 我。


 まだ出る。


 まだ。


 しかし、前より薄い。


 王の鎧が、飢えに擦られている。


 十日目。


 クラウディオは、夢を見た。


 王城の食卓。


 血杯。


 黒石の床。


 従者が震えながら差し出す銀盆。


 赤い血。


 温かい血。


 自分のものとして注がれた血。


 目覚めた時、彼は地下牢の壁に縛られていた。


 銀鎖が四肢を引き、喉は乾き、口の中には何もなかった。


 クラウディオは一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。


 そして、ルストを見た。


 地下牢の入口に立つ灰銀の男。


 血の匂いがする。


 ほんの少し。


 彼の身体の中にある血。


 クラウディオの瞳が大きく開く。


 牙が出る。


 理性より早く。


「……血」


 言ってしまった。


 その一音に、彼自身が凍った。


 血。


 命令でも罵倒でもない。


 要求ですらない。


 ただ、衝動が言葉になった音。


 クラウディオは息を乱した。


「違う」


 すぐに言った。


「違う、今のは違う……!」


 ルストは静かに見ている。


「まだ言葉はある」


「黙れ……ッ」


「だが、短くなっている」


「記録するな……」


「する」


「するな……!」


 銀鎖が鳴った。


 クラウディオは暴れようとした。


 だが、力が足りない。


 腕を引く。


 枷が鳴る。


 銀が肌を焼く。


 それでも鎖はわずかに軋むだけで、外れない。


 クラウディオの喉から、低い唸りが漏れた。


 彼は自分でそれに気づき、目を見開く。


 唸った。


 言葉ではなく。


 獣の音で。


「違う……」


 また否定する。


「我は……違う……」


 しかし、その続きが出ない。


 王だ。


 そう言うはずだった。


 我は王だ。


 我は獣ではない。


 そう続けるはずだった。


 だが、喉が渇きすぎて、言葉が崩れる。


 代わりに、牙が鳴った。


 カチ、と。


 ルストは、目を逸らさなかった。


 二週間目。


 クラウディオは、眠らなくなった。


 吸血鬼の眠りは人間とは違う。


 だが、それでも休息はある。


 意識を沈め、血の巡りを緩め、傷を内側から繕う時間。


 その時間が、飢えで壊れた。


 目を閉じると血の匂いがする。


 ない血の匂いが。


 王城の血杯。


 床の低い器。


 ティボルトの手首。


 エリクの首筋。


 離反種の灰。


 そして、ルストの血。


 拒んだはずの灰銀の血が、最もはっきり思い出される。


 苦い。


 冷たい。


 古い。


 王血を軋ませ、心臓を止め、それでも飢えを鎮めた血。


 クラウディオは、それを思い出すたびに歯を食いしばった。


 欲しくない。


 灰銀の血など欲しくない。


 そう思う。


 だが、身体は違った。


 身体は覚えている。


 あの血が入れば、飢えが沈む。


 牙の疼きが少し和らぐ。


 雷鎖で乱れた拍が整う。


 傷が塞がる。


 楽になる。


 それを身体が知っている。


 だから、欲しがる。


 最悪だった。


 クラウディオは、銀鎖に繋がれたまま、ルストを見た。


 その日はルストが地下牢へ入ってきた。


 手には血の器がない。


 ただ、記録用の小さな魔導具だけを持っている。


 クラウディオの瞳が、その手首へ落ちた。


 血管。


 皮膚。


 噛めば、血が出る。


 灰銀の血。


 喉が鳴る。


 今度は抑えられなかった。


 低く、湿った音。


 ルストが見た。


「喉が鳴った」


 クラウディオの唇が震える。


「……黙れ」


「俺の血に反応している」


「違……」


 違う。


 言いたい。


 だが言葉が途中で溶ける。


 クラウディオの牙が鳴る。


 唇が引き攣る。


 喉の奥で、唸りが混ざる。


「ぐ……る……」


 音。


 言葉ではない。


 クラウディオは自分の喉を止めようとした。


 だが手は拘束されている。


 喉を押さえられない。


 牙を隠せない。


 目を逸らすことも、ほとんどできない。


 ルストの血が、視界の中心にある。


 クラウディオは、荒く息を吐いた。


「見る、な……」


 まだ言える。


 かろうじて。


 「見るな……灰、銀……」


 ルストは答えた。


「見ている」


 クラウディオの瞳が怒りで揺れる。


 しかし、その怒りもすぐに飢えへ沈む。


 怒り続ける力が足りない。


 それが、さらに屈辱だった。


 三週間目。


 王の言葉は、さらに壊れた。


 最初に消えたのは、長い命令だった。


 次に消えたのは、凝った罵倒だった。


 下郎。


 狩人風情。


 簒奪者。


 王を辱める不敬者。


 そうした言葉は、もう続かない。


 クラウディオの口から出るのは、短い音だけだった。


「外せ」


「血」


「黙れ」


「見るな」


「灰銀」


 その程度。


 しかも、それすら日によって崩れる。


 ルストが近づくと、クラウディオは反射的に鎖を引く。


 噛みつこうとする。


 だが銀鎖は届く距離を許さない。


 雷鎖が鳴る。


 脇腹の印が熱を持つ。


 クラウディオの身体が痙攣し、牙が空を噛む。


 カチン、と虚しい音が地下牢に響く。


 そのたびに、クラウディオの目は怒りで充血した。


 だが、言葉は出ない。


 代わりに、唸りが出る。


「ぐる……ッ、が……」


 それを聞くたび、ルストは記録した。


 クラウディオは、その魔導具を見るたびに怒りを思い出す。


 だが、怒りは長く続かない。


 血がないからだ。


 怒りすら、血を使う。


 王の威厳すら、血で動く。


 その事実を、飢えは無慈悲に突きつけた。


 二十五日目。


 クラウディオは、ルストの名を呼ばなかった。


 それだけは、残っていた。


 灰銀。


 それすら、時々崩れる。


「はい……ぎ……」


 掠れた音。


 だが、ルストとは言わない。


 絶対に。


 そこだけは、王の残骸が守っていた。


 ルストは一度だけ言った。


「名前を呼べば、血を近づける」


 クラウディオの瞳が、濁った赤の中でかすかに揺れた。


 血。


 近づく。


 その言葉に、身体が反応する。


 鎖が鳴る。


 牙が出る。


 喉が鳴る。


 だが、口から出たのは名ではなかった。


「……はい、ぎん」


 掠れた音。


 呪いのように。


「はい……ぎ……ッ」


 ルストはしばらく彼を見ていた。


「まだ呼ばないか」


 クラウディオは答えない。


 答えの代わりに、喉の奥で低く唸った。


 それは否定だった。


 たぶん。


 まだ。


 一か月目。


 王の言葉は、ほとんど消えた。


 クラウディオは壁に繋がれたまま、顔を伏せていた。


 黒髪は乱れ、頬は痩せ、赤い瞳は常に禍々しい光を帯びている。


 それは理性ある吸血鬼が吸血衝動で一時的に赤くなる目ではなかった。


 飢えに落ちかけたものの目。


 血しか見えていない時の目。


 だが、完全な崩れ種ではない。


 まだ戻る。


 まだ、核がある。


 ルストはそれを見ていた。


 見続けていた。


 一か月分の記録がある。


 声が短くなった日。


 最初に唸った日。


 初めて自分の唇の血へ反応した日。


 ルストの血に喉を鳴らした日。


 灰銀という呼び名が音だけになった日。


 そして、完全な言葉が消えた日。


 地下牢の扉が開く。


 ルストが入ってきた。


 クラウディオの頭が、ぴくりと動く。


 ゆっくり顔が上がる。


 瞳孔が大きく開いている。


 赤い目が、ルストの喉を見る。


 手首を見る。


 血の匂いを探す。


 顔ではない。


 もう、最初に見るのは顔ではなかった。


 血管。


 喉。


 噛める場所。


 血が流れる場所。


 クラウディオの唇が震える。


 言葉は出ない。


 牙が鳴る。


 カチ、カチ、と。


 喉の奥から、低い唸りが漏れる。


「ぐ……る……」


 ルストは立ち止まった。


「クラウディオ」


 名を呼ぶ。


 クラウディオの反応は薄い。


 その名が、自分のものだという理解が遅れている。


 けれど、まったく失われてはいない。


 赤い瞳が、少しだけ揺れる。


 ルストはさらに言う。


「俺が分かるか」


 クラウディオの喉が鳴る。


 言葉ではない。


 答えでもない。


 ただ血への反応。


 灰銀の血。


 かつて拒み、嫌悪し、それでも身体が必要だと覚えてしまった血。


 クラウディオは鎖を引いた。


 弱い力ではない。


 一か月飢えても、王血はまだ力を残している。


 銀鎖が激しく鳴り、枷が石壁を軋ませる。


 両腕が頭上で引かれ、肩が震える。


 足首の鎖も鳴る。


 彼は、ルストへ牙を向けようとしていた。


 言葉ではなく。


 命令ではなく。


 罵倒ではなく。


 血への衝動だけで。


「血か」


 ルストが低く言った。


 クラウディオの喉から、獣じみた音が漏れた。


「ぐ、あ……ッ」


 それは肯定に近かった。


 本人にその自覚があるかどうかは分からない。


 ルストは、一歩近づいた。


 クラウディオの反応が強くなる。


 鎖が鳴る。


 雷鎖が首元で低く光る。


 しかし発動しない。


 まだ。


 ルストは観察している。


 クラウディオは、言葉を失ったまま、ルストの手首を見た。


 口がわずかに開く。


 舌が乾いた唇を舐める。


 血を探す。


 そこに王の優雅さはない。


 暴君の命令もない。


 飢えた吸血鬼の本能だけがある。


 それでも、ルストが静かに言った。


「名前を呼べ」


 クラウディオの瞳が揺れた。


 奥で、何かが動いた。


 名。


 呼べ。


 それは長く争ってきた言葉だった。


 でも今のクラウディオに、名を形にする力はほとんど残っていない。


 ルスト。


 その音は、喉の奥まで来ない。


 代わりに、別の音が出た。


「……は……」


 掠れた息。


「……ぎ……」


 灰銀。


 それも崩れている。


 けれど、ルストではない。


 名ではない。


 最後の拒絶の残骸。


 ルストは目を逸らさなかった。


「まだか」


 クラウディオは答えない。


 喉の奥で、低く唸るだけ。


 血。


 血。


 血。


 それだけが、彼の中に残っている。


 王の言葉は消えた。


 命令も消えた。


 罵倒も消えた。


 王城の食卓も、血杯も、処刑の声も、臣下へ向けた冷たい命令も、今は遠い。


 残っているのは、乾いた喉。


 疼く牙。


 赤く濁った目。


 銀鎖を引く腕。


 そして、名前だけは呼ばないという、ほとんど言葉にならない意地。


 ルストは、魔導具へ静かに記録を入れた。


 王の言葉が消えた。


 命令、罵倒、自己宣言、すべて崩壊。


 名は呼ばず。


 血への衝動のみ残存。


 地下牢に、銀鎖の音が響く。


 クラウディオはなお、ルストへ手を伸ばそうとする。


 届かない。


 牙も届かない。


 言葉も届かない。


 喉の奥で、獣のように唸るだけ。


 けれど、赤い瞳のさらに奥。


 ほんのわずか。


 王の怒りが、まだ死んでいなかった。


 それは言葉を失っても、消えない火だった。


 ルストはそれを見ていた。


 そして、目を逸らさなかった。


 クラウディオの王の言葉が消えた日も。


 その奥にまだ王が残っていることを、見落とさないために。


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