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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第76話 極度の飢え


 地下牢は、夜より暗かった。


 石壁には湿気が染み込み、床の隙間から冷たい水が滲んでいる。古い血と銀と、錆びた鎖の匂いが混ざり、空気は重く沈んでいた。


 そこは、ただ閉じ込めるための場所ではなかった。


 鉄格子はある。


 厚い扉もある。


 だが、それらは飾りに近い。


 クラウディオ・ルジェリウスを縛っているのは、壁でも扉でもなかった。


 四肢に嵌められた銀の鎖。


 首元の雷鎖。


 脇腹の灰銀印。


 喉に残る牙の痕。


 そして、血を与えないという選択。


 それらが、地下牢そのものより深い檻を作っていた。


 クラウディオは、壁に背を押しつけられる形で拘束されていた。


 両手首は頭上へ引き上げられ、銀の枷で固定されている。足首も床の低い金具へ繋がれ、身じろぎをすれば銀鎖が鳴った。


 銀は、吸血鬼の肌をただ焼くだけではない。


 血脈へ干渉する。


 再生を遅らせる。


 王血の流れにざらついた異物を混ぜる。


 クラウディオほどの王血であれば、銀に触れただけで灰になることはない。


 だが、不快だった。


 痛い、という単純な言葉では足りない。


 血の中に細い刃を入れられたような感覚。


 身体の奥で、王血が絶えず苛立ち続ける。


 クラウディオは、ゆっくりと赤い瞳を開いた。


 目の前には、ルストがいた。


 灰銀の髪。


 鋼色の瞳。


 相変わらず、表情は読めない。


 だが、見ている。


 クラウディオの拘束された姿を。


 銀鎖に四肢を引かれ、地下牢の石壁へ縫い留められた吸血鬼王を。


 目を逸らさずに。


「……ふざけるな」


 クラウディオの声は低かった。


 まだ王の声だった。


 だが、掠れている。


 前回の給餌から、時間が空いていた。


 意図的に。


 ルストがそうしたのだ。


 クラウディオには分かっている。


 血を与えない。


 皿も置かない。


 器もない。


 甘い血もない。


 灰銀の血すらない。


 ただ、飢えだけを残す。


「ふざけるな、灰銀……ッ」


 銀鎖が鳴る。


 クラウディオが腕を動かそうとしたからだ。


 手首の枷が軋み、銀が肌へ食い込む。


 白い肌の下で、王血が低く荒れた。


 首元の雷鎖がかすかに鳴る。


 脇腹の灰銀印も、外套を剥がされた衣の下で鈍く疼いた。


 ルストは言った。


「暴れるな」


「命じるな」


「銀が食い込む」


「貴様が嵌めたのだろうが!」


 怒声が地下牢へ響く。


 その瞬間、雷鎖が低く光る。


 警告。


 まだ本発動ではない。


 クラウディオはそれを見て、屈辱で唇を歪めた。


「またそれか」


 掠れた笑い。


「印、鎖、噛み跡、雷鎖、今度は飢えか。貴様、本当に我をどこまで辱めれば気が済む」


「止めるまでだ」


「我は止まらぬ」


「だから、覚えさせる」


 ルストの声は静かだった。


 その静けさが、クラウディオには何より腹立たしい。


「覚えさせる?」


 クラウディオは笑った。


 美しく、冷たい笑みだった。


 だが、喉の奥には乾きがあった。


 笑っただけで、それが分かる。


 血が足りない。


 身体が、血を欲し始めている。


 まだ限界ではない。


 まだ、言葉はある。


 まだ、王の声を保てる。


 だが、飢えの縁はもう見えていた。


 遠くにある赤い崖のように。


「調教のつもりか、灰銀」


 クラウディオは吐き捨てた。


「王を銀で縛り、血を抜き、飢えさせ、従わせる。なるほど。貴様の管理とやらは、ずいぶん品がないな」


「従わせるためじゃない」


「嘘をつけ」


「暴走を知るためだ」


「我に飢えの限界を見せる気か」


「そうだ」


 即答だった。


 クラウディオの赤い瞳が、ゆっくりと見開かれる。


「貴様……」


「お前はまだ、自分の飢えを軽く見ている」


「我が、自分の飢えを知らぬと?」


「知っているつもりでいる」


 ルストは一歩近づいた。


 銀鎖がかすかに鳴る。


 クラウディオの血が、目の前の男へ反応する。


 灰銀の血の匂い。


 薄い。


 だが、ある。


 何度か飲まされた血。


 体内で王血を軋ませ、傷を塞ぎ、飢えを鎮めた血。


 嫌悪する血。


 必要になりかけている血。


 クラウディオの喉が、ほんのわずかに動いた。


 その瞬間、彼は自分自身に怒った。


 今、喉が鳴りかけた。


 ルストの血に。


 ありえない。


 あってはならない。


 クラウディオは鋭く息を吸い、ルストを睨んだ。


「見るな」


「見ている」


「見るなと言っている」


「喉が動いた」


「違う」


「飢えが始まっている」


「違うと言っている!」


 怒りが血へ乗る。


 雷鎖が鳴る。


 クラウディオは歯を食いしばった。


 銀の鎖が腕を引く。


 動きたくても動けない。


 床へ爪を立てることも、壁を砕くことも、ルストの喉へ牙を立てることもできない。


 四肢を銀に縫い留められたまま、怒りだけが体内で暴れる。


 そして、その怒りすら雷鎖と灰銀印に測られる。


「……卑怯者め」


 クラウディオは低く言った。


「檻では足りず、血では足りず、今度は飢えまで使うか」


「お前の飢えは災厄になる」


「災厄で何が悪い」


「周囲が死ぬ」


「弱い者が喰われるだけだ」


「だから止める」


「またそれか!」


 クラウディオの声が裂ける。


 地下牢に反響する。


 銀鎖が鳴り、首元の雷鎖が青白く瞬く。


 クラウディオは荒い息を吐いた。


 血が足りない。


 怒鳴るだけで、体力が削れる。


 それが、すでに屈辱だった。


 ルストは言う。


「極度の飢えに落ちれば、お前でも理性を失う」


「我を、野良や崩れ種と同じにするな」


「同じではない」


「ならばなぜ」


「王血だから危険だ」


 ルストの声は変わらない。


「ただの吸血鬼が飢えれば、一人を襲う。崩れ種が飢えれば、近いものを噛む。だが、お前が飢えれば、血の匂いが周囲を呼ぶ。お前の飢えに、他の飢えが寄る。王血が暴れれば、同族も野良も狂う」


 クラウディオは黙った。


 分かっている。


 否定したいが、分かっている。


 彼の血は、ただの血ではない。


 自分の飢えが外へ漏れれば、それだけで夜がざわつく。


 吸血鬼を呼び、人間を怯えさせ、崩れ種の残った本能まで引きずり出す。


 災厄。


 その言葉を、ルストは近いと言った。


 クラウディオはそれを誇っていた。


 だが、今は違う。


 銀鎖に縛られ、地下牢へ落とされ、血を与えられずにいる今、その災厄が自分自身を焼き始めている。


 クラウディオは笑った。


 声は低く掠れていた。


「それで?」


「限界を測る」


「我がどこで獣になるか、見たいのか」


「見る必要がある」


「また観察か」


「そうだ」


「貴様は本当に……」


 クラウディオは、低く息を吐いた。


「我が無様に飢え、言葉を失い、床を這って血を求めるところが見たいのだろう」


「見たいわけじゃない」


「では、なぜ見る」


「見なければ止められない」


「殺せば止まる」


「殺さない」


「管理、か」


「そうだ」


 その言葉が落ちた瞬間、クラウディオの全身に怒りが走った。


 銀鎖が激しく鳴る。


 彼は両腕を引いた。


 枷が食い込み、銀が肌を焼く。


「ぐ、ッ……!」


 短い呻き。


 それでも止まらない。


 クラウディオは力任せに鎖を引く。


 王血が腕へ集まる。


 引き千切る。


 銀ごと砕く。


 そう思った瞬間、脇腹の灰銀印が焼けた。


 雷鎖も反応する。


 青白い光が首元を走り、心臓の手前で止まった。


「が、ぁ……ッ!」


 身体が跳ねる。


 だが、銀鎖は外れない。


 むしろ、動いたぶんだけ四肢へ食い込む。


 クラウディオの額に冷たい汗が滲んだ。


 飢えが、その汗すら血に変えてしまいそうなほど、感覚を鋭くしていく。


 喉が渇く。


 舌が乾く。


 牙の根が疼く。


 血が欲しい。


 嫌でも分かる。


 飢えが始まっている。


 クラウディオは、唇を噛んだ。


 自分の血が滲む。


 ほんの少し。


 その味が舌へ触れた瞬間、身体が強く反応した。


 血。


 自分の血ですら、飢えた身体は拾った。


 クラウディオの瞳が一瞬揺れる。


 それをルストが見た。


「噛むな」


「命じるな……ッ」


「自分の血でも刺激になる」


「知るか……!」


 だが、クラウディオは唇を噛むのをやめた。


 やめてしまった。


 それを自覚して、また怒りが込み上げる。


「違う」


 掠れた声。


「今のは、貴様に従ったのではない」


 ルストは何も言わない。


 沈黙が最悪だった。


「何か言え」


「言えば怒る」


「言わなくても腹が立つ」


「面倒だな」


「王に面倒と言うな!」


 怒鳴った瞬間、喉が乾いた。


 痛いほど乾いた。


 クラウディオは息を吸った。


 地下牢の空気が肺に入る。


 銀。


 湿気。


 古い血。


 ルストの血。


 その匂いが混ざる。


 ルストの血。


 クラウディオの喉が、また動きかけた。


 今度は止められなかった。


 ごく、と小さな音がした。


 地下牢に響くほどではない。


 だが、ルストには聞こえた。


 もちろん聞こえた。


「……見るな」


 クラウディオは言った。


「何も言っていない」


「見るなと言っている……ッ」


「飢えが進んでいる」


「違う」


「違わない」


「違うと言っている!」


 クラウディオの声が、わずかに乱れた。


 王の声から、少しだけ剥がれる。


 喉の奥に、焦りがある。


 飢える恐怖。


 それは、痛みとは違う。


 雷鎖や灰銀印のように、外から来る苦痛ではない。


 内側から来る。


 自分の身体が、自分の王権を裏切っていく恐怖。


 血を欲し、理性を削り、喉を鳴らし、牙を疼かせ、やがて言葉を獣の唸りへ変える。


 クラウディオは、それを知っている。


 他の吸血鬼で何度も見た。


 飢えで崩れたもの。


 言葉を失い、目を赤く濁らせ、血しか見えなくなったもの。


 床を這い、壁に爪を立て、仲間の喉へ牙を立てたもの。


 自分がそうなる。


 そうされようとしている。


 その恐怖を、クラウディオは怒りで覆い隠そうとした。


「貴様……」


 声が低く震える。


「我を、飢えた獣に落とすつもりか」


「落ちるところを知る必要がある」


「言い方を変えるな!」


 銀鎖を引く。


 枷が鳴る。


 血脈が焼ける。


 クラウディオは苦痛に顔を歪めたが、すぐに笑った。


 笑おうとした。


 だが、喉が乾きすぎて、笑い声は掠れた。


「は……ッ、灰銀……貴様、本当に最低だな」


「お前に言われたくない」


「我は美しく最低だ。貴様は無表情で最低だ」


「分類はいらない」


「要る。我の気が済む」


「なら、気が済むまで罵れ」


 ルストは静かに言った。


「血は出さない」


 その一言で、クラウディオの笑みが消えた。


 血は出さない。


 つまり、噛んでも無駄。


 罵っても無駄。


 怒っても無駄。


 飢えを訴えても無駄。


 ルストは、与えないと決めている。


 クラウディオを、飢えの限界へ落とすと決めている。


 管理の一環として。


 調教とも呼べるほど冷酷に。


 クラウディオの赤い瞳が、深く燃えた。


「殺す」


 低い声。


「貴様だけは、必ず殺す」


「殺意を乗せるな」


「命じるな」


「雷鎖が鳴る」


「鳴らせばいい」


 クラウディオは笑った。


 痛みと飢えで、口元が少し震えている。


「心臓を止めろ。泡を吹かせろ。白目を剥かせろ。皿で飲ませろ。鎖を食い込ませろ。飢えさせろ。好きにしろ」


 赤い瞳がルストを射る。


「それでも、我は貴様を殺す」


「今は殺せない」


「今はな」


 その言葉だけは、王の声だった。


 ルストは、少しの間黙っていた。


 それから、地下牢の壁際に置いた砂時計のような魔導具を見る。


 銀砂が、ゆっくり落ちている。


 時間を測っているのだ。


 飢えの進行を。


 クラウディオの限界を。


 どれほどで喉が鳴るか。


 どれほどで理性が荒れるか。


 どれほどで一人称が崩れるか。


 どれほどで獣の唸りが混ざるか。


 全部。


 クラウディオはそれに気づいた。


 気づいてしまった。


「……観察記録か」


 低い声。


「我の飢えを、記録する気か」


「必要だ」


「その言葉をやめろ」


「やめない」


「なら、いつかその舌を抜く」


「覚えておく」


「覚えるな。怯えろ」


「怯えない」


「腹立たしい男だな!」


 怒声がまた、地下牢を震わせた。


 その直後、クラウディオは喉を押さえようとして、両手が拘束されていることを思い出した。


 押さえられない。


 自分の喉を。


 渇いて鳴りそうな喉を。


 牙が疼く口元を。


 両手首は頭上で銀に縛られている。


 足も固定されている。


 身を折ることすら自由ではない。


 檻より深いもの。


 前に気づいた見えない檻が、今はさらに形を持っていた。


 銀鎖と飢え。


 クラウディオは、低く息を吐く。


 その息の中に、ほんのわずか、獣じみた音が混ざった。


 ルストの目がそれを拾う。


 クラウディオは即座に睨んだ。


「見るな」


「見ている」


「記録するな」


「する」


「我を、獣に落ちる過程として見るな……ッ」


「落とさないために見る」


「落としているのは貴様だ!」


 叫んだ瞬間、喉がひどく痛んだ。


 血が欲しい。


 血が。


 血が欲しい。


 その言葉が、頭の奥に浮かびかける。


 クラウディオはそれを怒りで押し潰した。


 血が欲しいなど。


 言うものか。


 ルストの前で。


 灰銀の前で。


 絶対に。


 だが、身体はすでに訴えている。


 牙の根が疼く。


 唇が乾く。


 舌が血の味を探す。


 喉が、ひくりと鳴る。


 クラウディオは、赤い瞳でルストを睨み続けた。


「灰銀」


「何だ」


「今すぐこの鎖を外せ」


「外さない」


「外せ」


「外さない」


「貴様……」


「まだ始まったばかりだ」


 その言葉に、クラウディオの背筋が冷えた。


 まだ。


 始まったばかり。


 これで。


 この飢えで。


 この喉の乾きで。


 この恐怖で。


 まだ始まり。


 クラウディオは、かすかに笑った。


 だが、その笑いは崩れていた。


「……いいだろう」


 声は低い。


「見ろ、灰銀」


 ルストは黙っている。


「我がどこまで飢えても、貴様の名を呼ばぬことを。血を乞わぬことを。床を舐めぬことを。獣になど落ちぬことを」


 赤い瞳が、地下牢の闇で燃える。


「見ていろ」


 ルストは、短く答えた。


「見る」


 その答えが、クラウディオの予想通りすぎて、さらに腹が立った。


 銀砂が落ちていく。


 地下牢は暗い。


 血はない。


 四肢の銀鎖は外れない。


 飢えはまだ始まったばかり。


 クラウディオは壁へ背を押しつけたまま、荒い息を吐いた。


 その息の奥に、ほんのわずか、唸りが混ざる。


 本人は認めない。


 認めるはずがない。


 だが、ルストは聞いている。


 見ている。


 記録している。


 クラウディオは、飢える恐怖を怒りで覆い隠しながら、灰銀の男を睨み続けた。


 王の誇りだけで、乾いた喉を噛み殺すように。


 まだ、始まったばかりだった。


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