第81話 皿の血
血の匂いがした。
その瞬間、クラウディオの身体が跳ねた。
銀鎖が鳴る。
がしゃん、と地下牢の湿った石壁へ反響する。
まだ器は置かれていない。
まだ血は見えていない。
だが、匂いだけで分かる。
温められた血。
薄すぎず、濃すぎず、飢餓の底に落ちた吸血鬼の身体が壊れないように調整された血。
ルストが持ってきた血。
クラウディオの喉から、低い音が漏れた。
「ぐ……る……」
言葉ではない。
命令ではない。
罵倒でもない。
血を見つけた獣の声だった。
地下牢の扉が開く。
ルストが入ってきた。
片手に、低い器を持っている。
クラウディオの赤い瞳が、その器へ吸いついた。
ルストの顔は見ない。
手首も、喉も、銀刃も見ない。
器だけを見る。
そこに血がある。
床に置かれるための器。
かつては屈辱の象徴だったもの。
王の手には持たされず、床へ置かれ、四つん這いで舌を使わせるためのもの。
それを見た瞬間、以前のクラウディオなら怒鳴った。
杯を用意しろ、と。
手で取らせろ、と。
王に床の皿で飲ませるな、と。
だが、今のクラウディオの唇から出たのは、罵倒ではなかった。
「血……」
掠れた声。
それだけだった。
ルストは、地下牢の中央へ器を置いた。
低い音がした。
石床に器の底が触れる音。
クラウディオの身体が、びくりと反応する。
銀鎖がさらに鳴る。
彼は器へ向かおうとした。
両手首は頭上に拘束されている。
足首も床の金具へ繋がれている。
だが、ルストが銀鎖の一部を緩めた。
完全には解かない。
逃げられない。
襲えない。
ただ、床の器へ口が届く程度。
それだけ。
クラウディオは、ほとんど落ちるように床へ身を投げた。
膝が石床に打ちつけられる。
手首の枷が引かれ、肩が不自然に伸びる。
足首の鎖もぎりぎりと鳴る。
それでも、彼は構わなかった。
血がある。
目の前に。
舌が届く場所に。
器の中に。
クラウディオは、ためらわなかった。
顔を低くし、舌を伸ばし、血へ食いつくように舐めた。
ぺちゃ、と音がした。
最初の一口が舌に触れる。
血が喉へ落ちる。
その瞬間、クラウディオの身体が震えた。
歓喜に近い反応だった。
飢えきった身体が、ようやく血を得た。
王としての拒絶も、屈辱も、怒りも、すべて押し流される。
血。
血だ。
温かい。
喉へ入る。
身体へ巡る。
牙の根の痛みが、ほんの少し緩む。
乾ききった内側へ赤が落ちる。
クラウディオは、さらに舌を動かした。
ぺちゃ、ぺちゃ、と音が続く。
低い器の中の血を、犬のように舌で掬う。
唇を濡らし、顎を濡らし、息を荒げ、血をこぼしながら飲む。
以前なら、その音一つで怒り狂った。
犬のようだと言われれば、殺意で雷鎖を鳴らした。
だが今は、その音を止める余裕がない。
ぺちゃ。
ぺちゃ。
ぺちゃ。
血を飲む。
ただ、それだけ。
銀鎖が小さく鳴る。
クラウディオの身体が前へ前へと寄ろうとするからだ。
器へさらに近づきたい。
顔を沈めたい。
舌だけでは足りない。
喉へ、もっと。
もっと血を。
「ぐ、ぁ……ッ」
喉から漏れる音は、もはや人語ではなかった。
しかし、そこには明らかな安堵があった。
飢えた獣が餌へ辿り着いた時の、浅ましいほど正直な反応。
彼の腰が、小さく跳ねた。
痙攣にも似た動きだった。
血が身体へ入るたび、飢えきった筋肉が反射し、背が震え、腰が床の上で小刻みに揺れる。
それは美しくも優雅でもなかった。
王の姿ではなかった。
低い器に顔を寄せ、舌で血を掬い、喉を鳴らし、身体を小さく揺らしながら飲み続ける。
まるで犬だった。
ルストは、その姿を見ていた。
目を逸らさずに。
クラウディオはもう、見るなとは言わなかった。
言えなかった。
血を飲むことで精一杯だった。
器から顔を離す時間すら惜しい。
舌が何度も血を掬う。
ぺちゃぺちゃと湿った音が地下牢に響く。
かつて王城の血杯を落とした者を許さなかった王が。
床の皿から。
犬のように。
喜んで。
血を飲んでいる。
ルストの声が、低く落ちた。
「本当に犬のようだ、お前は」
クラウディオの身体が、ほんの一瞬だけ止まった。
言葉は届いた。
完全にではない。
だが、音として届いた。
犬のようだ。
かつてなら、その言葉だけで激昂した。
王を犬と呼ぶな。
命じるな。
見るな。
殺す。
いくらでも返したはずだった。
しかし今、クラウディオは器から顔を離さなかった。
舌だけが止まらない。
血があるからだ。
怒りより血。
屈辱より血。
犬のようだという言葉よりも、器の中の血。
ぺちゃ、とまた音がした。
ルストの目が、わずかに細くなる。
「よく飲む」
それは褒めるような声だった。
冷たく、淡々としているのに、確かに評価の形をしていた。
「そうだ。そのまま飲め」
クラウディオの喉が鳴る。
命令に反応したのではない。
血に反応しただけだ。
だが、結果は同じだった。
彼は飲み続けた。
ぺちゃぺちゃと音を立てながら。
顎を血で濡らし、乾ききった身体を満たそうとする。
器の血が減っていく。
クラウディオの舌が、底を追うように動いた。
焦りが出る。
減っていく。
なくなる。
血が。
なくなる。
それに気づいた瞬間、クラウディオの身体がさらに前へ出た。
銀鎖が張る。
首元の雷鎖が低く鳴る。
ルストが言った。
「落ち着け」
クラウディオは反応しない。
器の中の血しか見ていない。
舌が底を舐める。
ぺちゃ。
ぺちゃ。
もうほとんどない。
それでも舐める。
底に残った赤い筋を、必死に追う。
「ぐ、ぁ……ッ」
不満のような呻き。
足りない。
明らかに足りない。
一か月に及ぶ飢えを満たすには、少なすぎる。
けれど、わざとだ。
ルストは一度に満たすつもりなどない。
飢餓状態の身体を壊さないため。
そして、反応を見るため。
クラウディオには、そんな理屈はもう分からない。
ただ、足りないことだけが分かる。
血が減る。
なくなる。
嫌だ。
もっと。
クラウディオの喉から、細い声が漏れた。
「……も……」
ルストが見た。
クラウディオは器の底を舐めながら、震える声で続けた。
「もっと……」
また、その言葉。
血への要求。
前なら、それで罰を受けた。
調子に乗るな、と。
灰銀印と雷鎖を同時に発動させられ、心臓を止められ、泡を吹き、白目を剥き、失禁して痙攣した。
それでも今、言葉は出た。
もっと。
血を。
クラウディオの瞳が、器からルストへ上がる。
赤く濁った瞳。
王の威厳はない。
ただ、血をねだる獣の目。
「もっと……血……」
ルストはしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「今はそれ以上ない」
クラウディオの顔が歪む。
理解が追いついた瞬間、喉の奥で低い唸りが生まれる。
「ぐ……る……」
「暴れるな」
「血……ッ」
「終わりだ」
「血、寄越せ……ッ」
言葉が戻りかける。
だが、戻ってくるのは血への要求だけ。
クラウディオは器を舐め続ける。
もう血はない。
それでも底を舐める。
べろ、べろ、と。
空になった器の内側を。
血の匂いだけを追って。
ルストは近づき、器を取り上げた。
クラウディオの頭が跳ね上がる。
牙が鳴る。
カチ。
血の匂いを奪われた獣の反応だった。
「がぁああッ!」
意味のない咆哮。
銀鎖が鳴る。
クラウディオは器を追おうとした。
届かない。
ルストは器を持ったまま、少し離れた。
クラウディオの喉から、低い唸りが漏れる。
「ぐる……ッ、血……返せ……」
返せ。
その言葉が出た。
クラウディオ自身に、その意味がどこまで残っているかは分からない。
けれど、器を奪われたことだけは分かっている。
ルストは、低く言った。
「まだ足りないな」
クラウディオは唸る。
「当然か」
ルストは器の底を見た。
綺麗に舐め取られている。
犬よりも、もっと必死に。
血の筋ひとつ残さず。
それを見て、ルストはクラウディオへ視線を戻した。
「だが、今日はここまでだ」
クラウディオの顔が歪む。
「血……ッ」
「ない」
「血ぃ……ッ!」
「ない」
「がぁああああッ!!」
咆哮が地下牢に響く。
銀鎖が激しく鳴る。
首元の雷鎖が警告の光を走らせる。
ルストはそれを発動させなかった。
まだ。
クラウディオは暴れているが、捕食対象へ届かない。
血の器も遠い。
今は、反応を見る段階。
クラウディオは、床に伏せるような姿勢のまま、血を奪われた器の方を見ている。
赤い瞳は濁り、唇と顎には血が残り、舌がまだ口元の血を舐めようと動く。
犬のようだ。
その言葉が、さっき言われた。
褒められた。
よく飲む、と。
クラウディオの中のどこかに、それへの屈辱が届いているはずだった。
だが、今は血のほうが勝っている。
王として戻った時、その言葉は彼を焼くだろう。
本当に犬のようだ、お前は。
その言葉を思い出し、殺意で震えるだろう。
今は、まだ無理だった。
今のクラウディオは、床に近い位置で銀鎖に繋がれ、器を奪われたことに唸る獣だった。
ルストは魔導具へ記録を刻む。
低器給餌実施。
拒絶なし。
即時摂取。
床器への強い執着。
血消失後も舐め取り継続。
追加要求あり。
名は呼ばず。
犬様反応顕著。
記録を終えると、ルストは器を持って扉へ向かった。
クラウディオが、さらに激しく鎖を鳴らす。
「血……ッ、血、寄越せ……灰銀……!」
灰銀。
それだけは出た。
ルストではない。
まだ名ではない。
ルストは振り返った。
「次も飲めるなら、また与える」
クラウディオの唸りが少し止まる。
飲める。
与える。
血。
その単語だけを拾ったように、赤い瞳が揺れる。
ルストは続けた。
「手で取るな。皿から飲め」
クラウディオの喉が低く鳴った。
怒りか。
理解か。
反射か。
判別はつかない。
けれど、彼は器がなくなった床を見た。
そこにまだ血の匂いが残っている気がするのか、舌が床へ伸びかける。
ルストは見ていた。
クラウディオは床を舐めた。
もう血はない。
それでも、そこをべろりと舐めた。
石の味。
湿気の味。
さっきまで器が置かれていた場所の、血の残り香。
ルストは、低く言った。
「本当に犬のようだ」
クラウディオは顔を上げない。
反論もしない。
できない。
ただ、床を舐める。
血の匂いを探して。
地下牢の扉が閉まる。
重い音が響く。
クラウディオは扉の方を見なかった。
床を見ていた。
器があった場所を。
血があった場所を。
そして、喉の奥で低く唸った。
「ぐ……る……」
美しい王は、血を得て一瞬だけ生き返った。
だが、戻ったのは王ではない。
皿の血に喜んで食らいつく、飢えた獣だった。
それでも、まだ一つだけ残っている。
ルストとは呼ばない。
その名だけは、血より深い場所で、まだ拒まれていた。




