第71話 皿で飲む王
目覚めたクラウディオが最初に見たのは、床だった。
濡れた石。
泥の痕。
雨水が乾ききらず、薄く光っている床。
そして、その上に置かれた低い器。
クラウディオの瞳が、ゆっくりと赤く染まった。
またか。
言葉にする前から、喉の奥が怒りで焼けた。
廃村の空き家だった。かつて誰かが暮らしていたのだろう。壁には煤けた鍋が吊られ、隅には割れた椅子が倒れている。窓は板で塞がれていたが、隙間から湿った夜気が流れ込んでいた。
クラウディオは床ではなく、古い長椅子の上に寝かされていた。
それに気づいて、さらに腹が立った。
また運ばれた。
また、意識を失った自分の身体を灰銀に扱われた。
雷鎖で心臓を止められ、泡を吹き、白目を剥き、泥の上でのたうった後の身体を。
クラウディオはゆっくり起き上がった。
首元には雷鎖。
冷たい輪が、まだそこにある。
外套の下では脇腹の灰銀印が鈍く疼いていた。暴れた後の痛みではない。もっと深く、血脈の底に残る火種のような疼きだった。
ルストは部屋の壁際に立っていた。
鋼色の瞳で、クラウディオを見ている。
当然のように。
目を逸らさず。
クラウディオは、低く言った。
「見るな」
「起きたか」
「見るなと言っている」
「見ている」
「貴様……」
怒りが血へ乗りかけた瞬間、首元の雷鎖がかすかに鳴った。
青白い光が輪の内側を一瞬だけ走る。
クラウディオの身体が強張った。
反射だった。
彼自身がそれを自覚した瞬間、屈辱で視界が赤くなる。
「……今のは違う」
ルストは何も言わない。
それが余計に腹立たしい。
クラウディオは床の器を睨んだ。
血が入っている。
温かい。
香りも整えられている。
人間の血だ。
だが、今回は灰銀の血の気配はない。少なくとも、表面の匂いには混じっていない。
それでも屈辱には変わらない。
低い器。
床。
犬のように舌で飲む姿勢。
それを思い出しただけで、クラウディオの喉が怒りで震えた。
「……何のつもりだ」
「給餌だ」
「その言い方をやめろ」
「血が足りない」
「我は要らぬ」
「要る」
「要らぬと言っている」
「廃村で暴走しかけた。雷鎖と印だけでは足りない」
ルストは淡々と言った。
「飢えが強すぎる。身体を鎮める」
「それで床の皿か」
「そうだ」
即答だった。
クラウディオの瞳が、赤く深まる。
「貴様は、本当にどこまで我を辱めれば気が済む」
「辱めが目的じゃない」
「嘘をつけ」
「暴走防止だ」
「なら杯でよいだろうが!」
「杯ではお前が血を使う。投げる。割る。術にする」
「当然だろう」
「だから床だ」
当然のように返された。
クラウディオは笑った。
低く、冷たく、怒りで震える笑いだった。
「暴走防止、か。立派な名目だな、灰銀」
彼は長椅子から足を下ろした。
まだ身体は重い。
雷鎖で心臓を何度も止められた後の身体は、完全には戻っていない。脇腹の印も、首元の輪も、少し動くだけで存在を主張する。
それでも立つ。
ルストの前で、床の器を前に、弱っているところなど見せない。
「だが、本当は違うだろう」
クラウディオはルストを睨んだ。
「我に立場を思い知らせたいのだ。王が床へ伏せ、皿から血を啜る姿を、また見たいのだろう」
ルストは表情を変えない。
「それもある」
クラウディオの息が止まった。
否定しない。
この男は、こういうところで否定しない。
だから余計に腹が立つ。
「貴様……」
「お前は分かっていない」
「何を」
「自分が今、どれだけ危険か」
「王が危険で何が悪い」
「自分で止まれないなら、止める」
「それがこの皿か」
「そうだ」
ルストは床の器を見た。
「血は必要だ。だが、王として与える気はない」
クラウディオの顔から、表情が消える。
「……何?」
「今のお前に王としての給仕はしない」
ルストの声は低かった。
「餌場と言った。人間を餌と見た。ティボルトを狙った。エリクを壊した。勝手に血を奪おうとした。なら、管理下の危険個体として与える」
沈黙。
雨の滴る音だけが聞こえる。
クラウディオは、ゆっくりと唇を歪めた。
「つまり、我に犬のように飲めと」
「皿で飲め」
「同じだ!」
怒声。
雷鎖が反応した。
青白い光が首元を走り、心臓の手前で止まる。
警告。
本発動ではない。
それでも、クラウディオの身体は一瞬だけ固まった。
その反応を、ルストは見ていた。
見ている。
ずっと。
「……見るな」
クラウディオの声が低くなる。
「見るな、灰銀」
「飲め」
「命じるな」
「飲まないなら雷鎖を発動する」
空気が止まった。
クラウディオの赤い瞳が、ゆっくりと見開かれる。
「脅すか」
「そうだ」
即答。
殺意が血へ走りかけた。
脇腹の印が熱を持つ。
首元の雷鎖も低く鳴る。
クラウディオは、歯を食いしばって耐えた。
耐えてしまった。
それが、死ぬほど屈辱だった。
「貴様……王を脅すか」
「必要なら」
「その必要を決めるのも貴様か」
「そうだ」
「ふざけるな」
「飲め」
「飲まぬ」
「雷鎖を入れる」
ルストの手が、首元の魔導鎖へわずかに伸びた。
触れてすらいない。
それなのに、クラウディオの身体は覚えていた。
心臓が止まる感覚。
青白い雷が血脈を走る痛み。
背が弓なりに跳ね、泡を吹き、舌が力なく垂れ、白目を剥いて泥に崩れる屈辱。
身体が、先に拒んだ。
クラウディオの喉が詰まる。
その一瞬を、彼は自分で許せなかった。
「……違う」
掠れた声。
「今のは、違う」
ルストは言った。
「覚えているんだろう」
「黙れ」
「なら、飲め」
「黙れと言っている!」
また雷鎖が鳴る。
クラウディオは息を詰めた。
ルストは目を逸らさない。
クラウディオの怒りも、恐れも、屈辱も、全部見ている。
彼は、床の器へ視線を落とした。
血がある。
身体は、それを欲している。
雷鎖と灰銀印で傷ついた血脈は、血を必要としている。
あれほど拒んでも、あれほど憎んでも、吸血鬼の身体は血を求める。
喉が鳴りそうになる。
クラウディオはそれを噛み殺した。
だが、ルストには見えている。
腹立たしいほど、見えている。
「身体は飲みたがっている」
「我は拒んでいる」
「身体を殺す気か」
「死なせぬのだろう、貴様が」
「死なせない。だから飲ませる」
「どこまでも腹立たしい男だな」
「よく言われる」
「我にしか言われていないだろう」
「今のところは」
いつもの返答。
その落ち着きが、今は憎たらしい。
クラウディオは、床の器へ一歩近づいた。
一歩。
それだけで屈辱が増す。
低い器。
床。
その前で膝を折る自分。
また。
また、あの姿勢を取らされる。
「杯を用意しろ」
「しない」
「台へ置け」
「置かない」
「なら貴様が飲め」
「お前の血だ」
「我の血ではない」
「お前に必要な血だ」
「必要など……」
言いかけて、喉が詰まる。
嘘だ。
必要だ。
身体には。
それを認めた瞬間、クラウディオの顔が屈辱で歪んだ。
「……灰銀」
「何だ」
「この恥を、我は忘れぬ」
「忘れなくていい」
「いつか、貴様にも床で飲ませる」
「やれるなら」
「その言葉も聞き飽きた」
「なら、やれ」
「今はやらぬだけだ」
クラウディオは、ゆっくり膝を曲げた。
膝が床へ近づく。
まだつかない。
彼は途中で止まった。
ルストを見る。
「見るな」
「見ている」
「見るなと言っている」
「給餌中だ」
「その言葉をやめろ!」
雷鎖が光る。
今度は強めの警告だった。
首元から心臓へ冷たい痛みが走り、クラウディオの身体がびくりと跳ねる。
「ぐ、ッ……!」
膝が床についた。
自分の意思ではない。
雷鎖の痛みで崩れた。
それをクラウディオは理解した。
怒りで視界が赤くなる。
「貴様……ッ」
「飲まないなら次は本発動だ」
ルストの声は低い。
「心臓を止める」
クラウディオの身体が、かすかに震えた。
寒さではない。
恐怖でもない。
そう思いたかった。
だが、身体は覚えている。
心臓が止まる。
血が凍る。
戻される。
また止まる。
また戻される。
あれをもう一度。
この床で。
器の前で。
それは、皿で飲むよりも屈辱的だった。
クラウディオは、歯を食いしばった。
「我は……」
言葉が震える。
王の声を保とうとする。
保て。
保て。
我は王だ。
床に膝をついても。
雷鎖を首に嵌められても。
皿の前に置かれても。
「我は、貴様に屈して飲むのではない」
ルストは何も言わない。
クラウディオは床に手をついた。
冷たい。
濡れている。
石のざらつきが掌に触れる。
四つん這いに近い姿勢。
王の身体が、また床へ近づく。
器の血が近い。
温かい匂い。
喉が鳴る。
クラウディオは、それを殺しきれなかった。
自分の身体の反応を、ルストが見ている。
それがまた屈辱だった。
「我は……」
言葉が続かない。
血の匂いが濃い。
飢えた身体は、もう言い訳を聞かない。
雷鎖の残響で荒れた血脈が、血を求めている。
クラウディオは、器の縁に唇を近づけた。
寸前で止まる。
最後の抵抗。
「灰銀」
「何だ」
「笑うな」
「笑っていない」
「なら見るな」
「見る」
「貴様……!」
「飲め」
短い命令。
クラウディオは、目を閉じなかった。
閉じれば逃げた気がした。
赤い瞳でルストを睨んだまま、舌を伸ばす。
血に触れた。
温かい。
屈辱的なほど、身体が反応した。
喉が勝手に動く。
ごく、と小さな音。
飲んだ。
また。
低い器から。
床に手をつき、膝をつき、王の喉が皿の血を受け入れた。
クラウディオの指が床を掻く。
「……ッ」
屈辱で声が出ない。
だが、身体は止まらなかった。
舌がもう一度、血を掬う。
ぴちゃ、と音がした。
クラウディオの肩が震える。
犬のような音。
思い出したくない音。
だが、低い器から飲めば、どうしてもその音が出る。
ぴちゃ。
また。
血が身体へ入る。
飢えが鎮まっていく。
雷鎖で荒れた心臓が、少し落ち着く。
脇腹の灰銀印の熱も、わずかに沈む。
それが最悪だった。
この姿勢で飲む血が、身体を楽にしている。
床の皿が、自分を支えている。
クラウディオは、赤い瞳でルストを睨み続けた。
飲みながら。
舌で血を掬いながら。
音を立てながら。
王としての誇りが一口ごとに削られていくのを感じながら。
ルストは見ていた。
目を逸らさない。
笑わない。
ただ、見ている。
それがまたクラウディオには嘲笑よりも酷かった。
「……見るな」
血の合間に、掠れた声が漏れた。
「見るな、灰銀……ッ」
「飲め」
「命じるな……ッ」
「残すな」
クラウディオの瞳が怒りで燃える。
「我に、残すなと……?」
「必要量だ」
「管理量の話をするな!」
怒りが血に乗る。
雷鎖が低く鳴る。
クラウディオは息を詰めた。
そして、屈辱に震えながら、また血を舐めた。
ぴちゃ。
器の底が見えてくる。
身体は楽になる。
心は、さらに荒れる。
最後の血を舌で掬った時、クラウディオは低く唸った。
食事は終わった。
低い器は空になった。
王は、皿で飲んだ。
ルストは、静かに言った。
「終わったな」
クラウディオは、ゆっくり顔を上げた。
唇は血で濡れている。
赤い瞳は怒りで燃えている。
四つん這いの姿勢から、彼はすぐには動かなかった。
動けなかったのではない。
そう思いたかった。
「灰銀」
声は低い。
「この器を、いつか貴様の喉へ押し込んでやる」
「その前に立て」
「命じるな」
「立てるか」
「当たり前だ」
クラウディオは立ち上がろうとした。
膝が少し揺れる。
しかし、血が入ったことで身体は先ほどより動く。
それがまた屈辱だった。
彼は外套を整え、血のついた唇を手の甲で拭った。
舐めない。
味わわない。
床の器の血など、これ以上自分から味わわない。
ルストは空の器を拾った。
「次も必要なら使う」
「次などない」
「ある」
「ない」
「暴走しかければある」
「我は暴走などしない」
「廃村で餌場と言った」
「事実を言っただけだ」
「その事実を、お前の血が捕食衝動へ変えた」
「貴様が勝手にそう見た」
「雷鎖と印が拾った」
クラウディオは歯を食いしばった。
機械のように、魔導具の反応を根拠にされるのが腹立たしい。
感情も思想も王権も、すべて血の動きとして処理される。
「我は、貴様の道具に裁かれる王ではない」
「道具ではない。制御だ」
「同じだ!」
雷鎖がかすかに鳴る。
クラウディオは一瞬だけ息を止めた。
ルストはそれを見ていた。
「反応が早くなっている」
「観察するな」
「必要だ」
「必要、必要、必要……貴様はそれしか言えぬのか」
「お前が止まらないからだ」
ルストは器を壁際に置いた。
空になった低い器。
クラウディオはそれを見ないようにした。
見れば、今の姿を思い出す。
床に膝をつき、手をつき、舌で血を掬った姿を。
ルストは言った。
「雷鎖と印だけでは意味がない」
クラウディオの目が動く。
「痛みで止めても、飢えが残ればまた血へ向かう。だから飲ませる。身体を鎮める。立場も覚えさせる」
立場。
その言葉に、クラウディオの血が冷えた。
「我の立場を、貴様が覚えさせると?」
「そうだ」
「貴様……本当に」
クラウディオは笑った。
血に濡れた唇で、美しく、冷たく。
「我を飼うつもりか」
「飼うには向いていない」
「なら何だ」
「管理する」
「その言葉をやめろ!」
「やめない」
ルストはクラウディオを見る。
「お前は王だ。だが、今は俺の管理下にいる」
沈黙。
それは、首元の雷鎖よりも重い言葉だった。
クラウディオは、低く息を吐いた。
「認めぬ」
「認めなくていい」
「なら言うな」
「事実だ」
「事実ごと殺す」
「印が焼く」
「貴様は本当に……!」
怒りで言葉が切れる。
クラウディオは、首元の雷鎖を掴みかけた。
外したい。
砕きたい。
だが、指が触れる寸前で、輪が青白く光った。
警告。
クラウディオは手を止めた。
止めてしまった。
それをルストに見られた。
「……見るな」
「見ている」
「見るなと言っている……ッ」
声は低く、震えていた。
怒りだけではない。
屈辱だけでもない。
雷鎖の記憶が、身体に残っている。
飲まないなら発動する。
その脅しを、身体がもう覚えている。
クラウディオはそれを憎んだ。
憎みながら、認めざるを得なかった。
今、自分は皿で飲んだ。
雷鎖を避けるために。
身体の飢えに負けて。
ルストの管理の中で。
クラウディオは、静かに言った。
「灰銀」
「何だ」
「いつか、貴様が我の前で膝をつく日が来る」
「そうか」
「その時、我は杯を使わぬ」
赤い瞳が妖しく光る。
「床に置いてやる」
ルストは表情を変えなかった。
「覚えておく」
「覚えるだけで済むと思うな」
「その前に、今日は休め」
「命じるな」
「血が回るまで動くな」
「命じるなと言っている」
「動けば雷鎖を入れる」
クラウディオの身体が、ほんのわずかに止まった。
ほんのわずか。
だが、止まった。
それが答えだった。
ルストは目を逸らさない。
クラウディオは、怒りで唇を震わせた。
「……笑うな」
「笑っていない」
「その目が笑っている」
「見ているだけだ」
「見るな」
「見ておく」
クラウディオは返せなかった。
返せば、怒りが血に乗る。
雷鎖が鳴る。
脇腹の印が焼く。
それを身体が知っている。
だから、黙るしかなかった。
黙った自分が、何より許せなかった。
床に置かれた低い器は、空だった。
王は飲んだ。
また。
皿で。
それは暴走防止であり、給餌であり、罰であり、立場を覚えさせる儀式だった。
クラウディオは認めない。
絶対に認めない。
それでも、首元の雷鎖は冷たくそこにあり、脇腹の印は外套の下で沈黙し、身体には血が回っている。
低い器の血が。
王を立たせるために。




