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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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72話 手で取るな



 二日目。再び低い器は、また床にあった。


 置かれているだけで、腹立たしい。


 ただの器だ。


 血が入っているだけの、浅く低い器。


 けれどクラウディオ・ルジェリウスにとって、それは銀の刃より深く王権を裂くものだった。


 杯ではない。


 王の手に収まるものではない。


 従者が膝をつき、銀盆へ載せ、震えながら差し出すものではない。


 床に置かれた、低い器。


 犬に水を与えるような形。


 その中に、温められた血がある。


 血そのものは悪くない。


 むしろ、よく整えられている。


 飢えすぎた身体を暴れさせない濃さ。弱りすぎた血脈へすぐ巡る温度。雷鎖と灰銀印で乱れた心臓を少しずつ戻すための量。


 ルストが選んだのだろう。


 それが、なおさら不快だった。


 粗末な血なら拒める。


 腐った血なら罵れる。


 だが、血は正しい。


 器だけが屈辱だった。


 廃村の空き家の中は、雨の湿気で冷えていた。


 床板の一部は剥がれ、壁には古い手形のような汚れが残っている。かつて人間が暮らしていた場所だ。今は、吸血鬼王が管理されるための仮の餌場になっている。


 クラウディオは器を見下ろしたまま、動かなかった。


 首には雷鎖。


 外套の下、脇腹には灰銀印。


 喉には消えない牙の痕。


 ルストの痕ばかりが増えていく。


 その事実だけで、血が沸き立つ。


「飲め」


 ルストが言った。


 短い命令。


 クラウディオは笑った。


「命じるな」


「血が要る」


「我が決める」


「身体が決めている」


「我の身体を貴様が語るな」


 クラウディオは床の器から視線を外さない。


 血の匂いがする。


 喉が反応する。


 腹立たしいことに、身体は欲している。


 雷鎖で心臓を止められ、灰銀印で血脈を焼かれ、捕食衝動を叩き潰された身体は、血を必要としていた。


 それでも、認めるわけにはいかない。


 床に置かれた器へ口を近づけるなど。


 王が。


 また。


「杯を用意しろ」


「しない」


「せめて台へ置け」


「置かない」


「では我が持つ」


 クラウディオは身を屈め、器へ手を伸ばした。


 指先が縁へ触れる寸前だった。


 ルストの声が落ちる。


「何度も言わせるな。手で取るな」


 空気が止まった。


 クラウディオの指が、器の前で止まる。


 ゆっくりと、赤い瞳だけがルストへ向いた。


「……何だと」


「手で取るな」


 ルストは、同じ調子で繰り返した。


「床に置いたまま飲め」


 クラウディオの喉の奥で、怒りが低く鳴った。


「貴様」


 声が静かすぎるほど静かになる。


「今、我に向かって、手で取るなと言ったか」


「言った」


「王に、器へ手を触れるなと」


「そうだ」


「床の皿から、顔を近づけて飲めと」


「そうだ」


 即答。


 何のためらいもない。


 そのせいで、クラウディオの怒りは逃げ場を失った。


 否定されれば怒れる。


 ごまかされれば嘲れる。


 だがルストは、いつも正面から言う。


 管理する。


 飲め。


 手で取るな。


 床で飲め。


 その言葉一つ一つが、王の身体に釘を打つ。


「我は犬ではない」


「知っている」


「ならば、なぜ犬のように飲ませる」


「立場を覚えさせるためだ」


 クラウディオの目が、はっきり赤く燃えた。


「立場」


「お前は許可なく血を奪う。捕食衝動が出れば、人間を餌場の一部として見る。器を持たせれば、血を術に使う。だから手で取るな」


「我を、本当に危険個体のように……」


「そう扱っている」


「灰銀……ッ」


 殺意が血へ乗った。


 脇腹の灰銀印が熱を持つ。


 同時に、首の雷鎖が低く鳴った。


 青白い光が輪の内側を一瞬走る。


 クラウディオの身体が、反射的に強張った。


 それを自覚した瞬間、屈辱が喉を焼く。


「違う……」


 掠れた声。


「今のは、違う……」


 ルストは何も言わない。


 見ている。


 それが一番腹立たしい。


「飲め」


 また命令。


 クラウディオは、器を睨む。


 血は静かに揺れている。


 身体が欲しがる。


 喉が鳴りそうになる。


 それを抑える。


 抑えるほど、飢えが意識される。


 最悪だった。


 人間なら「意地を張るな」で済むのだろう。


 だが、吸血鬼王の意地は王権そのものだ。


 それを食欲と雷鎖で殴るな。教育方針が野蛮すぎる。


「飲まぬ」


 クラウディオは言った。


「なら雷鎖を入れる」


 ルストの返答は早かった。


 クラウディオの首元で、雷鎖がかすかに光る。


 心臓が、記憶だけで一瞬強張った。


 雷。


 停止。


 泡。


 泥。


 白目。


 獣のような絶叫。


 見られた。


 全部、見られた。


 ルストに。


 詰所の奥の者たちにも、聞かれたかもしれない。


 その記憶が身体を先に震わせる。


 クラウディオは歯を食いしばった。


「脅すか」


「そうだ」


「王を」


「そうだ」


「貴様……」


「飲め」


 クラウディオは、赤い瞳でルストを睨み続けた。


 雷鎖がもう一度、淡く鳴る。


 警告。


 本発動ではない。


 それでも、心臓の奥に冷たい手を入れられたような感覚が走る。


 クラウディオは、ゆっくり膝を折った。


 屈辱で、喉が詰まる。


 床へ近づく。


 器へ近づく。


 王の身体が、また低い位置へ落とされていく。


 手をついた。


 床は冷たい。


 古い血と雨の湿気の匂いがする。


 膝がつく。


 外套の裾が床に触れる。


 四つん這いに近い姿勢。


 クラウディオの赤い瞳は、まだルストを睨んでいた。


「見るな」


「見ている」


「見るなと言っている」


「手で取るな」


 同じ台詞。


 今度はさらに低く。


 クラウディオの指が床を掻いた。


「貴様……その言葉を、我に何度言うつもりだ」


「必要なだけ」


「必要、必要、必要……本当に貴様はつまらぬ男だな」


「飲め」


「命じるな」


「飲め、クラウディオ」


「その名を呼ぶな!」


 怒声が出る。


 雷鎖が反応しかける。


 クラウディオは息を詰めた。


 止まる。


 止まってしまう。


 それをルストが見ている。


 クラウディオは、悔しさで唇を歪めた。


「……我は、貴様に従って飲むのではない」


「そうか」


「その顔をやめろ」


「顔は変えていない」


「存在ごと腹立たしい」


 血の器が目の前にある。


 手は使えない。


 手で取るな、と命じられた。


 器を持ち上げられない。


 顔を近づけるしかない。


 その事実が、クラウディオの中の王を裂いた。


 だが、身体は飢えている。


 血が必要だ。


 雷鎖で荒れた心臓も、灰銀印で焼かれた血脈も、血を求めている。


 クラウディオは、器へ顔を近づけた。


 血の匂いが濃くなる。


 温かい。


 甘い。


 腹立たしいほど、身体に必要な匂い。


 唇が器の縁へ近づく。


 彼は寸前で止めた。


 最後の抵抗のように。


「笑うな、灰銀」


「笑っていない」


「なら目を逸らせ」


「逸らさない」


「なぜだ」


「見届けるためだ」


「我の屈辱をか」


「お前の状態を」


「同じだ!」


 雷鎖が小さく鳴る。


 クラウディオは息を詰め、怒りを噛み殺した。


 そして、舌を伸ばした。


 血へ触れる。


 一口目。


 身体がすぐ反応した。


 舌が血を掬う。


 喉が飲み込む。


 血が体内へ落ちる。


 雷鎖で乱れた心臓の拍が、わずかに整う。


 脇腹の印の熱が、ほんの少し沈む。


 楽になる。


 その事実が、許せない。


 ぴちゃ、と音がした。


 クラウディオの肩が震える。


 犬のような音。


 低い器から舌で血をすくえば、どうしても出る音。


 王の食事ではない。


 管理下の危険個体の給餌だ。


 それでも、身体は止まらない。


 もう一度、舌が動く。


 ぴちゃ。


 血を掬う。


 飲み込む。


 ぴちゃ。


 また。


 クラウディオは四つん這いのまま、低い器から血を飲み続けた。


 怒りで指先が床を掻く。


 爪が割れそうになる。


 だが、器には手を触れない。


 触れれば雷鎖が入るかもしれない。


 そう身体が覚えている。


 その事実が、さらに彼を辱めた。


「……見るな」


 血の合間に、掠れた声が漏れる。


「見るな、灰銀……ッ」


「飲め」


「命じるな……ッ」


「残すな」


 クラウディオの瞳が、器越しにルストを射る。


 血に濡れた唇。


 床へついた手。


 膝を折った姿勢。


 王としての威厳が、床の近くへ押し込められている。


 それでも、目だけは死んでいない。


「我に……残すな、だと……?」


「必要量だ」


「何度も言っている。我を管理するな……ッ」


「管理する」


「貴様……!」


 怒りが血に乗る。


 雷鎖が低く鳴る。


 クラウディオの身体が、びくりと震えた。


 その反応を自分で憎みながら、彼はまた舌を伸ばした。


 ぴちゃ。


 血が減っていく。


 器の底が見えてくる。


 身体は満ちていく。


 屈辱も、同じだけ積み上がる。


 最後の一滴を舌ですくった時、クラウディオはしばらく動かなかった。


 低い器は空になった。


 彼は、四つん這いのまま、荒い息をしていた。


 唇には血。


 顎にも血。


 赤い瞳は、怒りと屈辱で濡れているように見える。


 だが、それは涙ではない。


 断じて違う。


 クラウディオは、ゆっくり顔を上げた。


 ルストは、まだ見ていた。


 目を逸らさず。


 笑わず。


 それが、笑われるよりも腹立たしい。


「終わったか」


 ルストが言った。


 クラウディオは、低く笑った。


 血に濡れた唇で。


「灰銀」


「何だ」


「覚えておけ」


 声は掠れていた。


 だが、そこに王の芯が戻り始めている。


 血が回ったからだ。


 床の器から飲んだ血が、王の身体を立て直している。


 その事実ごと憎みながら、クラウディオは続けた。


「今の姿を、貴様が見たことを」


「見た」


「忘れるな」


「忘れない」


「なら、我も忘れぬ」


 クラウディオは、床に置いた手に力を込め、ゆっくり身体を起こした。


 膝が少し震える。


 だが立つ。


 立ってみせる。


 王として戻る。


 どれほど床へ伏せさせられても、皿で飲まされても、雷鎖で脅されても。


 最後には立つ。


 クラウディオは、外套を整えた。


 血に濡れた唇を手の甲で拭う。


 舐めない。


 味わわない。


 皿の血を、これ以上自分のものとして扱いたくなかった。


「必ず殺す」


 静かな声だった。


 怒鳴るよりも低く、深い。


「貴様だけは、必ず殺す」


 ルストは淡々と返す。


「殺意を乗せれば印が焼く」


「今は乗せぬ」


 クラウディオの赤い瞳が、妖しく細められる。


「覚えているだけだ」


「そうか」


「忘れるなと言った」


「忘れない」


「よろしい」


 その一言だけ、王の声音だった。


 冷たく整えられた、玉座の声。


 しかし、次の瞬間、首の雷鎖がかすかに鳴った。


 まるで、その王の声すら管理下にあると告げるように。


 クラウディオの表情が一瞬歪む。


 ルストは見ていた。


「見るな」


「見ている」


「見るなと言っている」


「また飲ませる」


「次はない」


「ある」


「ない」


「必要ならある」


「貴様の必要など知るか」


「お前の身体の必要だ」


 クラウディオは答えなかった。


 答えれば、また怒りが血へ乗る。


 雷鎖が鳴る。


 脇腹が焼ける。


 それを身体が知っている。


 だから黙るしかない。


 黙ったことが、また屈辱だった。


 ルストは空の器を拾い上げた。


 手で。


 クラウディオに禁じた、その手で。


 クラウディオの目が細くなる。


「我には手で取るなと言ったな」


「ああ」


「自分は取るのか」


「俺は飲まない」


「いつか飲ませる」


「やれるなら」


「本当にその返答しかできぬのか」


「便利だ」


「腹立たしい」


 ルストは器を片づけた。


 床には、器の跡だけが残っている。


 クラウディオはそれを見ない。


 見れば、今の姿を思い出す。


 四つん這いで、犬のように舌を使い、低い器から血を飲み干した姿を。


 だが、見なくても忘れない。


 忘れるはずがない。


 王は、屈辱を忘れない。


 嘲った顔も。


 刻まれた痕も。


 床に置かれた器も。


 手で取るなという命令も。


 すべて、覚える。


 返すために。


 必ず。


 クラウディオは、ルストを見た。


 赤い瞳はもう揺れていない。


「灰銀」


「何だ」


「我が王として戻った時、最初に殺すのは貴様だ」


 ルストは、少しも揺れなかった。


「今も王だろう」


 クラウディオの表情が止まる。


 ルストは続けた。


「皿で飲んでも、雷鎖をつけても、印があっても、お前は自分を王だと言う」


「当然だ」


「なら、戻る必要はない」


 クラウディオは、低く笑った。


 美しく、危険な笑みだった。


「違うな」


「何が」


「今の我は、貴様の管理下にいる王だ」


 その言葉を口にするだけで、喉が焼けるようだった。


 認めたくない。


 だが、言葉として利用する。


 「我が言う『戻る』とは、貴様の痕も、印も、鎖も、器も、すべて踏み砕いた後のことだ」


 赤い瞳が燃える。


「その時、貴様は我の足元で、今日の意味を知る」


 ルストは、静かに見返した。


「その時まで、生きていろ」


「命じるな」


「死なせない」


「それも腹立たしい」


「知っている」


 沈黙が落ちる。


 低い器はもうない。


 だが、床にはまだ屈辱の形が残っている。


 クラウディオは立っていた。


 床から顔を上げ、血を飲み終え、王の声を取り戻そうとしている。


 ルストは、それを見ていた。


 目を逸らさない。


 クラウディオは、その視線を憎んだ。


 そして同時に、覚えた。


 いつか必ず殺すために。


 皿で飲む王は、まだ王だった。


 だが、その王は今、低い器の血で立っている。


 それが、何より深い屈辱だった。


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