村は、すでに死んでいた。
家々の扉は開いたまま、雨に濡れて軋んでいる。窓の板は外れ、馬小屋は潰れ、井戸の縁には黒ずんだ手形が残っていた。
火は消えている。
煙もない。
だが、焦げた木の匂いと、血の匂いだけが村の底に沈んでいた。
人間の村だった。
外縁北路のさらに奥、地図から半分消えかけた集落。街道の整備からも外れ、教会区の鐘も届かず、夜になれば野良吸血鬼や崩れ種が気まぐれに通る場所。
ルストはその村へ、クラウディオを連れてきた。
同行。
管理。
監視。
どの言葉を使っても、クラウディオには不快だった。
喉には牙の痕がある。
首には雷鎖。
外套の下、脇腹には灰銀印。
そして体内には、まだ薄くルストの血の味が残っている。
それらすべてが、クラウディオの身体へ灰銀の存在を刻みつけていた。
認めるものか。
そう思うたびに、首元の雷鎖が冷たく鳴る気がした。
クラウディオは、壊れた門の前で立ち止まった。
血の匂いが濃い。
古い。
だが、完全には死んでいない。
地面に染みた血。
壁に飛んだ血。
倒れた桶の底に残った血。
そして、まだどこかに生きている人間の血。
雨で薄まり、土で濁り、恐怖で酸っぱくなっている。
それでも、血だった。
クラウディオの喉が、かすかに動いた。
ルストが横から見た。
「反応したな」
「していない」
クラウディオは即答した。
赤い瞳は村の奥を見ている。
「ここはもう終わっている」
「一人は生きている」
「分かるのか」
「聞こえる」
ルストは村の奥へ視線を向ける。
クラウディオも同じ方向を見た。
聞こえる。
確かに。
細い呼吸。
家屋の奥、倒れた梁の下か、地下貯蔵庫か。
人間の鼓動がある。
弱い。
おそらく、子どもではない。老人でもない。若い女か、痩せた男か。ひどく怯えている。
血が薄く早く流れている。
逃げ損ねた血。
夜を越え、朝を待ち、それでも見つからず、恐怖で熟した血。
クラウディオの唇が、ゆっくりと歪んだ。
「まだ残っていたか」
ルストの声が低くなる。
「近づくな」
「命じるな」
「血を奪うな」
「貴様に決められることではない」
「俺が決める」
クラウディオは小さく笑った。
「何度聞いても不愉快な言い方だ」
「何度でも言う」
「我の餌場に口を出すな」
その言葉に、ルストの目がわずかに冷える。
「餌場?」
「そうだ」
クラウディオは、死んだ村を見渡した。
壊れた柵。
血に濡れた土。
折れた荷車。
誰かが逃げようとして爪を立てた扉。
人間の暮らしだったもの。
そして、夜に喰われたもの。
「弱い村だ。守りも薄い。鐘も遠い。壁も低い。逃げ道もない。ここは初めから、牙を持つ者に喰われる場所だった」
「だから餌場か」
「違うか?」
「違う」
「違わぬ」
クラウディオは、赤い瞳でルストを見た。
「人間は、自分たちの村に名をつける。家族だの、暮らしだの、畑だの、祈りだの。だが夜が来れば、すべて血の匂いになる。残るのは喉と肉と恐怖だけだ」
雨に濡れた風が、クラウディオの黒髪を揺らす。
「ここは王の餌場だ」
「違う」
「灰銀」
クラウディオは甘く笑った。
「貴様は毎回、同じことを言うな。弱い者を守る。喰わせない。当然にしない。だが見ろ。ここはもう喰われた。貴様が来る前に。貴様の綺麗事が届く前に。夜はとっくに、人間どもを皿へ盛った」
「だから残った一人を助ける」
「一人助けて何になる」
「次の朝がある」
「またそれか」
クラウディオの声が冷える。
「朝など、夜の餌を薄く照らすだけだ」
彼は歩き出した。
村の奥へ。
生き残りの鼓動がある方へ。
ルストがすぐに横へ来る。
「止まれ」
「嫌だ」
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな」
「止まれ」
「我は、血を見に行くだけだ」
「奪う気だろう」
「王が餌場で何をすると思う」
その瞬間、脇腹の灰銀印が熱を持った。
警告。
捕食衝動が血へ乗った。
クラウディオの足が一瞬止まる。
止めたくて止めたのではない。
身体の奥に灰銀の楔が食い込んだからだ。
屈辱で、彼の顔が歪む。
「……またか」
ルストが言う。
「印が拾っている」
「黙れ」
「もう血に乗っている」
「我の血だ」
「だから止める」
「貴様が決めるな!」
怒声。
雷鎖が首元で低く鳴った。
クラウディオの瞳が一瞬だけ見開かれる。
ルストは動いていない。
触れてもいない。
だが、雷鎖は反応している。
脇腹の印と繋がり、捕食衝動を拾ったのだ。
「灰銀……」
クラウディオの声が低くなる。
「これを外せ」
「外さない」
「今すぐ外せ」
「外さない」
「王に首輪をつけたまま歩かせるつもりか」
「必要なら」
「貴様ァ……!」
血が跳ねる。
殺意が乗る。
雷鎖が光った。
青白い魔導雷が、首元の輪の内側を走る。
クラウディオは反射的に血術で弾こうとした。
その瞬間、灰銀印も同時に発動した。
脇腹が焼ける。
首元から心臓へ雷が落ちる。
「ぎ、ぃいいいいッ!!」
クラウディオの身体が大きく跳ねた。
心臓が止まる。
一瞬。
だが、確かに。
血が止まり、視界が白く弾け、次の拍で無理やり戻される。
どくん。
「が、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
獣のような絶叫が、廃村に響いた。
鳥が一斉に飛び立つ。
壊れた家屋の窓が、雷鎖の光を反射する。
クラウディオの背が弓なりに反り、足が泥を蹴る。指先が硬直し、黒い外套が乱れ、白い喉が雨の下へ晒された。
雷鎖が、さらに光る。
脇腹の印が呼応する。
喉の牙痕まで熱を持つ。
三つが繋がる。
喉。
脇腹。
首。
王の身体に刻まれた灰銀の制御が、一斉にクラウディオを叩いた。
「やめ……ッ、違う、今のは……ッ!」
言葉が出た瞬間、クラウディオ自身が怒りで目を見開いた。
やめ。
また言った。
王が。
灰銀に。
「違う……今のは違う……!」
ルストは見ている。
目を逸らさない。
クラウディオは、その視線にさらに血を荒らす。
「見るな……ッ、見るなと言っているだろうが……ッ!」
雷鎖が再び鳴る。
心臓へ、短い雷が走った。
「あがああああああッ!!」
身体が地面へ落ちる。
だが完全には倒れない。
魔導鎖が首元から伸び、血脈を吊るようにクラウディオの身体を半ば支えた。
惨めな姿勢だった。
膝は泥についている。
片手は地面を掻いている。
背は不自然に反り、首は雷鎖に引かれている。
クラウディオの口から、泡混じりの息が漏れた。
「ひゅ、ぁ……ッ、声が……俺の、声が……ッ」
言ってから、また気づく。
俺。
クラウディオの赤い瞳が揺れる。
「違う……!」
彼は息を乱しながら叫んだ。
「違う! 我は……我は……ッ」
王の一人称へ戻そうとした瞬間、血が強く動いた。
雷鎖と灰銀印が、それを過剰反応として拾う。
今までよりも強い雷が落ちた。
「ガ、ァアアアアアアアッ!!」
獣の咆哮。
美しい王の声ではなかった。
壊れた喉から絞り出される、濁った絶叫。
クラウディオの瞳が充血する。
赤い瞳の周りに、血の細い筋が走る。
瞳孔が大きく開く。
焦点が合わない。
それでも、怒りだけは消えない。
心臓が止まる。
一拍。
戻る。
また止まる。
戻る。
そのたびに身体が大きく跳ねた。
びくん、と。
びくん、びくん、と。
地面の泥が跳ね、雨水と混ざる。
足が勝手に地面を蹴り、腰が痙攣し、指先が泥を掻き裂く。
下腹の力が完全に抜けた。
濡れた衣に、別の熱が広がる。
それが雨と泥へ混ざり、クラウディオの周囲に惨めな湿りを作った。
彼はそれを理解した。
理解してしまった。
「見るな……ッ!」
声が裂ける。
「見るな、灰銀……ッ! 見るなァッ!!」
「見ている」
ルストの声は低い。
「反応を見ている」
「見るなと言っている……!」
「捕食衝動が出ている」
「我の……俺の、勝手だ……ッ!」
また。
俺。
今度は自分で戻せなかった。
雷鎖の残響が心臓を殴り、灰銀印が脇腹から王血を押さえ、喉の牙痕がルストの声に熱を持っている。
王の言葉を作る余裕がない。
「俺の餌だ……俺が……ッ」
クラウディオはそこで息を呑んだ。
自分の声を聞いた。
俺。
俺の餌。
王の宣言ではない。
剥き出しの捕食者の声だった。
ルストの目が、わずかに細くなる。
「剥がれている」
低い声。
クラウディオの顔が怒りで歪む。
「黙れ……ッ!」
「王の声じゃない」
「黙れと言っている!」
「餌場と言ったな」
ルストは続ける。
「人間を餌だと言った。だから打つ」
「貴様が……ッ、貴様が我を、こんな……ッ!」
「お前が血を奪おうとした」
「当然だろうが!」
雷。
今度は長かった。
首元から心臓へ流れ込み、心臓を止め、戻し、また止める。
クラウディオの身体が、廃村の泥の上で激しくのたうった。
獣のように。
高貴さも、優雅さも、王の静けさもなく。
痛みに背を反らせ、泥を掻き、泡を吹き、舌を垂らし、開いた瞳孔のまま空を見上げる。
口から白い泡が溢れた。
雨で薄まり、顎を伝い、喉の牙痕へ流れる。
クラウディオは、それでもルストを睨もうとした。
見えない。
視界が赤と白で滲む。
充血した目は痛みで熱く、瞳孔は開ききり、焦点が合わない。
それでも、怒りだけで顔を向ける。
「殺す……ッ」
掠れた声。
「貴様だけは……必ず……ッ」
雷鎖が、その殺意を拾う。
「あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
絶叫が途切れた。
心臓が止まる。
戻る。
また止まる。
クラウディオは、もう声を形にできなかった。
喉から出るのは、泡混じりの息と、獣じみた濁った呻きだけ。
身体は勝手に跳ね続ける。
びくん。
びくん。
泥の上で、王の身体が制御を失って暴れる。
そのたびに、衣から雨水と屈辱の熱が散り、泥へ混ざる。
ルストは近づいた。
クラウディオのすぐ前に膝をつく。
雷鎖へ手をかける。
だが、止めない。
まだ。
「クラウディオ」
名を呼ぶ。
クラウディオの瞳が、白く揺れたままわずかに動く。
「その……名を……」
声にならない。
舌がうまく動かない。
垂れた舌を戻す力もない。
「呼ぶ、な……」
「王の餌場ではない」
ルストが言った。
「ここは人間の村だ」
クラウディオの唇が震える。
笑おうとしたのか。
罵ろうとしたのか。
もう形にならない。
「残った一人は喰わせない」
雷鎖が、最後に強く光った。
灰銀印も同時に脈打つ。
クラウディオの心臓が、深く沈む。
止まる。
戻る。
その戻り方が、あまりにも乱暴だった。
「――ッ!!」
声にならない絶叫。
身体が大きく反り、首が仰け反り、開ききった瞳孔が空を見た。
大量の泡が口元から溢れる。
指先が硬直し、足が泥を蹴る。
次の瞬間、全身から力が抜けた。
雷鎖の光が細くなる。
灰銀印の熱が沈んでいく。
クラウディオは泥の上へ崩れ落ちた。
舌が力なく垂れ、白く泡立った息が口の端に残っている。
瞳は充血し、瞳孔は開いたまま、焦点を失っていた。
衣は雨と泥と体液でぐっしょりと乱れている。
美しい吸血鬼王。
今代の王。
王血稀血。
そのすべての名を持つ男が、廃れた村の泥の上で、雷鎖と灰銀印に打ち据えられて意識を失っていた。
ルストは、目を逸らさなかった。
クラウディオが餌場と呼んだ村を見た。
倒れた家々。
血の染みた土。
そして、まだ村の奥に残る人間の弱い鼓動。
次に、泥に伏せたクラウディオを見た。
「ここは、お前の餌場じゃない」
低く言う。
クラウディオには聞こえていない。
だが、雷鎖はまだ首にある。
灰銀印はまだ脇腹にある。
ルストの血は、まだ体内に残っている。
言葉が届かなくても、制御は残る。
ルストは、雷鎖の光を完全に沈めた。
クラウディオの心臓は、ゆっくり拍を取り戻している。
止まりすぎた。
打たれすぎた。
それでも、死なせない。
死なせるための罰ではない。
捕食衝動を止めるための制御だ。
ルストは、クラウディオの濡れた髪を一度だけ見下ろした。
それから、村の奥へ視線を向ける。
残った人間を助けに行くために。
背後では、泥の中でクラウディオがかすかに息をしていた。
白目を剥き、泡を残し、舌を垂らしたまま。
だが、その意識の底のさらに奥で、まだ赤い怒りが燃えている。
灰銀。
そう吐き捨てるためだけに。
まだ、名は呼ばない。
まだ、屈服していない。
王の餌場だと言った村で、王は雷鎖に沈められた。
それでも、王はまだ死んでいない。
そして、飢えもまた、完全には死んでいなかった。




