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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第69話 笑うな、灰銀


 雨音が、遠く聞こえていた。


 最初に戻ってきた感覚は、冷たさだった。


 頬に触れる泥。


 濡れた外套の重み。


 首元に嵌められた雷鎖の冷たい輪。


 喉の奥に残る、泡と血の味。


 それから、屈辱。


 クラウディオ・ルジェリウスは、ゆっくり目を開けた。


 視界はまだ白く濁っていた。


 雨が降っている。


 狩人詰所の軒下。泥に濡れた地面。自分の指先が、その泥を掻いた跡。乱れた黒い外套。濡れた衣。心臓の奥に残る、雷で叩かれたような痙攣の余韻。


 そして、目の前に立つ灰銀の男。


 ルスト・ヴァルレイン。


 鋼色の瞳が、こちらを見ていた。


 逸らさずに。


 ただ、見ていた。


 その視線に、クラウディオの内側で怒りが目を覚ました。


 見られた。


 雷鎖で心臓を止められ、身体を跳ねさせ、白目を剥き、泡を吹き、雨と泥と屈辱に濡れた姿を。


 見られていた。


 ルストは笑っていない。


 分かっている。


 だが、その目が笑いよりも酷かった。


 欲望ではない。


 嘲笑ですらない。


 観察。


 王がどこで崩れるかを見ている目。


 どの雷量で心臓が止まり、どの拍で戻り、どれほどの屈辱を受けてもなお憎悪が残るかを測る目。


 その冷静さが、クラウディオには嘲笑より深く刺さった。


「……笑うな」


 掠れた声が漏れた。


 ルストは答えない。


 クラウディオは泥に爪を立て、身体を起こそうとした。


 腕が震える。


 雷鎖の残響で、筋肉がまだ自分のものではないように引き攣る。


 脇腹の灰銀印も熱を持っていた。


 首元の雷鎖と、脇腹の印。


 その二つが、王の身体を挟むように沈黙している。


 沈黙しているのに、消えていない。


 いつでも打つ、とでも言うように。


「笑うな……灰銀……ッ」


 クラウディオは、もう一度言った。


 ルストは低く返す。


「笑っていない」


「嘘をつけ」


「笑っていない」


「なら、その目をやめろ……!」


 クラウディオの声が荒れた。


 その瞬間、脇腹の印がじわりと熱を持つ。


 怒りが血へ乗ったからだ。


 クラウディオは歯を食いしばった。


 だが、もう遅い。


 首元の雷鎖が、灰銀印の反応を拾った。


 細い青白い光が、輪の内側を走る。


 クラウディオの瞳が見開かれた。


「待……」


 雷が落ちた。


 首から心臓へ。


 喉の牙痕から脇腹の印へ。


 そして、心臓の奥へ。


「ぎ、ぃいいいいいいいいッ!!」


 絶叫が、雨を裂いた。


 先ほどの雷鎖とは比べ物にならなかった。


 雷鎖だけではない。


 脇腹の灰銀印も同時に発動している。


 首元から流れ込む魔導雷が心臓を叩き、脇腹の印が王血の逃げ道を塞ぐ。喉の牙痕が熱を持ち、あの時ルストに噛まれた場所まで雷の痛みを思い出す。


 三つの痕が、一斉にクラウディオを内側から縛った。


 喉。


 脇腹。


 心臓。


 全部が灰銀の制御に繋がる。


「が、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


 クラウディオの背が大きく反った。


 泥に伏せていた身体が、弓のように跳ねる。


 首元の雷鎖が青白く光り、魔導鎖が雨の中で震えた。人間なら一瞬で焼け焦げる雷が、吸血鬼王の血脈だけを正確に打ち据える。


 心臓が止まった。


 ほんの一瞬。


 だが、その一瞬が永遠のように長かった。


 視界が白く切れる。


 声が消える。


 血が止まる。


 次の拍で、無理やり戻される。


 どくん。


「ぁ、が……ッ、ああああああッ!!」


 悲鳴が濁った。


 美しい声ではない。


 王が臣下へ命じる声ではない。


 獣の喉を雷で裂いたような、低く濁った咆哮だった。


 クラウディオの指先が泥を掻く。


 爪の間に土が入り、手首が痙攣する。


 膝が跳ね、腰が震え、濡れた衣が肌に貼りつく。


 下腹の力が抜けた。


 また、身体の制御が崩れる。


 温かい感覚が濡れた衣へ広がり、雨の冷たさと混ざった。


 クラウディオの目が、屈辱で見開かれる。


「見るな……ッ!」


 叫びは、悲鳴に近かった。


「見るな、見るなと言っているだろうがァッ!!」


 ルストは目を逸らさない。


 クラウディオの無様な姿から。


 泥に濡れ、泡を吹き、身体を跳ねさせ、首元の雷鎖と脇腹の印に打たれる吸血鬼王から。


 逸らさない。


 そのことが、雷よりも深くクラウディオを焼いた。


「貴様……ッ、貴様、何を見て……!」


 言葉の途中で、また雷が走った。


 今度は短く、鋭い。


 喉の奥から心臓を貫き、脇腹の印へ落ちる。


「ぎゃ、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


 声が割れた。


 クラウディオの瞳が上へ滑る。


 白目が覗く。


 唇が開き、泡混じりの息が溢れる。


 舌が力なく覗いた。


 それでも彼は、泥に額を打ちつけるようにしながら、ルストを睨もうとした。


 焦点は合わない。


 だが怒りだけは残っている。


「笑うな……灰銀……ッ」


「笑っていない」


「笑っている……!」


「見ている」


「見るなァッ!!」


 怒りがまた血へ乗る。


 灰銀印がそれを拾う。


 雷鎖が応じる。


 今度は、首元の輪から脇腹の印まで、一直線に魔導雷が走った。


 クラウディオの身体が、床から跳ね上がるほど反った。


「――ッ!!」


 声が出なかった。


 口だけが大きく開く。


 心臓が止まる。


 一拍。


 二拍。


 戻らない。


 クラウディオの目が完全に白く剥ける。


 その瞬間、雷鎖が心臓を叩き起こした。


 どくん。


「ガ、ァアアアアアアアアアッ!!」


 それはもう、悲鳴ではなかった。


 獣の咆哮。


 血脈を灼かれ、王権を握り潰され、心臓を止められた吸血鬼王の喉から出た、濁った絶叫だった。


 狩人詰所の扉の奥で、誰かが息を呑む気配がした。


 ティボルトか。


 他のハンターか。


 クラウディオにはもう分からない。


 ただ、聞かれている。


 見られているかもしれない。


 自分のこの姿が。


 首輪のような雷鎖に打たれ、脇腹の印に焼かれ、雨と泥に崩れている姿が。


 その想像だけで、クラウディオの血は怒りで荒れた。


 そして、荒れた瞬間にまた打たれる。


「ぐ、あ゛あ゛あ゛ッ、やめ……ッ」


 言ってしまった。


 やめ。


 その言葉が、自分の口から出た。


 クラウディオの瞳に、痛みとは別の衝撃が走る。


「違う……」


 泡混じりの息の中で、彼は必死に吐いた。


「今のは……違う……ッ」


 ルストが近づく。


 泥に膝をつく。


 雷鎖の輪へ手を添え、クラウディオの顎をわずかに上げた。


 逃げようとした。


 だが、首元の輪が血脈の奥で低く鳴る。


「ぐ、ッ……!」


 クラウディオの身体が強張る。


 ルストの顔が近い。


 耳元へ。


 雨音の中で、灰銀の男は低く囁いた。


「剥がれてきたな」


 クラウディオの身体が、雷とは別の理由で硬直した。


「……何を」


「王の声が」


 嘲笑ではなかった。


 楽しげでもなかった。


 ただ、確認するような声だった。


 だからこそ、酷かった。


「黙れ……」


「今のは、我ではなかった」


「黙れと言っている……ッ」


「やめろ、と言った」


 クラウディオの赤い瞳が、白く揺れながらも怒りを燃やす。


「違う……!」


「剥がれている」


「違う!」


 声に怒りが乗る。


 雷鎖が低く鳴った。


 クラウディオの身体がびくんと跳ねる。


「ぎ、ッ……!」


 歯を食いしばる。


 だが、次の言葉が勝手に漏れた。


「俺を……見るな……ッ」


 俺。


 言ってしまった。


 クラウディオの瞳が見開かれる。


 王の一人称ではない。


 玉座の上で使う言葉ではない。


 臣下を処断する時の、冷たく整えられた「我」ではない。


 痛みと屈辱と怒りで仮面が剥がれた奥から出た、クラウディオ本人の声だった。


 ルストは、何も言わなかった。


 その沈黙が、最悪だった。


 言い訳を許さない。


 聞き逃してもくれない。


 忘れてもくれない。


 クラウディオは泡混じりの息を吐きながら、必死に声を絞る。


「違う……今のは……違う……!」


 ルストの指が、喉の牙痕へ近づく。


 触れるか触れないかの距離。


 クラウディオの身体が反射で震える。


「なら、もう一度言え」


 ルストの声。


「王の声で」


 クラウディオは睨んだ。


 睨んだまま、言おうとした。


 我を。


 そう言うはずだった。


 我を見るな。


 我に命じるな。


 我を辱めるな。


 だが、雷鎖の残響が心臓を握っている。


 灰銀印が脇腹から血脈を押さえている。


 喉の痕がルストの声に熱を持っている。


 そして、体内にはまだ、灰銀の血の味が残っている。


 喉が震えた。


 言葉が崩れる。


「……俺に、命じるな……」


 また、漏れた。


 クラウディオはその瞬間、自分の舌を噛み千切りたくなった。


 ルストの瞳が、わずかに細くなる。


「剥がれている」


「違う……!」


「クラウディオ」


「その名を……呼ぶな……ッ」


「見ている」


「見るな……俺を……見るな……!」


 三度目。


 もう、取り繕えなかった。


 俺。


 俺。


 俺。


 王の声が剥がれていく。


 クラウディオの顔が、屈辱と怒りで歪む。


 涙ではない。


 雨だ。


 顔を濡らすのは雨であって、涙ではない。


 そう思いたかった。


 だが、視界は滲んでいた。


 ルストは目を逸らさない。


 クラウディオの無様な姿から。


 雷鎖に打たれ、脇腹の印に焼かれ、失禁し、泡を吹き、白目を剥きかけ、泥に濡れて崩れた姿から。


 逸らさない。


 それが嘲笑より深く刺さる。


「なぜ……見る……ッ」


 クラウディオの声はもう掠れていた。


「なぜ、目を逸らさない……」


 ルストは答えた。


「逸らしたら、お前が壊れるところを見落とす」


「我は……壊れぬ……」


 言い直した。


 必死に。


 我。


 王の一人称。


 まだ戻せる。


 まだ。


 「我は、壊れぬ……ッ」


 だが、言った瞬間、雷鎖がまた反応した。


 王の声へ戻そうとした血の力が、首元で跳ねたのだ。


 脇腹の印も同時に焼ける。


「ぎ、ああああああああッ!!」


 今までで一番深い雷だった。


 心臓が止まる。


 長い。


 白い。


 何も聞こえない。


 次の瞬間、強制的に叩き起こされる。


 クラウディオの身体が、泥の上で激しく跳ねた。


 背が反る。


 首が仰け反る。


 口から大量の泡混じりの息が溢れ、白い喉が震える。


 瞳が完全に上へ滑り、白目が剥き出しになる。


 指先が硬直し、足が痙攣し、身体全体が制御不能の獣のように暴れた。


 もう悲鳴は形を保たない。


「ガ、ァアアアアアッ!! あ゛、が、あ゛あ゛あ゛ッ!!」


 獣。


 それは本当に、獣のようだった。


 美しい吸血鬼王の喉から出ているとは思えない声。


 雷鎖と灰銀印に血脈を殴られ、王の仮面を剥がされ、心臓を止められ続けた身体の咆哮。


 ルストは、そのすべてを見ていた。


 眉ひとつ動かさず。


 ただし、目は逸らさない。


 逸らさないことそのものが、彼の手だった。


 クラウディオの無様も。


 怒りも。


 「俺」が漏れた瞬間も。


 王の声へ戻ろうとして失敗した瞬間も。


 全部を見ていた。


 それが、クラウディオの意識の底へ刻まれる。


 最後の雷が落ちた。


 短く、重い。


 心臓が止まり、戻る。


 その拍動を最後に、クラウディオの身体から力が抜けた。


 首元の雷鎖が淡く光を失う。


 脇腹の印も、熱を残したまま沈黙する。


 クラウディオは泥の上へ崩れ落ちた。


 白目を剥いたまま。


 口の端から泡を零し、舌を力なく覗かせ、濡れた衣と泥にまみれたまま。


 意識は白く遠のいていた。


 それでも、唇がかすかに動く。


「……はい、ぎん……」


 名ではない。


 まだ、名ではない。


 灰銀。


 それだけ。


 ルストは、膝をついたままクラウディオを見ていた。


 雨が二人を濡らす。


 詰所の扉の向こうには、息を殺す気配がある。


 だが、ルストは振り返らない。


 クラウディオから目を逸らさない。


 無様な姿からも。


 壊れかけた王の顔からも。


 雷に焼かれ、印に縛られ、それでも灰銀と吐き捨てた口からも。


 逸らさない。


「まだ呼ばないか」


 低い声だった。


 クラウディオには、もう聞こえていない。


 それでも、ルストは言う。


「なら、まだ壊れていないな」


 雷鎖の光が完全に沈む。


 雨だけが残る。


 クラウディオは気絶していた。


 今までの比ではないほどの絶叫の果てに。


 獣のように咆哮し、王の声を剥がされ、俺と漏らし、それでも最後に灰銀と吐き捨てたまま。


 ルストは、泥と雨に沈んだ吸血鬼王を見下ろした。


 そして、静かに外套を脱ぎ、その身体へかけた。


 隠すためではない。


 憐れむためでもない。


 ただ、これ以上体温を落とさせないために。


 クラウディオが目覚めれば、また怒るだろう。


 見るなと叫ぶ。


 笑うなと罵る。


 灰銀と吐き捨てる。


 その時も、ルストは目を逸らさない。


 この王がどれほど無様に崩れても。


 まだ折れていない限り。


 そして折れたとしても。


 見届けると決めた者の目で。


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