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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第63話 混ぜられた血

器の血は、いつも通り床に置かれた。


 低い器。


 浅く、広く、手に取るためではなく床に置くための形。


 王の手へ捧げられる杯ではない。血杯管理官の震える手も、銀盆も、王城の黒石の床もない。


 ただ、古い小屋の石床に置かれた器。


 その中に、血があった。


 クラウディオ・ルジェリウスは、それを見下ろしていた。


 喉には消えない牙の痕。


 脇腹には灰銀印。


 どちらも外套の下に隠しきれないほど、彼の身体の内側へ存在を主張している。


 この器の前に立つたび、クラウディオの怒りは同じ場所へ戻った。


 床。


 皿。


 犬のようだ。


 ルストの声。


 四つん這いで血を飲んだ自分。


 舌を使い、音を立て、身体の渇きに負けて血を飲み干した自分。


 思い出すだけで、脇腹の灰銀印が熱を持つような気がした。


 ルストは器を置いた後、壁際へ下がった。


 いつもと同じだった。


 刃を抜かない。


 急かさない。


 だが逃がさない。


 その視線だけで、クラウディオは自分が管理されていると分かる。


 分かることが屈辱だった。


「飲め」


 ルストが言った。


 短い命令。


 クラウディオは赤い瞳を細める。


「命じるな」


「血が要る」


「我が決める」


「身体はもう決めている」


「我の身体を貴様が語るな」


 クラウディオは床の器を睨んだ。


 血の色は、いつもよりほんの少しだけ深かった。


 気のせいか。


 表面の光が鈍い。


 雨の前だからか。


 小屋の空気が湿っているせいか。


 いや、違う。


 香りが、わずかに違う。


 クラウディオは目を細めた。


 人間の血が基調だ。


 温度も悪くない。


 濃さも調整されている。


 だが、その奥に何かがある。


 ひどく薄い。


 気づかなければ見落とす程度のもの。


 だが、王血はそれを拾った。


 灰色のような匂い。


 銀のような冷たさ。


 血なのに、血ではないような、古い夜の底の気配。


 クラウディオはルストを見た。


「何を混ぜた」


 ルストは答えない。


 ほんの一瞬、沈黙が落ちた。


 クラウディオの眉が動く。


「答えろ、灰銀」


「飲め」


「答えろと言っている」


「飲めば分かる」


 その返答で、クラウディオの瞳が禍々しい赤へ染まった。


「貴様……」


 血術が指先へ走りかける。


 器を割る。


 血を弾く。


 中身を調べる。


 そう思った瞬間、脇腹の灰銀印がじわりと熱を持った。


 クラウディオは歯を食いしばる。


 まただ。


 自分の前に置かれた血を調べることすら、血術を使えば印が反応する。


 奪うためではない。


 殺すためでもない。


 それでも、ルストが管理する血へ勝手に手を伸ばすことを、印は許さない。


 最悪だった。


「その印で、我に毒でも飲ませるつもりか」


 クラウディオは低く言った。


 ルストは静かに返す。


「毒なら、とっくに分かるだろう」


「混ぜたことは否定しないか」


「飲め」


「貴様の返答は毎回不愉快だな」


「よく言われる」


「我にしか言われていないだろう」


「今のところは」


「今後も我だけだ」


 言ってから、クラウディオは自分で眉を歪めた。


 なぜそう返した。


 まるで、自分だけがこの男へ言葉を投げる立場であるような言い方だった。


 腹立たしい。


 自分の口まで勝手に乱される。


 ルストは何も言わない。


 それがさらに腹立たしい。


 クラウディオは床の器へ視線を戻した。


 血は静かに揺れている。


 匂いが、やはり違う。


 人間の血の奥に、別の血が混じっている。


 ほんの少し。


 一滴にも満たないほどかもしれない。


 だが、王血には分かる。


 それがただの混入でないことも。


 古い。


 ありえないほど古い。


 喉の牙痕が熱を持った。


 その熱に、クラウディオは無意識に首筋へ触れかけ、途中で止めた。


 触れるな。


 見られる。


 知られる。


 そう思った時には遅かった。


 ルストは見ていた。


「痕が反応したな」


「していない」


「した」


「黙れ」


「飲め」


「貴様……ッ」


 クラウディオは床の器を見下ろした。


 飲まない。


 そう言うのは簡単だった。


 だが、身体は血を必要としている。


 前回から時間が空いている。


 外縁の移動、崩れ種との遭遇、灰銀印の痛み、怒りを抑え込む疲労。


 王血は深い。


 深い分だけ、空腹も底がない。


 飲めば楽になる。


 それを身体が知っている。


 それが屈辱だった。


 しかも、今日は何かが混ざっている。


 飲むべきではない。


 そう思う。


 同時に、その混じった血の奥から、奇妙な引力があった。


 不快だ。


 だが、目を逸らせない。


 血が呼ぶ。


 知らないはずの何かが、自分の血の奥を叩く。


 クラウディオは低く笑った。


「よほど我を飼い慣らしたいらしい」


「飼い慣らすには向いていない」


「ならなぜ混ぜた」


「確認だ」


「また確認か」


 クラウディオの声が冷える。


「貴様は、我の身体をどこまで試せば気が済む」


「必要なだけ」


「王を実験体扱いするな」


「危険個体だからな」


「その言葉をやめろ!」


 怒声。


 灰銀印が熱を持つ。


 クラウディオは息を詰めた。


 膝はつかない。


 絶対に。


 ルストはそれを見ている。


「怒ると印が反応する」


「知っている!」


「なら怒るな」


「貴様が怒らせるからだ!」


「飲め」


 また戻る。


 血へ。


 床の器へ。


 クラウディオは、しばらく動かなかった。


 拒絶すればするほど、血の匂いが濃くなる。


 身体がそれを意識する。


 脇腹の印は静かになった。


 しかし、喉の痕は熱いままだ。


 器の中の何かが、それを呼んでいる。


 クラウディオは、赤い瞳でルストを睨んだ。


「これを飲んで何かあれば、貴様を殺す」


「殺意を乗せれば印が焼く」


「なら印ごと殺す」


「できるなら」


「その返答も聞き飽きた」


「なら飲め」


 クラウディオは歯を食いしばった。


 そして、膝を曲げた。


 まただ。


 床へ近づく。


 手を石床へつく。


 四つん這いに近い姿勢。


 屈辱が全身を走る。


 それでも、もう身体はその姿勢を覚えてしまっている。


 それが最も許せない。


 床の器へ顔を近づける。


 血の香りが濃くなる。


 人間の血。


 その奥の、別の血。


 灰銀。


 冷たい。


 古い。


 重い。


 クラウディオは動きを止めた。


「本当に、何を混ぜた」


 低い声。


 ルストは答えた。


「少しだ」


「何を、と聞いている」


「飲め」


「灰銀」


「飲め、クラウディオ」


「その名を呼ぶな」


 クラウディオはルストを睨みながら、舌を伸ばした。


 血に触れる。


 その瞬間だった。


 脈が、軋んだ。


 比喩ではなかった。


 クラウディオの血脈が、内側でぎしりと音を立てたような感覚が走った。


「……ッ」


 彼の舌が止まる。


 血は舌の上にある。


 ほんの少し。


 人間の血の温さ。


 その奥に、別の味。


 鉄ではない。


 銀でもない。


 夜の底で眠っていた古い棺の蓋を開けたような味。


 血なのに、血を従わせる血。


 甘さはない。


 むしろ苦い。


 だが、重い。


 王血が、それに反応した。


 喉の牙痕が熱を持つ。


 脇腹の灰銀印も、わずかに脈打つ。


 クラウディオの背筋に、冷たいものが走った。


 この感覚。


 あの夜に似ている。


 ルストの牙が首筋へ沈み、大量に血を啜った夜。


 血を奪われているはずなのに、自分の王血が上から押さえ込まれるような、ありえない感覚。


 その欠片が、器の血の中にあった。


 クラウディオは、ゆっくり顔を上げた。


 唇に血がついている。


 赤い瞳が、ルストを射る。


「貴様の血か」


 ルストは答えない。


 沈黙。


 それだけで、答えに近かった。


 クラウディオの瞳がさらに赤くなる。


「我に、貴様の血を飲ませたのか」


「混ぜただけだ」


「答えたな」


「少しだ」


「量の問題ではない!」


 怒声。


 しかし、血が口の中にある。


 飲み込む前に吐き捨てればいい。


 そう思った。


 だが、喉が動いた。


 身体が、勝手に飲み込んだ。


 クラウディオの目が見開かれる。


 ごくり、と小さな音。


 血が喉を通る。


 その瞬間、血脈がもう一度軋んだ。


「ぐ、ッ……!」


 クラウディオの身体が大きく震えた。


 床についた指が石を掻く。


 灰銀印が熱を持つ。


 喉の牙痕が、内側から脈打つ。


 飲んだ血が、体内へ落ちていく。


 人間の血は、すぐに吸収される。


 だが、混じっていたルストの血だけが違った。


 少量なのに、異様に重い。


 王血の中へ落ちると、沈むのではなく、広がる。


 支配するようにではない。


 だが、無視できない。


 クラウディオの血が、初めて出会う古い規則へ触れたようにざわめく。


「っ、貴様……何を……」


 声が掠れる。


 ルストは静かに見ている。


「痛むか」


「答えると思うか」


「軋んだな」


「黙れ」


「量は少ない」


「量の問題ではないと言っただろうが……!」


 クラウディオは怒鳴ろうとした。


 だが、喉が妙に重い。


 いや、血が重いのだ。


 身体の中へ落ちた一滴が、まるで胸の奥から脇腹へ、脇腹から喉へ、喉から指先へ、血脈の道を確かめるように広がっていく。


 おかしい。


 毒ではない。


 痛みだけでもない。


 快楽でもない。


 支配とも違う。


 だが、拒絶できない圧がある。


 クラウディオは器から顔を離そうとした。


 ルストは止めない。


 止めないことが逆に不気味だった。


「もう飲まぬ」


 クラウディオは低く言った。


「飲め」


「断る」


「全部ではない。半分でいい」


「誰が量を交渉すると言った」


「身体が受けるか見る」


「やはり実験ではないか!」


「確認だ」


「同じだ!」


 クラウディオは立ち上がろうとした。


 だが、血が足りない。


 そして、飲んだわずかな血が身体の奥を揺らしている。


 足に力が入りきらない。


 床に手をついたまま、ほんの一瞬動きが止まる。


 ルストはそれを見た。


 クラウディオは即座に怒る。


「見るな」


「見ている」


「見るなと言っている!」


「反応を見る必要がある」


「我を器の中身のように見るな!」


 怒りで血が跳ねる。


 灰銀印が焼けた。


「ぐ、ぁ……ッ」


 クラウディオは低く呻き、脇腹を押さえた。


 その拍子に、身体が器へ近づく。


 血の匂いがまた強くなる。


 人間の血。


 ルストの血。


 混じった血。


 王血が、拒絶と興味の両方でざわつく。


 最悪だった。


 嫌悪しているのに、血が知ろうとしている。


 拒んでいるのに、身体が味を覚えようとしている。


 クラウディオは、怒りに震えながら器を睨んだ。


「……貴様の血など」


 声が低く、掠れる。


「二度と、我の中へ入れるな」


 ルストは短く言った。


「必要なら入れる」


「必要などない!」


「お前の血が暴れすぎる」


「王血だ。当然だ」


「だから混ぜる」


 クラウディオは息を呑んだ。


 その意味が、一瞬遅れて届く。


「……まさか」


 声が、低くなった。


「我の血を、貴様の血で慣らすつもりか」


「反応を見る」


「我を貴様に慣らす気か!」


 怒声。


 灰銀印がまた熱を持つ。


 だが、それよりも喉の牙痕が熱かった。


 慣らす。


 それは、飼い慣らすという言葉に近かった。


 クラウディオの中で、屈辱が怒りへ変わる。


「ふざけるな……」


 低い声。


「我が、貴様の血に慣れるだと」


「少しずつだ」


「黙れ!」


「急に入れれば壊れる」


「入れる前提で話すなァッ!」


 クラウディオは血術を動かそうとした。


 ルストの喉へ。


 いや、殺意だ。


 分かっている。


 印が焼く。


 それでも、怒りが止まらない。


 灰銀印が激しく熱を持つ。


「ぎ、ッ……!」


 クラウディオの身体が折れかける。


 しかし、今度は別の感覚も同時に走った。


 飲んだルストの血が、灰銀印の熱に反応した。


 印の痛みが、一瞬だけ深くなる。


 いや、違う。


 印が血の中のルストの血へ呼応している。


 クラウディオの背筋が凍った。


 喉の牙痕。


 脇腹の印。


 そして今、体内へ入った血。


 三つが、ほんの一瞬だけ同じ方向を向いた。


 ルストへ。


「……ッ」


 クラウディオは、息を止めた。


 怖いのではない。


 そう思いたかった。


 だが、未知だった。


 自分の身体の中に、ルストへ繋がるものが増えた。


 そう感じた。


 ほんの一滴で。


 クラウディオは、器を睨みつけた。


 まだ血は残っている。


 人間の血に混ざった、灰銀の血。


 飲まない。


 絶対に飲まない。


 そう思うのに、喉はまだ渇いている。


 身体はまだ足りていない。


 そして、先ほどの一滴が、身体の奥で重く沈んでいる。


「……半分と言ったな」


 クラウディオは低く言った。


 ルストが見る。


「ああ」


「それ以上は飲まぬ」


「いい」


「貴様の命令ではない。我が決めた」


「そうか」


「その納得した顔をやめろ」


「顔は変えていない」


「存在ごと腹立たしい」


 クラウディオは、血に濡れた唇を噛み、もう一度器へ顔を近づけた。


 屈辱。


 嫌悪。


 警戒。


 それでも身体は血を求めている。


 舌が血に触れる。


 今度は、味を覚悟していた。


 それでも軋んだ。


 血脈が、ぎしりと鳴るように。


 クラウディオの肩が震える。


 だが、止まらない。


 止めれば負けたように思える。


 飲めば飲んだで、別の意味で負けている気がする。


 最悪の選択肢しかない。


 人間はよくこれを人生と呼びますが、吸血鬼王にも適用されるようです。気の毒に。少しだけ。


 クラウディオは、低い器から血を飲んだ。


 舌で。


 床に手をついたまま。


 だが、いつもより遅い。


 一口ごとに身体の反応を確かめるように。


 ルストの血が混じった血は、喉を通るたびに重く沈む。


 苦い。


 冷たい。


 古い。


 そして、どこかで喉の牙痕を疼かせる。


 半分。


 そこまで飲んだところで、クラウディオは顔を上げた。


 唇には血。


 赤い瞳は、怒りで濡れているように光っていた。


「これ以上は飲まぬ」


 ルストは器を見た。


「十分だ」


「何が分かった」


「反応する」


「見れば分かる」


「拒絶はしていない」


 クラウディオの目が鋭くなる。


「拒絶している」


「身体は受けた」


「我は拒んでいる」


「身体は受けた」


「二度言うな!」


 ルストは器を拾った。


 残った血をそのまま持つ。


 クラウディオは立ち上がる。


 少しふらついた。


 すぐに体勢を整える。


 見られた。


 当然、見られた。


「見るな」


「見ている」


「殺すぞ」


「印が焼く」


「貴様のその冷静さ、本当にいつか砕いてやる」


「覚えておく」


 ルストは器を片づけた。


 クラウディオは喉の痕へ手をやりかけ、また止めた。


 熱い。


 牙痕が熱い。


 脇腹の印も、まだ微かに脈打っている。


 体内の血は、妙に重い。


 飲んだのは半分だけ。


 それでも、身体の奥で何かが変わったような気がする。


 血脈が軋んだ。


 確かに。


 けれど、今はもう静かになりつつある。


 では、あれは何だったのか。


 ルストの血のせいか。


 それとも、喉の痕と灰銀印が反応しただけか。


 ただ、血が足りていなかった身体に、重い血が入ったせいでふらついただけか。


 クラウディオは、赤い目を細めた。


 認めたくない。


 自分の血が、ルストの血に揺らされたなど。


 それは、牙を立てられた時よりも深い侵入に思えた。


 彼は低く呟いた。


「……気のせいか」


 誰に聞かせるでもない声。


 だが、ルストは聞いていた。


 何も言わなかった。


 その沈黙が、答えのようで。


 クラウディオは、ひどく不愉快だった。

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