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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第62話 低い器の血

器は、また床に置かれていた。


 低い。


 浅い。


 王の手に持たれるためではなく、床に置かれるための形。


 杯ではない。


 銀盆でもない。


 従者の膝も、血杯管理官の震える手も、王城の黒石の床もない。


 ただ、粗い石床の上に置かれた低い器。


 その中に血があった。


 温められている。


 香りも整えられている。


 粗悪な血ではない。


 むしろ、外縁で手に入る血としてはよく選ばれていた。濃すぎず、薄すぎず、飢えた吸血鬼の身体を乱しすぎない程度に調整されている。


 だからこそ、屈辱だった。


 血そのものではなく、与え方が。


 ルスト・ヴァルレインは、クラウディオを飢えさせて壊すつもりではない。


 血を腐らせて侮辱するつもりでもない。


 必要な量を、必要な温度で、必要な間隔で与える。


 ただし、床の器で。


 それが、クラウディオ・ルジェリウスにとって何より耐えがたかった。


 外縁北路の廃小屋。


 雨は上がっていたが、床には湿気が残っている。壁際には古い薪束が積まれ、窓の板の隙間から夜明け前の青白い光が差していた。


 クラウディオは、小屋の中央に立っていた。


 黒い外套は整えている。


 喉には消えない牙の痕。


 脇腹には、外套の下に隠した灰銀印。


 印は静かだった。


 今はまだ。


 だが、血への欲を強く意識すれば、きっと熱を持つ。


 クラウディオは、それを知っていた。


 知ってしまっている。


 ルストは低い器を床へ置き、立ち上がった。


「飲め」


 短い命令。


 クラウディオの瞳が赤く染まる。


「命じるな」


「血が足りていない」


「貴様が管理などと称して奪う自由を縛るからだろうが」


「勝手に奪おうとすれば印が焼く」


「その印を刻んだのは貴様だ、灰銀」


「だから俺が与える」


 ルストの声は、どこまでも平坦だった。


 クラウディオは低く笑う。


 その笑いは美しかったが、底に怒りがある。


「与える?」


 彼は床の器を見下ろした。


「これを、与えると言うか」


「血だ」


「器を見ろ」


「見えている」


「なら杯を用意しろ」


「しない」


「王に、これで飲めと?」


「そうだ」


 即答。


 何度聞いても変わらない。


 何度怒っても揺れない。


 それが腹立たしい。


「我は、犬ではない」


「知っている」


「ではなぜ床へ置く」


「お前が勝手に血を奪わないようにだ」


「杯でも同じだろう」


「違う」


「何が違う」


「杯を持たせれば、投げる。割る。血を術に使う。器ごと武器にする」


 ルストは淡々と言った。


「床の器なら、俺が距離と姿勢を管理できる」


 管理。


 またその言葉。


 クラウディオの脇腹が、外套の下でわずかに熱を持つ。


 怒りが血へ乗ったせいだ。


 彼は歯を食いしばった。


「その言葉を、我の前で二度と使うな」


「使う」


「貴様……!」


「飲め、クラウディオ」


「その名を呼ぶな!」


 怒声。


 灰銀印が少し強く熱を持つ。


 クラウディオは一瞬だけ息を詰めた。


 それをルストに見られた。


 屈辱だった。


「印が反応したな」


「していない」


「怒りに血を乗せるな」


「命じるなァッ!」


 さらに熱が走る。


「ぐ、ッ……!」


 クラウディオの身体がわずかに折れかける。


 彼はすぐに姿勢を戻した。


 膝などつかない。


 絶対に。


 だが、喉は乾いていた。


 村で崩れ種を止め、外縁の道を歩き、何度も怒りを抑えた。


 血を飲んではいる。


 だが、十分ではない。


 ルストに管理された量だけでは、クラウディオの王血は常に足りなさを訴える。


 目の前の器から、血の匂いがする。


 温かい。


 まだ新しい。


 飲めば、身体は楽になる。


 その事実が、何より不愉快だった。


 クラウディオは顔を逸らした。


「要らぬ」


 ルストは言った。


「要る」


「我が要らぬと言っている」


「身体は要ると言っている」


「我の身体を、貴様が語るな」


「喉が鳴りかけている」


 クラウディオの目が見開かれる。


 次の瞬間、血術が走った。


 怒りの反射。


 床の血ではなく、壁へ。


 だが、殺意が混じった。


 印が焼けた。


「ぎ、ッ……!」


 短い悲鳴が漏れる。


 クラウディオは片手で脇腹を押さえた。


 痛み。


 熱。


 灰銀の楔が、内側から王血を灼く感覚。


 ルストは動かない。


 ただ見る。


 それがまた、彼を怒らせる。


「見るな……ッ」


「見ている」


「見るなと言っているだろうが……ッ!」


「飲め」


「飲まぬ!」


「飲まなければ倒れる」


「倒れぬ!」


「なら、立ったまま皿を睨んでいろ」


 ルストは壁際へ下がった。


 押さえつけない。


 頭を床へ近づけない。


 ただ、器を床に置いたまま、見ている。


 その方が、かえって酷かった。


 強制されれば、強制されたと罵れる。


 頭を押さえられれば、押さえられたせいだと怒れる。


 だが今は、器があるだけだ。


 血があるだけだ。


 クラウディオが拒むか、飲むか。


 そこに置かれている。


 自分の選択のような形で。


 それが耐えがたかった。


「……貴様、性格が悪いな」


 クラウディオは低く言った。


「お前に言われたくない」


「我は美しく悪い。貴様は陰湿に悪い」


「分類はどうでもいい」


「よくない」


「血が冷める」


「知るか」


「冷めても飲ませる」


 クラウディオの視線が、器へ落ちる。


 冷めた血。


 前にもそうだった。


 数時間拒み、最後には身体が血を求めた。


 四つん這いで、犬のように飲んだ。


 ルストに、犬のようだ、と言われた。


 あの音を思い出す。


 低い器の縁。


 血に濡れる唇。


 舌が勝手に動く感覚。


 喉が鳴る屈辱。


 それを思い出した瞬間、クラウディオの全身が怒りで震えた。


「二度と、あのような真似はせぬ」


 ルストは静かに言った。


「する」


「貴様が決めるな」


「身体が決める」


「我が決める!」


「なら、今決めろ」


 ルストは器を指す。


「飲むか、倒れるか」


「どちらも選ばぬ」


「三つ目はない」


「作る」


 クラウディオは血術を起こそうとした。


 器を割るために。


 血を蒸発させるために。


 ルストの足元へ流すために。


 だが、血へ意識を向けた瞬間、灰銀印が熱を持った。


 奪うためではない。


 殺すためでもない。


 それでも、床の血を術に使おうとしただけで、印は反応した。


 クラウディオの顔が歪む。


「……これもか」


「血を勝手に使うな」


「我に与えた血だろうが」


「飲むための血だ。術に使うためじゃない」


「貴様が決めるな!」


「決める」


 ルストの声は揺れない。


「その血は俺が管理している」


 クラウディオは、怒りで笑った。


「血すら貴様のものか」


「お前に飲ませるまではな」


「飲めば我のものだ」


「そうだ」


「では飲んだ後に、貴様を殺す」


「殺意を乗せれば印が焼く」


「いちいち腹立たしいな、貴様は!」


「飲め」


 クラウディオは答えない。


 床の器を睨む。


 血は静かに揺れている。


 部屋の湿気で、表面に薄い光が浮いている。


 喉が鳴りそうになる。


 クラウディオはそれを抑え込む。


 だが、身体は限界を訴えていた。


 血が必要だ。


 足りない。


 飲め。


 王の意思ではなく、吸血鬼の身体がそう言う。


 それを認めたくない。


 認めたくないのに、指先が少し震える。


 ルストはそれを見ている。


「限界だな」


「違う」


「膝が揺れている」


「床が悪い」


「床のせいにするな」


「貴様の存在よりましだ」


「飲め」


 また。


 クラウディオは、深く息を吸った。


 血の匂いが入る。


 最悪だった。


 甘い。


 温かい。


 欲しくないのに、身体が欲しがる。


 彼は床の器へ一歩近づいた。


 ルストは動かない。


 見ている。


 クラウディオは立ったまま、器を睨んだ。


「杯を用意しろ」


「しない」


「ならせめて台へ置け」


「置かない」


「なら、貴様が持て」


「持たない」


「灰銀……!」


「床だ」


 ルストは短く言った。


「そこで飲め」


 クラウディオは目を閉じそうになった。


 怒りを抑えるために。


 屈辱を飲み込むために。


 だが、目を閉じれば逃げたような気がした。


 だから開いたまま、赤い目で器を睨む。


 そして、膝を曲げた。


 それだけで、全身に屈辱が走る。


 王が。


 床の器へ近づくために。


 膝を曲げる。


 クラウディオの手が床へついた。


 石の冷たさ。


 湿り気。


 外套の裾が床に触れる。


 四つん這い。


 その姿勢になった瞬間、喉の牙痕が熱を持った。


 記憶が蘇る。


 犬のようだ。


 ルストの声。


 クラウディオは歯を食いしばる。


「見るな」


「見ている」


「見るなと言っている……!」


「給餌中だ」


「その言い方をやめろ!」


 怒鳴った瞬間、身体がぐらついた。


 血が足りない。


 やはり足りない。


 クラウディオは器へ顔を近づける。


 血の匂いが濃くなる。


 胃ではなく、喉が反応する。


 牙の奥が疼く。


 舌が、まだ触れていない血を覚えている。


 唇が器の縁に近づく。


 クラウディオは一度、動きを止めた。


「我は」


 掠れた声。


「認めぬ」


 ルストは答える。


「認めなくていい。飲め」


「我は、犬ではない」


「知っている」


「なら、犬のように見るな」


「犬のように飲むな」


 クラウディオの赤い瞳が、ルストを射る。


「貴様……」


「飲め」


 クラウディオは、ルストを睨んだまま、舌を伸ばした。


 血に触れる。


 その瞬間、身体が反応した。


 やめろ。


 違う。


 飲むな。


 王としての意志が叫ぶ。


 だが、舌は血を掬った。


 喉が勝手に嚥下する。


 温かい血が身体へ落ちる。


 力が戻る感覚。


 屈辱と安堵が同時に走る。


 クラウディオの指が床を掻いた。


 また舌が動く。


 ぴちゃ、と小さな音がした。


 クラウディオの肩が震えた。


 音を立てるな。


 しかし、低い器から飲めば、どうしても音が出る。


 舌で掬うたびに、血が揺れる。


 ぴちゃ。


 また。


 喉が鳴る。


 飲み込む。


 血が身体へ巡る。


 四つん這いのまま。


 犬のように。


 クラウディオは、怒りで目を潤ませそうになり、強く睨んで耐えた。


 泣くわけがない。


 泣いてなどいない。


 ただ、怒りで視界が滲んだだけだ。


 ルストは黙って見ている。


 「犬のようだ」とは、今回は言わなかった。


 言わないことが、逆に腹立たしい。


 言われれば罵れる。


 言わなければ、ただ自分がその姿勢で飲んでいる事実だけが残る。


 クラウディオは血を飲み続けた。


 舌で。


 低い器から。


 床に手をつき、膝をつき、喉を鳴らして。


 吸血鬼の身体は、血を得て少しずつ戻っていく。


 指先の震えが収まり、喉の渇きが和らぎ、視界の赤が少しずつ澄んでいく。


 その回復が、さらに屈辱だった。


 床の器から飲んだ血で、身体が楽になる。


 犬のように飲んだ血で、王の身体が整う。


 これ以上の侮辱があるか。


 それでも、舌は止まらない。


 最後の一滴まで、身体が求める。


 クラウディオは、器の底に残った血を舌で掬った。


 ぴちゃ、と最後の音がした。


 器が空になる。


 食事は終わった。


 クラウディオはしばらく動かなかった。


 四つん這いの姿勢のまま。


 唇は血で濡れている。


 白い喉には牙の痕。


 外套の下には灰銀印。


 床には空の低い器。


 ルストが言った。


「終わったか」


 クラウディオは、ゆっくり顔を上げた。


 赤い瞳が、燃えている。


「貴様を殺す理由が、また増えた」


「覚えておく」


「忘れるな」


「忘れない」


 ルストは空の器へ視線を落とした。


「次は、飲むと言え」


 クラウディオの唇が歪む。


 血に濡れた美しい唇。


 そこから出る声は、低く掠れていた。


「死んでも言わぬ」


「死なせない」


「それも腹立たしい」


「知っている」


 クラウディオは、ようやく身体を起こした。


 膝を床から離す。


 手についた埃を払い、外套を整える。


 何事もなかったように立とうとする。


 だが、ルストは見ていた。


 床から立ち上がるまでのわずかな遅れ。


 喉が血を得て落ち着いたこと。


 目の赤が少し澄んだこと。


 全部。


「見るな」


 クラウディオが言う。


「見ている」


「見るなと言っている」


「状態確認だ」


「貴様のその言い方、本当に殺意が湧くな」


「印が焼くぞ」


 クラウディオは歯を食いしばった。


 脇腹が、外套の下でわずかに熱を持つ。


 まただ。


 怒りを血に乗せることすら、自由ではない。


 彼は低く笑った。


「灰銀」


「何だ」


「いつか貴様にも床で飲ませてやる」


「何を」


「血を」


「やれるなら」


「その言葉も聞き飽きた」


「ならやれ」


「今はやらぬだけだ」


 クラウディオは、空の器を見下ろした。


 割りたい。


 粉々にしたい。


 だが、割れば次は割れない器になる。


 ルストはそうする。


 この男は、そういう男だ。


 クラウディオは器を蹴らなかった。


 それが、また屈辱だった。


 ルストは器を拾い上げる。


 床から。


 クラウディオが飲み干した器を。


 当然のように。


「次は同じ時間にする」


「次などない」


「ある」


「ない!」


「血は要る」


「別の方法で奪う」


「印が焼く」


「貴様ァ……」


 ルストは扉へ向かう。


「休め」


「命じるな」


「歩けるようになったら出る」


「貴様が決めるな」


「俺が決める」


 クラウディオは返そうとした。


 だが、血が戻った身体は、疲労も思い出し始めている。


 数日の管理。


 戦闘。


 印の痛み。


 怒り。


 給餌。


 それらが、じわじわと身体に重い。


 座りたいと思った。


 思った瞬間、屈辱で顔が歪んだ。


 ルストが言った。


「座れ」


「命じるな!」


「なら立っていろ」


「……貴様は本当に」


 クラウディオは低く唸った。


「一度、口を縫ってやりたい」


「その時は名前を呼べ」


「呼ばぬ!」


 ルストは何も言わず、器を持って外へ出た。


 扉が閉まる。


 クラウディオはひとり、小屋の中に残された。


 床には、器が置かれていた跡がある。


 低い位置に、血の匂いがまだ残っている。


 クラウディオは、それを睨んだ。


 また飲んだ。


 四つん這いで。


 犬のように舌を使って。


 音を立てて。


 食事を終えた。


 だが、認めない。


 それは給仕ではない。


 食事ではない。


 罰だ。


 屈辱だ。


 管理だ。


 そして、いつか返すべき恥だ。


 クラウディオは、唇に残った血を指で拭った。


 舐めない。


 今回は舐めなかった。


 床の器から飲んだ血を、これ以上味わう気はなかった。


 その代わり、低く呟く。


「我は、犬ではない」


 声は誰にも届かない。


 だが、自分には届いた。


 喉の痕が熱い。


 脇腹の印が重い。


 それでも、クラウディオは立っていた。


 床から顔を上げた王として。


 たとえ、低い器の血で身体を支えられていたとしても。


 まだ、王として。

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