第61話 同行する暴君
同行、という言葉は便利だった。
捕縛ではない。
護送でもない。
連行でもない。
従属でもない。
そう言い張る余地がある。
クラウディオ・ルジェリウスは、その余地だけで立っていた。
喉には、消えない牙の痕がある。
脇腹には、灰銀印がある。
許可なく血を奪おうとすれば焼かれる。
殺意を血術に乗せれば焼かれる。
無差別な捕食へ血が向かえば、脇腹の奥から灰銀色の楔が王血を灼く。
ルストは、それを管理と呼んだ。
クラウディオは、それを屈辱と呼んだ。
どちらも正しかった。
朝に近い外縁の道を、二人は歩いていた。
前を行くのはルスト。
灰銀の髪に、薄い霧がかかっている。背は大きく、歩幅は広く、足音はほとんどしない。銀の刃は外套の内に隠れているが、気配だけで周囲の夜が退くようだった。
その少し横を、クラウディオが歩く。
後ろではない。
絶対に後ろではない。
横だ。
時折、ルストの歩幅に合わせる形になることが、クラウディオには耐えがたかった。だが、先に歩けばルストが「離れるな」と言う。遅れれば「歩け」と言う。どちらにしても命令の形になる。
だから、横を歩く。
従っているのではない。
ただ、王が最も見苦しくない位置を選んでいるだけだ。
クラウディオは、そう自分に言い聞かせていた。
「遅い」
ルストが言った。
クラウディオの目が赤く光る。
「誰に言っている」
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな」
「歩け」
「命じるな」
「なら遅れるな」
「貴様の歩幅が無駄に大きいのだ、灰銀」
ルストは振り返らない。
「合わせている」
「我にか」
「お前に合わせなければ、もっと離れる」
クラウディオは一瞬、言葉を失った。
そして、怒った。
「その気遣いめいた言い方をやめろ」
「事実だ」
「なら事実ごと黙れ」
ルストは黙らなかった。
「脇腹は」
「見るな」
「見ていない」
「聞くな」
「痛むなら言え」
「誰が貴様に痛みを申告するか」
「倒れたら運ぶ」
クラウディオの足が止まりかけた。
運ぶ。
その言葉だけで、前に意識を失い、ルストに運ばれた記憶が蘇る。
喉を噛まれた後。
失神した王の身体を、灰銀の男が抱えて運んだ。
その事実は、クラウディオの中でまだ燃えている。
「貴様に二度と我の身体を運ばせると思うな」
「倒れるな」
「だから命じるなと言っている!」
怒声が霧に響いた。
その瞬間、遠くの村の入口で、門番らしき男がびくりと肩を跳ねさせた。
小さな村だった。
外縁北路の途中にある、木柵で囲まれた集落。夜の間、野良吸血鬼に襲われたのだろう。柵の一部が壊れ、地面には黒い血の跡が残っている。
村人たちは、門の向こうから二人を見ていた。
ルストを見て、息を呑む。
灰銀のハンター。
噂は外縁にも届いている。
吸血鬼だけを狩る男。
野良を処理し、崩れ種を斬り、人間を守るが、笑わない男。
次に、クラウディオを見る。
その瞬間、村人たちの空気が変わった。
美しすぎる男。
黒髪。
白い肌。
赤い瞳。
首筋に不気味な牙の痕。
身なりは貴族めいているが、外套の下にどこか乱れの名残がある。
そして、ルストのすぐ横を歩いている。
離れすぎず。
だが、従者のように後ろにも下がらず。
捕虜のようにも見える。
危険な客人のようにも見える。
あるいは、鎖の見えない獣のようにも。
門番の男が、恐る恐る口を開いた。
「灰銀様……そちらの方は……」
クラウディオの眉が動いた。
灰銀様。
まずそこが気に入らない。
ルストは淡々と答えた。
「同行者だ」
クラウディオが即座に言う。
「違う」
門番が硬直する。
ルストはクラウディオを見る。
「では何だ」
「王だ」
クラウディオは、当然のように言った。
門の向こうで、村人たちがざわめく。
王。
誰の。
何の。
吸血鬼の。
その可能性に気づいた者から、顔色が変わっていく。
ルストは短く言った。
「今は同行者だ」
「貴様が決めるな」
「村の前で騒ぐな」
「命じるな」
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな!」
門番が後退った。
村人たちの目には、こう映っただろう。
灰銀のハンターに名を呼ばれ、命令され、しかし反抗している危険な吸血鬼。
捕虜にも見える。
従者には見えない。
だが、完全に自由な王にも見えない。
それがクラウディオには分かった。
分かるから、腹立たしい。
「見るな」
クラウディオは門番を睨んだ。
男は震え上がる。
「貴様らのようなものが、我を見るな」
赤い瞳が禍々しく光る。
門番の足がすくむ。
周囲の村人たちが息を止める。
その中のひとり、若い女が小さく呟いた。
「……捕まっているの?」
クラウディオの耳は、その声を拾った。
血が一瞬で沸く。
捕まっている。
その言葉が、喉の痕と脇腹の印を同時に灼いた。
捕まってなどいない。
捕虜などではない。
管理下に置かれているのではない。
同行しているだけだ。
自分の意思で。
ルストを殺す機会を逃さないために。
そうだ。
そうでなければならない。
クラウディオの指が動く。
村人の血へではない。
威圧するだけ。
そう思った。
だが、殺意の色がわずかに混じった。
脇腹の灰銀印が、熱を持つ。
「ぐ……ッ」
クラウディオは小さく息を詰めた。
ほんの一瞬。
だが、ルストは見逃さない。
すぐ隣へ来る。
「動かすな」
「命じるな……!」
「村人に向けるな」
「我を捕虜呼ばわりしたのだぞ」
「事実に近い」
クラウディオの赤い瞳が見開かれる。
「貴様」
声が低くなる。
「今、何と言った」
「近いと言った」
「我は捕虜ではない」
「自由でもない」
門の前に沈黙が落ちた。
クラウディオの顔から、表情が消える。
その瞬間、彼はひどく美しかった。
怒りきった王の美貌は、見る者の呼吸を奪う。
「我は」
クラウディオはゆっくり言った。
「貴様に屈してなどいない」
「知っている」
ルストは即答した。
クラウディオの目がわずかに動く。
ルストは続ける。
「屈していないから面倒だ」
何人かの村人が、どう反応してよいか分からず固まった。
クラウディオは低く笑う。
「面倒?」
「ああ」
「王に向かって面倒と言うか」
「危険で、面倒で、目を離せない」
「貴様の管理台帳のように我を語るな」
「管理対象だからな」
「その言葉をやめろ!」
怒声。
灰銀印がまた熱を持つ。
クラウディオは歯を食いしばった。
痛みを表に出したくない。
村人の前で。
ルストの前で。
それでも、指先がわずかに震える。
ルストが低く言う。
「下がれ」
村人たちへ向けた声だった。
門番は慌てて頷き、周囲を下がらせる。
だが、視線は完全には消えない。
隠れて見ている。
窓の隙間から。
柵の影から。
人間は恐れながら見たがる。
クラウディオはそれを知っている。
そして、それを利用できる。
ほんの少し微笑めば、彼らの心は揺れる。
喉の痕を晒せば、恐怖と好奇心が混ざる。
赤い瞳で見つめれば、足の力を奪える。
だが、やれば印が焼く。
ルストが止める。
管理下。
その現実が、村人たちの視線より重くのしかかる。
クラウディオは、屈辱で唇を歪めた。
「貴様のせいで、我が人間どもに妙な目で見られている」
「お前が王だと言ったからだ」
「事実だ」
「今は言う必要がなかった」
「王は常に王だ」
「なら、少しは王らしく静かにしろ」
「貴様に王らしさを説かれる筋合いはない」
ルストは門番へ向き直った。
「昨夜、どこから来た」
門番は怯えながら答える。
「北の林からです。赤い目のものが三体……灰色の獣のようなものも一つ……」
「崩れ種か」
「分かりません。ただ、声を真似ました。子どもの声で、開けて、と……」
クラウディオは小さく笑った。
「よくある手だ」
門番が青ざめる。
ルストが見る。
「笑うな」
「笑っただけだ。血は奪っていない」
「笑うだけでも人間は怖がる」
「我の美貌に耐性がないだけだろう」
「自分で言うな」
「事実だ」
「面倒だな」
「また言ったな、灰銀」
ルストは無視した。
門番にいくつか質問を続ける。
クラウディオは、横で腕を組んで立っていた。
その姿だけなら、貴族の同行者。
だが、村人たちの目には違うものが映る。
灰銀のハンターと並んでいる危険な吸血鬼。
命令されても反抗する。
離れない。
だが、完全には自由でない。
村の老婆が、窓の隙間から小さく呟いた。
「まるで、鎖のない捕虜だね……」
クラウディオの目がそちらを向いた。
老婆は悲鳴を飲み込んで身を引く。
クラウディオは微笑もうとした。
恐怖を与えるために。
しかし、脇腹の印がじわりと熱を持った。
殺意ではない。
捕食でもない。
だが、無差別な威圧に血が乗りかけたのを、印が拾った。
クラウディオの笑みが、わずかに歪む。
ルストが横目で見る。
「反応したな」
「していない」
「顔が歪んだ」
「貴様の顔を見たせいだ」
「俺は横にいる」
「だから不快だ」
ルストは門番へ言った。
「北の林へ行く。村から出るな。声がしても開けるな。俺たち以外の誰かが助けを求めても返事をするな」
門番は頷いた。
そして、恐る恐るクラウディオを見る。
「あの……その方も、ご一緒に?」
クラウディオが先に答えた。
「我は、貴様らを助けるために行くのではない」
冷たい声。
「勘違いするな。人間どもが喰われようと、本来は我の知るところではない」
門番の顔がこわばる。
クラウディオは続けた。
「ただ、この灰銀を殺す機会を逃さぬために同行しているだけだ」
ルストが横から言う。
「つまり来る」
「要約するな!」
「間違っていない」
「大いに間違っている!」
村人たちは、ますます分からない顔をした。
捕虜なのか。
従者なのか。
敵なのか。
協力者なのか。
たぶん、どれでもあるように見えた。
クラウディオにとっては、どれも違う。
彼は王だ。
屈服していない。
灰銀に従っていない。
ただ、隣を歩いているだけだ。
殺すために。
見返すために。
この管理を、いつか破るために。
北の林へ向かう道で、ルストは何も言わなかった。
クラウディオはしばらく黙って歩いた。
珍しく。
雨の匂いが濃くなる。
泥が靴底へ絡む。
遠くで、子どもの声がした。
「開けて」
村人が言っていた声だ。
残響か。
崩れ種か。
罠か。
ルストが足を止める。
クラウディオも止まった。
声はまたする。
「寒いの。開けて」
クラウディオは薄く笑った。
「下手だな」
「分かるか」
「人間の子どもは、もっと呼吸に無駄がある。あれは音だけを拾っている」
「なら崩れ種だ」
「あるいは、声真似を覚えた獣化種だ」
ルストは一瞬、クラウディオを見た。
「役に立つな」
クラウディオは即座に睨む。
「評価するな」
「事実だ」
「我を便利な同行者のように扱うな」
「同行者だろう」
「王だ」
「管理下の王だ」
「その言い方をやめろ」
ルストは前を向いた。
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな」
「声の位置は」
クラウディオは黙った。
答えない。
そう思った。
だが、答えなければルストがまた自分の判断で進む。
それはそれで腹立たしい。
クラウディオは、舌打ちの代わりに低く言った。
「左奥。木の上ではない。地面の近くで反響している」
「数は」
「二つ。片方は囮だ」
「どちらが本体」
「貴様の耳は飾りか、灰銀」
「答えろ」
「命じるな」
「クラウディオ」
「その名を呼ぶなと言っている!」
怒声に、林の奥で何かが動く。
ルストが鋭く言う。
「静かにしろ」
「貴様が怒らせるからだ」
「本体は」
「右だ!」
答えてしまった。
クラウディオはすぐに自分で気づく。
ルストは右へ踏み込む。
銀の刃が抜かれ、林の影を裂いた。
濁った悲鳴。
子どもの声ではない。
崩れ種の声だった。
もう一体が左から飛び出す。
クラウディオの近くへ。
赤い目。
牙。
黒い涎。
クラウディオは反射的に血術を動かそうとした。
灰銀印が熱を持つ。
だが、これは防御だ。
殺意ではない。
捕食ではない。
それでも、血に怒りが混じれば焼ける。
クラウディオは、血術を絞った。
細く。
低く。
崩れ種の足元だけを払う。
殺さない。
止めるだけ。
血糸が地面を走り、崩れ種の足首を絡めた。
崩れ種が転ぶ。
その首を、戻ってきたルストの刃が断つ。
戦闘は終わった。
クラウディオは息を吐いた。
脇腹は熱い。
だが、焼けてはいない。
制御した。
それを認めるのが腹立たしい。
ルストが言った。
「今のはよかった」
「褒めるな」
「前より印を怒らせていない」
「我の身体を観察記録のように語るな」
「管理しているからな」
「その言葉をやめろ!」
クラウディオが怒鳴る。
灰銀印がじわりと熱を持つ。
ルストが見る。
クラウディオは歯を食いしばる。
「見るな」
「見ている」
「見るな!」
「同行するなら、状態を見る」
「我は貴様の従者ではない」
「知っている」
「捕虜でもない」
「近い」
「近くない!」
「自由でもない」
その言葉に、クラウディオは黙った。
雨が、とうとう降り始めた。
細い雨だった。
黒い外套に落ち、灰銀の髪を濡らし、森の血の匂いを薄めていく。
クラウディオは、雨の中でルストを見た。
「我は屈服していない」
低い声だった。
ルストは答える。
「知っている」
「なら、捕虜扱いするな」
「捕虜より面倒だ」
「従者扱いもするな」
「従者なら命令を聞く」
「当然だ。我は王だからな」
「だから面倒だ」
クラウディオは笑った。
怒りを含んだ笑みだった。
「なら、よく覚えておけ、灰銀」
彼は雨の中で、白い喉をわずかに晒した。
消えない牙の痕が、雨に濡れて光る。
「我は貴様の隣を歩いている。だが、膝はついていない」
外套の下の脇腹が熱を持つ。
それでも、クラウディオは言った。
「印を刻まれようと、血を禁じられようと、皿で飲まされようと、我は屈服していない」
ルストは、静かに彼を見る。
「分かっている」
「ならばなぜ連れ歩く」
「屈服していないからだ」
クラウディオの眉が動いた。
ルストは続ける。
「屈服していないから、放っておけない」
その言葉は、鎖より不快だった。
甘さではない。
保護でもない。
管理の言葉だ。
だが、どこかでそれ以上の重さを持っていた。
クラウディオは、それを切り捨てるように吐き捨てた。
「気色の悪い理屈だ」
「お前よりはましだ」
「貴様……」
「戻るぞ」
「命じるな」
「村へ報告する」
「貴様が勝手に行け」
「来い、クラウディオ」
「その名を呼ぶなァッ!」
雨の中で、二人は村へ戻る。
周囲から見れば、捕虜にも見えるだろう。
灰銀のハンターに連れられた、危険な吸血鬼。
あるいは従者にも見えるかもしれない。
灰銀の隣を歩き、彼の問いに答え、戦闘の補助をした赤い瞳の男。
だが、どちらでもない。
クラウディオは屈服していない。
従っていない。
捕まっていると認めてもいない。
彼はただ、ルストの隣を歩いている。
喉に牙の痕を持ち。
脇腹に灰銀印を隠し。
血を禁じられ。
それでも王であることを諦めないまま。
同行する暴君。
それが、今のクラウディオだった。
そしてルストは、その暴君を隣に置いて歩く。
檻に入れず。
鎖を見せず。
けれど、逃がさず。
雨の中、二人の足跡は並んで泥に残った。
一方は、管理する者の足跡。
もう一方は、まだ屈服していない王の足跡だった。




