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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第60話 王は呼ばない



 クラウディオは、呼ばなかった。


 ルスト。


 その名を。


 喉の奥まで上がってきても。


 怒りで舌に乗りかけても。


 痛みで理性が欠け、罵倒の形を失いかけても。


 呼ばなかった。


 灰銀。


 狩人風情。


 下郎。


 簒奪者。


 王の身体に印を刻んだ不敬者。


 それらはいくらでも吐き捨てられる。


 だが、ルストという名だけは、口にしない。


 それが最後の拒絶だった。


 喉には消えない牙の痕がある。


 脇腹には灰銀印がある。


 血を奪う自由は制限され、捕食の衝動は焼かれ、殺意を血術へ流せば印が反応する。


 床の器から血を飲まされた。


 犬のようだと嘲笑された。


 給餌係を堕とし、狂わせ、喰らった後には、さらに深く管理の印を刻まれた。


 奪われている。


 確かに、奪われている。


 だが、名だけはまだ渡していない。


 クラウディオはそう信じていた。


 外縁の夜は、雨の匂いを含んでいた。


 黒い雲が低く垂れ、森の枝先から水滴が落ちる。泥濘んだ道の先には、小さな廃礼拝堂がある。かつて村人たちが祈った場所だろう。今は扉も傾き、壁の聖印も半分割れている。


 そこに、野良吸血鬼が二体潜んでいた。


 ルストはすでに一体を処理していた。


 銀の刃が静かに動き、野良の喉を断つ。悲鳴は短い。余計な血も飛ばない。


 相変わらず、腹立たしいほど無駄がない。


 クラウディオはそれを見ていた。


 手を出さずに。


 いや、出せずに。


 脇腹の印が、外套の下で薄く熱を持っている。


 血を奪おうと考えただけで、あの印は反応する。


 殺意を乗せすぎれば焼ける。


 無差別な捕食へ意識が傾けば、身体の奥から灼かれる。


 それを知ってしまった。


 知っているから、止まる。


 止まる自分が、何より許せなかった。


「見ているだけか」


 ルストが言った。


 刃についた血を払うことすらせず、こちらを見る。


 クラウディオは赤い瞳を細めた。


「貴様の雑な狩りを観察してやっている」


「雑ではない」


「美しくもない」


「必要ない」


「そういうところだ、灰銀」


 クラウディオは吐き捨てる。


「貴様には美という概念が欠けている。殺すなら殺すで、もう少し王の目に耐える形にしろ」


「俺はお前を楽しませるために殺していない」


「当然だ。貴様ごときが我を楽しませられると思うな」


「なら黙っていろ、クラウディオ」


 名。


 当然のように。


 クラウディオの喉の痕が熱を持つ。


「その名を呼ぶな」


「呼ぶ」


「呼ぶなと言っている」


「名前を呼べ」


 ルストの声は低かった。


 前話と同じ要求。


 だが、今回は戦闘の最中だった。


 廃礼拝堂の奥に、もう一体の野良がいる。血の匂いは濃く、壁の裏で赤い目が動いている。


 クラウディオは笑った。


「今それを言うか。頭まで銀でできているのか、貴様は」


「呼べ」


「嫌だ」


「呼べ、クラウディオ」


「灰銀」


「違う」


「狩人風情」


「違う」


「王の名を勝手に呼ぶ、躾の悪い犬」


「違う」


「犬扱いは嫌か? 貴様が我にしたことだろう」


 ルストの表情は変わらない。


「名前を呼べ」


「呼ばぬ」


「なぜそこまで拒む」


「分かっていて聞くな」


 クラウディオの声が低く沈む。


「名を呼ぶことは、認めることだ。貴様という存在を、我の声でこの世に固定することだ。そんなもの、死んでも御免だ」


「もう記録しているだろう」


 クラウディオの指が動いた。


 図星だった。


 彼の私的な記録には、もう何度も書かれている。


 ルスト。


 喉の痕。


 灰銀印。


 皿。


 犬のようだ。


 血を禁じる印。


 名前を呼べという要求。


 記録にはある。


 だが、声にはしない。


「紙に記すのと、血に乗せて呼ぶのは違う」


 クラウディオは言った。


「我の声は王命だ。王命に貴様の名を乗せるなど、不浄にも程がある」


「ただの名前だ」


「貴様にとってはな」


 クラウディオは笑った。


 冷たい笑みだった。


「我にとっては違う」


 廃礼拝堂の奥で、野良吸血鬼が動いた。


 赤い目。


 飢えた喉。


 人間の血の残り香に釣られた低い唸り。


 ルストはそちらを見た。


 クラウディオも見た。


 野良は、礼拝堂の壁を蹴って飛び出した。


 狙いはクラウディオだった。


 王血の匂い。


 喉の痕から漏れる稀血の残り香。


 野良には抗えない。


 クラウディオは微笑む。


 来い。


 そう思った。


 血を奪うのではない。


 殺意を乗せすぎるのでもない。


 ただ、近づいてきたものを弾くだけなら。


 血術が指先に集まる。


 だが、その瞬間、脇腹の印が熱を持った。


 まだ焼けるほどではない。


 警告。


 クラウディオの顔が歪む。


 この程度でもか。


 この程度の防御でも、印は見張るのか。


 その一拍が遅れになった。


 野良の爪が迫る。


 ルストが動いた。


 銀の刃が、クラウディオのすぐ横を走る。


 野良の腕が落ちる。


 次に首。


 黒い血が床に散る前に、ルストの刃が血脈の流れを断った。


 野良は崩れた。


 静かに。


 クラウディオは、その場に立ったまま、ルストを睨んだ。


「邪魔をするな」


「遅れた」


「遅れてなどいない」


「印を気にした」


「黙れ」


「見えた」


「黙れと言っている!」


 怒りが血へ流れかける。


 脇腹が焼けた。


「ぐ、ッ……!」


 クラウディオはわずかに身体を折った。


 ほんの一瞬。


 だが、ルストは見た。


 見られた。


 それが屈辱だった。


「名前を呼べ」


 ルストは言った。


 こんな時に。


 まるで、痛みで逃げ道を失った瞬間を狙うように。


 クラウディオは荒い息の中で笑った。


「貴様……本当に性格が悪いな」


「お前に言われたくない」


「灰銀」


「違う」


「下郎」


「違う」


「王の身体に印を刻み、王の血を禁じ、王の自由を奪った簒奪者」


「長い」


「黙れ!」


「名前を呼べ」


 ルストが近づく。


 クラウディオは一歩も退かない。


 退けば、負ける。


 それだけは許さない。


 脇腹はまだ熱い。


 喉の痕も疼いている。


 野良の血の匂いが周囲に残る。


 飲みたい。


 奪いたい。


 だが、それを意識しただけで印が警告を出す。


 最悪だった。


 身体が自分のものではない。


 血が自分の命令を待つ前に、灰銀印の反応を恐れている。


 クラウディオは、その現実に震えた。


 怒りで。


 屈辱で。


 けれど、口はまだ自由だ。


 舌だけは、まだ最後の砦だった。


「呼ばぬ」


 クラウディオは言った。


「どれほど追い詰めようと、我は貴様の名を呼ばぬ」


「一度呼んだ」


「あれは違う」


「呼んだ」


「違うと言っている!」


「また呼ぶ」


「呼ばぬ!」


 声が廃礼拝堂に響く。


 割れた聖印の上に、クラウディオの怒声が落ちる。


 ルストは静かに見ている。


 焦らない。


 怒らない。


 ただ、待っているように。


 その態度が腹立たしい。


「なぜそこまで呼ばせたい」


 クラウディオは低く問うた。


「貴様の名など、我が呼ばずとも困るまい」


「困らない」


「ならなぜだ」


「お前が拒むからだ」


「性格が悪い」


「知っている」


「開き直るな」


「名前を呼べ」


「呼ばぬ!」


 また戻る。


 同じ場所へ。


 けれど、その繰り返しが少しずつクラウディオの内側を削っている。


 ルスト。


 その名を呼ばないと決めているのに、何度も意識させられる。


 灰銀と言えば否定される。


 狩人風情と言えば違うと言われる。


 下郎と言えば受け流される。


 そのたびに、本当の名が奥で重くなる。


 呼ばない名ほど、血の中に沈む。


 それが分かってしまうから腹立たしい。


「貴様は」


 クラウディオは言った。


「我を従わせるつもりで名を求めている」


「そう思うのか」


「そうだ」


「なら、呼ばなければ従っていないことになるのか」


「当然だ」


「では、今のお前は、名前だけで抵抗しているのか」


 沈黙。


 ルストの言葉が、ひどく静かに刺さった。


 名前だけ。


 喉は刻まれた。


 脇腹も刻まれた。


 血は禁じられた。


 給餌は管理されている。


 同行も強いられている。


 その中で、クラウディオが守っているもの。


 名前を呼ばないこと。


 それだけ。


 あまりにも小さい。


 だが、同時に最後だった。


 クラウディオは、赤い瞳でルストを睨む。


「そうだ」


 認めた。


 低く。


 はっきりと。


「今の我には、それが残っている」


 ルストの目がわずかに細くなる。


 クラウディオは続けた。


「喉に痕を刻まれた。脇腹に印を刻まれた。血を禁じられ、皿で飲まされ、犬のようだと笑われた。だが、我の声はまだ貴様に屈していない」


 彼の声は掠れていた。


 それでも王の声だった。


「我が貴様を灰銀と呼ぶ限り、貴様は名を持つ者ではない。我が狩人風情と吐き捨てる限り、貴様は王に認められていない。我が下郎と罵る限り、貴様は我の下だ」


 ルストは黙っている。


「だから呼ばぬ」


 クラウディオは言った。


「死んでも呼ばぬ。焼かれても、伏せられても、喉を噛まれても、血を禁じられても、我は貴様の名を呼ばぬ」


 ルストは、しばらく何も言わなかった。


 廃礼拝堂の中には、野良吸血鬼の死骸が二つ転がっている。


 割れた聖印。


 血の匂い。


 雨の気配。


 クラウディオの荒い呼吸。


 脇腹の印の熱。


 そのすべての中で、ルストが口を開く。


「分かった」


 クラウディオの眉が動く。


「何が」


「今は呼ばない」


「当然だ」


「だが、いつか呼ぶ」


「呼ばぬ」


「呼ぶ」


「貴様のその確信はどこから湧く」


「お前は、覚えた名を捨てられない」


 クラウディオの喉が動いた。


 図星だった。


 彼は忘れない。


 嘲った者の顔も。


 傷つけた者の名も。


 奪った者の声も。


 奪われた屈辱も。


 すべて記録する。


 忘れることはない。


 だから、ルストの名も消せない。


 呼ばないだけだ。


 捨てられない。


 ルストは、それを見抜いている。


「貴様は本当に、不愉快だ」


 クラウディオは低く言った。


「よく言われる」


「我にしか言われていないだろう」


「今のところは」


「今後も我だけだ」


 そう言ってから、クラウディオはわずかに眉を歪めた。


 なぜそんな言い方になった。


 自分で気づいて、不愉快になる。


 ルストは何も言わなかった。


 それがまた腹立たしい。


「灰銀」


 クラウディオは、わざと呼んだ。


「何だ」


「勘違いするな。貴様を呼ばぬのは、恐れているからではない」


「分かっている」


「分かっていない」


「いや、分かっている」


「なら何だ」


「認めたくないからだろう」


 クラウディオの瞳が燃える。


「黙れ」


「当たっているな」


「黙れと言っている」


「クラウディオ」


「その名を呼ぶな!」


「帰るぞ」


「勝手に終わらせるな!」


 ルストは廃礼拝堂を出た。


 クラウディオは数秒その背を睨む。


 置いていかれるのは腹立たしい。


 だから歩く。


 従っているわけではない。


 絶対に。


 外へ出ると、細い雨が降り始めていた。


 外套の肩に水滴が落ちる。


 クラウディオは空を見上げず、前を行く灰銀の背だけを睨んだ。


 呼ばない。


 名前だけは。


 それだけが、まだ残っている。


 ルスト。


 その名は血の奥にある。


 記録にもある。


 喉の痕と、脇腹の印と、床の器の記憶と一緒に、確かに残っている。


 それでも、声にはしない。


 王は呼ばない。


 灰銀と吐き捨てる。


 狩人風情と罵る。


 下郎と笑う。


 それが、まだ認めていない証だから。


 クラウディオは、雨の中で低く言った。


「待て、灰銀」


 ルストは振り返らない。


「早く来い、クラウディオ」


「その名を呼ぶなァッ!」


 雨に混じって、クラウディオの怒声が外縁の道へ響いた。


 ルストは足を止めない。


 クラウディオも歩く。


 喉に痕を持ち、脇腹に印を隠し、血を禁じられたまま。


 それでも、まだ呼ばない。


 王は呼ばない。


 その意地だけが、雨の中で赤く燃えていた。


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