第59話 名前を呼べ
名を呼ぶことは、ただ音を口にすることではない。
吸血鬼にとって、名は血に近い。
血筋を示す。
格を示す。
契約を示す。
誰に従い、誰を拒み、誰を記録し、誰を忘れないかを示す。
だから、クラウディオ・ルジェリウスは名を軽く扱わない。
臣下の名を呼ぶ時、それは処断の前触れだった。
敵の名を記す時、それは後で必ず奪うという意味だった。
王族の名を消す時、それは血統ごと歴史から削るという宣告だった。
名を呼ぶとは、相手を存在として認めること。
認めたうえで、支配すること。
あるいは、支配される危険を受け入れること。
だからクラウディオは、あれきりルストの名を呼ばなかった。
灰銀。
狩人風情。
下郎。
貴様。
それで十分だった。
いや、十分でなければならなかった。
外縁の村は、夜明け前の薄い霧に沈んでいた。
野良吸血鬼の気配は、すでにルストが処理している。
村人たちは扉を閉ざし、窓の隙間から外を窺っているだけだった。助かったくせに礼を言いに出てこない。まあ人間が賢明な時だけは扉を閉める。普段からそうしていれば被害の半分は減るのに、悲しいほど遅い知恵である。
クラウディオは村外れの井戸のそばに立っていた。
外套の下、脇腹の灰銀印がまだ熱を持っている。
前に許可なく血を奪おうとした時、印は容赦なく反応した。
血を求めれば焼く。
殺意を血術へ流せば焼く。
自害へ向かっても、おそらく焼く。
自分の身体の中に、ルストの制御がある。
その事実を考えるだけで、クラウディオの血は怒りで沸いた。
喉には牙の痕。
脇腹には印。
そして、給餌の器。
皿。
犬のようだという嘲笑。
それらすべてが、クラウディオの内側に重なっている。
だが、彼は倒れない。
王だから。
いや、王であろうとしているから。
ルストは少し離れた場所で、野良吸血鬼の残した痕跡を見ていた。
銀の刃を拭うでもなく、勝利に酔うでもなく、ただ地面を確認している。
余計な動きがない。
それもまた、クラウディオには腹立たしかった。
「灰銀」
クラウディオは低く呼んだ。
ルストは顔を上げる。
「何だ」
「いつまで人間どもの足跡を眺めている。貴様の狩りは終わったのだろう」
「まだだ」
「我を待たせるな」
「待たせていない」
「我は待っている」
「勝手にだ」
クラウディオの瞳が赤く沈む。
「貴様は本当に、言葉の選び方が不敬だな」
「お前は本当に、いちいちうるさいな」
「誰に向かって言っている」
「クラウディオ」
名。
当然のように。
クラウディオの喉の痕が熱を持った。
「その名を呼ぶな」
「呼ぶ」
「呼ぶなと言っている!」
「なら、お前も呼べ」
クラウディオは一瞬、意味を測った。
ルストが立ち上がる。
灰銀の髪が霧の中で淡く光り、鋼色の瞳がクラウディオへ向く。
「俺の名を呼べ」
沈黙。
村の外れの井戸に、冷たい水音が落ちた。
クラウディオは、ゆっくりと笑った。
低く、美しく、冷たい笑みだった。
「何を言うかと思えば」
彼は一歩、ルストへ近づく。
「貴様、ついに頭まで銀に焼かれたか」
「呼べ」
「誰が」
「お前が」
「何を」
「俺の名を」
淡々とした声。
命令の形。
それがクラウディオの神経を逆撫でした。
「断る」
「呼べ」
「断ると言った」
「灰銀ではない」
「灰銀だ」
「狩人風情でもない」
「狩人風情だ」
「下郎でもない」
「下郎だ」
クラウディオは、あえて一つずつ吐き捨てた。
言葉で踏みつけるように。
「貴様は、灰銀の髪をした狩人風情で、王に牙を立てた身の程知らずの下郎だ。これ以上の名など要らぬ」
ルストは動じない。
「名を知っているだろう」
「知らぬ」
「嘘だ」
「記録しただけだ」
「なら呼べる」
「呼ばぬ」
「なぜ」
クラウディオの笑みが消えた。
赤い瞳が細くなる。
「分かっていて聞くか」
「ああ」
「名を呼ぶとは、存在を認めることだ」
クラウディオの声は低くなった。
「貴様を灰銀と呼ぶ限り、貴様はただの特徴だ。狩人風情と呼ぶ限り、貴様はただの役割だ。下郎と呼ぶ限り、貴様は我の下にある」
ルストは黙って聞いている。
「だが名を呼べば違う。貴様は個になる。記録される。血の中に残る。我が貴様を、ただの障害ではなく、存在として認めたことになる」
クラウディオの唇が歪む。
「そんな屈辱を、我が受け入れると思うか」
ルストは短く答えた。
「思っていない」
「なら言うな」
「だから言わせる」
その言葉に、クラウディオの血が跳ねた。
灰銀印が、外套の下でわずかに熱を持つ。
殺意が血へ流れかけたからだ。
クラウディオは歯を食いしばった。
止めた。
止めてしまった。
それをルストは見ている。
「印が効いているな」
「黙れ」
「名前を呼べ」
「貴様ァ……」
「呼べ、クラウディオ」
また名。
クラウディオの喉が震える。
「その名で我を縛るな」
「縛られているのは、お前が逃げるからだ」
「逃げる?」
クラウディオの声が低くなる。
「我が?」
「俺の名から逃げている」
クラウディオは笑った。
だが、その笑いは短かった。
「笑わせるな。なぜ我が貴様の名から逃げる」
「呼べば認めることになるからだろう」
「そう言ったはずだ」
「なら、認めろ」
「命じるな」
「命令だ」
その瞬間、井戸のそばの空気が凍った。
クラウディオの瞳が、完全に禍々しい赤へ染まる。
「我に、命令だと」
「そうだ」
「王に向かって」
「そうだ」
「貴様の名を呼べ、と」
「そうだ」
ルストは一歩も退かない。
クラウディオは、喉の奥で低く唸った。
怒りだけではない。
屈辱。
警戒。
そして、わずかな理解。
ルストはただ呼ばせたいのではない。
名を呼ぶことが、服従の入口だと知っている。
吸血鬼社会で、下位の者が上位の名を呼ぶ時、その声には意味が宿る。
呼ぶことを許される。
呼ぶことで従属を示す。
呼ぶことで、自分の血がその名を記憶する。
もちろん、ルストはその古い作法を口にしない。
だが、知っている。
知っているからこそ、言わせようとしている。
クラウディオはそれに気づいた。
「貴様」
声が低くなる。
「それを分かって言っているな」
「何を」
「名を呼ばせることが、服従の一歩だと」
ルストは少しだけ目を細めた。
「そう思うなら、なおさら呼べ」
「我を従わせるつもりか」
「すでに管理している」
「違う!」
クラウディオの声が裂ける。
灰銀印が熱を持つ。
痛みが脇腹を焼く。
それでも彼は言葉を止めない。
「我は貴様に従ってなどいない! 貴様の名を呼ばぬことがその証だ!」
「違う」
「何が違う!」
「呼ばないことに必死な時点で、もう俺を見ている」
クラウディオの息が止まった。
ルストの声は平坦だった。
「本当に下郎だと思うなら、名前を避ける必要もない。呼んでも呼ばなくても同じだ。だが、お前は避けている」
「黙れ」
「名を呼んだら、何かが変わると知っているからだ」
「黙れと言っている」
「だから呼べ」
「黙れ!」
血術が走った。
赤黒い糸が井戸の縁から跳ね、ルストの喉を狙う。
だが、途中で灰銀印が焼けた。
「ぐ、ッ……!」
クラウディオの身体が折れかける。
糸は空気の中で崩れる。
ルストは避ける必要すらなかった。
それが、最大の屈辱だった。
クラウディオは脇腹を押さえ、怒りで震えながら立っている。
ルストは静かに言った。
「殺意で動かすな」
「命じるな……!」
「呼べ」
「呼ばぬ!」
「呼べ」
「灰銀」
「違う」
「狩人風情」
「違う」
「王の身体に印を刻んだ恥知らず」
「違う」
「喉に牙を立てて、皿で血を飲ませ、人間を守るふりをして王を縛る下郎」
「長い」
クラウディオの怒りが一瞬、変なところで止まりかけた。
「そこではない!」
「呼べ」
「呼ばぬ!」
ルストが近づいた。
クラウディオは一歩も退かない。
退くわけがない。
だが、距離が詰まる。
喉の痕が熱くなる。
脇腹の印も疼く。
ルストはクラウディオの前で立ち止まった。
近い。
嫌になるほど近い。
「名前を呼べ」
ルストが言う。
クラウディオは低く返した。
「貴様の名など、我の口に乗せる価値もない」
「なら、その価値のない名にそこまで怯えるな」
「怯えてなどいない!」
「なら呼べ」
逃げ道を塞ぐような言い方だった。
呼ばなければ、怯えていることになる。
呼べば、認めることになる。
どちらにせよ、クラウディオにとっては屈辱だった。
ルストは、言葉だけで罠を作る。
血術ではない。
銀刃でもない。
ただ、名だけで。
クラウディオはそれを理解して、ますます怒った。
「貴様は、我の何を奪えば気が済む」
声は低い。
「血か。喉か。自由か。捕食か。殺意か。今度は名か」
「奪っていない」
「奪っている!」
「お前が隠すものを、外へ出しているだけだ」
「壊すことを、そう言い換えるな!」
ルストは一瞬、黙った。
それから言う。
「壊すのはお前の方が得意だろう」
エリクのことだった。
クラウディオの瞳が細くなる。
「まだあれを言うか」
「戻らなかった」
「望んだ」
「お前が望ませた」
「美しいものを望むのは、罪か」
「喰われたいと叫ばせるのは罪だ」
「つまらぬ道徳だ」
「管理理由だ」
クラウディオは低く笑った。
「なら、管理者殿」
皮肉をたっぷり込めた声。
「名を呼ばせれば、我が従うとでも?」
「すぐには従わない」
「当然だ」
「だが、呼べば逃げ道が一つ消える」
クラウディオの顔から、笑みが消える。
ルストは続けた。
「灰銀。狩人風情。下郎。そう呼べば、お前は俺を遠ざけられる。俺がつけた痕も、印も、皿も、全部“灰銀がしたこと”にできる」
声は静かだった。
「だが名で呼べば違う」
クラウディオは、息を止めている。
「ルストがしたことになる」
その名が、ルスト自身の口から落ちた。
クラウディオの喉が、わずかに動く。
ルスト。
知っている名。
記録に書いた名。
怒りで一度だけ呼んだ名。
その音が、血の奥で疼く。
「俺が、お前の喉に痕を残した。俺が、お前に皿で血を飲ませた。俺が、お前の脇腹に印を刻んだ。俺が、お前を止める」
ルストは鋼色の目でクラウディオを見る。
「そう認めることになる」
クラウディオは、低く息を吐いた。
「……やはり、服従だ」
「認識だ」
「同じだ」
「違う」
「違わぬ!」
クラウディオの声が荒れる。
「名を呼ぶとは、相手を血に入れることだ。貴様を我の血の中へ入れろというのか。喉に痕を刻み、脇腹に印を刻み、今度は名まで刻ませる気か」
ルストは答えた。
「もう入っているだろう」
その言葉で、クラウディオの視界が赤く染まった。
喉の痕。
脇腹の印。
皿の血。
そして、記録に何度も書いた名。
ルスト。
もう入っている。
認めるかどうかの問題ではない。
クラウディオの身体は、すでにルストの痕を持っている。
それが耐えがたかった。
「消す」
クラウディオは低く言った。
「すべて消す。喉の痕も、脇腹の印も、貴様の名も」
「消えない」
「消す!」
「なら呼んでから消せ」
「なぜそうなる!」
「呼べ」
「呼ばぬ!」
ルストは、そこでクラウディオの顎を掴んだ。
強くはない。
だが、逃げられない。
喉の痕が近い。
クラウディオの身体が一瞬、硬直する。
その反応をクラウディオ自身が憎んだ。
「触れるな……ッ」
「名前を呼べ」
「離せ、下郎」
「名前を呼べ」
「我に命じるな」
「呼べ」
クラウディオは歯を食いしばる。
ルストの指が顎を固定する。
喉を晒されているわけではない。
だが、逃げられない。
この距離で、名を要求されている。
屈辱だった。
服従を迫られているようだった。
「……貴様の名など」
クラウディオは、低く言った。
「吐き気がする」
「それでも呼べ」
「灰銀」
「違う」
「狩人風情」
「違う」
「犬の躾しかできぬ陰湿な男」
「違う」
「王の喉に牙を立てた恥知らずの簒奪者」
「長い」
「貴様は本当に腹立たしい!」
ルストの口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったわけではない。
だが、クラウディオにはそう見えた。
それが許せない。
「笑うな!」
「笑っていない」
「笑った」
「呼べ」
「呼ばぬ!」
井戸のそばで、二人は睨み合った。
朝の霧が薄れていく。
遠くの村では、人間たちがまだ扉の内側で息を潜めている。
外縁の道には、野良吸血鬼の血の匂いが残っている。
だが今、クラウディオにとって世界の中心はそのどれでもなかった。
名。
たった二音。
ルスト。
それを言うか言わないか。
それだけで、喉の痕より熱く、脇腹の印より深く、彼の王権が揺さぶられている。
クラウディオは、やがて低く言った。
「我は、貴様の名を呼ばぬ」
「いつまで」
「永遠に」
「無理だな」
「なぜだ」
「一度呼んだ」
クラウディオの顔が、怒りで歪んだ。
「あれは違う」
「呼んだ」
「違うと言っている!」
「また呼ぶ」
「呼ばぬ!」
「呼ばせる」
ルストの指が顎から離れた。
クラウディオは即座に距離を取った。
距離を取ったことにまた腹が立つ。
ルストは何も言わない。
それがもっと腹立たしい。
「今日はここまでだ」
ルストが言った。
クラウディオは睨む。
「勝手に終わらせるな」
「歩く」
「命じるな」
「来い、クラウディオ」
「その名を呼ぶな!」
ルストは歩き出す。
クラウディオは数秒その背を睨み、それから歩いた。
従っているわけではない。
絶対に違う。
ただ、置いていかれるのが腹立たしいだけだ。
そう言い聞かせながら。
歩きながら、クラウディオは唇の内側で罵った。
灰銀。
狩人風情。
下郎。
簒奪者。
王の身体に印を刻んだ不敬者。
犬以下の管理者。
いくつでも罵れる。
いくらでも吐き捨てられる。
だが、その奥で、たった二音だけが沈んでいる。
ルスト。
呼ばない。
呼ばない。
絶対に呼ばない。
その拒絶こそが、自分がまだ服従していない証だと、クラウディオは信じていた。
ルストは前を歩いている。
振り返らずに言った。
「名前を呼べるようになったら、少しは扱いやすくなる」
「誰が貴様に扱われるか!」
「もう扱っている」
「違う!」
「なら呼べ」
「呼ばぬ!」
同じやり取り。
だが、そのたびに少しずつ、名はクラウディオの中で深くなる。
服従と名。
認識と屈辱。
拒絶と執着。
その境界が、少しずつ血に滲んでいく。
クラウディオはまだ呼ばない。
灰銀と呼ぶ。
狩人風情と罵る。
下郎と吐き捨てる。
それでも、ルストは淡々とクラウディオと呼び続ける。
王冠を剥ぎ、血の奥へ届くように。
クラウディオは、それに怒りながら歩いた。
喉の痕を熱く疼かせ、脇腹の印を外套の下で隠しながら。
その名だけは呼ばない。
まだ。
まだ、呼ばない。




