表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

61/231

第59話 名前を呼べ



 名を呼ぶことは、ただ音を口にすることではない。


 吸血鬼にとって、名は血に近い。


 血筋を示す。


 格を示す。


 契約を示す。


 誰に従い、誰を拒み、誰を記録し、誰を忘れないかを示す。


 だから、クラウディオ・ルジェリウスは名を軽く扱わない。


 臣下の名を呼ぶ時、それは処断の前触れだった。


 敵の名を記す時、それは後で必ず奪うという意味だった。


 王族の名を消す時、それは血統ごと歴史から削るという宣告だった。


 名を呼ぶとは、相手を存在として認めること。


 認めたうえで、支配すること。


 あるいは、支配される危険を受け入れること。


 だからクラウディオは、あれきりルストの名を呼ばなかった。


 灰銀。


 狩人風情。


 下郎。


 貴様。


 それで十分だった。


 いや、十分でなければならなかった。


 外縁の村は、夜明け前の薄い霧に沈んでいた。


 野良吸血鬼の気配は、すでにルストが処理している。


 村人たちは扉を閉ざし、窓の隙間から外を窺っているだけだった。助かったくせに礼を言いに出てこない。まあ人間が賢明な時だけは扉を閉める。普段からそうしていれば被害の半分は減るのに、悲しいほど遅い知恵である。


 クラウディオは村外れの井戸のそばに立っていた。


 外套の下、脇腹の灰銀印がまだ熱を持っている。


 前に許可なく血を奪おうとした時、印は容赦なく反応した。


 血を求めれば焼く。


 殺意を血術へ流せば焼く。


 自害へ向かっても、おそらく焼く。


 自分の身体の中に、ルストの制御がある。


 その事実を考えるだけで、クラウディオの血は怒りで沸いた。


 喉には牙の痕。


 脇腹には印。


 そして、給餌の器。


 皿。


 犬のようだという嘲笑。


 それらすべてが、クラウディオの内側に重なっている。


 だが、彼は倒れない。


 王だから。


 いや、王であろうとしているから。


 ルストは少し離れた場所で、野良吸血鬼の残した痕跡を見ていた。


 銀の刃を拭うでもなく、勝利に酔うでもなく、ただ地面を確認している。


 余計な動きがない。


 それもまた、クラウディオには腹立たしかった。


「灰銀」


 クラウディオは低く呼んだ。


 ルストは顔を上げる。


「何だ」


「いつまで人間どもの足跡を眺めている。貴様の狩りは終わったのだろう」


「まだだ」


「我を待たせるな」


「待たせていない」


「我は待っている」


「勝手にだ」


 クラウディオの瞳が赤く沈む。


「貴様は本当に、言葉の選び方が不敬だな」


「お前は本当に、いちいちうるさいな」


「誰に向かって言っている」


「クラウディオ」


 名。


 当然のように。


 クラウディオの喉の痕が熱を持った。


「その名を呼ぶな」


「呼ぶ」


「呼ぶなと言っている!」


「なら、お前も呼べ」


 クラウディオは一瞬、意味を測った。


 ルストが立ち上がる。


 灰銀の髪が霧の中で淡く光り、鋼色の瞳がクラウディオへ向く。


「俺の名を呼べ」


 沈黙。


 村の外れの井戸に、冷たい水音が落ちた。


 クラウディオは、ゆっくりと笑った。


 低く、美しく、冷たい笑みだった。


「何を言うかと思えば」


 彼は一歩、ルストへ近づく。


「貴様、ついに頭まで銀に焼かれたか」


「呼べ」


「誰が」


「お前が」


「何を」


「俺の名を」


 淡々とした声。


 命令の形。


 それがクラウディオの神経を逆撫でした。


「断る」


「呼べ」


「断ると言った」


「灰銀ではない」


「灰銀だ」


「狩人風情でもない」


「狩人風情だ」


「下郎でもない」


「下郎だ」


 クラウディオは、あえて一つずつ吐き捨てた。


 言葉で踏みつけるように。


「貴様は、灰銀の髪をした狩人風情で、王に牙を立てた身の程知らずの下郎だ。これ以上の名など要らぬ」


 ルストは動じない。


「名を知っているだろう」


「知らぬ」


「嘘だ」


「記録しただけだ」


「なら呼べる」


「呼ばぬ」


「なぜ」


 クラウディオの笑みが消えた。


 赤い瞳が細くなる。


「分かっていて聞くか」


「ああ」


「名を呼ぶとは、存在を認めることだ」


 クラウディオの声は低くなった。


「貴様を灰銀と呼ぶ限り、貴様はただの特徴だ。狩人風情と呼ぶ限り、貴様はただの役割だ。下郎と呼ぶ限り、貴様は我の下にある」


 ルストは黙って聞いている。


「だが名を呼べば違う。貴様は個になる。記録される。血の中に残る。我が貴様を、ただの障害ではなく、存在として認めたことになる」


 クラウディオの唇が歪む。


「そんな屈辱を、我が受け入れると思うか」


 ルストは短く答えた。


「思っていない」


「なら言うな」


「だから言わせる」


 その言葉に、クラウディオの血が跳ねた。


 灰銀印が、外套の下でわずかに熱を持つ。


 殺意が血へ流れかけたからだ。


 クラウディオは歯を食いしばった。


 止めた。


 止めてしまった。


 それをルストは見ている。


「印が効いているな」


「黙れ」


「名前を呼べ」


「貴様ァ……」


「呼べ、クラウディオ」


 また名。


 クラウディオの喉が震える。


「その名で我を縛るな」


「縛られているのは、お前が逃げるからだ」


「逃げる?」


 クラウディオの声が低くなる。


「我が?」


「俺の名から逃げている」


 クラウディオは笑った。


 だが、その笑いは短かった。


「笑わせるな。なぜ我が貴様の名から逃げる」


「呼べば認めることになるからだろう」


「そう言ったはずだ」


「なら、認めろ」


「命じるな」


「命令だ」


 その瞬間、井戸のそばの空気が凍った。


 クラウディオの瞳が、完全に禍々しい赤へ染まる。


「我に、命令だと」


「そうだ」


「王に向かって」


「そうだ」


「貴様の名を呼べ、と」


「そうだ」


 ルストは一歩も退かない。


 クラウディオは、喉の奥で低く唸った。


 怒りだけではない。


 屈辱。


 警戒。


 そして、わずかな理解。


 ルストはただ呼ばせたいのではない。


 名を呼ぶことが、服従の入口だと知っている。


 吸血鬼社会で、下位の者が上位の名を呼ぶ時、その声には意味が宿る。


 呼ぶことを許される。


 呼ぶことで従属を示す。


 呼ぶことで、自分の血がその名を記憶する。


 もちろん、ルストはその古い作法を口にしない。


 だが、知っている。


 知っているからこそ、言わせようとしている。


 クラウディオはそれに気づいた。


「貴様」


 声が低くなる。


「それを分かって言っているな」


「何を」


「名を呼ばせることが、服従の一歩だと」


 ルストは少しだけ目を細めた。


「そう思うなら、なおさら呼べ」


「我を従わせるつもりか」


「すでに管理している」


「違う!」


 クラウディオの声が裂ける。


 灰銀印が熱を持つ。


 痛みが脇腹を焼く。


 それでも彼は言葉を止めない。


「我は貴様に従ってなどいない! 貴様の名を呼ばぬことがその証だ!」


「違う」


「何が違う!」


「呼ばないことに必死な時点で、もう俺を見ている」


 クラウディオの息が止まった。


 ルストの声は平坦だった。


「本当に下郎だと思うなら、名前を避ける必要もない。呼んでも呼ばなくても同じだ。だが、お前は避けている」


「黙れ」


「名を呼んだら、何かが変わると知っているからだ」


「黙れと言っている」


「だから呼べ」


「黙れ!」


 血術が走った。


 赤黒い糸が井戸の縁から跳ね、ルストの喉を狙う。


 だが、途中で灰銀印が焼けた。


「ぐ、ッ……!」


 クラウディオの身体が折れかける。


 糸は空気の中で崩れる。


 ルストは避ける必要すらなかった。


 それが、最大の屈辱だった。


 クラウディオは脇腹を押さえ、怒りで震えながら立っている。


 ルストは静かに言った。


「殺意で動かすな」


「命じるな……!」


「呼べ」


「呼ばぬ!」


「呼べ」


「灰銀」


「違う」


「狩人風情」


「違う」


「王の身体に印を刻んだ恥知らず」


「違う」


「喉に牙を立てて、皿で血を飲ませ、人間を守るふりをして王を縛る下郎」


「長い」


 クラウディオの怒りが一瞬、変なところで止まりかけた。


「そこではない!」


「呼べ」


「呼ばぬ!」


 ルストが近づいた。


 クラウディオは一歩も退かない。


 退くわけがない。


 だが、距離が詰まる。


 喉の痕が熱くなる。


 脇腹の印も疼く。


 ルストはクラウディオの前で立ち止まった。


 近い。


 嫌になるほど近い。


「名前を呼べ」


 ルストが言う。


 クラウディオは低く返した。


「貴様の名など、我の口に乗せる価値もない」


「なら、その価値のない名にそこまで怯えるな」


「怯えてなどいない!」


「なら呼べ」


 逃げ道を塞ぐような言い方だった。


 呼ばなければ、怯えていることになる。


 呼べば、認めることになる。


 どちらにせよ、クラウディオにとっては屈辱だった。


 ルストは、言葉だけで罠を作る。


 血術ではない。


 銀刃でもない。


 ただ、名だけで。


 クラウディオはそれを理解して、ますます怒った。


「貴様は、我の何を奪えば気が済む」


 声は低い。


「血か。喉か。自由か。捕食か。殺意か。今度は名か」


「奪っていない」


「奪っている!」


「お前が隠すものを、外へ出しているだけだ」


「壊すことを、そう言い換えるな!」


 ルストは一瞬、黙った。


 それから言う。


「壊すのはお前の方が得意だろう」


 エリクのことだった。


 クラウディオの瞳が細くなる。


「まだあれを言うか」


「戻らなかった」


「望んだ」


「お前が望ませた」


「美しいものを望むのは、罪か」


「喰われたいと叫ばせるのは罪だ」


「つまらぬ道徳だ」


「管理理由だ」


 クラウディオは低く笑った。


「なら、管理者殿」


 皮肉をたっぷり込めた声。


「名を呼ばせれば、我が従うとでも?」


「すぐには従わない」


「当然だ」


「だが、呼べば逃げ道が一つ消える」


 クラウディオの顔から、笑みが消える。


 ルストは続けた。


「灰銀。狩人風情。下郎。そう呼べば、お前は俺を遠ざけられる。俺がつけた痕も、印も、皿も、全部“灰銀がしたこと”にできる」


 声は静かだった。


「だが名で呼べば違う」


 クラウディオは、息を止めている。


「ルストがしたことになる」


 その名が、ルスト自身の口から落ちた。


 クラウディオの喉が、わずかに動く。


 ルスト。


 知っている名。


 記録に書いた名。


 怒りで一度だけ呼んだ名。


 その音が、血の奥で疼く。


 「俺が、お前の喉に痕を残した。俺が、お前に皿で血を飲ませた。俺が、お前の脇腹に印を刻んだ。俺が、お前を止める」


 ルストは鋼色の目でクラウディオを見る。


「そう認めることになる」


 クラウディオは、低く息を吐いた。


「……やはり、服従だ」


「認識だ」


「同じだ」


「違う」


「違わぬ!」


 クラウディオの声が荒れる。


「名を呼ぶとは、相手を血に入れることだ。貴様を我の血の中へ入れろというのか。喉に痕を刻み、脇腹に印を刻み、今度は名まで刻ませる気か」


 ルストは答えた。


「もう入っているだろう」


 その言葉で、クラウディオの視界が赤く染まった。


 喉の痕。


 脇腹の印。


 皿の血。


 そして、記録に何度も書いた名。


 ルスト。


 もう入っている。


 認めるかどうかの問題ではない。


 クラウディオの身体は、すでにルストの痕を持っている。


 それが耐えがたかった。


「消す」


 クラウディオは低く言った。


「すべて消す。喉の痕も、脇腹の印も、貴様の名も」


「消えない」


「消す!」


「なら呼んでから消せ」


「なぜそうなる!」


「呼べ」


「呼ばぬ!」


 ルストは、そこでクラウディオの顎を掴んだ。


 強くはない。


 だが、逃げられない。


 喉の痕が近い。


 クラウディオの身体が一瞬、硬直する。


 その反応をクラウディオ自身が憎んだ。


「触れるな……ッ」


「名前を呼べ」


「離せ、下郎」


「名前を呼べ」


「我に命じるな」


「呼べ」


 クラウディオは歯を食いしばる。


 ルストの指が顎を固定する。


 喉を晒されているわけではない。


 だが、逃げられない。


 この距離で、名を要求されている。


 屈辱だった。


 服従を迫られているようだった。


「……貴様の名など」


 クラウディオは、低く言った。


「吐き気がする」


「それでも呼べ」


「灰銀」


「違う」


「狩人風情」


「違う」


「犬の躾しかできぬ陰湿な男」


「違う」


「王の喉に牙を立てた恥知らずの簒奪者」


「長い」


「貴様は本当に腹立たしい!」


 ルストの口元が、ほんのわずかに動いた。


 笑ったわけではない。


 だが、クラウディオにはそう見えた。


 それが許せない。


 「笑うな!」


「笑っていない」


「笑った」


「呼べ」


「呼ばぬ!」


 井戸のそばで、二人は睨み合った。


 朝の霧が薄れていく。


 遠くの村では、人間たちがまだ扉の内側で息を潜めている。


 外縁の道には、野良吸血鬼の血の匂いが残っている。


 だが今、クラウディオにとって世界の中心はそのどれでもなかった。


 名。


 たった二音。


 ルスト。


 それを言うか言わないか。


 それだけで、喉の痕より熱く、脇腹の印より深く、彼の王権が揺さぶられている。


 クラウディオは、やがて低く言った。


「我は、貴様の名を呼ばぬ」


「いつまで」


「永遠に」


「無理だな」


「なぜだ」


「一度呼んだ」


 クラウディオの顔が、怒りで歪んだ。


「あれは違う」


「呼んだ」


「違うと言っている!」


「また呼ぶ」


「呼ばぬ!」


「呼ばせる」


 ルストの指が顎から離れた。


 クラウディオは即座に距離を取った。


 距離を取ったことにまた腹が立つ。


 ルストは何も言わない。


 それがもっと腹立たしい。


「今日はここまでだ」


 ルストが言った。


 クラウディオは睨む。


「勝手に終わらせるな」


「歩く」


「命じるな」


「来い、クラウディオ」


「その名を呼ぶな!」


 ルストは歩き出す。


 クラウディオは数秒その背を睨み、それから歩いた。


 従っているわけではない。


 絶対に違う。


 ただ、置いていかれるのが腹立たしいだけだ。


 そう言い聞かせながら。


 歩きながら、クラウディオは唇の内側で罵った。


 灰銀。


 狩人風情。


 下郎。


 簒奪者。


 王の身体に印を刻んだ不敬者。


 犬以下の管理者。


 いくつでも罵れる。


 いくらでも吐き捨てられる。


 だが、その奥で、たった二音だけが沈んでいる。


 ルスト。


 呼ばない。


 呼ばない。


 絶対に呼ばない。


 その拒絶こそが、自分がまだ服従していない証だと、クラウディオは信じていた。


 ルストは前を歩いている。


 振り返らずに言った。


「名前を呼べるようになったら、少しは扱いやすくなる」


「誰が貴様に扱われるか!」


「もう扱っている」


「違う!」


「なら呼べ」


「呼ばぬ!」


 同じやり取り。


 だが、そのたびに少しずつ、名はクラウディオの中で深くなる。


 服従と名。


 認識と屈辱。


 拒絶と執着。


 その境界が、少しずつ血に滲んでいく。


 クラウディオはまだ呼ばない。


 灰銀と呼ぶ。


 狩人風情と罵る。


 下郎と吐き捨てる。


 それでも、ルストは淡々とクラウディオと呼び続ける。


 王冠を剥ぎ、血の奥へ届くように。


 クラウディオは、それに怒りながら歩いた。


 喉の痕を熱く疼かせ、脇腹の印を外套の下で隠しながら。


 その名だけは呼ばない。


 まだ。


 まだ、呼ばない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ