第58話 禁じた血
脇腹の印は、熱を持っていた。
常に、ではない。
歩くだけなら沈黙している。
息をするだけなら、ただ皮膚の下に灰銀色の違和感を残すだけだ。
だが、血術を動かそうとした時。
殺意を血へ流した時。
近くの血を奪おうとした時。
その印は、まるで眠っていた獣が目を開けるように熱を帯びる。
クラウディオは、それを認めていなかった。
認めるはずがなかった。
灰銀印。
ルストはそう呼んだ。
無差別な捕食と殺戮を防ぐための印。
危険個体として扱うための印。
王の身体に刻まれた、管理の証。
そんなものを、クラウディオが受け入れるはずがない。
喉には消えない牙の痕。
脇腹には灰銀印。
どちらもルストが刻んだ。
王の身体に。
吸血鬼王クラウディオ・ルジェリウスの身体に。
その事実だけで、血が煮えるようだった。
外縁の森は、朝を拒むように暗かった。
曇った空の下、木々は黒く湿り、葉の裏には夜露が残っている。遠くで人間の荷車が軋む音がした。
ルストは少し離れた場所で痕跡を見ている。
昨夜の野良吸血鬼の群れが、北路沿いの村へ向かった可能性があると言った。
クラウディオは同行していた。
自分の意思で。
少なくとも、彼はそう考えている。
ルストに従っているわけではない。
管理されているわけでもない。
灰銀を殺す機会を逃さないために、隣を歩いているだけだ。
そう言い聞かせなければ、喉の痕も脇腹の印も、怒りで裂いてしまいそうだった。
道の先に、人間がいた。
若い男だった。
外縁の村人だろう。
荷車を押していたらしいが、片輪が泥に嵌まり、必死に引き上げようとしている。手の甲に小さな傷があった。
ほんの浅い切り傷。
だが、血が滲んでいた。
人間の血。
恐怖の混じらない、まだ日常の温度を持つ血。
クラウディオの喉が、かすかに鳴りかけた。
前夜、エリクを喰った。
血肉まで、骨も残さず。
満ちたはずだった。
だが、王血は底が深い。
そしてクラウディオの飢えは、ただの空腹ではない。
奪いたい。
選びたい。
飲みたい。
自分で。
ルストに与えられた血ではなく、床の皿ではなく、管理された量ではなく。
目の前にある生きた血を、自分の意志で奪いたい。
その衝動が、指先へ走った。
赤黒い血術が、ほんの細く地面を這う。
男の手首へ。
傷口へ。
血を呼ぶだけなら簡単だ。
血管を少し開かせ、血を外へ誘い、空気の中で霧へ変えて吸い寄せればいい。
噛まなくても飲める。
触れなくても奪える。
王の血術なら、それができる。
クラウディオは微笑んだ。
ルストはまだこちらを見ていない。
男も気づいていない。
何も問題はない。
王が血を飲む。
それだけだ。
血術の糸が、男の傷口へ届きかけた。
その瞬間。
脇腹が焼けた。
「――ッ!?」
声が出なかった。
まず熱が来た。
次に痛み。
皮膚の上を焼かれる痛みではない。
肉を裂かれる痛みでもない。
脇腹に刻まれた灰銀印が、内側から燃え上がる。血脈へ直接、灼けた楔を打ち込まれたようだった。
クラウディオの身体が大きく跳ねた。
血術の糸が途切れる。
男の傷口へ届く前に、赤黒い糸は空気の中で崩れた。
「ぐ、ぅ……ッ!」
クラウディオは脇腹を押さえた。
膝が落ちかける。
落ちてたまるか。
王が、こんな道端で、印の痛みに膝をつくなど。
あってはならない。
彼は歯を食いしばり、無理やり立った。
だが、灰銀印はまだ焼けている。
血を奪おうとした。
ただそれだけで。
印が反応した。
クラウディオの瞳が、赤く見開かれる。
「……まさか」
低く呟く。
血術をもう一度、動かす。
ほんの少し。
男へではない。
足元の葉へ。
試すために。
何も起きない。
次に、男の血へ意識を向ける。
血を呼ぶ。
奪う。
その意図を、ほんのわずかに血へ流した瞬間。
脇腹が焼けた。
「あが、ッ……!」
今度は声が漏れた。
鋭く、短く、屈辱的な呻き。
身体がくの字に折れかける。
クラウディオは片手で木の幹を掴み、どうにか踏み止まった。
男が驚いてこちらを見る。
ルストも振り返っていた。
鋼色の瞳が、すぐに状況を読む。
クラウディオは、息を荒げながらルストを睨んだ。
「貴様……」
声が掠れる。
「何を刻んだ……!」
ルストはゆっくり近づいた。
男へは短く言う。
「村へ戻れ。荷は置いていけ」
男は戸惑ったが、ルストの声に逆らえず、慌てて荷車から離れて村の方へ走った。
クラウディオはそれを見た。
血が遠ざかる。
奪おうとした血が。
ルストの一言で。
屈辱がまた増える。
「逃がすな」
クラウディオは低く言った。
「我の血だ」
「違う」
「我が選んだ」
「許可していない」
クラウディオの顔が怒りで歪む。
「誰の許可だ」
「俺の」
短い返答。
その瞬間、クラウディオの血が怒りで跳ねた。
血術をルストへ向ける。
殺意ではない。
いや、殺意だ。
明確な殺意。
だが、その殺意が血へ乗った瞬間、脇腹の印がさらに強く焼けた。
「ぎ、ぃ……ッ!!」
悲鳴に近い声が漏れる。
クラウディオはその場で身体を折った。
指が木の幹へ食い込む。
爪が割れ、樹皮が裂ける。
印が、熱い。
焼ける。
血が内側から灼かれる。
「ぐ、あ゛……ッ、貴様、何を……何をした……ッ!」
ルストは目の前に立つ。
刃を抜かない。
手を出さない。
ただ見る。
それがさらに腹立たしい。
「説明したはずだ」
「もう一度言え……!」
「無差別な捕食と殺戮を止める印だ」
ルストの声は冷たい。
「許可なく血を奪おうとすれば焼く。殺意で血術を動かせば焼く。飢えに任せて近くの血を呼べば焼く」
クラウディオは、脇腹を押さえたまま睨んだ。
「我の身体に、そんなものを……」
「刻んだ」
「我の血術を、貴様が制御すると……?」
「そうだ」
「思い上がるなァッ!」
怒声。
だが、声に血が乗った瞬間、また印が反応した。
クラウディオの身体が跳ねる。
「が、ぁ……ッ!」
喉から苦鳴が漏れる。
視界の端が白く滲む。
膝が震える。
それでも倒れない。
倒れるものか。
ルストの前で。
灰銀印に焼かれて。
王が。
「殺意を乗せるな」
ルストが言った。
「命じるな……ッ!」
「なら焼ける」
「貴様……ッ」
「それが印だ」
クラウディオは笑った。
低く、震える笑い。
痛みで喉が乱れている。
それでも笑った。
「よくも……よくも、我にそんな首輪を……」
「首輪ではない」
「同じだ!」
クラウディオは怒鳴った。
「我の血を、我の飢えを、我の殺意を、貴様の許可なしに動かせぬようにした。これが首輪でなくて何だ!」
ルストは少し沈黙した。
そして、淡々と言った。
「手綱だ」
クラウディオの瞳が、完全に赤く染まる。
「ルスト……!」
名が出た。
怒りの底から。
出したくない名が。
そのことに気づいた瞬間、さらに屈辱が燃える。
ルストは表情を変えない。
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな!」
「落ち着け」
「落ち着けると思うか!」
血が荒れる。
印が焼ける。
クラウディオの身体が震える。
痛みで。
怒りで。
屈辱で。
彼は脇腹の印を爪で抉ろうとした。
外套を乱暴に押しのけ、白い肌に浮かぶ灰銀色の紋へ指を立てる。
消す。
抉る。
皮膚ごと剥がす。
血ごと焼き潰す。
そう思った瞬間、灰銀印が赤黒く脈打った。
「っ、ぁあああッ!!」
クラウディオの背が弓なりに跳ねる。
印に触れた指先から、血脈の奥へ焼ける痛みが走る。
抉れない。
触れることすら拒まれる。
クラウディオは手を離した。
荒い息が漏れる。
屈辱で視界が歪む。
自分の身体の印に、触れる自由すらない。
「……消えぬのか」
低い声。
「消えない」
「消す」
「消せない」
「我が消すと言っている!」
「なら、また焼ける」
ルストの返答は、どこまでも平坦だった。
それが腹立たしい。
怒鳴っても、嘲っても、痛みに震えても、この男は揺れない。
揺れずに、クラウディオの身体に刻んだ制御の効果を見ている。
まるで、管理記録でも取るように。
クラウディオは、赤い目でルストを睨んだ。
「貴様は、我をどこまで辱めれば気が済む」
「辱めが目的じゃない」
「嘘をつけ!」
「止めることが目的だ」
「同じことだ!」
クラウディオの声が裂ける。
「我から血を奪う自由を奪い、殺す自由を奪い、死ぬ自由を奪い、飲む血すら貴様が決める。これを辱めと言わず何と言う!」
「管理」
「その言葉をやめろ!」
怒りで血が走る。
また印が焼ける。
クラウディオは歯を食いしばり、今度は声を殺した。
呻きたくない。
ルストに見せたくない。
だが、身体は正直だった。
指先が震える。
膝が細かく揺れる。
唇から、浅い息が漏れる。
ルストはそれを見ている。
見られている。
それだけで、クラウディオはさらに怒る。
「見るな……」
低い声。
「見るなと言っているだろうが……ッ」
「見ておく必要がある」
「必要?」
「どの程度で印が反応するか」
クラウディオは、一瞬、言葉を失った。
この痛みすら。
この屈辱すら。
ルストにとっては観察対象なのか。
どの程度の殺意で焼けるか。
どの程度の捕食衝動で止まるか。
どの程度なら動けるか。
王の苦痛が、管理のための情報になる。
クラウディオは、喉の奥で壊れたように笑った。
「なるほど……」
声が低い。
「我を本当に、危険個体として見ているのだな」
「そうだ」
「王ではなく」
「王でもある」
「管理対象でもある、と?」
「そうだ」
クラウディオの瞳が揺れる。
怒りで。
認めたくない理解で。
「なら、貴様は何だ」
「管理者だ」
「違う」
クラウディオは吐き捨てた。
「貴様は簒奪者だ」
ルストの目がわずかに細くなる。
クラウディオは続ける。
「王の血に牙を立て、喉に痕を残し、脇腹に印を刻み、血の自由を奪う。これを管理と呼ぶなら、貴様は王権を奪う者だ」
「王権には興味がない」
「ではなぜ我を縛る」
「お前が放っておけないからだ」
クラウディオは息を止めた。
その言葉の響きが、気に入らなかった。
放っておけない。
まるで心配のように聞こえる。
まるで義務のように。
まるで所有のように。
どれも不快だった。
「貴様に放っておかれぬ筋合いはない」
「ある」
「ない!」
「今、血を奪おうとした」
「あれは我の血だ」
「違う」
「違わぬ! 王が欲した血は王のものだ!」
「だから印を刻んだ」
またそこへ戻る。
クラウディオは、怒りで息を荒げる。
ルストは少しだけ近づいた。
クラウディオは反射的に後ろへ下がりかけ、止めた。
下がれば、逃げたように見える。
それだけは嫌だった。
ルストはその反応を見ていた。
「痛むなら座れ」
「命じるな」
「倒れるぞ」
「倒れぬ」
「膝が震えている」
「黙れ!」
印が、まだ熱い。
痛みは少しずつ引き始めているが、完全には消えない。
脇腹の奥で、灰銀色の楔が残っている。
まるで、次を待っているように。
また血を奪おうとすれば焼く。
また殺意で血術を走らせれば焼く。
また自分の自由を取り戻そうとすれば、痛みで止める。
クラウディオは、その仕組みを理解した。
理解してしまった。
怒りに震える。
身体ごと。
血ごと。
王権ごと。
「禁じたのか」
彼は低く言った。
ルストは黙っている。
「我に、許可なく血を奪うなと」
「そうだ」
「禁じたのか、貴様が、我に」
「そうだ」
クラウディオは笑った。
今度は静かだった。
あまりに静かで、森の空気が凍る。
「覚えておけ」
赤い瞳が、ルストを射る。
「禁じられた血ほど、甘くなる」
ルストの表情は変わらない。
「なら、なおさら管理する」
「貴様は本当に、つまらぬ男だ」
「お前は本当に、懲りない」
「王だからな」
「危険個体だからだ」
クラウディオは、今度こそ血術を動かさなかった。
動かせば焼ける。
それを知ったからだ。
その事実が、さらに屈辱だった。
理解した自分を憎む。
止めた自分を憎む。
だが、印の痛みは本物で、身体はそれを覚えてしまった。
クラウディオは、外套を整えた。
脇腹の印を隠す。
見せたくない。
隠したい。
その衝動を自覚し、彼はまた唇を歪めた。
恥じているのだ。
喉の痕と同じように。
脇腹の印を。
ルストの制御を。
「恥じたまま生きろ」と言った男が、また一つ恥を増やした。
クラウディオは、低く呟いた。
「灰銀」
「何だ」
「いつか、貴様が我に許可を乞うようにしてやる」
「何の」
「血を流す許可だ」
ルストはしばらくクラウディオを見た。
それから、短く言った。
「その前に歩け」
「命じるな」
「村へ行く」
「我は行かぬ」
「さっき逃がした人間が、村へ知らせに行く。野良が追う可能性がある」
「知るか」
「来い、クラウディオ」
「その名を呼ぶな!」
怒鳴った瞬間、脇腹がわずかに熱を持つ。
血へ怒りが乗りかけたせいだ。
クラウディオは息を呑み、歯を食いしばった。
ルストはそれを見た。
何も言わなかった。
言わないことが、また腹立たしい。
クラウディオは歩き出した。
従っているわけではない。
村のためでもない。
ただ、この場に残れば、印に屈したように見えるからだ。
そう言い聞かせながら。
脇腹の灰銀印は、外套の下で静かに熱を持っていた。
禁じた血。
許可なく奪おうとすれば焼く血。
王が欲しても、王のものにならない血。
クラウディオは、その制御を知った。
そして、怒りに震えた。
震えながらも、歩いた。
自分の身体の中に、灰銀の手綱があることを否定しながら。
否定しきれない痛みを抱えたまま。




