第57話 脇腹の印
死んだ給餌係の血は、まだ温かかった。
床に広がり、寝台の布を濡らし、落ちた防護符の銀線を赤く染めている。
エリクはもう動かない。
先ほどまで、クラウディオの名を甘く呼んでいた口は閉じ、クラウディオに喰われたいと叫んでいた喉は沈黙していた。
だが、その血だけが、まだ部屋に残っている。
恐怖と陶酔と破滅で甘くなった人間の血。
クラウディオ・ルジェリウスは、唇についた血を舐めた。
美しい仕草だった。
信じがたいほどに。
目の前で人間が死んだ直後とは思えない。罪悪感など欠片もなく、悔恨もなく、ただ味を確かめるように赤い舌先が唇をなぞる。
「甘い」
静かな声。
その一言に、ルストの目が冷たくなる。
「クラウディオ」
「その名を呼ぶな」
クラウディオは、死んだエリクの方へ視線を戻した。
赤い瞳が、妖しく細められる。
「もったいない」
ルストの表情が、わずかに変わった。
ほんのわずか。
だが、確かに変わった。
クラウディオはそれを見逃さない。
笑う。
「何だ、その目は」
「やめろ」
「命じるな」
「それ以上は、やめろ」
「なぜだ」
クラウディオは、寝台へ歩み寄った。
エリクの身体は、まだ完全に冷えていない。
喰われたいと願った男。
クラウディオの一部になりたいと、血も肉も命も差し出した男。
そして、クラウディオに届く前に自ら壊れた男。
クラウディオは、白い指でエリクの頬へ触れた。
優しく。
生きていた時と同じように。
「こいつは我に望んだ。血も肉も、骨も、命も。なら、叶えてやるのが王の慈悲だろう」
「慈悲ではない」
「では何だ」
「捕食だ」
「そうとも言う」
クラウディオは微笑んだ。
ルストが動いた。
クラウディオの手首を掴もうとする。
だが、クラウディオはその直前に血術を走らせた。
床の血が跳ねる。
エリクの血だ。
死んだばかりの血。
それが赤い膜となってルストの動きを一瞬だけ遮った。
ほんの一瞬。
だが十分だった。
クラウディオは、エリクの身体へ牙を沈めた。
部屋の空気が変わる。
ルストの鋼色の瞳が、さらに冷たくなる。
クラウディオは、もう止まらなかった。
血を吸うだけではない。
血だけで済ませない。
エリクが望んだ通り、血肉まで喰らう。
ただし、それは獣の食事ではなかった。
吸血鬼王の捕食だった。
美しく、静かで、なお残酷だった。
血がクラウディオの喉を通る。
肉は赤い光に解けるように、王の内側へ沈んでいく。
骨の名残すら、血術に砕かれ、灰のように消えていく。
咀嚼の音が小さく響くたび、部屋の温度が下がった。
エリクは、望んだ通り、クラウディオの中へ消えていく。
血も。
肉も。
骨も。
声も。
願望も。
すべて。
ルストは、それを見ていた。
止めるには、遅すぎた。
いや、ルストなら止められたかもしれない。
だが、血が動き、死体が喰われ、クラウディオの捕食が始まった瞬間、彼は別の判断をした。
止めるだけでは足りない。
この王は、ただ牙を立てるから危険なのではない。
近づいた者を狂わせる。
望ませる。
死を甘く見せる。
そして、死んだ後ですら糧にする。
これをただの拘束で止めることはできない。
檻では足りない。
皿でも足りない。
言葉でも足りない。
印が要る。
ルストの目が、クラウディオの身体へ向いた。
喉には牙の痕。
そこはもう刻まれている。
だが、それは捕食抑制ではない。
支配反転の証であり、王血へ触れた印であり、クラウディオの恥だ。
無差別な捕食と殺戮を止めるためには、別の印が必要だった。
場所は、喉ではない。
腕でもない。
手首でもない。
逃げる度に見える場所では意味が薄い。
隠せるが、消せない場所。
身体を捻れば痛み、血術を使えば焼け、捕食衝動が走れば警告として反応する場所。
脇腹。
王の衣の下に隠れる、白い肉。
そこへ刻む。
クラウディオは、エリクを食べ尽くした。
本当に、何も残さなかった。
寝台には、血の跡と、防護符の残骸だけがある。
エリクだったものは、もうない。
クラウディオの唇は赤く濡れていた。
頬にも血がつき、喉の牙痕は妖しく熱を持っている。
彼はゆっくり振り返った。
これまでのどんな美人よりも、美しかった。
どんな時代の王妃よりも、聖女よりも、魔女よりも。
血を喰らった吸血鬼王は、美しく、妖しく、破滅そのもののように笑っていた。
「満ちた」
クラウディオは囁いた。
「やはり、自分で選ぶ血は良い」
ルストは低く言った。
「終わりだ」
「何が」
「その自由が」
クラウディオの瞳が赤く細まる。
「貴様が決めるな」
「俺が決める」
ルストが踏み込んだ。
クラウディオは血術を起こす。
床の血。
エリクの残滓。
自分の血。
喉の痕から脈打つ王血。
すべてを使い、ルストを止めようとする。
だが、ルストは真正面から来た。
銀刃は抜かない。
腕を伸ばす。
クラウディオの血術が跳ねる前に、その起点を踏む。
手首を掴む。
肩を押さえる。
腰へ膝を入れる。
クラウディオの身体が壁へ叩きつけられた。
「ぐ、ッ!」
息が詰まる。
クラウディオはすぐに暴れた。
「離せ、灰銀!」
「離さない」
「殺す……!」
「刻む」
その言葉に、クラウディオの動きが一瞬止まった。
「何を」
ルストは答えなかった。
クラウディオの外套を掴む。
破るのではなく、押し開く。
脇腹が月光に晒される。
白い肌。
王の身体。
喉の痕とは違う、まだ誰の印もない場所。
クラウディオの赤い瞳が見開かれる。
「触れるな」
声が低くなる。
「そこに触れるな、貴様……!」
ルストの手には、いつの間にか灰銀色の封具があった。
刃ではない。
焼印にも似ているが、金属だけではない。
古い文字が浮かび、銀と血の混ざった光が内側から脈打っている。
魔導印。
管理のための印。
無差別な捕食、殺戮、血術暴走を制限するためのもの。
ルストはそれをクラウディオの脇腹へ近づけた。
クラウディオは暴れた。
全力で。
「やめろ……ッ!」
拒絶だった。
怒声ではなく、初めて本気の拒絶に近い声だった。
「我に印を刻むな……! 我の身体に、貴様の管理など……ッ!」
「必要だ」
「必要などない!」
「今、喰った」
「あれは望んだ!」
「だから危険だ」
ルストの声は冷たい。
「望ませるからだ」
クラウディオの喉が詰まる。
ルストは続ける。
「お前は、噛む前に壊す。喰う前に堕とす。止めても、相手が自分で死ぬところまで引く」
封具が脇腹へ近づく。
クラウディオの呼吸が乱れる。
「だから刻む」
「やめろ……!」
「止めるためだ」
「命じるな、触れるな、刻むなァッ!!」
ルストは止まらない。
灰銀色の魔導印が、クラウディオの脇腹へ押し当てられた。
次の瞬間、クラウディオの声が壊れた。
「ぎ、ぃいいいいいいいいッ!!」
絶叫。
高く、引き攣り、すぐに濁る。
焼印などではない。
灼熱の金属を押し当てられる痛みより、さらに深い。
皮膚だけではない。
肉だけでもない。
血脈へ。
王血の流れへ。
捕食衝動の根へ。
殺戮の命令が生まれる場所へ。
そこへ、灰銀の印が食い込んでいく。
クラウディオの身体が大きく跳ねた。
壁に背が打ちつけられる。
膝が跳ね、腰が逃げようと震え、指先がルストの腕を掻く。
だが逃げられない。
ルストの力は揺れない。
封具は脇腹から離れない。
「が、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!! やめろ、やめろォッ!!」
王の声ではない。
喉が裂けた獣の咆哮。
クラウディオの瞳が上へ滑り、白目が覗く。
だが、意識は飛ばない。
飛ばせない。
印が刻まれる痛みが、意識を無理やり引き戻し続ける。
失神すら許さない痛み。
最悪だった。
「ぐ、ぅ……ッ、身体が……勝手に、跳ね……ッ!」
血術が暴れようとする。
だが、そのたびに脇腹の印が赤黒く焼ける。
無差別捕食へ向かう衝動。
殺戮へ走る血術。
近くの血をすべて奪おうとする王血の癖。
それらが印に触れた瞬間、焼かれる。
クラウディオは、自分の血が内側から焼かれるような感覚に絶叫した。
「焼ける……ッ、血が、血が焼けるゥッ!!」
ルストは答えない。
ただ、封具を押し当て続ける。
刻み終えるまで。
クラウディオは暴れた。
壁に爪を立てる。
床を蹴る。
ルストの腕を掻く。
首を振る。
血術を出そうとする。
すべて印の痛みに潰される。
「俺の王権に触れるな……ッ!!」
叫びながら、クラウディオは自分の言葉が崩れていることに気づいた。
我ではない。
俺。
痛みに引きずられ、王の口調すら乱れた。
その事実がさらに屈辱となり、彼は喉を裂くように怒鳴った。
「見るな……ッ、見るな、見るなァッ!!」
ルストは見ている。
冷たく。
逃がさず。
刻むために。
「貴様、我を何だと……ッ、誰だと思って……ぎ、ぃいいいいッ!!」
言葉が悲鳴へ潰れる。
魔導印が皮膚の下へ沈み、肉へ入り、血脈へ定着する。
灰銀色の紋が、クラウディオの白い脇腹に浮かぶ。
美しい。
残酷に美しい印だった。
細い環。
その中に走る古い文字。
中心には灰銀の楔のような紋。
クラウディオの身体が、自分のものではなく管理下にあると示す印。
王に焼かれる危険個体の刻印。
クラウディオの口から、さらに大きな絶叫が漏れた。
「あがああああああッ!! 殺す……ッ、目が覚めたら、必ず……貴様だけは……ッ!!」
「今、起きている」
ルストが言った。
クラウディオは答えられない。
印の最後の一線が刻まれた。
その瞬間、痛みが爆発した。
「――――ッ!!」
声にならない絶叫。
クラウディオの背が弓なりに反り、指先が硬直し、瞳が白く上がった。
喉から泡混じりの息が漏れる。
膝が崩れる。
それでもルストが支えているため、床へ落ちきれない。
痛みは終わらない。
焼印を押し当て続けられる痛みより重く、深く、長い。
皮膚の表面ではなく、血脈の内側で燃え続けている。
印が定着したのだ。
クラウディオは、荒い息の中でルストを睨もうとした。
焦点が合わない。
それでも睨む。
王だからではない。
憎悪が残っているからだ。
「……ころ、す……」
掠れた声。
「貴様、だけは……必ず……ッ」
ルストは封具を離した。
脇腹には、灰銀色の魔導印が残っている。
赤く熱を持ち、皮膚の下で脈打つように淡く光る。
ルストはそれを見て言った。
「灰銀印だ」
クラウディオの瞳が、白く揺れたまま赤へ戻りかける。
「……何」
「無差別な捕食と殺戮を防ぐ。血術が暴走すれば焼く。飢えで近くの人間へ牙を向ければ止める。自害へ血を使っても反応する」
淡々とした説明。
クラウディオは、息を荒げながら聞いていた。
聞きたくない。
だが、聞こえる。
「お前は危険個体だ。檻に入れても意味はない。だから身体に刻んだ」
クラウディオの顔が、怒りと屈辱で歪む。
「我を……家畜のように……印を……」
「家畜なら、もう少し大人しい」
「貴様ァ……ッ!」
怒りで血術が動きかけた。
その瞬間、脇腹の印が焼けた。
クラウディオの身体が跳ねる。
「ぎっ、ぁああッ!!」
短い悲鳴。
本人が一番驚いた。
血術を動かそうとしただけで、印が反応した。
身体の内側から焼かれる。
クラウディオは脇腹を押さえ、膝をついた。
屈辱。
さらに深い屈辱。
もう、血術を動かすことさえ自由ではない。
殺意を血へ流せば、印が焼く。
捕食へ向かえば、印が止める。
逃げようとすれば、恐らく痛む。
これは檻ではない。
だが、身体の中に檻を入れられたのと同じだった。
クラウディオは、荒い息の中で笑った。
喉が掠れる。
脇腹が焼ける。
それでも笑った。
「……よくも」
低い声。
「よくも、我に……印を……」
ルストは言った。
「必要だった」
「黙れ」
「お前は、人を壊した」
「勝手に壊れた」
「お前が壊した」
「違う」
「違わない」
ルストの声が少しだけ重くなる。
「エリクは戻らない」
クラウディオは、唇についた残りの血を舐めた。
痛みに震えながら。
それでも妖しく笑った。
「戻る必要があるか。あれは我の一部になった」
ルストの目が冷たくなる。
「だから刻んだ」
「また刻んだら、今度こそ殺す」
「刻まれるようなことをするな」
「命じるな……!」
クラウディオは立とうとした。
脇腹の痛みで膝が揺れる。
それでも立つ。
壁に手をつき、血の匂いの中で身体を起こす。
外套は乱れ、脇腹は晒され、灰銀印が赤く脈打っている。
喉には牙の痕。
脇腹には管理の印。
二つ。
ルストが刻んだもの。
王の身体に。
クラウディオは、自分の身体が自分だけのものではなくなったような屈辱に、喉の奥で低く唸った。
「消す」
「消えない」
「消すと言っている」
「消そうとすれば焼ける」
クラウディオの指が、印へ触れかけて止まる。
悔しい。
触れることすら躊躇する自分が、死ぬほど悔しい。
ルストは見ている。
それも分かる。
クラウディオは、指を無理やり印へ押し当てた。
瞬間、焼けるような痛みが走る。
「ぐ、ッ……!」
声を噛み殺す。
だが、呻きは漏れた。
ルストは動かない。
「やめろ」
「命じるな」
「痛むだけだ」
「知るか……!」
クラウディオは指を離した。
印は消えていない。
灰銀色の紋が、変わらず脇腹にある。
屈辱の証として。
管理の証として。
危険個体の印として。
クラウディオは、ルストを睨んだ。
「覚えておけ、灰銀」
声は掠れ、怒りで震えていた。
「喉の痕も、この印も、我は忘れぬ」
「忘れるな」
「貴様が我の身体に刻んだすべてを、いつか貴様に返す」
「できるなら」
クラウディオの赤い瞳が燃える。
「必ずだ」
ルストは何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
部屋には、エリクだったものはもう残っていない。
血の跡だけがある。
防護符の残骸。
空の器。
そして、王の身体に刻まれた灰銀印。
ルストは判断した。
この王は、近づいた者を壊す。
噛む前に堕とし、喰う前に狂わせ、死んだ後まで糧にする。
だから、もうただの同行では足りない。
管理は、身体へ刻む段階へ移った。
クラウディオは、それを屈辱として受け取った。
王に印など必要ない。
王は印を刻む側だ。
所有する側だ。
管理する側だ。
それなのに、脇腹に灰銀の印を刻まれた。
隠せる場所。
だが、消せない場所。
血術を動かすたびに痛む場所。
殺意のたびに思い出す場所。
クラウディオは外套を乱暴に閉じた。
印を隠す。
隠した瞬間、それもまた屈辱だと気づく。
見せたくない。
それは、恥じているということだ。
クラウディオは低く笑った。
壊れたような笑いだった。
「恥じたまま生きろ、だったな」
ルストは黙っている。
「よくできた罰だ、灰銀」
クラウディオの赤い瞳が、妖しく光る。
「だが、我は恥を抱いたままでも王だ」
ルストは短く答えた。
「なら、暴れるな」
「それとこれとは別だ」
「別にするな」
「命じるな」
いつものやり取り。
だが、もう同じではない。
クラウディオの身体には、喉の痕に加え、脇腹の印がある。
ルストは、王の外側だけではなく、血脈の内側に手綱をかけた。
クラウディオはそれを認めない。
認めないまま、痛みを抱えて立っている。
灰銀印は、外套の下で静かに熱を持っていた。
まるで、王の血へ言い聞かせるように。
お前は自由ではない、と。
クラウディオは、その熱を憎んだ。
そして、憎みながら覚えた。
この痛みを。
この印を。
この屈辱を。
いつか返すために。
必ず。
血も、肉も、骨も残さず。




