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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第56話 止める手



 扉が開いた瞬間、部屋の空気が変わった。


 冷たい夜気が入り込む。


 銀線が低く鳴る。


 床に落ちた防護符が、わずかに震えた。


 クラウディオは、エリクの首筋へ牙を触れさせたまま、入口の男を見た。


 ルスト・ヴァルレイン。


 灰銀の髪。


 鋼色の瞳。


 表情は変わらない。


 だが、部屋の温度だけが明らかに下がった。


 エリクは気づいていない。


 いや、気づいていても、もう戻れなかった。


 寝台に押し倒されたまま、首筋を晒し、喉を震わせ、クラウディオの牙を待っている。


 目は蕩けていた。


 恐怖ではない。


 拒絶でもない。


 懇願だった。


「クラウディオ様……」


 掠れた声。


「早く……早く、ください……」


 クラウディオは微笑んだ。


 牙はまだ、皮膚を破っていない。


 だが、触れている。


 それだけでエリクは震えている。


 喰われたい。


 血を飲まれたい。


 血肉まで王の中へ入れられたい。


 その願望を、クラウディオはもう完全に掘り起こしていた。


 ルストは一歩、部屋へ入った。


「離れろ」


 短い声だった。


 クラウディオは牙を外さない。


 赤い瞳だけを細める。


「命じるな」


「離れろ、クラウディオ」


「その名を呼ぶな」


「離れろ」


「王が血を飲むことの、何が悪い」


 クラウディオの声は甘かった。


 挑発でもあり、開き直りでもあった。


「給餌係だろう。血を与えるために来た。自ら首を差し出している。なら、我が飲んで何が悪い」


 ルストの目が、エリクへ向く。


 エリクはその視線に気づいても、ルストを見ない。


 クラウディオだけを見ている。


 まるで、もう世界に他のものがないように。


「違う」


 ルストが言った。


「違う?」


 クラウディオは低く笑った。


「本人が望んでいる」


「お前がそうさせた」


「我が命じたわけではない」


 クラウディオの指が、エリクの首筋をゆっくり撫でる。


 エリクが甘く息を漏らした。


「ほら。怯えていない。嫌がってもいない。むしろ急いている」


 エリクの唇が震える。


「はい……私が、望んでいます……」


 甘い声。


 壊れた声。


 けれど、彼自身の声だった。


「クラウディオ様の血肉になりたい……あなたの中に入りたい……だから、早く……」


 ルストの顔は動かない。


 ただ、目だけが少し冷たくなった。


「戻れないところまで引いたな」


「我は、隠れていた願いを見つけただけだ」


「壊した」


「美しくしたの間違いだろう」


 クラウディオは、そこでようやくエリクの首筋から牙をわずかに離した。


 だが、距離はほとんどない。


 唇が皮膚へ触れそうなほど近い。


「人間は面白い。恐れているものに惹かれる。禁じられたものを見たがる。喰われることを、選ばれたことだと錯覚する」


 クラウディオの赤い瞳が、妖しく光る。


「我は、ただそれを認めてやっただけだ」


 エリクは頷いた。


 涙さえ浮かべて。


「はい……そうです……私が、望んで……」


「黙れ」


 ルストの声が落ちた。


 エリクがびくりと震える。


 だが、クラウディオの指が首筋を撫でると、その震えはまた陶酔へ戻った。


「怖がるな。良い子だ」


 クラウディオが囁く。


 エリクの目が蕩ける。


「はい……良い子です……だから、ください……」


 ルストが動いた。


 速かった。


 クラウディオが牙を沈めるより早く、その手首を掴む。


 首筋から引き剥がす。


 エリクが悲鳴を上げた。


「やめて!」


 ルストの手がクラウディオの肩を押さえ、寝台から引き離す。


 クラウディオは抵抗する。


 血術が走る。


 赤黒い糸が床を這い、ルストの腕へ絡もうとする。


 だが、ルストは起点を踏む。


 糸が散る。


 クラウディオの身体が壁際へ押し戻される。


「貴様……!」


「止めた」


「止める権利があると思うな」


「ある」


「本人が望んでいると言っただろう!」


「もう判断できない」


 ルストの声は低い。


「お前がそうした」


 クラウディオは笑った。


 美しい笑みだった。


 底冷えするほど美しい。


「なら、我の勝ちだな」


 ルストの手が、クラウディオの手首をさらに強く押さえた。


 骨が軋むほどではない。


 だが逃げられない。


「勝ちではない」


「戻せるのか」


 クラウディオが囁く。


 「貴様のその冷たい手で、あれを元へ戻せるのか。灰銀」


 ルストは答えない。


 クラウディオの笑みが深くなる。


「無理だ」


 その一言は、甘く、残酷だった。


「もう戻らぬ。あれは我を知った。喰われる幸福を知った。自分の血肉が王の中へ入る夢を知った。貴様がどれほど守ったつもりでも、もう遅い」


 寝台の上で、エリクが震えていた。


 ルストを見ていない。


 クラウディオを見ている。


 引き離された王を、飢えたような目で見ている。


「クラウディオ様……」


 声が割れている。


「いやです……置いていかないで……」


 ルストが振り返る。


「エリク。息をしろ。こっちを見ろ」


 エリクは見ない。


 聞こえていないわけではない。


 だが、ルストの声が届く場所にもういない。


「いや……いや、いや……!」


 エリクの手が震える。


 胸元の防護符は床に落ちたまま。


 銀線入りの襟は開かれている。


 首筋はまだ晒されている。


 そこへ牙が沈むことだけを待っていた身体は、止められたことで行き場を失っていた。


「食べて……」


 エリクが呟いた。


「食べてください……」


 ルストの目がわずかに細くなる。


「エリク」


「クラウディオ様……!」


 声が大きくなる。


 理性が崩れていく音だった。


「はやく……はやく、食べて……!」


 クラウディオは、壁際で押さえられたまま微笑んだ。


 その笑みを見た瞬間、エリクの目がさらに壊れた。


「はやく、はやく、はやく……!」


 喉が裂けそうな声。


 甘い懇願ではもうない。


 飢えに近い叫びだった。


「食べてえええええッ!!」


 ルストがエリクへ向かおうとした。


 だが、クラウディオが血術を動かす。


 ほんの一瞬だけ。


 ルストの注意を裂くための細い糸。


 ルストはそれを即座に斬った。


 だが、その一瞬で遅れた。


 エリクの手が、床に落ちていた小さな刃を拾う。


 給餌係が血袋の封を切るために持っていた短い刃。


 ルストが踏み出す。


「やめろ!」


 エリクは笑った。


 泣きながら。


 幸せそうに。


「クラウディオ様……見て……」


 刃が月光を拾った。


 次の瞬間、赤が走った。


 手順などなかった。


 ただ、取り返しのつかない赤だけが部屋に咲いた。


 エリクの身体が寝台の上で跳ね、喉から声にならない息が漏れる。


 血が溢れた。


 防護符の落ちた床へ。


 寝台の布へ。


 クラウディオの方へ。


 温かい血が飛び、クラウディオの白い頬と唇へ点々とついた。


 ルストがエリクを押さえる。


 傷を塞ごうとする。


 血を止めようとする。


 だが、エリクの目はルストを見ていない。


 最後までクラウディオを見ている。


「た……べ……」


 声にならない声。


 それでも、形だけは分かった。


 食べて。


 エリクの指が、空中でクラウディオへ伸びる。


 届かない。


 そのまま力が抜けた。


 部屋が静かになった。


 血の匂いだけが濃くなる。


 人間の血。


 恐怖と陶酔と破滅で甘くなった血。


 床に落ちた防護符が、血で濡れている。


 ルストはしばらく動かなかった。


 その手は、エリクの身体を押さえていた。


 間に合わなかった。


 間に合わなかったという事実が、沈黙の中で重く残る。


 クラウディオは壁際に立っていた。


 ルストの拘束は、いつの間にか緩んでいた。


 彼は逃げない。


 動かない。


 唇についた血を、ゆっくりと舌で舐め取った。


 赤い舌先が、血を掬う。


 その瞬間、クラウディオの瞳が、妖しく深く光った。


 美しかった。


 ぞっとするほど。


 いつの時代の、どんな美人よりも。


 どんな王妃よりも。


 どんな魔女よりも。


 どんな聖女よりも。


 血を唇に乗せたその吸血鬼王は、美しく、妖しく、破滅そのもののように笑った。


「甘い」


 声は静かだった。


 ルストが振り返る。


 鋼色の瞳が、クラウディオを射る。


 クラウディオは笑みを消さない。


「ほら、灰銀」


 彼は、血に濡れた唇で囁いた。


「本人の望みだった」


 ルストは立ち上がった。


 床の血を踏まないようにではない。


 血を踏んでも気にしない。


 ただ、クラウディオへ向かうために。


「お前」


 低い声。


 いつもより冷たい。


「本当に、戻れないところまで壊すんだな」


「壊したのではない」


 クラウディオは微笑む。


「望みを叶えた」


「死んだ」


「望んでいた」


「お前がそうさせた」


「違う」


 クラウディオの赤い瞳が、血のように輝く。


「我は、あれの中にあったものを呼んだだけだ。貴様がどれほど鎖を巻こうが、符を下げようが、人間は自分の破滅に恋をする」


 ルストは、クラウディオの喉元を見た。


 牙の痕。


 消えない痕。


 その痕を刻まれた王が、今度は別の人間を壊した。


 血を飲む前に。


 喰う前に。


 ただ、欲を起こさせるだけで。


 ファム・ファタール。


 関わった者を破滅へ引きずる、美しい災厄。


 それは王城での噂ではなかった。


 目の前の現実だった。


 ルストは言った。


「管理を変える」


 クラウディオの笑みが、少しだけ深くなる。


「怖くなったか」


「危険度を見誤っていた」


「認めるか。我がそれほど美しいと」


「お前は、触れずに人を壊す」


 ルストの声は冷たい。


「だから、近づけない」


「近づくなと言われて困るのは貴様だろう」


「お前に他人を近づけない」


 クラウディオの瞳が細くなる。


「我を隔離するか」


「違う」


「檻に入れても意味はないのだろう」


「そうだ」


 ルストは、エリクの血で濡れた床を一瞥した。


「だから、手綱を短くする」


 クラウディオは低く笑った。


「我を馬扱いか」


「犬よりはましだろう」


 その一言で、クラウディオの笑みが消えた。


 ルストは続ける。


「給餌係は置かない。血は俺が直接管理する。お前を一人にしない。人間も吸血鬼も近づけない。会話も、視線も、血も、全部制限する」


「貴様が決めるな」


「俺が決める」


「また管理か」


「そうだ」


 クラウディオは、血のついた唇を指で拭った。


 その指先を見て、微笑みが戻る。


「では、気をつけろ」


「何を」


「我に近づく者をすべて遠ざけるなら、残るのは貴様だけだ」


 ルストは黙った。


 クラウディオは、妖しく笑う。


「灰銀。貴様だけが我を見る。貴様だけが我に血を与える。貴様だけが我の牙を止める。貴様だけが我の痕を見張る」


 赤い瞳が、ルストを捕らえる。


「それは、管理か」


 声が甘く落ちる。


「それとも独占か」


 ルストの表情は変わらない。


 だが、その沈黙は、ほんのわずかに硬かった。


 クラウディオはそれを見逃さない。


 血の匂いの中で、王は笑う。


 人間を一人、戻れないところまで狂わせた直後に。


 その血を唇で舐めた直後に。


 いつの時代のどんな美人よりも、美しく、妖しく。


 ルストは、短く言った。


「黙れ」


「命じるな」


「クラウディオ」


「その名を呼ぶな」


「黙れ」


「嫌だと言ったら?」


 ルストは一歩、近づいた。


 エリクの血を踏み越えて。


「また押さえる」


 クラウディオは笑った。


 喉の痕が、赤黒く熱を持つ。


「やってみろ、灰銀」


 部屋には、死んだ給餌係の血の匂いが満ちていた。


 そしてその中心で、吸血鬼王は笑っていた。


 捕食は止められた。


 だが、もう手遅れだった。


 エリクは戻らない。


 クラウディオに狂わされた。


 血を飲まれる前に。


 牙を立てられる前に。


 ただ美と声と稀血の香りだけで、破滅へ落とされた。


 その事実が、ルストの管理方針を変えた。


 クラウディオは、ただ噛むから危険なのではない。


 触れなくても、血を飲まなくても、人を壊す。


 だから、近づけてはいけない。


 だから、目を離してはいけない。


 だから、管理しなければならない。


 ルストはそう判断した。


 クラウディオは、それを見て笑った。


 自分がまだ王であると証明したように。


 自分がまだ誰かを破滅させられると知ったように。


 そして、唇に残った最後の血を、もう一度舐め取った。


 赤い舌先が、白い唇を濡らす。


 それは祈りより美しく、毒より甘く、死より妖しい笑みだった。


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