第55話 誘惑する捕虜
クラウディオ・ルジェリウスは、捕虜ではない。
管理対象でもない。
危険個体でもない。
ルストがどれほどそう呼ぼうと、クラウディオ自身は一度も認めていなかった。
喉には、消えない牙の痕がある。
床の低い器から血を飲まされた記憶がある。
犬のようだと笑われた声が、まだ耳の奥に残っている。
だが、それでも。
クラウディオは王だった。
血を与えられる側ではなく、奪う側。
器を選ばされる側ではなく、喉を選ぶ側。
床へ伏せる側ではなく、誰かを膝から崩れさせる側。
それを思い出す必要があった。
誰に。
ルストに。
そして、何より自分自身に。
外縁北路の宿駅跡は、冷えていた。
かつて旅人が泊まった古い石造りの建物は、今では半分崩れ、扉には銀線と符が張られている。ルストが一時的な拠点として使っていた場所だった。
部屋の隅には低い器がある。
床に置かれた、あの器だ。
クラウディオは、それを見ないようにしていた。
見れば、喉の奥が熱くなる。
屈辱で。
怒りで。
そして、自分がそこから血を飲んでしまった事実を、身体が覚えているせいで。
だから、見ない。
代わりに、給餌係を見た。
男は成人していた。
名をエリクという。
教会区から回された、ルストの補助役だった。銀線入りの黒衣をまとい、首元には防護符を下げ、手首には血避けの細い鎖を巻いている。
訓練は受けている。
吸血鬼と目を合わせるな。
名を呼ぶな。
首筋を晒すな。
血の器を床から持ち上げるな。
王であっても、危険個体として扱え。
そう教え込まれている顔だった。
だが、足りない。
クラウディオの前では、足りなかった。
エリクは器へ血を注ごうとしていた。
温度を測り、香りを確認し、低い器へそっと流し込む。
床へ。
床へだ。
クラウディオの目が細くなる。
「それを、我に出すのか」
声は静かだった。
エリクの手が止まる。
「……ルスト様から、その器を使うようにと」
ルスト様。
その呼び方だけで、クラウディオの血が冷たく燃えた。
「貴様は灰銀の犬か」
エリクの喉が動く。
「命令を受けています」
「命令」
クラウディオは、ゆっくり椅子から立ち上がった。
黒い外套が床を滑る。
喉の牙痕が、月光に淡く浮かぶ。
エリクは顔を伏せた。
正しい。
だが、遅かった。
クラウディオは、もう見ていた。
エリクの手の震え。
血の匂いにわずかに乱れる呼吸。
クラウディオの声に反応して、首筋が小さく強張った瞬間。
恐怖がある。
だが、恐怖だけではない。
見たいという欲がある。
近づいてはいけないものへ近づきたい、という危うい衝動。
クラウディオは、微笑んだ。
「顔を上げろ」
エリクは顔を上げなかった。
「……できません」
「灰銀に禁じられたか」
「はい」
「なら、なおさら上げろ」
甘い声だった。
命令というより、誘いだった。
エリクの肩が震える。
上げてはいけない。
分かっている。
それなのに、首が動いた。
ほんの少し。
視線が上がる。
そして、クラウディオを見た。
その瞬間、エリクの呼吸が止まった。
美しかった。
あまりにも。
黒髪は夜そのもののように艶やかで、白い肌は月光より冷たい。赤い瞳は深く、吸い込まれれば戻れない血の湖のようだった。
喉には牙の痕。
傷つけられた王。
だが、壊れていない王。
屈辱を刻まれたまま、それでもなお見る者を支配する吸血鬼。
エリクは、目を逸らせなかった。
防護符が胸元で小さく揺れる。
クラウディオは近づく。
一歩。
また一歩。
稀血の香りが、薄く空気に混じる。
封香はされているはずだった。
だが完全ではない。
喉の痕の奥から、王血稀血の甘さが微かに漏れている。
人間であるエリクにも分かるほどではない。
そう訓練では教えられた。
だが、分かった。
鼻ではなく、喉の奥で。
血ではなく、欲の根で。
危険だ。
離れなければ。
なのに、足が動かない。
「貴様は、見たいのだな」
クラウディオが囁いた。
エリクの唇が震える。
「違います」
「嘘だ」
白い指が、エリクの手の甲に触れた。
冷たい。
その冷たさに、エリクの背筋が震えた。
「王が床の器から血を飲むところを見たい。王が屈辱で震えるところを見たい。皿へ口をつけるところを、喉を鳴らすところを、拒みながら飲んでしまうところを」
「違う……」
「違わない」
クラウディオの声が、さらに甘く落ちる。
「それだけではない。貴様は我の喉も見た。牙の痕も見た。そこから血が流れたら、どんな匂いがするのか考えた」
エリクの呼吸が乱れた。
図星だった。
考えてはいけなかった。
だが、考えた。
傷ついた吸血鬼王の血。
誰もが欲しがる稀血。
その血が、喉の痕から流れたら。
怖い。
恐ろしい。
だが、目を逸らせない。
クラウディオは、その内側の揺れを逃さなかった。
「欲しいか」
エリクの瞳が揺れる。
「……何を」
「我を」
エリクは息を呑んだ。
クラウディオは、その顎を指先で持ち上げる。
「それとも、我に欲しがられたいか」
防護符が、胸元でまた揺れた。
クラウディオの指がそこへ伸びる。
「こんなもの」
紐を切る。
防護符が床へ落ちた。
小さな音。
エリクの目がそれを追いかけようとする前に、クラウディオが顔を近づけた。
「見ろ」
命令。
エリクは見た。
赤い瞳を。
美しい顔を。
牙を。
喉の痕を。
そして、自分の中にある欲を。
「……クラウディオ様」
その名が、エリクの口から零れた。
ルストが呼ぶ時とは違う。
恐怖と陶酔が混ざった声だった。
クラウディオは、それを許した。
今だけは。
「良い子だ」
優しく囁く。
エリクの身体が震えた。
その言葉だけで、膝が崩れそうになる。
クラウディオはその胸元を掴み、寝台へ押し倒した。
乱暴ではない。
むしろ、舞うように優雅だった。
だが、逃げ場はない。
エリクの背が古い寝台へ沈む。
クラウディオの影がその上へ落ちる。
黒い外套。
白い手。
赤い瞳。
喉元の牙痕。
そして、微笑み。
エリクは、息を忘れた。
クラウディオは、彼の首筋へ指を滑らせた。
ゆっくり。
血管の上をなぞる。
エリクの身体が跳ねる。
「ここか」
クラウディオが囁く。
「ここを差し出すのか」
エリクの唇が開く。
声はすぐには出ない。
クラウディオは焦らさず、ただ首筋を撫で続ける。
優しく。
丁寧に。
まるで、大切な器を確かめるように。
「答えろ」
「……はい」
「何を望む」
エリクの瞳が蕩けていく。
訓練が剥がれる。
恐怖が甘く溶ける。
危険への警戒が、選ばれたい欲へ変わる。
「血を……」
「我に飲ませたいか」
「はい……」
「それだけか」
エリクの喉が鳴った。
クラウディオは微笑んだ。
「言え」
「血だけじゃ……足りません……」
「では、何を差し出す」
エリクの声が甘く崩れた。
「血肉まで……」
クラウディオの瞳が、深く赤くなる。
エリクは、もう止まらなかった。
「血を飲み干してください……肉まで、骨まで、全部……あなたの中へ入れてください……」
その言葉は、魅了で作られた虚言ではなかった。
クラウディオは、彼の意志を塗り潰していない。
ただ、奥にあった願望を引きずり出しただけだ。
危険な美に壊されたい。
恐ろしい王に選ばれたい。
自分の血が、王の喉を通るなら、それは死ではなく祝福のように思える。
そんな愚かで甘い破滅願望。
クラウディオは、それを見つけ、撫で、育てている。
「我の一部になりたいか」
「はい……!」
「死ぬぞ」
「構いません……!」
「痛いぞ」
「それでも……!」
「喰われれば、戻らぬ」
「戻らなくていい……戻りたくありません……!」
エリクの声が震え、熱を帯びる。
「あなたの一部にしてください……クラウディオ様……私を、あなたの中へ……」
クラウディオは、首筋へ牙を近づけた。
まだ噛まない。
皮膚へ牙先を触れさせるだけ。
エリクの身体が大きく震えた。
「ひ……っ」
悲鳴に似た息。
だが、恐怖だけではない。
期待だ。
クラウディオは、首筋を指で撫でる。
「良い子だ」
エリクの瞳が潤む。
「もっと……」
「良い子」
「もっと言ってください……」
「喰われたいと願うほど愚かな、良い子だ」
エリクの唇が震え、笑みに近い形へ歪んだ。
「はい……私は、愚かです……だから……だから、どうか……!」
クラウディオは、わざと牙を離した。
エリクの表情が崩れる。
「あ……っ」
「どうした」
「やめないで……」
「まだ噛んでいない」
「だから……だから、はやく……」
クラウディオは微笑む。
「焦れる顔も悪くない」
「お願い……!」
エリクの手が、クラウディオの衣へ縋りかける。
触れてよいのか迷い、指が空中で震える。
クラウディオはその手を取った。
自分の胸元へ近づける。
「触れたいか」
「はい……」
「貴様ごときが?」
冷たい言葉。
だが、エリクはそれでさらに蕩けた。
「許されないなら……許されないままでも……!」
「では、何を望む」
「噛んでください……!」
エリクの声が大きくなる。
「血を……飲んでください……!」
クラウディオはまた首筋へ牙を近づける。
触れる。
沈まない。
離す。
エリクの呼吸が乱れた。
「はやく……」
「まだだ」
「はやく……!」
「待て」
「待てません……!」
クラウディオは楽しげに目を細めた。
焦らす。
さらに。
牙を当てる。
皮膚を薄く押す。
血が滲むか滲まないかのぎりぎりで止める。
離す。
エリクの身体がびくりと跳ねた。
「いや……っ、お願い、置いていかないで……!」
「死にたがるくせに、待てぬのか」
「待てない……無理です……!」
「何を急く」
「あなたの中に……行きたい……!」
クラウディオの指が、首筋を優しく撫でる。
「良い子だ」
「はやく……」
「良い子」
「はやく、はやく……!」
「もっと言え」
エリクの瞳が完全に蕩けた。
理性はまだある。
だが、理性が自分から欲に膝をついている。
彼はクラウディオを見上げ、甘く、ほとんど泣くように言った。
「はやく……はやく、はやくして……!」
クラウディオは、まだ噛まない。
牙を当てる。
離す。
首筋を撫でる。
耳元で囁く。
「貴様は何になりたい」
「あなたの糧に……!」
「何を差し出す」
「血も、肉も、命も……!」
「誰のものになる」
「クラウディオ様の……!」
「では、何を望む」
エリクの声が壊れた。
「はやく、はやく、はやくしてぇ!!!!」
叫びだった。
悲鳴のようで、懇願だった。
発狂に近い甘い声。
自分から死へ走る者の声。
エリクは首筋をさらに晒し、喉を反らし、涙さえ浮かべながらクラウディオへ縋った。
「お願い、お願いです……! もう待てない……! 血を飲み干して、肉まで食べて、私をあなたの一部にしてください……! 早く食い殺してください……!」
クラウディオの赤い瞳が、深く光った。
勝利だった。
ルストに床の皿を置かれ、犬のようだと嘲笑された王が、今は人間に死を望ませている。
血を与えられる側ではなく、血を乞われる側。
喉を晒す側ではなく、喉を奪う側。
王としての待遇を奪われても、クラウディオの危険な魅力は消えていない。
むしろ、傷ついた王であることが、さらに毒を濃くしている。
ファム・ファタール。
触れた者を破滅へ連れていく美。
クラウディオは、エリクの首筋をもう一度撫でた。
「良い子だ」
優しい声。
「では、望み通り」
牙が、首筋へ沈もうとした。
今度こそ。
エリクは目を閉じ、歓喜に震えた。
「クラウディオ様……!」
クラウディオの牙が、皮膚を破る寸前。
扉が開いた。
銀線が低く鳴る。
冷たい夜気が部屋へ流れ込む。
クラウディオは動きを止めた。
エリクは蕩けきった顔のまま、まだ首筋を差し出している。
入口に立っていたのは、灰銀のハンターだった。
ルスト・ヴァルレイン。
鋼色の瞳が、部屋の中を一度で捉える。
床に落ちた防護符。
零れた血の器。
寝台へ押し倒された給餌係。
首筋へ牙をあてがうクラウディオ。
喰われることを望んで蕩けたエリク。
ルストの表情は変わらなかった。
だが、部屋の温度が下がった。
クラウディオは、牙をエリクの首筋に触れさせたまま、ゆっくりと目だけをルストへ向ける。
赤い瞳が、挑発するように細められた。
「遅かったな、灰銀」
ルストは答えなかった。
ただ、一歩、部屋へ入った。
その足音だけで、エリクの甘い呼吸が止まりかける。
クラウディオは微笑んだ。
牙はまだ、首筋に触れたまま。
噛む寸前で。
夜が、そこで凍った。




