第64話 侵食の味
最初は、気のせいだと思った。
そう思いたかった。
器の血に混じっていた、灰銀の血。
ほんの少し。
一滴にも満たないほどの量。
それだけのはずだった。
だが、その血は軽くなかった。
喉を通った瞬間から、クラウディオの身体の奥で沈み続けていた。
人間の血は身体へ馴染む。
吸血鬼の血は、相手によっては反発する。
だが、ルストの血は違った。
馴染むでもない。
反発するでもない。
支配するように、まず沈む。
沈んだ後、血脈の底からゆっくりと広がる。
まるで、クラウディオの身体の中にある血の道筋を、一本ずつ確かめているようだった。
それが不快だった。
ひどく。
クラウディオは、古い小屋の壁際に立っていた。
立っているつもりだった。
だが、指先が震えている。
足元がわずかに揺れる。
喉の牙痕が熱い。
脇腹の灰銀印も、外套の下で静かに脈打っていた。
器の血は半分しか飲んでいない。
それも、床に置かれた低い器から。
その屈辱だけでも十分だった。
それなのに、体内では別の異変が始まっている。
クラウディオは、低く息を吐いた。
「……気のせいだ」
自分に言い聞かせるような声だった。
だが、喉が掠れる。
血脈が軋む。
心臓の奥で、何かが重く沈む。
吸血鬼の心臓など、人間のそれとは違う。
血を巡らせるだけの臓器ではない。
血脈の核。
王血の拍。
命令の源。
クラウディオの王権が、そこにある。
その中心へ、ルストの血が触れた。
瞬間。
心臓が止まった。
「――ッ」
声すら出なかった。
胸の奥が、握り潰されたように静止する。
血が止まる。
身体の中の赤が、すべて凍る。
クラウディオの目が見開かれた。
次の瞬間、止まった心臓が無理やり打たされた。
どくん、と。
重い音。
まるで、自分の心臓ではないものに命じられたような拍動だった。
「が、ぁ……ッ!」
クラウディオの身体が大きく跳ねた。
壁に背が打ちつけられる。
膝が震え、指先が爪を立てるように石壁を掻いた。
喉の奥から、声にならない息が漏れる。
体内で、ルストの血が動いた。
暴れるのではない。
暴れ回るほど古いくせに、意思だけは冷たく整っている。
クラウディオの血脈へ入り、王血の流れを掴み、乱れた場所を押さえ、過剰な力を焼く。
それは甘さではなかった。
快楽でもなかった。
まして、伴侶の血が溶け合うような美しいものでもない。
罰だった。
血脈を制御するための罰。
暴君の血を、内側から膝まずかせるための罰。
「ぐ、う゛……ッ、何を……何を混ぜた、灰銀……ッ!」
クラウディオは低く呻いた。
ルストは壁際に立っていた。
鋼色の瞳で、クラウディオを見ている。
近づかない。
触れない。
ただ、反応を見ている。
その視線が、クラウディオの屈辱をさらに深くした。
「答えろ……ッ!」
「少量だ」
「量の話ではないと言っただろうが……ッ!」
怒りで血が跳ねる。
その瞬間、体内のルストの血が反応した。
心臓が、また止まった。
今度は、さっきより長い。
視界が白く弾ける。
音が遠のく。
喉から空気が抜け、身体が硬直する。
そして、次の拍動。
どくん。
「ぎ、ぃいいいいッ!!」
クラウディオの背が弓なりに跳ねた。
全身が大きく痙攣する。
膝が落ちかけ、腰が逃げるように震え、足先が床を引っ掻いた。
脇腹の灰銀印が赤黒く熱を持つ。
喉の牙痕が焼ける。
心臓、喉、脇腹。
ルストに刻まれたものが、体内の血に呼応している。
クラウディオは、それを理解しかけて、怒りより先に嫌悪を覚えた。
自分の身体の中に、灰銀へつながる線が増えている。
喉の痕。
脇腹の印。
そして、飲まされた血。
三つが揃って、王血を押さえつけている。
「やめろ……ッ」
声は低く、掠れていた。
命令ではない。
拒絶だった。
クラウディオは、それに気づいてさらに顔を歪めた。
「やめろと言っているだろうが……ッ、灰銀……ッ!」
ルストは動かない。
「耐えろ」
「命じるなァッ!!」
怒鳴った瞬間、また血が荒れた。
そして、また止められた。
三度目。
心臓が止まる。
クラウディオの瞳が見開かれ、唇が開いた。
声は出ない。
息も出ない。
胸の奥で、王血が一瞬、完全に沈黙する。
次の瞬間、ルストの血が拍を叩き込んだ。
どくん。
「が、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
獣じみた咆哮が小屋を震わせた。
クラウディオの身体が壁から離れ、床へ膝をつく。
ついた。
膝が。
王の膝が。
その事実にクラウディオは怒ろうとした。
だが身体が追いつかない。
心臓がまた不規則に跳ねる。
血脈が軋む。
喉が鳴る。
泡混じりの息が唇から漏れた。
「か、は……ッ、息が……ッ」
吸血鬼に呼吸など人間ほど必要ではない。
それなのに、息ができない感覚だけが身体へ押しつけられる。
罰として。
生き物の弱さを思い出させるように。
クラウディオの指が床を掻いた。
爪が石に当たり、嫌な音を立てる。
身体が、びくん、と跳ねる。
また。
びくん、びくん、と。
制御できない痙攣が足腰へ走る。
下腹から力が抜けた。
クラウディオの顔が屈辱で歪む。
「いや、だ……ッ」
低い拒絶。
けれど身体は止まらない。
力が抜け、衣が濡れた。
温かい感覚。
制御を失った身体の反応。
それを理解した瞬間、クラウディオの中で何かが赤く破裂した。
「見るな……ッ!」
叫びは掠れていた。
「見るな、見るなと言っているだろうが……ッ!!」
ルストは見ていた。
冷たく。
必要だから。
反応を確認するために。
クラウディオはそれが分かるからこそ、耐えがたかった。
欲望の目なら殺せる。
憐れみの目なら踏みにじれる。
だが、これは観察だ。
管理のための視線。
王の身体がどこで崩れるか、どこで止まるか、どの程度で蘇生するかを見ている。
「貴様……ッ、我を何だと……ッ」
言葉が続かない。
心臓がまた止まった。
今度は、クラウディオの瞳が上へ滑った。
白目が覗く。
舌が力なく口の端から覗き、唇が震える。
身体が前へ倒れかける。
しかし、倒れる前に心臓が打たされる。
どくん。
「ぁ、が……ッ!」
細い声。
悲鳴にすらならない。
蘇生されるたび、血脈が焼ける。
止められるたび、王血が屈辱に軋む。
死なせない。
止める。
戻す。
また止める。
また戻す。
それが繰り返される。
クラウディオは床へ片手をついた。
立てない。
立ちたい。
王だから。
王は床に伏せない。
王は膝をつかない。
王は自分の身体を制御できなくなることなどない。
だが、身体は跳ねる。
びくん、と。
また。
びくん、びくん、と。
腰が震え、膝が床を叩き、指先が硬直する。
濡れた衣が肌に貼りつく感覚が、屈辱を増やす。
クラウディオは、それでもルストを睨もうとした。
焦点が合わない。
白目が戻りきらない。
それでも、怒りだけが残っている。
「こ、ろ……す……」
掠れた声。
「貴様、だけは……必ず……ッ」
ルストが低く言った。
「殺意を乗せるな」
「命じるな……ッ」
「乗せれば、また止まる」
「止めるな……!」
「なら荒らすな」
「我の血だ……ッ、我の血を、我が動かして何が悪い……ッ!」
「暴れるからだ」
クラウディオは笑った。
壊れたような笑いだった。
その途中で、また心臓が止まった。
「――」
声が途切れる。
瞳が大きく開く。
背が硬直する。
次の拍動が来るまでの間、世界が白く消えた。
どくん。
「ぎ、ああああああッ!!」
叫びと同時に身体が跳ねた。
床に倒れ込む。
頬が冷たい石へ当たる。
舌が力なく出る。
唇から泡混じりの息が漏れる。
クラウディオは、もう起き上がれなかった。
それでも手だけが動く。
床を掻く。
ルストへ向かって伸びる。
殺すためか。
縋るためか。
本人にも分からない。
分からないことが、さらに彼を怒らせる。
「灰、銀……ッ」
名ではない。
まだ名ではない。
灰銀。
それだけは吐き捨てる。
まだ認めていない。
まだ、呼ばない。
ルストはしゃがんだ。
クラウディオのすぐ前に。
濡れた衣。
白目を剥きかけた瞳。
力なく覗く舌。
床に伏せ、何度も心臓を止められ、蘇生され、痙攣を繰り返した吸血鬼王。
その姿を、ルストは見下ろした。
「これは甘さじゃない」
低い声だった。
クラウディオの意識は半分以上飛んでいる。
それでも聞こえた。
「血脈を制御するための罰だ」
クラウディオの瞳が、かすかに動く。
「ばつ……だと……」
「お前の血は強すぎる。飢えも、殺意も、捕食も、すぐに周囲を巻き込む。だから止める」
「貴様の血で……我を……」
「そうだ」
クラウディオの顔が歪む。
悔しさで。
屈辱で。
だが、もう身体がついてこない。
心臓はまた不規則に震え、しかし完全には止まらない。
ルストの血が、体内で暴れながらも、一定の線を覚えさせている。
どこから先へ行けば止めるか。
どこで戻すか。
どの拍で従わせるか。
それを身体へ刻んでいる。
クラウディオは、ようやく理解した。
この苦しみは、ただの拒絶反応ではない。
ルストの血が、クラウディオの血脈へ「規則」を刻んでいる。
喉の痕と、脇腹の印だけでは足りない。
体内の血そのものへ、制御を教え込んでいる。
「ふざ、けるな……」
声はほとんど息だった。
「我は……貴様の……」
言葉が途切れる。
心臓がまた止まりかける。
今度は完全には止まらない。
半拍だけ沈み、また無理やり戻る。
クラウディオの身体がびくりと跳ねた。
もう悲鳴も出ない。
口の端から、泡混じりの息だけが漏れる。
ルストは言った。
「まだ少ない」
クラウディオの赤い瞳が、わずかに揺れた。
何を言っている。
この量で。
この苦痛で。
これで少ないと言うのか。
「次は、量を調整する」
ルストの声は変わらない。
「慣らす」
その言葉で、クラウディオの意識が一瞬だけ戻った。
「なら……さ、ない……」
掠れた声。
舌がうまく動かない。
それでも拒む。
「我を……貴様の血に……慣らすな……ッ」
「必要だ」
「必要、など……ッ」
「ある」
ルストの手が、クラウディオの喉の痕へ触れた。
クラウディオの身体が反射で跳ねる。
だが、もう逃げられない。
次に、脇腹の印の近くへ触れる。
灰銀印が淡く脈打つ。
そして、体内の血が、わずかに鎮まる。
クラウディオは、その感覚にさらに屈辱を覚えた。
ルストに触れられることで、苦痛が少しだけ整えられる。
最悪だった。
触れるなと言いたい。
だが、言葉が出ない。
「見る、な……」
かすれた声。
「見るな……灰銀……ッ」
「見ておく」
「見るな……ッ」
「お前が壊れないところを探る」
「我は……壊れぬ……」
その声は細かった。
説得力などない。
今のクラウディオは、床に崩れ、衣を濡らし、舌を力なく垂らし、白目を剥きかけ、泡混じりの息を漏らしている。
それでも。
壊れぬ。
そう言う。
その一点だけは、まだ王だった。
ルストは、しばらく黙っていた。
それから言う。
「なら、生きていろ」
「命じ……るな……」
「まだ終わっていない」
クラウディオは答えられない。
身体が最後に大きく痙攣した。
全身が跳ねる。
心臓がまた止まりかけ、半拍の闇を挟み、無理やり打たされる。
だが、今度は戻った後、もう動く力がなかった。
白い手が床に落ちる。
指先がわずかに痙攣し、それも止まる。
舌が力なく覗き、赤い瞳は白く上へ滑ったまま、焦点を失っている。
衣は乱れ、濡れ、王の身体から威厳を奪っていた。
しかし、息はある。
吸血鬼としての命は、まだ残っている。
ルストの血が、それを許した。
止め、戻し、焼き、刻み、最後には壊れきる前で止めた。
クラウディオは、力尽きていた。
美しき吸血鬼王。
今代の王。
暴君。
王血稀血。
そのすべての名を持ちながら、今は床に伏せ、白目を剥き、舌を垂らし、尿に濡れた衣のまま動けない。
それでも。
意識の底で、彼はまだ一つだけ思っていた。
名は呼んでいない。
灰銀。
灰銀と呼んだ。
まだ、ルストとは呼んでいない。
だから、まだ屈服していない。
その意地だけが、白く遠のく意識の底で、赤く燃えていた。
ルストは、床に伏せたクラウディオを見下ろした。
その表情は読めない。
ただ、低く言った。
「次は、もう少し少なくする」
クラウディオには、もう聞こえていなかった。
体内では、ルストの血の余韻がまだ微かに脈打っている。
甘さではない。
血脈を制御するための罰。
その味だけが、クラウディオの王血に深く残っていた。




