第53話 犬のようだ
血は、まだ床にあった。
低い器の中で、赤黒く沈んでいる。
最初に置かれた時は、まだ温かった。
香りも整っていた。
吸血鬼が糧として受け入れやすい温度。飢えを煽りすぎず、拒絶しきれない程度の濃さ。ルストが選んだのだろう。そう分かることすら、クラウディオには屈辱だった。
王城であれば、血は杯に注がれる。
血杯管理官が温度を測り、香りを整え、従者が銀盆へ載せて捧げる。
クラウディオはそれを受け取る。
指先で。
王として。
飲むかどうかは、王が決める。
口をつけるかどうかも、王が決める。
血は、王の許しを待つものだった。
だが今、血は床にある。
皿とも鉢ともつかない低い器に入れられ、石床に直接置かれている。
そしてクラウディオは、その前に伏せさせられていた。
数時間。
ルストは、何度も同じ言葉を繰り返した。
飲むと言え。
飲むと言え。
飲むと言え。
クラウディオは一度も言わなかった。
言えるはずがない。
王が、床の皿から血を飲むと、自分の口で認めるなど。
それは給仕ではない。
服従の言葉だ。
屈辱の署名だ。
王の口で、王でない扱いを受け入れるということだ。
だからクラウディオは言わなかった。
喉が渇いても。
血を奪われた身体が軋んでも。
床に伏せた姿勢で肩が痛み、手首が痺れ、頭を押さえられたまま呼吸が浅くなっても。
言わなかった。
ルストも、無理に飲ませなかった。
ただ押さえ続けた。
床に。
皿の前に。
王の頭を。
数時間。
その時間こそが、クラウディオの内側を削っていた。
肉体の痛みではない。
飢えだけでもない。
王としての習慣が、一枚ずつ剥がされていく感覚だった。
杯ではない。
膝をつく従者もいない。
血杯管理官もいない。
玉座もない。
王城の黒石もない。
ただ、床。
皿。
ルストの手。
そして、飲むと言え、という命令だけ。
クラウディオは床に頬を近づけられたまま、低く笑った。
喉は掠れていた。
「……貴様は、本当に根気の悪い男だな」
ルストは答えた。
「飲むと言え」
「それしか言えぬのか」
「必要だから言っている」
「必要?」
クラウディオの赤い瞳が、横からルストを睨む。
「王を犬のように扱うことがか」
「危険個体を、勝手に噛みつかないように管理することがだ」
危険個体。
また、その言葉。
クラウディオの指先が床を掻いた。
爪が石に当たり、嫌な音を立てる。
血術を起こしたい。
この床を裂き、皿を割り、ルストの喉を赤く染めたい。
だが、起点を押さえられている。
頭を固定され、肩の角度を制され、手首の動きを封じられている。
暴れれば暴れるほど、皿へ近づく。
血の匂いが近づく。
体が反応する。
それが最も腹立たしかった。
「我を、何だと思っている」
クラウディオは低く言った。
「王だ」
ルストは短く答える。
「そして、放っておけば人も同族も巻き込む危険個体だ」
「貴様……ッ」
「飲むと言え」
「言わぬ」
「なら続ける」
また時間が落ちた。
小屋の外で風が鳴る。
夜鳥の声が遠ざかる。
器の血は、少しずつ鮮度を失っていく。
温度が落ち、香りの角が鈍り、表面に薄い膜が張りかける。
王城なら即座に下げられる血だ。
王の前へ出せるものではない。
だが、吸血鬼の身体には分かってしまう。
それでも血は血だ。
濃さが残っている。
栄養が残っている。
渇きを癒やせる。
クラウディオは、それを憎んだ。
自分の身体が、その血をまだ糧として認識していることを。
王としての誇りとは無関係に、血を欲しがっていることを。
ルストの手が、ようやくクラウディオの後頭部から離れた。
解放ではなかった。
クラウディオは即座に身を起こそうとした。
その瞬間、ルストの手が首筋の痕へ触れる。
深い牙の刻印。
消えない痕。
そこへ、冷たい圧が落ちた。
クラウディオの身体が跳ねる。
「ぐ、ッ……!」
血脈が詰まる。
喉奥に刻まれた反射が、嫌でも蘇る。
空嘔吐。
泡混じりの息。
身体を制御できなかった屈辱。
その記憶だけで、クラウディオの動きが一瞬遅れた。
ルストは、その一瞬を逃さなかった。
後頭部ではなく、今度は首の後ろを押さえ、クラウディオの顔を器へ向けて沈める。
「やめろ……ッ!」
クラウディオが叫ぶ。
しかし、顔は皿へ近づく。
低い器。
血の匂い。
床。
王の口元が、ついにその縁へ触れた。
クラウディオの全身が硬直した。
あり得ない。
あり得ない。
王の唇が、床の器に触れている。
杯ではない。
皿だ。
従者の手でも、銀盆でも、玉座でもない。
床に置かれた低い器。
その縁に、クラウディオの唇がついた。
屈辱で視界が赤くなる。
「離せ、ルスト……ッ!」
名が出た。
また。
怒りと屈辱の中で。
ルストは静かに言った。
「飲むと言え」
「言わぬ!」
「なら、口をつけたままいろ」
クラウディオは噛み殺すように息を吐いた。
口元に血の匂いがある。
器の血が唇に触れる。
ほんの少し。
それだけで、吸血鬼の身体が反応した。
喉が鳴りそうになる。
舌が動きそうになる。
飢えが、王より先に血を認識する。
クラウディオは歯を食いしばった。
飲まない。
絶対に飲まない。
ここで飲めば終わりだ。
王が床の皿から血を啜ったという事実が残る。
ルストの管理下で。
犬のように。
その言葉が頭をよぎった瞬間、クラウディオは暴れた。
肩を跳ねさせ、手で床を押し、皿から顔を離そうとする。
だが、ルストの手が強かった。
首の後ろを押さえられ、頭を上げられない。
もう片方の手が肩を制し、膝が腰の逃げ道を塞ぐ。
床に伏せたまま。
皿に口を触れたまま。
動けない。
「飲まぬ……ッ」
クラウディオは、唇を血に濡らしながら低く言った。
「我は、飲まぬ……!」
「そうか」
ルストは短く答えた。
次の瞬間、喉の痕に圧がかかった。
強くはない。
だが、血脈の奥に届く圧。
クラウディオの喉が反射で開いた。
息を吸おうとした。
その瞬間、唇に触れていた血が、口の中へ入った。
一滴。
たった一滴。
それで、身体が変わった。
血だ。
鮮度は落ちている。
温度も下がっている。
香りも最初より鈍い。
王城なら、下げろと命じている血だ。
だが、数時間の攻防で渇いた身体には、それでも血だった。
舌が、勝手に反応した。
喉が嚥下した。
クラウディオの目が見開かれる。
飲んだ。
飲んでしまった。
自分の意思ではない。
認めていない。
飲むと言っていない。
それでも、血が身体へ入った。
「……ッ」
クラウディオは硬直した。
その硬直の隙に、身体の本能が起き上がる。
喉が焼けるように血を求めた。
奪われた血の分を補おうと、吸血鬼の身体が王の意思を置き去りにする。
クラウディオは拒もうとした。
だが、舌がまた動いた。
器の血を掬う。
唇が血に濡れる。
喉が鳴る。
飲み込む。
「や、め……ッ」
自分に向けた声だった。
やめろ。
飲むな。
こんなものから飲むな。
だが身体は止まらない。
血を得たことで、飢えが起きた。
王としての意思より、吸血鬼の本能が先に動いた。
クラウディオの身体が、床からわずかに起き上がる。
人間のように座るのではない。
王のように立つのでもない。
四肢を床につけるような姿勢だった。
手が床を掻き、膝が石につき、顔は低い器へ向かったまま。
四つん這い。
クラウディオは、その姿勢を理解した瞬間、目を見開いた。
しかし、血の匂いがさらに近い。
もう口の中に入っている。
舌が伸びる。
血を掬う。
音がした。
ぴちゃ、と。
低く、濡れた音。
クラウディオの身体が硬直する。
それでも、また舌が動く。
ぴちゃ。
血を掬う。
飲み込む。
喉が鳴る。
吸血鬼の身体が、遅れた補給を貪る。
自分の意思ではない。
違う。
違う。
違う。
そう言い聞かせても、舌は止まらない。
王の口が、床の器へ向かう。
杯ではなく、皿へ。
四つん這いで。
音を立てて。
血を飲む。
クラウディオの視界が赤く滲んだ。
怒りか。
屈辱か。
それとも、血を得た身体の熱か。
分からない。
分からないことが、さらに耐えがたかった。
ルストは、その姿を見下ろしていた。
しばらく黙っていた。
そして、低く言った。
「犬のようだ」
その一言で、クラウディオの世界が止まった。
犬。
犬のようだ。
床の皿から。
四つん這いで。
舌を使い。
音を立てて。
血を飲む王。
クラウディオの喉が、血で濡れたまま震えた。
「……殺す」
掠れた声が漏れる。
だが、その口は血に濡れている。
その舌は、今しがた皿の血を舐め取っていた。
その姿勢は、まだ床に近い。
何もかもが、言葉の威厳を壊していた。
ルストは、さらに言った。
「皿から飲めるな」
クラウディオは、弾かれたように顔を上げた。
唇から血が滴る。
白い喉の牙痕が熱を持ち、赤い瞳が燃えている。
「黙れ……ッ」
声は震えていた。
怒りで。
屈辱で。
自分の身体が血を飲んでしまった事実への拒絶で。
「黙れ、黙れ、黙れ……!」
クラウディオは皿を叩き割ろうとした。
だが、器へ手が届く前にルストが手首を掴んだ。
強い力で引かれ、クラウディオは床へ倒れかける。
しかし、ルストは倒さない。
ただ手首を押さえ、器から少しだけ離す。
「割るな」
「命じるな!」
「次も使う」
クラウディオの顔が歪む。
「次……?」
「飲めた」
「我は飲んでいない!」
「飲んだ」
「違う! 貴様が……貴様が……!」
「口はお前のものだ」
その言葉は、刃より深く刺さった。
クラウディオは、言葉を失った。
口は自分のもの。
舌も。
喉も。
飲み込んだ身体も。
たとえ誘導され、押さえられ、反射を使われたとしても。
飲んだのは、自分の身体だった。
その事実が、逃げ場を奪う。
クラウディオは震えた。
怒りで。
屈辱で。
そして、わずかな恐怖で。
この男は、ただ力で押さえつけるだけではない。
自分の身体を自分の敵にする。
喉を。
飢えを。
血への本能を。
王としての意思が拒んでも、吸血鬼の身体が動いてしまう場所を突く。
その管理の仕方が、檻よりずっと残酷だった。
クラウディオは手首を振りほどこうとした。
しかし、ルストの指が喉の痕へ向く。
触れてはいない。
ただ、示しただけ。
それだけで、クラウディオの身体が一瞬強張った。
ルストは言った。
「死のうとするな」
クラウディオは赤い目で睨む。
「貴様に生かされるくらいなら」
「また噛むぞ」
小屋の空気が凍った。
クラウディオの喉が、目に見えて震えた。
怒りではない。
恐怖でもない。
その両方と屈辱が混ざった反応だった。
また噛む。
あの牙。
あの吸血。
深々と首筋へ沈み、大量に血を奪い、白目を剥くほど血脈を支配し、意識を奪った牙。
消えない痕を残した牙。
死より重い恥を刻んだ牙。
それを、また。
クラウディオの指が止まった。
自害のために動きかけていた血術も、喉へ向かおうとしていた爪も、そこで止まる。
止まってしまう。
その事実が、何より屈辱だった。
ルストは、そこを見ていた。
見逃さなかった。
「効くな」
短い言葉。
クラウディオの顔が怒りで歪む。
「貴様……ッ」
「なら使う」
「脅すか、灰銀……!」
「管理する」
「その言葉をやめろ!」
クラウディオの声が割れた。
喉の痕が熱を持つ。
血の皿は、ほとんど空になっていた。
クラウディオが飲んだ。
犬のようだと言われながら。
四つん這いで。
音を立てて。
その事実が、部屋の中に残っている。
器の底に赤い筋だけが残り、床には少し零れた血が光っていた。
ルストはそれを見下ろした。
「危険個体として扱う」
静かな宣言だった。
「檻に入れても意味はない。だが、自由に血を扱わせるわけにもいかない。お前は自分の飢えも、稀血の影響も、周囲へ与える被害も軽く見る」
「我を裁くか」
「裁かない」
「なら何だ」
「管理する」
またその言葉。
クラウディオは、低く唸るように笑った。
だが、その笑いは掠れていた。
血を飲んだ喉は少し戻り始めている。
しかし、尊厳は戻っていない。
王としての待遇を奪われた。
杯を奪われた。
床の器を与えられた。
飲むと言えと命じられ続けた。
拒み続けたのに、最後には口をつけさせられ、身体の本能で飲み干した。
犬のようだと嘲笑された。
自害しようとすれば、また噛むぞと脅された。
死ぬことも許されない。
飲んだことも取り消せない。
それは管理方針だった。
罰ではない。
単発の屈辱でもない。
これから続く扱いの始まりだった。
ルストは続けた。
「血は俺が与える」
クラウディオの目が鋭くなる。
「ふざけるな」
「量も、間隔も、器も俺が決める」
「貴様ァ……!」
「勝手に狩らせない。勝手に噛ませない。勝手に死なせない」
ルストは、床の器を拾った。
空に近い器。
クラウディオが飲み干した器。
それを手にしたルストが、クラウディオを見た。
「今日、確認した」
「何を」
「皿からでも飲む」
「違う!」
「飲んだ」
「貴様が無理矢理……!」
「次は、飲むと言わせる」
クラウディオは、息を呑んだ。
次。
この屈辱に次がある。
最初の給仕は、血を飲まなかった。
今回、飲んだ。
次は、飲むと言わせる。
ルストは段階を作っている。
檻ではなく。
処刑でもなく。
管理として。
クラウディオの王としての習慣を、一つずつ壊している。
杯でなければ飲まない王。
床の皿からは飲まない王。
命令には従わない王。
それらを、ひとつずつ。
クラウディオは、喉の痕に触れた。
牙の痕。
消えない刻印。
その下で、今飲んだ血が身体へ回り始めている。
少しだけ力が戻る。
だから余計に分かる。
この血が、自分を生かしている。
屈辱の器から飲んだ血が。
クラウディオは、低く言った。
「我は、貴様の犬ではない」
ルストは器を手にしたまま答えた。
「今はな」
クラウディオの瞳が、深紅に燃えた。
「二度とその口を開くな」
「開く」
「ルスト……!」
また名が出た。
クラウディオはそれに気づき、顔を歪めた。
ルストは何も言わなかった。
ただ、静かに見ている。
その沈黙が、逆に腹立たしい。
クラウディオは震える足で立ち上がった。
今度は立てた。
血が回ったからだ。
床の皿から飲んだ血が、彼を立たせている。
その事実が、さらに屈辱だった。
「覚えていろ」
クラウディオは言った。
「この恥を、我は忘れぬ」
「忘れなくていい」
「貴様に返す」
「できるなら」
「必ず」
ルストは空の器を壁際に置いた。
片づけるのではない。
見える場所へ置いた。
証拠のように。
次も使うと言うように。
クラウディオはその器を睨んだ。
割りたい。
粉々にしたい。
だが、ルストの視線がある。
喉の痕が熱い。
また噛むぞ、という言葉がまだ身体に残っている。
クラウディオは、割らなかった。
割れなかったのではない。
今は。
今は、割らない。
そう自分に言い聞かせた。
ルストは扉へ向かった。
「行くぞ」
「どこへ」
「外縁北路」
「我は休む」
「血は入った」
「貴様が床の皿で飲ませた血だろうが!」
「だから動ける」
クラウディオは、怒りで言葉を失いかけた。
この男は本当に、屈辱を屈辱として扱わない。
結果だけを見る。
血が入った。
動ける。
なら行く。
それだけ。
「我を何だと思っている」
クラウディオは、もう何度目か分からない問いを吐いた。
ルストは振り返った。
「危険で、面倒で、血が要る王」
クラウディオは笑った。
怒りと殺意で、唇が歪む。
「よく覚えておけ、灰銀」
声は掠れているが、芯は戻っていた。
「その危険な王を犬のように扱ったことを、必ず後悔させる」
ルストは淡々と答えた。
「後悔する前に、次の血を用意する」
「貴様……!」
「離れるな」
「命じるな!」
小屋の外へ、ルストが出る。
クラウディオは一瞬だけ、床の低い器を見た。
血はほとんど残っていない。
自分が飲んだ。
犬のようだと笑われながら。
その事実は、消えない。
喉の牙痕と同じように。
クラウディオは、器から目を逸らした。
逸らしたことも、また腹立たしい。
そして外へ出る。
ルストの隣へ。
同行する。
檻ではない。
だが、自由でもない。
王としての待遇を奪われ、危険個体として血を管理され、皿から飲まされた吸血鬼王。
その屈辱は、これから始まり続ける。
クラウディオは夜の中で、喉の痕に触れた。
熱い。
消えない。
そして、血が回っている。
床の皿から飲んだ血が。
クラウディオは、赤い目で前を見た。
「殺す」
低く呟く。
「必ず、殺す」
ルストは前を向いたまま言った。
「その前に歩け」
「命じるなァッ!」
怒声が外縁の夜へ響く。
だが、クラウディオは歩いた。
喉に牙の痕を残し、身体に屈辱の血を巡らせたまま。
そして背後の小屋には、空になった低い器が一つ、床の近くに置かれていた。
犬のようだ。
その言葉が、血より深くクラウディオの中へ沈んでいた。




