第52話 最初の給仕
血は、杯で与えられるものだった。
少なくとも、クラウディオ・ルジェリウスにとってはそうだった。
銀の杯。
血紋を刻んだ器。
温度を整えられ、香りを調整され、王の手元へ捧げられるもの。
血はただの糧ではない。
血は名であり、格であり、夜の秩序であり、王の身体へ入ることを許されたものだ。
だから、杯でなければならない。
膝をついた従者が差し出す。
血杯管理官が震えながら見守る。
王が指先で受け取る。
それが血だった。
それが給仕だった。
それが、王の食事だった。
だからクラウディオは、床に置かれた器を見た瞬間、怒りより先に理解を拒んだ。
低い器だった。
皿と呼ぶにも粗末すぎる。
金属製ではあるが、王城の銀杯とは比べ物にならない。縁は低く、底は広く、床に直接置かれている。
犬に水を与える器のようだった。
その中に、血が入っている。
赤い。
濃い。
温い。
香りは悪くない。
むしろ、ルストが選んだのだろう。餓えた吸血鬼が暴れすぎない程度に濃く、しかし王の舌が「まずい」と吐き捨てるほど粗悪ではない。
それが、さらに腹立たしかった。
ただの嫌がらせなら、粗悪な血を出せばいい。
腐りかけた血、薄い血、獣の血、人間の恐怖が濁った血。
そうではない。
血そのものは、飲める。
問題は器だった。
問題は床だった。
問題は、ルストがそれを給仕と呼んだことだった。
外縁北路の古い石小屋。
薄い月光。
湿った石床。
壁際にはルストの荷が置かれ、扉には簡易の銀線と血避けの符が張られている。
檻ではない。
だが、逃げやすい場所でもない。
クラウディオは小屋の中央に立っていた。
黒い外套は整えている。
喉には、消えない牙の痕。
白い首筋に赤黒く残った、ルストの刻印。
その痕は、彼がどれほど血術を流しても消えない。
そして今、目の前には床に置かれた血の器がある。
ルストはその横に立っていた。
灰銀の髪。
鋼色の瞳。
大きな身体。
手には刃を持っていない。
だが、刃がないから安全というわけではない。
この男は、刃がなくてもクラウディオを押さえつけられる。
喉の奥の血脈反射まで制御できる。
その記憶が、クラウディオの身体に残っている。
だからこそ、余計に怒りが深かった。
クラウディオは、器を見下ろした。
次にルストを見た。
「……何の真似だ」
声は低かった。
喉がまだ少し掠れている。
それすら忌々しい。
ルストは短く答えた。
「給仕だ」
クラウディオの瞳が、禍々しい赤に変わる。
「これを、給仕と呼ぶか」
「そうだ」
「我に、この床の皿から飲めと?」
「そうだ」
即答。
迷いもない。
羞恥を煽るでもない。
愉しそうでもない。
ただ、必要な手順として言っている。
それが一番腹立たしい。
「貴様」
クラウディオの声が低く沈む。
「自分が今、誰に向かって何をしているか分かっているのか」
「分かっている」
「我は王だぞ」
「知っている」
「なら、杯を用意しろ」
「しない」
クラウディオの指が動いた。
血術が走ろうとする。
だが、ルストの視線がわずかに下がった瞬間、クラウディオは止まった。
読まれている。
動かす前から。
それを自覚した瞬間、さらに怒りが込み上げた。
「その目をやめろ」
「動くからだ」
「見るな!」
「見える」
またその返答。
クラウディオは低く笑った。
喉に牙の痕を残されてなお、美しい笑みだった。
ただし、そこに温度はない。
「殺されたいらしいな、灰銀」
「今のお前には無理だ」
ルストは床の器を指した。
「血が足りない。飲め」
その言葉で、クラウディオの顔から笑みが消えた。
「命じるな」
「飲め」
「命じるなと言っている!」
小屋の中に王の声が響く。
壁の符がわずかに震えた。
だが、ルストは動じない。
「飲むと言え」
短い命令。
クラウディオは一瞬、理解できなかった。
飲め、ではない。
飲むと言え。
従う意思を言葉にしろ、ということだった。
床に置かれた低い器から。
這いつくばるように。
杯ではなく、皿から。
王が。
自分の口で。
飲むと言え。
クラウディオの中の血が、凍るほどに熱くなった。
「言うと思うか」
「言わせる」
「貴様ごときに?」
「俺が」
ルストは前へ出た。
クラウディオも後ろへ引かない。
引けば、逃げたように見える。
だから、立つ。
睨む。
喉の痕が熱を持つ。
ルストの視線がそこへ一瞬落ち、クラウディオは怒鳴った。
「見るな!」
「血が足りない」
「その話をするな!」
「飲むと言え」
また。
クラウディオは血術を放った。
赤黒い糸が足元から跳ね、ルストの腕へ向かう。
怒りだけではない。
今回は細く、低く、床の影へ滑らせた。
前よりも静かに。
前よりも精密に。
だが、ルストは踏み出す位置を半歩変えただけで、血糸の軌道を外した。
次の瞬間、クラウディオの手首が掴まれる。
速い。
重い。
逃げられない。
クラウディオは即座に反対の手で血術を走らせようとした。
ルストの膝が、クラウディオの足を払った。
視界が傾く。
石床が迫る。
クラウディオは反射的に体勢を整えようとした。
だが、間に合わない。
背ではない。
膝からでもない。
肩を押され、身体が斜めに崩され、次の瞬間、クラウディオは床へ叩きつけられていた。
「ぐ、ッ!」
息が詰まる。
石床の冷たさが胸元へ伝わる。
黒い外套が乱れる。
白い手が床を掻く。
すぐ目の前に、血の器がある。
低い皿。
床に置かれたまま。
クラウディオの顔が、皿の近くへ落とされている。
その構図を理解した瞬間、クラウディオは全身で暴れた。
「離せッ!!」
怒声が床に叩きつけられる。
ルストはクラウディオの後頭部へ手を置いた。
乱暴に潰すわけではない。
だが、絶対に上げさせない力だった。
頭を床へ近づけられる。
顔が血の器へ近づく。
血の匂いが濃くなる。
喉が反応しかける。
渇いている。
血を奪われた身体が、血を欲しがる。
その反応が、最悪だった。
飲みたいのではない。
飲めない。
飲むわけがない。
だが、身体は吸血鬼で、血は血だった。
クラウディオの喉がわずかに鳴りかけた。
彼は歯を食いしばって、その反応を殺した。
ルストは低く言う。
「飲むと言え」
クラウディオは床に押さえつけられたまま、赤い目で横からルストを睨んだ。
「誰が……ッ」
声が震えている。
怒りで。
屈辱で。
身体の飢えを必死に抑えているせいで。
「誰が、こんなものを……!」
「器を手で取るな」
ルストは淡々と言った。
「顔を上げるな。皿から飲むと言え」
「殺す……!」
「飲むと言え」
「貴様だけは、必ず殺す……!」
「飲むと言え」
同じ言葉。
短く。
冷たく。
何度も。
クラウディオの指が床を掻いた。
爪が石に当たり、嫌な音がする。
血術を起こそうとする。
だが、ルストの膝が背中の位置を押さえ、頭を固定する手が血脈の流れを邪魔する。
喉奥への制圧ではない。
だが、逃げられない。
身体を起こせない。
皿の前から離れられない。
「見境なく喰ったり噛みつくお前には、這いつくばって皿で飲むことから教える」
ルストの声が、頭上から落ちる。
クラウディオの目が見開かれた。
「教える……?」
その言葉が、彼をさらに激怒させた。
教育。
調教。
管理。
王に向かって。
吸血鬼王に向かって。
「貴様、我を犬扱いするか……!」
「犬ならもう少し聞き分けがいい」
「ルストォッ!!」
名が出た。
怒りで。
クラウディオ自身も気づいた。
気づいた瞬間、さらに屈辱で血が燃える。
ルストは、少しも揺れない。
「飲むと言え、クラウディオ」
名で返された。
喉の痕が熱を持つ。
クラウディオは歯を食いしばった。
「その名を呼ぶな……ッ」
「飲むと言え」
「呼ぶなと言っている!」
「飲むと言え」
何度も。
同じ命令。
まるで、クラウディオの怒声も罵倒もすべて聞こえているが、必要な返答以外は受け取らないとでもいうように。
クラウディオは暴れた。
肩を捻る。
腰を跳ねさせる。
足で床を蹴る。
血術を指先から出そうとする。
しかし、動くたびにルストの押さえ方が変わる。
力任せではない。
逃げ道を潰す。
起点を潰す。
呼吸の間を潰す。
血術の流れを遮る。
だからクラウディオは暴れれば暴れるほど、皿の前へ近づく。
顔が血の器に近づく。
血の匂いが濃くなる。
吸血鬼の本能が、喉を鳴らそうとする。
それをクラウディオは全力で殺す。
飲まない。
絶対に飲まない。
この器からだけは。
床に置かれた皿からだけは。
「飲むと言え」
ルストの声。
また。
クラウディオは返事をしない。
歯を食いしばる。
喉が鳴りそうになるのを抑え、唇を血が出るほど噛む。
王の血が口の中に滲む。
自分の血だ。
それを舐めることすら、今は屈辱に近かった。
ルストは、焦らない。
怒らない。
声を荒げない。
ただ、頭を押さえ、床へ伏せさせ、皿の前に固定したまま言う。
「飲むと言え」
クラウディオは黙っている。
「飲むと言え」
黙っている。
「飲むと言え」
黙っている。
時間が流れた。
最初の十分は、クラウディオが暴れ続けた。
血術を何度も走らせ、床を裂き、壁の符を焼きかけ、皿を割ろうとした。
だが、皿へ血術が届く前に、ルストが手首や起点を押さえる。
皿は割れない。
器の血は揺れるだけ。
それもまた、腹立たしい。
次の三十分で、クラウディオの呼吸が荒くなった。
血を奪われた身体は、完全に戻っていない。
何度も暴れ、血術を起こし、押さえ込まれ、床に伏せられたまま怒鳴る。
喉の痕が熱を持つ。
声が掠れる。
それでも返事はしない。
「飲むと言え」
ルストは変わらない。
クラウディオは、床に伏せたまま低く笑った。
「貴様……他に言葉を知らぬのか……?」
「必要な言葉はこれだけだ」
「愚鈍な狩人め……」
「飲むと言え」
「言わぬ」
初めて、返した。
飲む、ではない。
拒絶。
ルストの手が、わずかに重くなった。
クラウディオの額がさらに床へ近づく。
皿の血が、鼻先に近い。
屈辱で視界が赤くなる。
「飲むと言え」
「言わぬと言った!」
「なら続ける」
それから、さらに時間が経った。
一時間。
二時間。
小屋の外で夜鳥が鳴き、やがて鳴き止んだ。
月光の角度が変わる。
壁の影が動く。
皿の血は温度を失いかけるたび、ルストが血術ではない方法で温め直す。
新しい血ではない。
同じ器。
同じ血。
同じ屈辱。
クラウディオは一度も飲まない。
ルストも一度も無理に飲ませない。
ただ、飲むと言わせようとする。
それが、むしろ地獄だった。
無理に口へ流し込まれれば、怒りの矛先をそこへ向けられる。
喉を押さえられれば、身体の屈辱として記録できる。
だが、これは違う。
言葉を求められている。
自分の意思で認めろと迫られている。
皿から飲むと。
床の器を受け入れると。
王が、自分の口で。
クラウディオの額に汗が滲んだ。
吸血鬼に汗など不要なはずなのに、身体が限界に近づくとそういう無様な反応が出る。
それも屈辱だった。
ルストは見ている。
黙って。
焦らず。
逃がさず。
「飲むと言え」
クラウディオは、歯を食いしばったまま答えない。
「飲むと言え」
答えない。
「クラウディオ」
名を呼ばれる。
喉の痕が熱い。
クラウディオは床に伏せたまま、かすれた声で吐き捨てた。
「……その名を、呼ぶな」
「飲むと言え」
「呼ぶなと言っている……!」
「飲むと言え」
「貴様……ッ」
声が続かない。
喉が痛む。
空腹ではない。
渇きだ。
血を奪われた身体が、皿の血を欲しがっている。
それを認めたくない。
認めるくらいなら、舌を噛み切った方がましだ。
だが、ルストはそれも許さないだろう。
自害も。
自傷も。
屈辱から逃げる手段も。
この男は潰す。
クラウディオは、それを理解していた。
だからこそ腹立たしい。
だからこそ、返事だけはしない。
飲むとは言わない。
絶対に。
さらに一時間が過ぎた。
クラウディオの暴れ方は、変わっていた。
最初のような派手な抵抗は減り、代わりに隙を探るようになった。
ルストの手の重心。
膝の位置。
皿との距離。
血術の起点を置ける場所。
どこかに隙があるはずだった。
あるはずだ。
王を数時間も押さえ続けて、疲れないはずがない。
だが、ルストは疲れを見せない。
呼吸も乱れない。
手も震えない。
同じ力で、同じ位置で、必要なだけ押さえ続ける。
それが異常だった。
この男は何なのか。
ただのハンターであるはずがない。
クラウディオは、そう思い始めていた。
認めたくはない。
だが、血が知っている。
喉の痕が知っている。
ルストの牙は、ただの狩人の牙ではなかった。
そして今、この数時間の制圧も、ただの力ではない。
吸血鬼王を床へ伏せ続ける何か。
クラウディオは、その思考を怒りで塗り潰した。
「……灰銀」
声が掠れる。
「いつまで、続ける」
「言うまで」
「我が言うと思うか」
「今は思っていない」
「なら無駄だ」
「無駄かどうかは俺が決める」
クラウディオは笑った。
乾いた笑いだった。
「貴様は本当に、王に向かってよく言う」
「王でも血は要る」
「なら杯を寄越せ」
「皿だ」
「杯だ」
「皿だ」
「杯を用意しろ!」
「皿から飲むと言え」
また戻る。
それだけ。
クラウディオは、喉の奥で怒りを噛み殺した。
床に伏せている。
頭を押さえられている。
目の前には血の皿。
数時間、同じ命令を聞かされている。
飲むと言え。
飲むと言え。
飲むと言え。
王城なら、命令を一度聞いただけで臣下は返事をする。
返答が一拍遅れれば死ぬ。
だが今、命令されているのはクラウディオだ。
しかも、返事を拒んでいる。
それが何よりねじれていた。
クラウディオは、床に伏せたまま赤い目を細めた。
「我は、言わぬ」
ルストは答える。
「今はそれでいい」
クラウディオの眉が動く。
「何?」
「今日は、言わないことを確認した」
その言葉に、クラウディオの身体が硬直した。
確認。
これも確認か。
檻に入れても意味はないと確認したように。
血術の癖を確認したように。
喉の痕が消えないことを見せたように。
今度は、床の皿の前で何時間押さえれば、どこまで拒むかを確認していたのか。
クラウディオの血が、怒りで冷える。
「貴様……我を試したのか」
「そうだ」
「殺す……!」
「今日は飲ませない」
ルストの手が離れた。
クラウディオは反射的に跳ね起きようとした。
だが、身体がすぐには動かない。
数時間、床へ伏せられ、頭を押さえられ、血術を封じられていた身体は、思ったよりも重かった。
その一瞬の遅れ。
それをルストに見られた。
クラウディオは怒りで顔を歪め、無理やり身体を起こした。
外套は乱れ、髪は額にかかり、白い頬には床の埃がついている。
彼はそれをすぐに払い、立ち上がった。
膝がわずかに揺れる。
許せない。
クラウディオは血術で無理に体勢を整えた。
ルストは、床の器を拾わなかった。
器はまだそこにある。
血も残っている。
飲まれていない。
クラウディオはそれを見た。
そして、ルストを睨んだ。
「飲まぬ」
「知っている」
「今後もだ」
「それは分からない」
「分からせてやる」
「その前に倒れる」
クラウディオは低く唸った。
「貴様の皿など、二度と我の前に置くな」
「置く」
「置けば割る」
「割れば、割れないものにする」
「貴様……!」
「次も聞く」
ルストは器を見下ろした。
「飲むと言え、と」
クラウディオは喉の奥で怒りを噛み殺した。
言わない。
絶対に言わない。
その言葉だけは。
床の皿から血を飲むなど。
王が。
自分の口で認めるなど。
あってはならない。
クラウディオはルストへ背を向けた。
逃げるのではない。
距離を取るだけだ。
そう自分に言い聞かせる。
「勘違いするな、灰銀」
声は掠れているが、まだ冷たい。
「今日は、我が言わなかった日として記録する」
ルストは答えた。
「俺は、何時間押さえれば黙るかを記録する」
クラウディオが振り返る。
殺意に近い怒りが、赤い瞳に燃えている。
「黙ったのではない」
「言わなかった」
「同じにするな」
「似ている」
「違う!」
ルストは何も言わない。
それがまた腹立たしい。
クラウディオは喉の痕に触れた。
熱い。
そして身体は、まだ血を欲しがっている。
床の皿を、拒みながらも、血の匂いだけは覚えている。
それが最も屈辱だった。
彼は低く言った。
「いつか、その皿を貴様の喉へ押し込んでやる」
「やれるなら」
「その言葉を、いつか後悔させる」
「覚えておく」
ルストは器をそのまま床に置いた。
片づけない。
まるで、また続きがあると示すように。
クラウディオはそれを見ないようにした。
見れば、血の匂いを意識してしまう。
意識すれば、喉が鳴りそうになる。
それだけは死んでも許さない。
この話では、クラウディオはまだ血を飲まなかった。
飲むとも言わなかった。
だが、床に置かれた低い器の前で、数時間、頭を押さえつけられ、飲むと言えと命じられ続けた。
返事はしなかった。
それでも、屈辱は刻まれた。
喉の牙痕と同じように。
王の身体ではなく、王の習慣へ。
杯で血を受ける王が、皿を前に伏せさせられたという記憶として。
クラウディオは、その夜、記録にこう書いた。
最初の給仕。
杯ではない。
床の器。
飲まず。
飲むとも言わず。
数時間。
頭を押さえられる。
皿の前。
屈辱。
灰銀を殺す理由、さらに増える。
最後の一行だけ、強く筆圧が残った。
我は、皿からは飲まない。
だが、紙の上の文字とは別に、喉の奥はまだ血の匂いを覚えていた。
床に置かれた器の血を。
それを、クラウディオは死ぬほど憎んだ。




