第51話 檻に入れても意味はない
檻は、王を閉じ込めるために作られる。
鉄で組み、銀で縁取り、聖印を刻み、血術を封じ、扉には三重の鍵をかける。
人間たちはそう考える。
教会区もそう考える。
ハンター組合も、おそらくそう考える。
危険な吸血鬼を捕らえたなら檻へ入れろ。
暴君ならなおさらだ。
王血ならなおさらだ。
稀血ならなおさらだ。
外縁を荒らし、崩れ種を餌にし、人間の悲鳴すら罠へ変え、野良吸血鬼を寄せ、王の名で夜を支配する吸血鬼王なら、檻へ入れる以外にない。
そう考えるのは自然だった。
人類は何でも箱に入れれば安心する。箱に入らない怪物がいるから、世界はこんなに面倒なのに。学習能力が墓地で昼寝している。
だが、ルスト・ヴァルレインはそう考えなかった。
外縁の古い見張り小屋の地下には、檻があった。
教会区がかつて使っていた捕縛檻だ。
銀の格子。
聖別された錠。
床に刻まれた浄化紋。
壁に残る古い祈りの文字。
並の野良吸血鬼なら一晩で弱る。
崩れ種なら暴れても格子へ焼かれ、やがて動けなくなる。
人間が吸血鬼を恐れながら作った、粗野で、必死で、嫌悪に満ちた檻。
その檻の前に、クラウディオは立っていた。
正確には、立たされていた。
喉にはまだ、ルストの牙の痕が残っている。
白い首筋に深く沈んだ、赤黒い二点。
血術で塞いでも消えない。
王血で命じても消えない。
高位吸血鬼の再生すら拒む、支配反転の刻印。
クラウディオは黒い外套をまとい直していたが、衣の乱れは完全には戻っていなかった。喉の痛みも、身体の奥に残る血脈反応も、前夜の屈辱も消えていない。
それでも、彼は美しかった。
怒りで瞳を赤く染めてなお、王だった。
ただし、王冠のない王だった。
そして今、その王は檻の前に立たされている。
クラウディオは、檻を見た。
それから、ルストを見た。
「ふざけるな」
掠れた声だった。
喉がまだ戻りきっていない。
その掠れさえ屈辱で、クラウディオの眉がわずかに歪む。
「我をこのようなものへ入れるつもりか」
ルストは檻を見ていた。
鋼色の瞳は冷静だった。
「入れない」
即答だった。
クラウディオの怒りが、わずかに行き場を失った。
「……何?」
「檻に入れても意味はない」
ルストは檻の銀格子へ手を伸ばした。
素手で触れる。
銀に焼かれない。
普通の吸血鬼なら、銀に触れた瞬間に皮膚が焦げる。高位でも不快を示す。だが、ルストの手は変わらない。
クラウディオはその手を見た。
見たくなかった。
だが見てしまう。
その手が自分の顎を固定し、喉奥の血脈反射を押さえ、空嘔吐と痙攣と屈辱を引きずり出した記憶が、身体の奥で熱く疼いた。
「意味がない、だと」
クラウディオは低く言った。
「当然だ。この程度の檻で我を閉じ込められるはずがない」
「そうだ」
ルストはあっさり認めた。
クラウディオは歯を食いしばった。
認められるのも腹立たしい。
否定されても腹立たしい。
この男は本当に、どの角度から来ても不愉快だった。
ルストは続ける。
「お前なら、檻を壊す。壊せなくても、血で中を満たす。自分の血を餌にして野良や崩れ種を寄せる。外から人間を呼ばせることもできる。檻の中で大人しく腐る性格でもない」
「分かっているなら、なぜ連れてきた」
「確認だ」
「誰の」
「俺の」
ルストは檻から手を離した。
「檻に入れる選択肢を消した」
クラウディオは笑った。
低く、冷たく。
「貴様が我を選別するか」
「そうだ」
「思い上がるな、灰銀」
クラウディオの瞳が深紅に沈む。
「我は王だ。貴様の管理下へ置かれるものではない」
「もう置いている」
短い言葉。
クラウディオの顔から笑みが消えた。
その言い方。
その確信。
それは喉の痕と同じだった。
もう刻まれている。
もう始まっている。
クラウディオが認めるかどうかとは関係なく。
「貴様……ッ」
血術が走りかけた。
だが、ルストの視線がわずかに動いた瞬間、クラウディオの指が止まる。
読まれる。
押さえられる。
また喉を。
また血脈を。
また身体を。
その記憶が、動きを止めさせた。
止めた自分に、クラウディオはさらに怒った。
「見るな」
「見ている」
「見るなと言っている」
「動くからだ」
「貴様に監視される筋合いはない!」
「ある」
ルストは平坦に答える。
「お前は危険すぎる」
「誉め言葉のつもりか」
「事実だ」
「なら恐れろ」
「恐れる相手なら、噛まない」
クラウディオの喉が、かすかに震えた。
噛まない。
嘘だ。
噛んだ。
深く。
大量に血を啜った。
消えない痕を残した。
死より重い恥を刻んだ。
クラウディオの首筋が熱を持つ。
思い出しただけで、血脈が反応する。
怒りと屈辱と、身体に刻まれた抗えない記憶が混ざる。
「二度と、その口で噛むなどと言うな」
クラウディオは低く言った。
「次に言えば、舌を裂く」
「やれるなら」
「その言葉も聞き飽きた」
「なら、やれ」
ルストは一歩、近づいた。
クラウディオは反射的に血術を構えかける。
だが、ルストは刃を抜かない。
ただ近づく。
クラウディオの前まで。
近い。
忌々しいほど近い。
クラウディオの喉に残る痕を見下ろせる距離。
「触れるな」
クラウディオが言う。
「触れない」
「噛むな」
「今は噛まない」
「今は?」
クラウディオの目が鋭くなる。
ルストは訂正しない。
それがさらに腹立たしい。
「貴様……!」
「条件を言う」
「誰が聞くと」
「聞かなくていい。破れば押さえる」
クラウディオの表情が、怒りで歪んだ。
「まだ我に条件を出すか」
「出す」
ルストの声に迷いはない。
「一つ。崩れ種を餌にするな」
クラウディオは黙った。
「二つ。人間の声を罠に使うな」
クラウディオの指が動く。
「三つ。外縁で無差別に野良や獣化種を寄せるな」
「貴様が狩ればよいだろう」
「寄せるな」
ルストは短く返す。
「四つ。俺の許可なく人間を殺すな」
その瞬間、クラウディオが笑った。
声は低い。
ひどく冷たい。
「我が人間一人殺すのに、貴様の許可を求めるのか」
「そうだ」
「王に向かって、よくもそこまで」
「王だから言っている」
ルストの目が、クラウディオを真っすぐに捉える。
「お前が動けば、夜が動く。お前が血を散らせば、野良も崩れ種も寄る。お前が人間を罠に使えば、外縁が荒れる。だから管理する」
クラウディオは低く唸った。
「我を、危険個体のように言うか」
「そうだ」
即答。
クラウディオの血が、怒りで逆立つ。
危険個体。
王ではなく。
暴君でもなく。
吸血鬼王でもなく。
管理対象。
その扱いは、檻より屈辱的だった。
檻に入れられれば、壊せばいい。
閉じ込められれば、脱出すればいい。
だが、管理下に置かれ、歩くことを許され、しかし自由ではないと示される。
それは、王にとって檻以上に耐えがたい。
「なら五つ目だ」
ルストは続けた。
「俺から離れすぎるな」
クラウディオの瞳が一瞬、静止した。
「何だと」
「同行させる」
短い宣告だった。
「檻には入れない。常時閉じ込める意味はない。お前は壊すし、壊さなくても中から周りを荒らす」
ルストはクラウディオを見た。
「だから、俺が連れて歩く」
沈黙。
クラウディオの喉が、低く鳴った。
怒りが深すぎて、声になる前に喉の奥で歪む。
「我を、貴様の部下のように連れ歩くつもりか」
「部下ではない」
「では何だ」
「管理対象」
クラウディオの血術が爆ぜた。
床の石が裂け、赤黒い糸が一斉にルストへ向かう。
怒りを押さえることなどできなかった。
王を。
王を、管理対象と呼んだ。
それだけで十分だった。
だが、ルストはすでに読んでいた。
銀の刃が抜かれる。
血糸が切られる。
起点を踏まれる。
クラウディオがさらに血術を組み直そうとした瞬間、ルストが距離を詰めた。
手首を掴まれる。
壁へ押さえられる。
喉の痕が熱を持つ。
クラウディオの身体が、一瞬だけ記憶で硬直した。
ルストはそこを逃さない。
ただし、今度は喉奥を押さえない。
噛まない。
吐かせない。
手首だけを壁へ固定し、クラウディオが逃げられない距離で言う。
「暴れるなら、また押さえる」
クラウディオは赤い目で睨んだ。
「やってみろ」
「必要なら」
「貴様……ッ」
「次は人間も崩れ種も巻き込まないところでやる」
ルストの声は平坦だった。
「それまでは同行だ」
クラウディオは唇を歪める。
「我が従うと思うな」
「思っていない」
「なら」
「従わせる」
まただ。
短く、迷いなく、確定した言い方。
クラウディオは、怒りで身体を震わせた。
それでも、どこかで理解している。
ルストは脅しているだけではない。
この男は本当にやる。
逃げれば追う。
暴れれば押さえる。
血術を使えば起点を潰す。
喉を傷つければ血脈を封じる。
自害しようとすれば、また身体の制御を奪う。
そして、死なせない。
死ぬことすら許さない。
その支配が、クラウディオの背筋を怒りと屈辱で震わせる。
ルストは手を離した。
クラウディオは即座に距離を取る。
距離を取った自分にまた怒る。
すべてが腹立たしい。
この男といると、自分の反応すら思い通りにならない。
クラウディオは喉の痕を押さえた。
「この痕をつけた責任のつもりか」
「そうだ」
「笑わせるな。貴様が刻んだ恥を、貴様が管理するというのか」
「そうだ」
「恥知らずが」
「お前ほどじゃない」
クラウディオの瞳が赤く燃えた。
「今、何と言った」
「崩れ種を餌にする王よりは、恥を知っている」
沈黙。
小屋の中の空気が凍る。
クラウディオは、低く笑った。
今にも血術で小屋ごと裂きそうな笑いだった。
「貴様は本当に、死にたいらしい」
「死なない」
「我が殺す」
「その前に管理する」
「その言葉をやめろ!」
クラウディオが叫ぶ。
喉が痛む。
痕が熱くなる。
それすらルストに見られた。
クラウディオは、噛み殺すように言う。
「見るな」
「見える」
「見るなと言っている!」
「なら叫ぶな」
ルストは平然と返した。
会話が噛み合わない。
いや、噛み合っているからこそ腹立たしい。
ルストはクラウディオの怒りを受け流すのではない。
短く切る。
余計な感情を挟まず、必要なところだけを押さえる。
血術と同じだ。
クラウディオの言葉の起点まで読んでいるようだった。
ルストは扉へ向かった。
「出るぞ」
「どこへ」
「外縁北路」
「我が行くと言ったか」
「言っていない」
「なら行かぬ」
「連れていく」
ルストが振り返る。
「野良の群れが動いている。お前の血の残り香に寄った可能性がある」
「我のせいだと?」
「そうだ」
「なら貴様が勝手に狩れ」
「お前も来る」
「なぜ」
「自分の血が何を呼ぶか見ろ」
クラウディオは言葉を失いかけた。
その言い方が、また屈辱だった。
まるで叱責。
まるで教育。
まるで、王が自分の撒いた火を見るよう命じられている。
「貴様は我を何だと思っている」
「危険な王」
「管理対象ではなかったのか」
「両方だ」
即答。
クラウディオは、怒りすぎて一瞬笑った。
「実に不敬だ」
「今さらだ」
「開き直るな」
「行くぞ、クラウディオ」
名。
また名。
クラウディオの喉の痕が熱くなる。
「その名を呼ぶな」
「行くぞ」
「呼ぶなと言っている」
「クラウディオ」
わざとだった。
クラウディオは血術を放ちかけた。
だが、ルストはもう扉を開けていた。
外の冷たい夜気が小屋へ入る。
森の匂い。
血の匂い。
外縁の荒れた夜。
ルストは振り返らずに言った。
「逃げてもいい」
クラウディオは目を細める。
「ほう」
「追う」
短い。
あまりに短い脅し。
「暴れてもいい」
「押さえる、か」
「そうだ」
「殺してもいいか」
「俺を殺せるなら」
クラウディオは低く笑った。
「いつか必ず殺す」
「その前に来い」
ルストは外へ出た。
クラウディオは、小屋の中に残った。
行く必要はない。
従う必要もない。
王が、灰銀のハンターに同行するなどあり得ない。
管理下に置かれるなど、檻に入れられるより屈辱だ。
そう思っている。
思っているのに。
クラウディオは喉の痕に触れた。
消えない痕。
ルストが刻んだもの。
死ぬことすら許さないと言った男。
恥じたまま生きろと笑った男。
その男が、外で待っている。
待たれている。
その事実が腹立たしい。
だが、ここで残れば、逃げたように見える。
それだけは、絶対に許せない。
クラウディオは黒い外套を整えた。
喉の痕は隠さない。
隠さないことで、せめて自分が恥に呑まれていないと示す。
そう決めた。
扉へ向かう。
外へ出る。
ルストは少し離れた場所に立っていた。
待っていた、という顔ではない。
ただ、そこにいる。
それがまた癪に障る。
クラウディオはルストの横を通り過ぎながら言った。
「勘違いするな」
「何を」
「我は貴様に従うのではない」
「そうか」
「貴様を殺す機会を逃さぬために同行する」
「それでいい」
「よくない!」
クラウディオの声が荒れる。
喉が痛み、痕が熱を持つ。
ルストはそれを見た。
クラウディオは即座に睨む。
「見るな」
「見える」
「その返答も飽きた」
「なら慣れろ」
「貴様ァ……!」
夜の道を、二人は歩き出した。
前を行くのはルスト。
少し後ろにクラウディオ。
だが、クラウディオはすぐに横へ並んだ。
後ろを歩くなど許せなかった。
ルストは何も言わない。
それも腹立たしい。
同行。
管理。
檻ではない。
だが自由でもない。
クラウディオは王城から遠く離れた外縁の夜を歩きながら、自分が初めて、誰かの管理下に置かれている事実を噛み締めていた。
噛み砕きたいほどに。
喉の痕は消えない。
ルストの牙は、王の身体に残っている。
そして今、その痕を刻んだ男の隣を歩いている。
殺すために。
見返すために。
屈辱を返すために。
そう言い聞かせながら。
ルストは前を見たまま言った。
「離れるな」
「命じるな」
「離れれば、また押さえる」
クラウディオは赤い目で彼を睨んだ。
「いつかその口を塞いでやる」
「今は歩け」
「我に命じるなと言っている!」
外縁の夜に、二人の声が低く沈む。
王と狩人。
暴君と管理者。
檻に入れられなかった危険な王と、その王を連れ歩く灰銀のハンター。
檻に入れても意味はない。
だから、ルストはクラウディオを連れて歩くことにした。
王は自由に見える。
けれど自由ではない。
その屈辱が、喉の痕と同じように、クラウディオの血へ刻まれていく。
そして彼は、まだ認めない。
自分がもう、ルストの管理下にいることを。
認めないまま、隣を歩く。
殺意を抱えて。
恥を抱えて。
消えない牙の痕を、白い喉に晒したまま。




