第50話 喉の痕
第50話 喉の痕
目覚めた瞬間、クラウディオは喉に手をやった。
痛みがあった。
ただの傷の痛みではない。
牙が皮膚を裂いた痛みでも、血を奪われた後の渇きでもない。もっと深い。首筋の奥、血脈の底、王権の根にまで届いた何かが、そこに残っている。
クラウディオは、ゆっくりと息を吸った。
喉が焼けた。
白い指先が首筋へ触れる。
そこに、痕があった。
牙の痕。
二つ。
深く、赤黒く、熱を持って。
高位吸血鬼の身体なら、すでに塞がっているはずだった。ましてクラウディオは今代の吸血鬼王であり、王血であり、稀血であり、血術そのものを己の命令で従わせる存在だった。
裂傷なら消せる。
銀の浅い焼け痕なら塞げる。
皮膚を裂かれようが、骨を軋まされようが、時間をかけずに修復できる。
それなのに。
痕だけが、消えていない。
「……ふざけるな」
声は掠れていた。
そのことすら、許せなかった。
クラウディオは身体を起こした。
そこは森ではなかった。
古い石造りの小屋だった。外縁の猟師小屋か、使われなくなった見張り小屋か。壁は湿っており、天井の梁には古い縄の跡がある。窓には板が打ちつけられ、隙間から細い月光が差し込んでいた。
床には粗い毛布。
その上に、自分は横たえられていた。
寝かされていた。
運ばれていた。
意識を失った王の身体を、誰かが抱え、ここへ置いた。
その事実を理解した瞬間、クラウディオの血が怒りで沸いた。
誰が。
誰が王の身体を運んだ。
誰が王の無防備な姿を見下ろした。
誰が、喉に牙を立てられ、白目を剥き、舌を力なく垂らし、意識を失った自分を見た。
クラウディオの瞳が、禍々しい赤へ変わる。
吸血衝動ではない。
怒りだった。
屈辱だった。
殺意だった。
彼は首筋へ血術を流した。
赤黒い光が、喉の痕を覆う。
塞げ。
消えろ。
この身体から、あの男の牙を消せ。
灰銀の痕など、王の喉に残ってよいはずがない。
皮膚は反応した。
肉も反応した。
血管も、血脈も、王の命令に応じようとした。
だが、牙の痕だけが残る。
赤黒い影が、首筋の奥へ沈んだまま、消えない。
クラウディオはさらに血術を強めた。
小屋の空気が震える。
壁の埃が落ちる。
月光が赤く染まる。
しかし、喉の痕は消えなかった。
むしろ、血術に反応して熱を持った。
「ぐ、ッ……!」
クラウディオの身体が跳ねた。
首筋の奥から、血脈そのものを握られるような痛みが走る。
傷を治そうとした血術が、痕に触れた瞬間、弾かれた。
自分の身体のはずだった。
自分の血のはずだった。
それなのに、あの牙の痕だけが、クラウディオの命令を拒んでいる。
クラウディオは目を見開いた。
あり得ない。
王の血が、王の命令を聞かないなど。
あり得ない。
「何を……刻んだ……」
声が低く漏れた。
その時、小屋の隅から声がした。
「起きたか」
クラウディオの身体が硬直した。
影の中に、男が立っていた。
ルスト・ヴァルレイン。
灰銀の髪。
鋼色の瞳。
大きな体。
黒い外套。
壁に背を預け、腕を組み、静かにこちらを見ている。
眠っている間、そこにいたのか。
見ていたのか。
クラウディオが意識を失い、呻き、血を失い、喉の痕を刻まれたまま横たわっていたところを。
クラウディオの中で、理性が軋んだ。
「貴様ァッ!!」
血術が走る。
床から赤黒い糸が跳ね、ルストの喉へ向かった。
しかしルストは刃すら抜かない。
一歩、横へずれる。
血糸は小屋の壁へ突き刺さり、石を割った。
クラウディオは立ち上がろうとした。
だが、膝が揺れる。
大量に血を奪われた身体は、まだ完全に戻っていない。
その事実が、彼をさらに怒らせた。
「見るな……ッ」
声が荒れる。
「我を見るな、灰銀……ッ!」
ルストの視線は、クラウディオの喉へ向いていた。
そこに残る深い牙の痕。
白い肌に刻まれた、消えない赤黒い印。
クラウディオは反射的に手で覆いかけ、途中で止めた。
隠すなど、あり得ない。
隠せば、それを恥じていると認めることになる。
いや。
すでに恥だった。
死より重い恥だった。
ルストは静かに言った。
「消えないだろう」
クラウディオの瞳がさらに赤く燃える。
「何をした」
「噛んだ」
「それだけであるはずがない!」
クラウディオの声が小屋の中で跳ね返る。
「我は王だぞ。高位吸血鬼だ。王血だ。貴様ごときの牙で、痕が残るはずがない……!」
ルストは少しも揺れない。
「消えないように噛んだ」
その言葉で、小屋の空気が凍った。
クラウディオは息を忘れた。
消えないように。
わざと。
喉に牙を立てた。
血を啜った。
王の血脈へ触れた。
そして、消えない痕を刻んだ。
クラウディオの喉が低く鳴った。
それは笑いではなかった。
怒りが深すぎて、喉の奥で歪んだ音だった。
「……殺す」
掠れた声。
「貴様だけは、必ず殺す……」
「血が足りていない。今動けば崩れる」
「貴様が奪ったのだろうが!」
クラウディオは赤い目でルストを睨みつけた。
「返せ」
「必要な分だけ飲んだ」
「返せと言っている!」
「返して戻るものじゃない」
その平坦な声が、クラウディオの神経をさらに逆撫でした。
奪ったくせに。
痕を刻んだくせに。
王の喉へ牙を立てたくせに。
淡々と、必要だったと言う。
クラウディオは喉の痕を押さえた。
熱い。
そこだけが異物のように熱い。
ルストの牙がまだ沈んでいるようだった。
自分の身体の中に、灰銀の印がある。
その現実に、吐き気がした。
怒りではない。
本当の拒絶として。
クラウディオは低く笑った。
「殺さないのなら」
彼は、自分の喉へ爪を立てた。
白い首筋に赤い筋が走る。
ルストの目が、わずかに動いた。
クラウディオは笑みを深くする。
「我が消す」
痕だけではない。
喉ごと。
血ごと。
この身体ごと。
灰銀の牙の痕を抱えて生きるくらいなら、死んだ方がましだ。
噛まれるくらいなら死ぬ。
噛まれたなら、なおさら。
クラウディオの爪がさらに深く沈もうとした瞬間、ルストが動いた。
速かった。
クラウディオが血術を起こすより早く、手首を掴まれる。
背が石壁へ叩きつけられる。
「ぐ、ッ……!」
肺から息が抜ける。
ルストの片手がクラウディオの手首を壁へ縫い止め、もう片方の手が顎を固定した。
強い。
逃げられない。
クラウディオは暴れた。
「離せ! 離せ、下郎……ッ!」
「死ぬな」
「命じるな!」
「死なせない」
ルストの声は低かった。
いつもより少し硬い。
クラウディオは喉を震わせて笑った。
「なら、この痕を消せ」
「消さない」
「なら殺せ!」
「殺さない」
「なら何だ! この恥を抱いて生きろとでも言うのか!」
ルストの口元が、わずかに歪んだ。
笑みに似ていた。
冷たく、短く、残酷な形だった。
「そうだ」
クラウディオの瞳が大きく見開かれる。
ルストは言った。
「恥じたまま生きろ」
その一言で、クラウディオの中の何かが完全に切れた。
王血が暴れる。
赤黒い血術が小屋の中へ跳ね上がり、床を裂き、壁を叩き、月光を赤く染める。
だが、ルストは逃げない。
クラウディオの手首と顎を押さえたまま、さらに近づいた。
顎を固定される。
喉が逃げられない。
首筋の牙痕が、ルストの視線の下に晒される。
「見るな……ッ!」
クラウディオは叫んだ。
「見るなと言っているだろうが……ッ!」
ルストは見ていた。
恥を。
痕を。
王が消せず、隠せず、殺すことすら許されない印を。
クラウディオは全身で暴れた。
足が床を蹴る。
腰が逃げようと跳ねる。
血術を走らせようとする。
だが、ルストの太い指が顎と喉元を押さえ、噛み跡から残った血脈の刻印を辿るように圧をかけた。
口を塞ぐのではない。
喉を潰すのでもない。
もっと奥だった。
喉の深部、血脈の反射そのものへ触れられるような圧。
クラウディオの身体が、反射で大きく跳ねた。
「が、ッ……!?」
息が詰まる。
吸おうとしても吸えない。
吐こうとしても吐けない。
喉の奥が勝手に拒み、腹の底から込み上げるものを押し返せず、身体だけが惨めに痙攣した。
「や、め……ッ、貴様、何を……ッ!」
言葉は最後まで続かなかった。
喉の奥を血脈ごと掴まれたような衝撃が走り、クラウディオの背が石壁へ打ちつけられる。
膝が跳ねる。
腰が逃げようと震える。
足先が床を掻く。
吐き気が込み上げた。
だが、出るものなどなかった。
先ほど大量に血を奪われた身体には、吐き出すだけの余裕すら残っていない。喉だけが無様に引き攣り、空っぽの胃が反射だけで跳ねる。
「う、ぐ……ッ、あ゛……ッ!」
クラウディオの身体が折れかけた。
けれどルストの手が、それすら許さない。
倒れることも、逃げることも、顔を背けることもできない。
顎と喉元を固定されたまま、クラウディオは喉の奥から空嘔吐を繰り返した。
何も出ない。
出るのは、泡混じりの唾液と、ひゅうひゅうと壊れた呼吸だけだった。
「見るな……ッ、見るな、見るなァッ!!」
叫びは掠れた。
唇の端に白く濡れた泡が滲み、喉が嫌な音を立てる。息が続かない。視界の端が白く焼け、月光も、石壁も、ルストの顔も、遠く滲んでいく。
それでもルストは手を緩めなかった。
殺すほどではない。
気絶させきるほどでもない。
ただ、クラウディオが自分の身体を制御できなくなるぎりぎりの場所で、血脈を押さえ続けている。
「が、ぁ……ッ、あ゛……!」
クラウディオの瞳が上へ滑った。
白目が覗く。
指先が硬直し、膝が折れ、身体が大きく痙攣する。喉の奥から声にならない音が漏れ、腰から力が抜けた瞬間、クラウディオの顔が屈辱で歪んだ。
まただ。
また、身体が勝手に崩れる。
王としての制御が奪われる。
空っぽの胃がもう一度跳ねる。何も出ないのに、身体だけが吐こうとする。喉がひくつき、泡混じりの息が唇から零れた。
「いや、だ……ッ、見るな……見るなと言っているだろうが……ッ!!」
声はもう、怒鳴り声ではなかった。
引き裂かれたような、泣き叫ぶ寸前の声だった。
ルストは、それを見下ろして笑った。
低く、冷たく、短く。
「似合っている」
クラウディオの瞳が、白く揺れたままルストを睨もうとする。
だが焦点が合わない。
怒りだけが残る。
王としての威厳も、美貌も、命令も、血術も、すべて喉奥の反射ひとつで崩されている。
「こ、ろ……す……」
掠れた声が漏れた。
「貴様、だけは……必ず……ッ」
「なら生きろ」
ルストは、クラウディオの喉元に残った噛み跡を見下ろした。
「その痕を抱えたままな」
クラウディオの身体が、最後に大きく跳ねた。
喉の奥から潰れた絶叫が漏れ、白い唇が震え、泡混じりの息が細く途切れる。
それでもルストは殺さない。
失神へ落ちる直前、クラウディオは理解した。
これは処刑ではない。
辱めだ。
死より重い恥を、死なせず抱かせるための罰だ。
「恥じたまま生きろ、クラウディオ」
ルストの声が、白く遠のく意識の底へ沈んだ。
次にクラウディオが意識を取り戻した時、小屋の床は冷たかった。
身体は横向きに崩れていた。
喉は焼けるように痛み、唇は乾き、呼吸は浅い。
喉の痕は、まだあった。
消えていない。
むしろ、先ほどの反応でさらに熱を持っている。
クラウディオは震える手で首筋へ触れた。
牙の痕。
消えない刻印。
ルストの牙が王の喉に残した、支配反転の証。
彼は低く息を吐いた。
笑いに近かった。
けれど声は壊れていた。
「……恥じたまま、生きろ、だと」
掠れた声。
その奥に、まだ怒りがあった。
まだ殺意があった。
まだ王としての核が残っていた。
クラウディオは壁に手をつき、ふらつきながら身体を起こした。
膝が笑う。
喉が痛む。
身体の奥に、さきほどの制御不能の屈辱が残っている。
それでも立つ。
王だからではない。
倒れたままでいることを、ルストに見せたくなかったからだ。
ルストは壁際にいた。
相変わらず静かに。
クラウディオの崩れた姿を見てなお、欲望も憐憫も見せない。
それが一番腹立たしい。
クラウディオは、喉を押さえながら言った。
「貴様……いつか、同じ場所に牙を立て返してやる」
ルストは答えた。
「やれるなら」
「その余裕を……殺してやる」
「まず立て」
「立っている!」
声が荒れ、喉が痛み、クラウディオは一瞬だけ顔を歪めた。
それすらルストに見られた。
クラウディオはさらに怒った。
「見るな!」
「見える」
「見るなと言っている!」
「なら崩れるな」
クラウディオの血がまた怒りで跳ねる。
だが、動かさない。
動かせば、また読まれる。
また押さえられる。
また、身体を暴かれる。
その記憶が、血より深く身体に刻まれていた。
それがさらに屈辱だった。
ルストは扉へ向かった。
「どこへ行く」
クラウディオが言う。
「外を見る」
「逃げるのか」
「お前を置いて逃げても、勝手に死のうとするだろう」
クラウディオの唇が歪む。
「貴様に監視される筋合いはない」
「ある」
「ない!」
「その痕を消そうとして死ぬなら、ある」
ルストは振り返った。
鋼色の瞳が、クラウディオをまっすぐ見る。
「俺がつけた」
クラウディオは息を呑んだ。
怒りで。
屈辱で。
その言い方に、身体の奥が反応したことがさらに許せなくて。
ルストは続けた。
「俺が消さないと決めた」
「貴様……ッ」
「だから死なせない」
静かな言葉だった。
甘さではない。
優しさでもない。
所有に近い。
責任に近い。
支配に近い。
クラウディオには、その全部が不愉快だった。
「我の命を、貴様が決めるな」
「決めている」
「ルスト……!」
その名が、初めて怒りの勢いで口から出た。
出た瞬間、クラウディオ自身が凍った。
ルストも一瞬、目を細めた。
沈黙。
クラウディオは唇を噛んだ。
呼ぶつもりなどなかった。
灰銀。
貴様。
狩人風情。
そう呼ぶはずだった。
なのに、出た。
名が。
ルスト。
クラウディオは、喉の痕以上にそれを屈辱だと思った。
ルストは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、低く返した。
「クラウディオ」
名を呼ばれた。
深い牙の痕が熱を持つ。
クラウディオは、赤い目で彼を睨んだ。
「その名を呼ぶな」
「お前も呼んだ」
「黙れ!」
声が割れた。
喉が痛む。
それでも叫んだ。
ルストは扉を開けた。
「寝ていろ」
「命じるな!」
「血が足りない」
「貴様が奪った!」
「また奪られたくなければ、大人しくしろ」
クラウディオは答えられなかった。
怒りで喉が震える。
ルストは外へ出る前に、最後に言った。
「その痕は消えない。消すな。死ぬな。恥じろ」
扉が閉まった。
クラウディオはひとり、小屋の中に残された。
喉が痛む。
痕が熱い。
身体の奥には、先ほどの惨めな反応が残っている。
空嘔吐。
泡混じりの息。
白目。
痙攣。
身体の制御を奪われた屈辱。
そして、ルストの笑い。
似合っている。
恥じたまま生きろ。
クラウディオは、低く笑った。
涙ではない。
諦めでもない。
殺意だった。
まだ折れていない。
喉を奪われても。
痕を刻まれても。
身体を崩されても。
名を呼んでしまっても。
王の核は、まだ死んでいない。
クラウディオは、震える指で喉の痕をなぞった。
痛みが走る。
その痛みを、彼はあえて覚えた。
記録するために。
いつか返すために。
「恥じたまま生きろ、だと」
掠れた声で呟く。
「よく言ったな、灰銀」
名は呼ばなかった。
今度は。
「この恥ごと、貴様へ返してやる」
喉の痕は消えない。
高位吸血鬼である自分の血術でも、王権でも、命令でも消えない。
それは異常だった。
それは屈辱だった。
それは、ルストという男がただの狩人ではない証だった。
クラウディオはまだ、その正体を知らない。
だが、血は知り始めていた。
自分より古い何かに噛まれたのだと。
自分の王権が、別の何かの牙の下で押さえられたのだと。
その夜、クラウディオは喉の痕を消せなかった。
死ぬことも許されなかった。
ただ、恥を抱えたまま生きることを強いられた。
王にとって、それは死より重い罰だった。




