第49話 王に牙を立てる夜
二人の出会い衝突を終え、ここからルストのクラウディオ管理が始まります。
噛まれるくらいなら死ぬ。
クラウディオ・ルジェリウスは、本気でそう言った。
それは虚勢ではない。
脅しでもない。
吸血鬼王としての、血の底からの拒絶だった。
喉を許すくらいなら、首を落とされた方がましだ。
血を啜られるくらいなら、心臓を貫かれた方がましだ。
王の稀血を誰かの口へ流すくらいなら、王冠ごと灰になった方がましだ。
そう思っていた。
だからこそ、その夜はクラウディオにとって、死より重い夜になった。
外縁の森は、雨の後の匂いがしていた。
湿った土。
濡れた葉。
腐葉土の甘い腐り。
遠くで鳴く獣の声。
そして、吸血鬼の血の匂い。
野良吸血鬼がいた。
崩れ種も一体。
クラウディオが呼んだわけではない。
だが、彼の稀血の気配に引かれ、森の奥へ寄っていた。
王の血は、意図せずとも夜を狂わせる。
クラウディオはそれを知っている。
知っていて、そのままにしていた。
どうせ灰銀は来る。
そう考えていたからだ。
ルスト・ヴァルレイン。
灰銀のハンター。
クラウディオを名で呼び、王と呼ばず、血術を読み、喉に刃を当て、地面へ伏せた男。
噛む気はないと言った男。
それが余計に、クラウディオを苛立たせていた。
噛まない。
飲まない。
欲しがらない。
そのくせ傷を見る。
喉を見る。
名を呼ぶ。
止める。
まるで、王の血など欲しくもないが、王そのものは押さえられると言うように。
それが何より許せない。
クラウディオは森の奥で立ち止まった。
黒い外套が夜風に揺れる。
白い喉には、前にルストがつけた浅い傷がまだ残っていた。
血術で消せる。
消せるが、消していない。
記録するため。
屈辱を忘れないため。
そう言い聞かせている。
だが本当は、その傷に触れるたび、ルストの視線を思い出す。
だからこそ、苛立つ。
森の奥で、崩れ種が呻いた。
常に禍々しい赤い目。
曲がった背。
長すぎる腕。
血を求めるだけの喉。
「ぁ、あ……血……」
それがクラウディオの方へ這ってくる。
クラウディオは一瞥した。
「下がれ」
王命。
だが崩れ種は完全には止まらない。
理性がないからだ。
王の血に惹かれ、飢えだけで進んでくる。
クラウディオの瞳が赤く染まった。
「耳も血も腐ったか」
指先が動く。
赤黒い血糸が地面から立ち上がり、崩れ種の喉へ絡む。
次の瞬間、崩れ種の身体が木へ叩きつけられた。
濁った悲鳴が上がる。
「ぐ、がああああッ!」
クラウディオは、さらに締め上げようとした。
だが、その前に銀の光が走った。
崩れ種の首が、音もなく落ちる。
血糸はそのまま残り、中身だけが死んだ。
前と同じ。
必要なものだけを斬る。
ルストが、森の奥から現れた。
灰銀の髪。
鋼色の瞳。
巨大な影。
銀の刃には、血がほとんど残っていない。
クラウディオは笑った。
「来たか、灰銀」
ルストは崩れ種の死体を見た。
次に、クラウディオを見る。
「また餌にしたのか」
「勝手に寄っただけだ」
「寄るように血を散らした」
「我の血が勝手に夜を従わせるのだ。文句があるなら夜に言え」
ルストは、淡々と言った。
「お前に言っている」
クラウディオの笑みが消える。
「貴様に説かれる筋合いはない」
「ある」
「ない」
「止めると言った」
短いやり取り。
それだけで、クラウディオの血が荒れる。
この男はいつもそうだ。
余計な装飾がない。
怒鳴らない。
媚びない。
怯えない。
だからこちらばかりが揺れているように見える。
それが許せない。
「止められるものなら止めてみろ」
クラウディオは右手を上げた。
血霧が地面から立ち上がる。
前より細い。
前より静か。
怒りを押し殺し、起点を分散し、ルストの読みを外すように組んだ血術だった。
ルストの目がわずかに動く。
「変えたな」
「評価するな」
血霧が一気に走る。
正面ではない。
ルストの背後から。
同時に足元から。
さらに木の枝に仕込んだ血糸が、上から落ちる。
三方向。
表の動きは右手。
だが本命はルストの影へ潜らせた極細の血糸。
前より確かに精密だった。
クラウディオは勝利を確信した。
ほんの一瞬だけ。
ルストが一歩、前に出た。
それだけで、影の位置がずれる。
背後の霧は銀刃に裂かれ、足元の血糸は踏む位置を変えられて空を掴み、枝から落ちた糸はルストの刃ではなく、外套の端で軌道を逸らされた。
最後の極細の血糸だけが、ルストの手首へ迫る。
届く。
そう見えた。
だがルストの指が動いた。
刃ではない。
素手で、血糸の起点をつまむように押さえた。
血術が止まる。
クラウディオの瞳が見開かれた。
「な……」
「前よりいい」
ルストが言った。
「だが、まだ怒りが混じる」
「黙れ!」
クラウディオの声が裂ける。
血がさらに動く。
怒りで。
屈辱で。
焦りで。
それが駄目だと分かっているのに、止まらない。
ルストは刃を構え直した。
「やめろ」
「命じるな!」
「暴れると崩れ種が寄る」
「寄らせておけ!」
クラウディオの血霧が森へ広がる。
濃い。
濃すぎる。
前より静かに始めた術が、怒りで一気に荒れた。
王血の匂いが夜へ流れ、森の奥で野良吸血鬼が反応する。
赤い目がいくつか動いた。
ルストの表情が、少しだけ変わった。
不快。
あるいは、判断。
「止める」
その一言と同時に、ルストが踏み込んだ。
速い。
クラウディオは血術を集中させる。
正面から受ける気はない。
足元を縛る。
喉を狙う。
腕を止める。
だが、ルストはすべてを抜けた。
血糸が絡む前に位置を変え、血槍が形になる前に起点を踏み潰し、王命を乗せる前に距離を詰める。
クラウディオの手首が掴まれた。
また。
だが、今回は前とは違った。
クラウディオも読んでいた。
掴まれた瞬間、その手首の内側から血術を爆ぜさせる。
ルストの指を焼くために。
それなのに。
血は爆ぜなかった。
ルストの親指が、すでに起点を押さえている。
クラウディオの呼吸が止まった。
「読んで……」
「同じ手を二度見るほど暇じゃない」
低い声。
次の瞬間、クラウディオの身体が反転した。
腕を捻られる。
肩が軋む。
足を払われ、背が木の幹へ叩きつけられる。
「ぐ、ッ!」
短い呻きが漏れる。
クラウディオは即座に噛み殺した。
だが遅い。
出た。
ルストの前で、また呻いた。
その屈辱に血が燃える。
「貴様ァッ!」
暴れる。
手首を引き抜こうとする。
血霧を動かそうとする。
だが、ルストの身体が近い。
近すぎる。
手首を頭上へ押さえられ、背は木へ固定され、片脚の動きも封じられている。
喉が晒される。
クラウディオの喉。
前に刃が触れた場所。
浅い傷が残る場所。
ルストの視線が、そこへ落ちた。
クラウディオの全身が硬直する。
「見るな」
声が低い。
怒りと警戒で震えている。
「そこを見るな、灰銀」
ルストは答えない。
ただ、静かに近づく。
クラウディオは、前回の会話を思い出した。
噛む気はない。
噛まない。
飲まない。
そう言った。
なら、なぜ近づく。
なぜ喉を見る。
なぜ、今。
ルストの顔が近づく。
クラウディオの瞳が見開かれた。
「待て」
初めて、命令ではなく制止に近い声が出た。
自分でも分かった。
その弱さが、さらに彼を怒らせた。
「待てと言っている!」
ルストは止まらない。
クラウディオは全力で暴れた。
肩が軋む。
手首が痛む。
血術を走らせようとしても、ルストの指が起点を押さえている。
もう片方の手でルストを引き剥がそうとするが、肘ごと木へ押さえ込まれる。
足を蹴り上げようとしても、膝で封じられる。
動けない。
また。
「離せ……ッ、離せ、貴様……!」
声が荒れる。
ルストは、クラウディオの喉元へ顔を寄せた。
唇ではない。
牙。
クラウディオは、そこで本当に理解した。
噛まれる。
死より重い恥が来る。
「噛むなら殺せと言っただろうがァッ!!」
絶叫だった。
怒りと恐怖と屈辱が混ざった声。
王の声ではない。
喉の奥から裂けた、吸血鬼の叫びだった。
ルストは低く言った。
「殺さない」
その一言が、宣告だった。
次の瞬間、牙がクラウディオの首筋へ沈んだ。
深く。
迷いなく。
王の喉へ。
クラウディオの身体が、弓なりに跳ねた。
「ぎ、い゛いいいいいいッ!!」
悲鳴が森を裂いた。
高く、引き攣り、すぐに濁る。
銀刃に切られた時とは違う。
血術を押さえられた時とも違う。
牙。
喉。
血。
王の稀血が、ルストの口へ流れている。
クラウディオの血が、奪われている。
その事実が、痛みより先に彼を壊した。
「やめ……ッ、やめろ、貴様、離せ……ッ!! あがああああああッ!!」
ルストは離れない。
深々と牙を立てたまま、血を啜る。
ただの吸血ではなかった。
王城の吸血鬼たちが欲望に任せて夢見たような、甘い吸血ではない。
もっと深い。
もっと古い。
クラウディオの王血の奥へ、ありえないほど重い何かが触れてくる。
血を飲まれているだけではない。
血脈の奥を押さえられる。
王権の流れに触れられる。
体内の血の道筋が、ルストの牙を起点に組み替えられるような感覚。
クラウディオの瞳が見開かれる。
赤い瞳が、さらに濃く燃えた。
「ぐ、ぁ……ッ、血が……我の、血が……ッ!」
言葉が続かない。
ルストがさらに深く吸う。
大量に。
喉から、肩へ、胸へ、背筋へ、熱と冷たさが同時に走った。
吸血鬼特有の血脈反応。
苦痛と快楽に似た強制的な陶酔。
望んでいない。
許していない。
それなのに、身体が反応する。
血を奪われることへの恐怖。
牙を受け入れさせられる屈辱。
そして、最古に近い、あまりにも古い何かが血を押さえ込む感覚。
クラウディオは暴れた。
大痙攣だった。
背が木へ打ちつけられ、足が地面を蹴り、手首がルストの拘束の中で跳ねる。
「ぎっ、いいいいいッ!! 離せ、離せェッ!! 我の血を、飲むな……ッ!!」
声が裂ける。
喉に牙があるせいで、悲鳴が歪む。
ルストは無言で啜る。
冷静に。
必要なだけ。
だが、その量は多い。
クラウディオの稀血が、確かに奪われていく。
それだけで、森の空気が甘く変わる。
野良吸血鬼たちが遠くで唸った。
だが近づけない。
ルストの気配が、彼らを遠ざけている。
クラウディオは、それすら感じた。
自分の血の匂いに狂うはずのものたちが、ルストの前では近づけない。
この男は何だ。
何なのだ。
考えようとした瞬間、ルストの牙からさらに深い圧が流れ込んだ。
クラウディオの思考が白く弾ける。
「が、ぁ……ッ、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
獣じみた咆哮。
美しい王の声ではない。
喉を裂かれ、血を奪われ、王権を踏み込まれた吸血鬼の叫び。
身体が大きく跳ねる。
背筋が弓なりに反り、膝が震え、指先が痙攣する。
白い手がルストの肩を掴もうとするが、力が入らない。
掴む前に、指が震えて滑る。
「ぐ、う゛……ッ、止まらな……痙攣が、止まらな……ッ!!」
言葉の途中で、また血を啜られる。
クラウディオの喉から、声にならない息が漏れた。
「か、は……ッ!」
視界が揺れる。
月光が歪む。
森が遠ざかる。
血を奪われているのに、身体の奥が熱い。
熱い。
気持ち悪いほどに。
望まない快楽が、血脈を逆流する。
それは甘美ではない。
暴力だった。
身体が勝手に反応させられることそのものが、王への蹂躙だった。
クラウディオの顔が歪む。
「や、め……ッ、こんな……我が、こんな……ッ!」
言葉が崩れる。
また大きく身体が痙攣した。
その瞬間、身体の制御が完全に外れた。
衣の下で、どうしようもない失禁の感覚が広がる。
クラウディオの目が見開かれた。
理解した瞬間、血よりも熱い屈辱が全身を貫いた。
「いや、だ……ッ、見るな、見るなァッ!!」
絶叫。
泣き叫ぶような声。
だが、ルストは離れない。
見ていない。
ただ噛んでいる。
それでもクラウディオにとっては同じだった。
失った。
制御を。
尊厳を。
王としての完全さを。
噛まれ、血を啜られ、身体まで崩された。
「殺す……ッ、目が覚めたら、必ず……貴様だけは……ッ!」
罵倒の途中で、また喉が詰まる。
ルストが血を飲む。
深く。
大量に。
クラウディオの瞳が上へ滑った。
白目が覗く。
焦点が合わない。
舌が力なく覗き、唇から声にならない息が漏れる。
「ぁ、が……ッ、舌が……動かな……ッ」
身体がびくびくと大きく跳ねる。
首筋に牙を立てられたまま、全身が痙攣する。
血脈の反応が強すぎる。
王血が抵抗している。
だが、ルストの牙から流れ込む圧は、それを上から押さえ込んでいた。
王より古い何か。
王冠より深い何か。
名前を持たせてはいけないほどの血の重さ。
クラウディオは、それをまだ理解できない。
ただ、分かる。
自分の王血が、上から押さえられている。
あり得ないことが起きている。
「我は……王、だ……ッ」
掠れた声。
まだ言おうとする。
「命じ……る……離せ……灰銀……ッ!」
ルストは離れない。
牙を抜かない。
クラウディオの血をさらに啜る。
その瞬間、クラウディオの身体が限界を超えた。
喉が反り、背が跳ね、指先が硬直する。
白目を剥き、舌が力なく垂れ、声にならない絶叫が喉の奥で潰れた。
「――――ッ!!」
音にならない。
断末魔じみた無音。
その直後、ようやく声が破裂した。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
森が震えた。
野良吸血鬼が遠くで怯えたように後ずさる。
崩れ種の死骸すら、血の残響で震えた。
クラウディオの悲鳴は、苦痛だけではない。
王権が噛み砕かれる音だった。
喉を奪われる音。
血を支配される音。
噛み跡が、ただの傷ではなくなる音。
支配反転の刻印が、首筋へ刻まれる音。
ルストは、ようやく牙を抜いた。
血が溢れた。
クラウディオの白い首筋に、深い噛み跡が残る。
赤黒く、熱を持ち、消せないほど深い。
ただの傷ではない。
血術で塞いでも、形が残る。
血脈に刻まれた痕。
王が噛まれた証。
灰銀に、王の喉を奪われた証。
クラウディオの身体は、ルストの腕の中で崩れた。
膝が折れる。
立てない。
支えられていなければ、そのまま地面へ落ちていた。
瞳は白く上へ滑ったまま、焦点が戻らない。
唇は震え、舌が力なく覗いている。
呼吸は浅く、ひゅうひゅうと細い音を立てていた。
「か、は……ッ、ぁ……」
声にならない。
王命など出せない。
罵倒も途切れている。
ルストはクラウディオの身体を支えたまま、首筋の噛み跡を見た。
その表情は、欲望に濡れていない。
酔ってもいない。
ただ、必要なことをした後の静けさがある。
しかし、口元にはクラウディオの血が残っていた。
王の稀血。
誰もが欲しがった血。
今、それはルストの口にある。
クラウディオは、それを朦朧とした意識の中で見た。
見てしまった。
屈辱で意識が戻りかける。
赤い瞳がかすかに動く。
「……ころ、す……」
掠れた声。
まだ言う。
意識が飛びかけても。
舌が動かなくても。
身体が崩れても。
「貴様……だけ、は……」
ルストは、低く言った。
「眠れ」
「命じ……る、な……」
最後の抵抗。
だが、声は細すぎた。
噛み跡から血脈反応が再び走る。
クラウディオの身体がびくりと跳ねた。
白目が深くなり、全身から力が抜ける。
今度こそ意識が途切れた。
美しき吸血鬼王は、ルストの腕の中で失神した。
首筋には、深い牙の痕。
王の喉を奪われた証。
死より重い恥。
支配反転の刻印。
森は静まり返っていた。
血の匂いが甘く漂う。
月光が、クラウディオの白い喉と噛み跡を照らしている。
ルストは、その身体を乱暴には落とさなかった。
かといって、甘やかすようにも抱かなかった。
ただ、逃げられないように支え、血脈が暴走しないよう押さえている。
彼の鋼色の瞳は静かだった。
だが、その静けさの奥には、常のハンターとは違う、あまりに古い影が一瞬だけ沈んでいた。
それはまだ、誰も知らない。
クラウディオも知らない。
だが、王の血は知ってしまった。
自分より古いものに噛まれたのだと。
自分の王権が、別の何かの牙の下で押さえられたのだと。
その夜、クラウディオ・ルジェリウスは死ななかった。
だが、死より重いものを首に刻まれた。
噛まれるくらいなら死ぬ。
そう言った王は、噛まれてなお生かされた。
それこそが、ルストが与えた最も深い屈辱だった。




