第48話 噛まれるくらいなら死ぬ
吸血鬼にとって、噛むという行為は単なる捕食ではない。
血を飲む。
命を奪う。
相手の血脈へ触れる。
記憶の表層をなぞる。
時には、支配の痕を残す。
だから吸血鬼は、誰を噛むかを選ぶ。
誰に噛ませるかは、さらに重い。
牙を受け入れるということは、喉を明け渡すことに近い。
首筋を許す。
血を許す。
命の入り口を、相手へ渡す。
それは王にとって、敗北よりなお屈辱的なことだった。
クラウディオ・ルジェリウスは、噛む側だった。
ずっと。
血を奪う側。
喉を見下ろす側。
相手を震わせ、跪かせ、血の匂いに酔わせる側。
自分の喉へ牙を立てられるなど、考えたこともなかった。
考える必要もなかった。
誰も触れられない。
誰も届かない。
王の喉は、王冠より遠い。
そうでなければならなかった。
森は、血霧の残り香をまだ抱いていた。
赤黒い霧はほとんど消え、月光が木々の隙間から落ちている。湿った土の匂い、折れた枝、崩れ種の死骸が残した黒い血の痕。
その中で、クラウディオはルストと向かい合っていた。
前夜の制圧の記憶は、まだ身体に残っている。
手首を押さえられた感覚。
喉へ銀刃を当てられた冷たさ。
地面に伏せられ、動けなかった屈辱。
そして、名前。
クラウディオ。
ルストが当然のように呼んだ名。
クラウディオは、それを思い出すたび、血が逆立つような怒りを覚えた。
今もそうだった。
ルストは、少し離れた場所に立っている。
銀の刃は下ろしていた。
だが、隙はない。
灰銀の髪に月光がかかり、鋼色の瞳がまっすぐこちらを見ている。
王を見る目ではない。
獲物を見る目でもない。
クラウディオを、クラウディオとして見る目。
それが最も不快だった。
「近づくな」
クラウディオは低く言った。
ルストは止まらない。
一歩、近づいた。
ただそれだけで、クラウディオの血が反応しかける。
血術を出すな。
怒りで動かすな。
読まれる。
そう理解している自分が、さらに腹立たしかった。
「聞こえなかったのか」
クラウディオの声が低くなる。
「近づくなと言っている」
ルストは静かに答えた。
「傷が開いている」
クラウディオの指が、喉元へ動きかける。
止めた。
触れれば、意識していると悟られる。
喉には、前夜の浅い傷があった。
血術で塞いだ。
だが、完全には消していない。
消せなかったのではない。
消さなかった。
屈辱を記録するために。
そう自分に言い聞かせていた。
ルストは、その傷を見ている。
その視線だけで、クラウディオは吐き気に似た怒りを覚えた。
「見るな」
「見える」
「見るなと言っている」
「なら隠せ」
短い返答。
クラウディオの瞳が赤く染まりかけた。
「貴様……」
ルストはもう一歩近づく。
近い。
前回より近い。
クラウディオは血術を起こそうとした。
だが、その瞬間、ルストの足が地面をわずかに踏み替える。
それだけで、クラウディオは血術の起点を読まれたと分かった。
腹立たしい。
この男は、こちらが動く前に見る。
怒る前に読む。
血を流す前に位置を測る。
だから、術が遅れる。
遅れること自体が屈辱だった。
ルストは言った。
「動かすな」
「命じるな」
「また伏せたいのか」
クラウディオの身体が、一瞬で熱くなった。
怒り。
屈辱。
殺意。
血が荒れ、赤い霧が足元で揺れかける。
クラウディオは歯を食いしばった。
「二度と、我を地へ伏せられると思うな」
「思っている」
即答だった。
クラウディオの唇が歪む。
「下郎が」
「そう呼ぶなら、前より静かに血を動かせ」
「貴様に教えられる筋合いはない」
「ある」
ルストの目は揺れない。
「お前がまた崩れ種を餌にするなら、止める」
「止められるものなら止めてみろ」
「止めた」
短い言葉。
クラウディオの喉が、わずかに詰まる。
止められた。
喉を晒され、床へ伏せられ、血術を封じられた。
事実だった。
だから余計に許せない。
「黙れ」
クラウディオは低く言った。
「それ以上口を開けば、舌を裂く」
ルストは答えない。
代わりに、ゆっくりとクラウディオへ手を伸ばした。
喉元へ。
クラウディオは反射的に後ろへ下がった。
その一歩を、自分で許せなかった。
逃げた。
そう見えた。
そう見える可能性があるだけで、怒りが喉を焼く。
ルストの手は止まっている。
刃ではない。
牙でもない。
ただ、傷を確認しようとする手。
だが、クラウディオにとっては同じだった。
喉へ近づくものは、すべて敵だ。
「触れるな」
声が掠れた。
ルストは言う。
「噛む気はない」
その言葉で、クラウディオの中の何かが爆ぜた。
噛む。
その単語だけで、血が逆流する。
喉。
牙。
血。
所有。
捕食。
屈服。
自分の喉へ、誰かの牙が立つ。
自分の血が、相手の口へ流れる。
王の稀血が、奪われる。
刻まれる。
支配される。
そんなものは、死より耐えがたい。
「噛む?」
クラウディオは、低く繰り返した。
ルストは黙っている。
クラウディオの瞳が、完全に禍々しい赤へ染まった。
「貴様が、我を噛むと?」
「噛む気はないと言った」
「噛むなら殺せ」
その声は、刃のように冷たかった。
森が一瞬、沈黙する。
クラウディオは、ルストを睨みつけた。
「我の喉に牙を立てるくらいなら、その前に殺せ。王の血を、貴様の口へ流すくらいなら、心臓を貫け。噛まれるくらいなら死ぬ」
吐き捨てるような言葉だった。
それは強がりではない。
本心だった。
王にとって、噛まれることは死より重い恥。
死ねば終わる。
名を残すか、削られるかはその後の問題だ。
だが噛まれれば、終わらない。
牙の痕が残る。
血の記憶が残る。
喉を許した事実が残る。
相手に血を飲まれたという屈辱が、身体に刻まれる。
まして、相手が灰銀のハンターなら。
王を地へ伏せた男なら。
ルストなら。
そんなもの、死よりひどい。
ルストは、しばらくクラウディオを見ていた。
その目に欲はない。
稀血への飢えもない。
吸血衝動もない。
ただ、理解しようとするような静けさがある。
それもまた不快だった。
クラウディオは叫ぶように言った。
「その目で見るな! 哀れむな、測るな、理解しようとするな……!」
声が荒れる。
喉の傷がわずかに開く。
赤い血が白い肌に滲んだ。
甘い匂いが、また森に広がる。
普通の吸血鬼なら、それだけで喉を鳴らす。
近づきたくなる。
膝が乱れる。
だがルストは動かない。
その静けさが、クラウディオをさらに怒らせる。
「欲しがれよ」
言ってから、クラウディオ自身が眉を動かした。
自分で口にした言葉が、思ったより深く響いた。
ルストは黙っている。
クラウディオは、低く続けた。
「王城の者どもは皆、我の血を欲しがる。女も男も、吸血鬼も眷属も、古参も若造も。喉を鳴らし、目を赤くし、我の顔が歪むところを見たがる。我の声が崩れるところを聞きたがる」
声が冷たくなる。
「貴様はなぜ揺れない」
ルストは答えた。
「必要がない」
「またそれか」
「お前の血が甘いかどうかは、どうでもいい」
クラウディオの顔が、怒りより先に一瞬だけ空白になった。
どうでもいい。
王の稀血が。
ロイヤルレアが。
誰もが欲しがる血が。
どうでもいい。
その一言は、拒絶であると同時に、妙な形でクラウディオを乱した。
欲しがられないことが、これほど腹立たしいとは思わなかった。
欲しがられれば不快。
欲しがられなければ屈辱。
実に面倒な王である。感情が棘だらけの迷路になっている。誰が掃除するんだ、これを。
「ならば、なぜ我へ近づく」
クラウディオが言った。
「血が欲しくないなら、なぜ我を見る」
「止めるためだ」
「何を」
「お前を」
短い答え。
クラウディオの瞳が細くなる。
「我を止める?」
「崩れ種を餌にする。人間の声を罠に使う。野良を寄せる。お前は放っておくと夜を荒らす」
ルストは淡々と言った。
「だから止める」
クラウディオは笑った。
低く、冷たく。
「王の夜を荒らしているのは貴様だ、灰銀」
「違う」
「違う?」
「お前が荒らした夜を、片づけている」
クラウディオの血がまた跳ねた。
片づける。
処理。
障害。
この男は本当に、王の血術も王の罠も、ただ邪魔なものとして扱う。
そこに敬意がない。
憎悪すら薄い。
だからこそ、クラウディオはルストを支配できない。
「我を、片づけるつもりか」
声が低くなる。
ルストはすぐには答えなかった。
ほんのわずかな沈黙。
それから、言う。
「必要なら」
クラウディオは、笑みを消した。
「やってみろ」
血術が走る。
今度は怒り任せではない。
細く、低く、地面の下を這わせる。
ルストの影へ触れるための血糸。
視線は上に向けたまま、起点は足元。
前より静か。
前より絞った。
しかし、ルストは見ていた。
銀の刃を抜かない。
代わりに、足を一歩ずらす。
それだけで、血糸が影を外す。
クラウディオの指がわずかに震えた。
また読まれた。
ルストは言う。
「上達はしている」
「評価するな!」
クラウディオの声が裂ける。
ルストは一歩で距離を詰めた。
速い。
血糸を再構成する前に、手首を掴まれる。
クラウディオは反射で身体を引くが、逃げられない。
前と同じ。
だが、今度は地面へ伏せられない。
ルストは手首を押さえただけで止めた。
もう片方の手が、クラウディオの喉元へ近づく。
傷。
血。
首筋。
クラウディオの全身が硬直した。
「触れるな!」
怒声。
それは、攻撃ではなく拒絶だった。
ルストの手が止まる。
クラウディオは赤い目で睨む。
「噛むなら殺せと言った」
「噛まない」
「信じると思うか」
「思わない」
「なら離せ!」
ルストは離さない。
ただ、静かに言った。
「血が出ている」
「知っている」
「傷が残る」
「残せばいい」
「いいのか」
「我が決める!」
クラウディオはルストの手首を睨み、噛みつきそうなほどの怒りで言った。
「貴様に塞がれるくらいなら、裂けたままでいい」
ルストは、そこで初めて少しだけ表情を変えた。
呆れたような。
困ったような。
ほんのわずかな変化。
「面倒だな」
「貴様に言われる筋合いはない!」
「噛まない。飲まない。塞ぐだけだ」
「触れるなと言っている」
「なら血術で塞げ」
「命じるな!」
まったく噛み合わない。
クラウディオは怒っている。
ルストは淡々としている。
その差がまた、二人の格差のように見えた。
クラウディオは、自分が怒らされていること自体にさらに怒る。
ルストは、怒らせている自覚があるのかないのか、ほとんど変わらない。
クラウディオは、掴まれた手首へ血術を集めようとした。
ルストの指が、その起点を押さえる。
また通らない。
クラウディオの息が詰まる。
「なぜ……ッ」
「そこから動かすな」
「命じるなァッ!」
ルストはクラウディオの喉を見た。
血がまた一筋、流れる。
白い肌に赤が映える。
甘い匂い。
王城の吸血鬼なら、ここで目を赤くしただろう。
ルストはしない。
ただ、傷の深さだけを見る。
それが逆に、クラウディオには耐えがたかった。
「欲もないくせに、我の喉を見るな」
低い声。
「噛まぬなら、飲まぬなら、触れぬなら、見るな」
ルストは言った。
「傷を見るのと、お前を欲しがるのは別だ」
「我にとっては同じだ」
「違う」
「違わぬ!」
クラウディオは、本気で怒っていた。
喉を見ること。
噛むこと。
血を欲しがること。
所有しようとすること。
彼の中では、それらが近すぎる。
王城の欲望が、ずっとそうだったからだ。
誰もが彼を見る。
血を見る。
喉を見る。
美貌を見る。
崩したいと思う。
飲みたいと思う。
噛みたいと思う。
だからルストの視線も、同じ場所へ分類される。
違うと言われても、簡単には切り離せない。
ルストは、少しだけ沈黙した。
それから、クラウディオの手首を離した。
「なら、今日は触らない」
クラウディオは即座に後ろへ下がった。
距離を取る。
屈辱だった。
だが、喉元へ近づかれるよりはましだった。
ルストは刃を抜かない。
ただ、クラウディオを見る。
「傷は自分で塞げ」
「命じるな」
「放っておくなら勝手にしろ」
「貴様に許可されることではない」
「そうだな」
また、あっさり引く。
クラウディオはそれが腹立たしい。
もっと反論しろ。
もっと欲を出せ。
もっと怒れ。
そうでなければ、自分ばかりが乱されているようで耐えがたい。
ルストは、森の奥へ視線を向けた。
「近くに野良がいる」
クラウディオも気づいていた。
王の血の匂いに寄っている。
喉の傷から漏れた稀血に、飢えた野良が引かれている。
ルストは言った。
「帰れ」
「誰に言っている」
「クラウディオ」
名。
また。
クラウディオの目が赤く燃える。
「その名を呼ぶな」
「傷を塞いで帰れ」
「聞け、灰銀」
「聞いている」
「我は貴様の命令など受けぬ」
「なら野良に囲まれてから考えろ」
そう言って、ルストは背を向けた。
また勝手に終わらせる。
クラウディオは低く言った。
「待て」
ルストは止まらない。
「待てと言っている!」
止まらない。
王命が届かない。
クラウディオは歯を食いしばった。
血術を放つ。
しかし、ルストは背を向けたまま、銀の刃をわずかに動かした。
血糸が切れる。
見もしないで。
クラウディオの手が震えた。
怒りで。
屈辱で。
そして、ほんの少しの戦慄で。
ルストの背が森へ消える。
最後に、低い声だけが残った。
「噛む気はない。だから死ぬ必要もない」
クラウディオはその場に立ち尽くした。
その言葉が、妙に深く刺さった。
噛まれない。
殺されない。
飲まれない。
欲しがられない。
それなのに、止められる。
押さえられる。
名を呼ばれる。
喉を見られる。
自分が最も恐れている形では奪われないのに、別の形で支配される。
それが分かった瞬間、クラウディオは喉の傷を乱暴に押さえた。
血が指に滲む。
痛みは浅い。
だが、屈辱は深い。
「噛むなら殺せ」
もう一度、低く呟いた。
誰もいない森へ。
自分へ言い聞かせるように。
「噛まれるくらいなら、死ぬ」
けれど、ルストは噛まなかった。
殺しもしなかった。
それが一番、クラウディオを乱した。
王城へ戻った後、彼は記録に書いた。
灰銀。
噛む気はない、と言った。
信じない。
我の喉を見る。
傷を見る。
だが欲しがらない。
我の血に酔わない。
不快。
噛むなら殺せ。
王にとって、噛まれることは死より重い恥。
喉を許すことは、血を許すこと。
血を許すことは、名を許すこと。
我は許さない。
クラウディオは、そこでペンを止めた。
少し考え、最後に一行を書いた。
灰銀は、噛まないことで我を乱す。
その文字を見て、彼は眉を歪めた。
認めたくないことだった。
だが、記録は嘘を許さない。
ルストは、噛むことで支配したのではない。
噛まないことで、クラウディオの恐怖と屈辱を浮き彫りにした。
それが許せなかった。
クラウディオは黒硝子に映る自分を見る。
白い喉。
浅い傷。
王の血。
誰にも噛ませないと決めた場所。
その喉に触れず、牙も立てず、ただ見ただけで乱していった灰銀の男。
クラウディオは、低く言った。
「いつか、その余裕ごと砕いてやる」
だが、硝子の中の喉元には、まだルストの視線の感触が残っているようだった。




