第47話 クラウディオ
名を呼ぶという行為には、重さがある。
吸血鬼にとっては、特に。
血の名。
家の名。
王の名。
古い契約に刻まれた名。
誰かの名を正しく呼ぶことは、その存在を認めることに近い。
逆に、名を呼ばないことは、相手を個として認めないという拒絶でもある。
クラウディオ・ルジェリウスは、そうやって多くの者を扱ってきた。
臣下。
従者。
管理官。
古参血族。
失態を犯した者。
王の前で不完全だった者。
彼らの名を呼ぶ時、そこには処断や記録の意味があった。
名を呼ばれた者は震える。
名を削られる者は消える。
名を残された者は、王の記録に縛られる。
クラウディオにとって、名とは与えるものでも、奪うものでもあった。
だからこそ。
灰銀のハンターが最初から自分の名を呼んだ時、クラウディオはそれを許せなかった。
森で床に伏せられた夜から、三日が過ぎていた。
王城へ戻ったクラウディオは、誰にもその詳細を語らなかった。
ヴェルナー卿は何かを察していた。
オルディアも、王の喉元に残った微かな銀の焼け痕を見て、顔色を変えた。
従者たちは王の外套についた土を見て震えた。
だが、誰も聞かない。
聞けるはずがない。
王が地に伏せられたなど、王城では言葉にした瞬間、舌ごと消される。
クラウディオも、公式記録には何も残さなかった。
ただ、自分だけの記録には書いた。
ルスト。
灰銀。
王の罠を読む。
血術が通らない。
王の喉へ刃。
床に伏せられる。
屈辱。
殺すだけでは足りない。
その紙は、机の奥にしまわれている。
名は書いた。
だが、呼ばない。
ルスト。
その名を声にすることは、相手を個として認めることだ。
クラウディオはそれを拒んだ。
あの男は灰銀だ。
狩人だ。
下郎だ。
王の夜を荒らす刃だ。
名を呼ぶ価値などない。
そう決めた。
決めていた。
その夜、クラウディオはふたたび外縁へ出た。
今度は派手な血霧を張らない。
血術も抑えている。
封香剤を使い、自分の稀血の香りを薄く散らしていた。
森は静かだった。
月光は枝に裂かれ、地面には湿った落ち葉が積もっている。
前回の血霧はもう消えていた。
だが、クラウディオには分かる。
この森は、あの夜を覚えている。
銀の刃。
喉元の冷たさ。
地面に押し伏せられた身体。
血術が通らなかった困惑。
そして、あの低い声。
クラウディオ。
最初にそう呼ばれた瞬間のことを、クラウディオは忘れていない。
ルストは、王と呼ばなかった。
陛下とも呼ばなかった。
吸血鬼王とも、暴君とも、化け物とも呼ばなかった。
ただ、クラウディオ。
それが屈辱だった。
王冠も、血筋も、王権も、恐怖も、すべてを剥いで、名前だけを掴まれたようだった。
クラウディオは、落ち葉を踏みしめながら歩いた。
手袋の下で指がわずかに動く。
血術はいつでも出せる。
だが、今夜は軽くは動かさない。
怒りで血を動かすな。
読むのが楽になる。
ルストの声が、記憶の奥で蘇る。
クラウディオの瞳が赤く揺れた。
「黙れ」
誰もいない森へ向けた声だった。
いや、いる。
気配がした。
前方の木々の間。
銀の冷たさ。
血の匂いに酔わない静かな存在感。
月光の下に、灰銀の影が立っていた。
ルスト・ヴァルレイン。
灰銀の髪。
鋼色の瞳。
大きな体。
銀の刃。
相変わらず、血に濡れていない。
森の中にいるのに、森の汚れすらまとっていないように見える。
クラウディオは立ち止まった。
ルストは、彼を見た。
そして、当然のように言った。
「クラウディオ」
名前だった。
呼び捨て。
ただの名前。
その瞬間、クラウディオの血が逆立った。
「貴様」
低い声。
怒りを押し殺した声。
「誰の名を呼んでいる」
ルストは表情を変えない。
「お前の名だ」
「我を、王と呼べ」
「呼ばない」
即答だった。
森の空気が凍る。
クラウディオの瞳に、禍々しい赤が滲む。
「狩人風情が」
声が低くなる。
「王の名を、許しもなく口にするか」
ルストは一歩も引かない。
「名前だろう」
「ただの名ではない」
「なら、なおさらだ」
クラウディオの眉がわずかに動く。
「何」
「王でも、暴君でも、吸血鬼でも、化け物でもないところを呼んでいる」
ルストの声は静かだった。
「クラウディオ」
もう一度。
その名が、夜に落ちた。
クラウディオの胸の奥で、何かが裂けるように熱くなった。
王城の者がその名を呼べば、たいてい声は震える。
陛下、と添えられる。
様、と飾られる。
恐怖か崇拝か欲望が滲む。
だが、ルストの声にはそれがない。
所有でもない。
媚びでもない。
許しを乞う声でもない。
ただ、そこにあるものを呼ぶように。
その呼び方が、クラウディオには耐えがたかった。
王冠を外されるようだった。
玉座から下ろされるようだった。
地面に伏せられた夜の続きを、名前だけで突きつけられるようだった。
「黙れ」
クラウディオは言った。
「貴様に、その名を呼ぶ権利はない」
「権利が必要なら、お前は俺の名を呼べないな」
ルストが返す。
クラウディオの唇が歪む。
「誰が貴様の名など呼ぶか」
「知っているだろう」
「知らぬ」
「嘘だな」
静かな指摘だった。
クラウディオの赤い瞳が鋭くなる。
ルストは続けた。
「前に聞いた。覚えた顔をしていた」
「記録しただけだ」
「なら、呼べる」
「呼ばぬ」
クラウディオは、吐き捨てるように言った。
「貴様は灰銀だ」
ルストは黙っている。
「王の夜を荒らす狩人風情」
クラウディオは一歩進む。
「我の血術を読んだ程度で、王と同じ高さに立ったつもりか」
ルストは、そこで少しだけ目を細めた。
「同じ高さには立っていない」
「分かっているなら、膝をつけ」
「お前が下にいた」
短い一言。
クラウディオの中で、怒りが爆ぜた。
床に伏せた夜。
喉を晒した姿勢。
血術が通らず、無様に暴れた屈辱。
それを言葉で刺された。
「貴様ァッ!」
血術が走った。
怒りで動かすな。
そう言われたばかりなのに。
それでも、クラウディオは止められなかった。
赤黒い血糸が、地面からルストへ走る。
狙いは足首。
膝。
手首。
喉。
前回と同じではない。
今度は細い。
静かに作った。
怒りの中でも、少しだけ修正している。
だが、ルストはそれを見ていた。
銀の刃が低く動く。
血糸はすべて、起点ではなく途中で断たれた。
完全に殺さない。
流れだけを狂わせる。
クラウディオの術は、半端に残って地面へ落ちる。
不完全。
その言葉が、クラウディオ自身の内側へ刺さる。
「っ……!」
歯を食いしばる。
ルストは低く言った。
「前より静かだ」
褒めたのか。
評価したのか。
ただ観察したのか。
分からない。
それがまた癪に障る。
「貴様に評される筋合いはない」
「ある」
「ない」
「俺を殺したいなら、ある」
クラウディオは返せなかった。
一瞬だけ。
その一瞬が、さらに屈辱だった。
ルストは近づかない。
距離を保ったまま、クラウディオを見る。
「怒りで動く癖がある」
「黙れ」
「血が強い。だから読みやすい」
「黙れと言っている」
「クラウディオ」
「その名を呼ぶなァッ!!」
激昂。
クラウディオの声が森を裂いた。
王の声ではない。
美しい低音が、怒りで荒れている。
月光が揺れ、木々が軋み、血術が一瞬で濃くなる。
しかし、ルストはまったく動じない。
ただ、その名をもう一度呼ぶ。
「クラウディオ」
今度は静かだった。
わざとだ。
分かっていて呼んでいる。
王冠を剥ぐために。
王ではなく、クラウディオという一個の存在として見るために。
それが、クラウディオには最も許せなかった。
「我をその名で呼ぶな……」
声が低く沈む。
怒りの底に、屈辱が滲む。
「我は王だ」
「知っている」
「ならば王と呼べ」
「嫌だ」
即答。
本当に腹立たしいほど、迷いがない。
クラウディオは笑った。
低く、掠れた笑い。
「殺す」
「さっきも聞いた」
「殺すだけでは足りぬ」
「それも聞いた」
「貴様……!」
ルストは、そこで初めてほんの少しだけ息を吐いた。
呆れに近い。
クラウディオはそれを見逃さない。
「何だ、その息は」
「うるさいと思った」
「我を愚弄するか」
「事実だ」
クラウディオの血がまた荒れかける。
だが、今度は止めた。
わずかに。
ほんの少し。
怒りで動かせば読まれる。
それを身体が覚えている。
それがまた屈辱だった。
ルストはその変化を見ていた。
「止めたな」
「貴様に言われたからではない」
「そうか」
「その納得したような顔をやめろ」
「顔は変えていない」
「なら存在ごと不愉快だ」
ルストは答えなかった。
ただ、クラウディオを見ている。
名前を呼んだ男の目で。
王ではなく、血でもなく、美貌でもなく、稀血でもなく。
クラウディオという存在を見ている。
その視線は、王城の欲望とは違う。
王城の者たちはクラウディオを欲しがる。
崩したい。
啼かせたい。
血を飲みたい。
膝をつきたい。
見下されたい。
そういう濁った欲で見る。
ルストは違う。
欲しがっていない。
だからこそ、逃げられない。
欲望なら支配できる。
恐怖なら操れる。
崇拝なら踏みつけられる。
だが、この視線は違う。
クラウディオを見ているのに、クラウディオに屈しない。
それが、彼にとって未知だった。
クラウディオは、ゆっくり言った。
「貴様は、なぜ我を王と呼ばない」
「王として扱う必要がないからだ」
「必要がない?」
声がさらに低くなる。
ルストは続ける。
「俺にとって、お前は王じゃない」
沈黙。
夜そのものが凍った。
クラウディオの瞳が深紅に染まる。
「もう一度言ってみろ」
「クラウディオ」
名だった。
答えではない。
だが、それが答えだった。
クラウディオは笑わなかった。
怒りすぎると、笑みすら消える。
「貴様は」
声が低い。
「自分が何を言っているか、分かっているのか」
「分かっている」
「我は吸血鬼王だ」
「それも分かっている」
「ならば、なぜ」
「王だから斬らないわけじゃない」
ルストの声が、わずかに重くなった。
「崩れ種を餌にするなら止める。人間の悲鳴を罠に使うなら潰す。吸血鬼を無駄に荒らすなら処理する。お前が王かどうかは、その後だ」
クラウディオは、その言葉を聞いた。
その後。
王であることが、後回しにされた。
クラウディオの存在を支えている最も大きな名が、ルストの中では優先順位の低い情報にされた。
屈辱だった。
だが、同時に、明確だった。
ルストは本当に、王だから見ているわけではない。
クラウディオが何をするかで見ている。
そこには王城の礼法も、血族の序列も、稀血への欲もない。
クラウディオは、初めて少しだけ言葉を失った。
ほんの一拍。
だが、自分で気づいた。
王の前で一拍遅れれば死ぬ。
そう決めたのは自分だ。
その自分が、ルストの前で一拍遅れた。
クラウディオは、その事実にさらに怒った。
「灰銀」
彼は、わざと名を呼ばなかった。
「貴様を必ず跪かせる」
「やれるなら」
「その喉に、我の名を命乞いで呼ばせてやる」
ルストは静かに見ている。
「俺はもう呼んでいる」
まただ。
クラウディオ。
そう呼ぶ声。
命乞いではなく。
恐怖でもなく。
対等ですらなく。
ただ、迷いなく。
クラウディオは低く唸るように言った。
「その呼び方を、後悔させる」
「好きにしろ」
ルストは刃を下げたまま、背を向けた。
クラウディオの血が動きかける。
だが、また止める。
今ここで背後から放てば読まれる。
ルストは、背を向けているようで隙がない。
その背中が、なおさら腹立たしい。
「待て」
クラウディオが命じた。
ルストは止まらない。
王命が届かない。
また。
クラウディオの指が震えた。
「待てと言っている、灰銀」
ルストは歩きながら答えた。
「次に崩れ種を使ったら、その場で押さえる」
「まだ我に命じるか」
「警告だ」
「貴様の警告など」
「聞かなくていい。結果は同じだ」
森の奥へ、灰銀の背が薄れていく。
クラウディオは、その背へ言った。
「我は貴様の名を呼ばぬ」
ルストは振り返らなかった。
「好きにしろ」
それだけ。
まるで、どうでもいいことのように。
クラウディオにとっては、重大な拒絶だった。
名を呼ばない。
相手を認めない。
格を与えない。
自分が上である証。
そのはずだった。
だが、ルストは痛がらない。
怒らない。
名を呼ばれないことを、まったく気にしない。
逆に、クラウディオだけが名を呼ばれるたびに揺らされている。
その非対称さが、二人の間にあった。
ルストは、クラウディオと呼ぶ。
最初から。
迷わず。
恐れず。
クラウディオは、ルストと呼ばない。
呼べないのではない。
呼ばない。
そう決めている。
けれど、その拒絶すら、ルストには効かない。
クラウディオは、森の中でひとり立っていた。
血術はまだ指先にある。
怒りもある。
殺意もある。
屈辱もある。
だが、それ以上に、名前が残っていた。
クラウディオ。
ルストの声で呼ばれた自分の名。
それが、王冠より深く、喉の傷より長く残っている。
彼は自室へ戻った後、記録に書いた。
クラウディオ。
灰銀は、最初から我の名を呼ぶ。
陛下ではない。
王ではない。
吸血鬼王でもない。
クラウディオ。
許さない。
我は、灰銀の名を呼ばない。
貴様。
灰銀。
狩人風情。
それで十分。
名を呼ぶことは、認めること。
我は認めない。
クラウディオはそこでペンを止めた。
紙の上の文字を見つめる。
認めない。
そう書いた。
それなのに、記録の中にはルストという名がすでにある。
口にはしない。
しかし、血は覚えている。
喉の傷と同じように。
床に伏せた夜と同じように。
クラウディオは、黒硝子に映る自分を睨んだ。
王冠のない王。
名を呼ばれた王。
王ではなく、クラウディオとして見られた男。
その事実が、彼の中で赤く疼いている。
「貴様など」
低く呟く。
「灰銀で十分だ」
だが、夜のどこかで、低い声がまた蘇る。
クラウディオ。
その呼び方だけで、王は何度でも屈辱を思い出す。
そして、その屈辱を忘れないために。
彼は紙の最後に、もう一行だけ書いた。
いつか、その口で我を王と呼ばせる。
だがその時、クラウディオはまだ知らない。
ルストが最後まで、彼を王としてではなく、クラウディオとして見ることを。
そして、その呼び方こそが、やがて王冠より深く彼を縛ることを。




