第46話 床に伏せる王
王は、床に伏せない。
玉座に座る。
階段の上に立つ。
膝をつかせる。
喉を見下ろす。
それが王だった。
少なくとも、クラウディオ・ルジェリウスにとっては、そうだった。
膝を落とすのは臣下であり、床へ額をつけるのは許しを乞う者であり、喉を晒すのは敗者だ。
王は晒さない。
王は落ちない。
王は伏せない。
そのはずだった。
血霧の森で、ルスト・ヴァルレインの銀刃が喉元から離れた直後、クラウディオは動いた。
怒りが先だった。
屈辱が次だった。
考えるより早く、血が走る。
喉に刻まれた浅い傷から、稀血が赤黒い糸となって弾けた。森に残った血霧が一斉に逆巻き、枝を折り、落ち葉を巻き上げ、ルストの背へ殺到する。
「逃がすと思うな」
声は低く、掠れていた。
喉を切られたせいではない。
怒りで、王の声が荒れている。
クラウディオはそれすら許せなかった。
自分の声が揺れること。
自分の血術が乱れること。
自分の喉に、灰銀の刃が触れたこと。
すべてが許せない。
赤黒い血糸がルストの四肢を狙った。
肩。
肘。
膝。
喉。
血脈の走る場所を読み、絡め取り、膝を落とさせるための血術。
王城の者なら、それで終わる。
古参吸血鬼でも、ひと息は止まる。
野良なら暴れ、崩れ種なら血ごと潰れる。
だが、ルストは振り返らなかった。
銀の刃が、背後へ流れるように動く。
斬る。
斬る。
斬る。
血糸が、音もなく落ちた。
いや、落ちたのではない。
ほどかれた。
力を失う場所だけを切られ、術としての形を保てなくなったのだ。
クラウディオの血術は空中で崩れ、赤い霧へ戻る。
ルストはそこで初めて振り返った。
鋼色の瞳が、王を見る。
冷たい目だった。
恐れもない。
怒りも薄い。
ただ、これ以上放置すると邪魔だと判断した目。
その目が、クラウディオの怒りをさらに深くした。
「その目で我を見るな」
血霧が再び集まる。
今度は糸ではなく、槍だった。
赤黒い槍が、森の四方からルストを貫こうと伸びる。
ルストは動く。
速い。
だが派手ではない。
大きく跳ぶわけでも、刃を振り回すわけでもない。
一歩。
半歩。
身を引く。
肩をずらす。
刃を置く。
それだけで、血槍はすべて外れる。
外れた血槍は木々へ突き刺さり、幹を裂き、月光を赤く濡らした。
ルストには届かない。
クラウディオの瞳が、完全な深紅へ染まった。
「止まれ」
王命が森を打った。
血術ではない。
声そのものに乗った命令。
王城の者なら、心臓が凍る。
吸血鬼なら血が止まる。
従者なら膝から崩れる。
その声が、ルストへ届く。
はずだった。
ルストは止まらなかった。
一歩、前へ出た。
ただ、それだけ。
クラウディオの命令は、何も掴まなかった。
森に響き、霧を震わせ、崩れ種の死骸を揺らしただけで、ルストの血には届かない。
クラウディオの顔から、表情が消えた。
怒りが消えたのではない。
怒りが深すぎて、顔に出る形を失った。
「……なぜだ」
小さな声だった。
自分でも聞こえるかどうかの声。
だが、ルストは聞いていた。
「通ると思ったのか」
低い返答。
クラウディオの喉が震える。
その言葉は、刃より深く刺さった。
血術が通らない。
王命が通らない。
血霧も読まれる。
稀血にも酔わない。
では、この男は何だ。
人間なのか。
狩人なのか。
それとも。
クラウディオは考えを切った。
考えたくなかった。
考えれば、自分より上の何かを認めることになる。
それだけは、絶対に許せない。
「我に、逆らうなァッ!!」
怒声が森を裂いた。
王の声ではない。
暴君の声だった。
クラウディオの血が、足元から一気に広がる。
血霧が地面を覆い、赤黒い波となってルストへ押し寄せる。
月光が消える。
森が赤く染まる。
木々の影すら血に沈む。
クラウディオは両手を広げ、すべての血術をルスト一点へ向けた。
血糸。
血槍。
血霧。
血鎖。
王命。
すべて。
王城であれば、それは処刑だった。
外縁であっても、それは災害だった。
だが、ルストはその中心へ踏み込んだ。
逃げない。
避けない。
前へ出る。
血の波が彼へ触れる寸前、銀の刃が弧を描いた。
赤黒い霧が裂ける。
血鎖が断たれる。
血槍が落ちる。
血糸がほどける。
クラウディオの血術が、次々に消えていく。
速すぎる。
いや、違う。
クラウディオの術が遅いのではない。
ルストが、発動する前から起点を読んでいる。
どこに血が集まるか。
どこから命令が出るか。
どの糸が本命で、どれが誘導か。
すべて、最初から見えている。
だから、斬られる。
血術として完成する前に。
クラウディオの胸に、初めて明確な困惑が走った。
あり得ない。
あり得ない。
王の血だ。
王権を奪い、兄弟を膝まずかせ、父王の血すら呑んだ血だ。
それが、なぜ。
なぜ、この男には届かない。
ルストが目の前に来た。
近い。
近すぎる。
クラウディオは反射的に後ろへ下がろうとする。
しかし、足が動く前に手首を掴まれた。
強い。
骨が軋むほどではない。
だが、逃げられない。
完全に制御された力だった。
クラウディオは血術を手首から流そうとした。
掴んだ手を焼く。
血脈へ入り込む。
相手の腕を縛る。
そうするはずだった。
だが、血が流れない。
手首を掴むルストの指が、血術の起点を押さえている。
ただ握っているだけではない。
どこを押さえれば術が走らないかを、知っている。
「っ、離せ……!」
クラウディオの声が荒れる。
王命ではなく、怒鳴りに近い。
それも屈辱だった。
ルストは答えない。
次の瞬間、クラウディオの腕が捻られた。
痛み。
肩から背へ、鋭く走る。
反射的に身体が傾く。
その隙に、ルストの足がクラウディオの足を払った。
黒い外套が宙で翻る。
月光が白い喉を照らす。
クラウディオは、背中からではなく、胸を下にして地面へ叩き伏せられた。
湿った土。
落ち葉。
血霧の残り香。
それが頬のすぐ近くにある。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
王が、床へ。
いや、森の地面へ。
伏せている。
クラウディオの息が止まる。
背にルストの重みがかかった。
片腕は背中へ捻り上げられ、もう片方の手首は地面へ押さえつけられている。
膝が腰の横へ入り、動きを完全に封じていた。
そして、銀の刃が再び喉元へ来る。
今度は背後ではない。
横から、顎をわずかに持ち上げるように。
クラウディオの白い喉が、月光へ晒された。
喉。
王の喉。
血杯より重く、王冠より触れがたい場所。
それが、地面に伏せた姿勢で、狩人の刃の前に晒されている。
クラウディオの中で、何かが切れた。
「貴様ァッ!!」
激昂。
声が森に叩きつけられる。
王の声ではない。
怒り狂った吸血鬼の声だった。
クラウディオは全身で暴れた。
捻られた腕を引き抜こうとし、足で地面を蹴り、血を走らせようとする。
血霧が周囲で激しく渦を巻く。
だが、動けない。
ルストの押さえ方は、ただ力で潰しているのではなかった。
関節の逃げ場。
血術の起点。
呼吸の間。
重心の崩れ。
すべてを押さえている。
暴れれば暴れるほど、クラウディオ自身の身体が逃げ場を失う。
無様だった。
美しい王の身体が、湿った土の上で跳ね、外套を乱し、白い頬に落ち葉をつけ、喉を晒したまま動けない。
クラウディオはそれを理解して、さらに激昂した。
「離せ! この、狩人風情が……ッ! 我を誰だと……!」
ルストの手が、捻り上げた腕を少しだけ引いた。
痛みが肩を走る。
クラウディオの声が途切れた。
「ぐ、ッ……!」
短い呻き。
それを出してしまった瞬間、クラウディオの目が見開かれる。
自分が呻いた。
この男の手で。
地面に伏せられて。
喉を晒して。
クラウディオは歯を食いしばった。
「殺す……貴様だけは、必ず殺す……!」
声は怒りで震えている。
だが、動けない。
ルストは冷静だった。
「血術を止めろ」
「命じるな!」
クラウディオは即座に叫んだ。
血霧がまた動く。
ルストの首へ絡もうとする。
だが、ルストはクラウディオの喉元に置いた刃を、ほんの少し押し上げた。
銀が皮膚を撫でる。
傷が開く。
クラウディオの喉から、勝手に息が漏れた。
「っ、ぁ……!」
声になりきらない反応。
クラウディオの顔が屈辱で歪む。
ルストは低く言う。
「動かすなと言った」
「聞くと思うな……!」
「聞かせる」
その言葉と同時に、ルストの膝がクラウディオの腰をさらに押さえ込んだ。
地面へ深く伏せられる。
胸が圧迫され、息が詰まる。
クラウディオは身体を跳ねさせた。
だが、浮かない。
まるで地面そのものに縫い止められたようだった。
血術を走らせようとしても、手首と喉と背中の起点をすべて押さえられている。
流れない。
通らない。
発動しない。
あり得ない。
あり得ない。
あり得ない。
「なぜ……ッ、なぜ通らない……!」
怒りの中に、初めて困惑がはっきり混じった。
クラウディオ自身が、それに気づいた。
さらに屈辱が増す。
ルストは、冷静に答えた。
「お前の血は強い」
「ならば、なぜ……!」
「強いから、流れが大きい」
ルストの声は低く、淡々としている。
「大きい流れは、起点を押さえれば止まる」
クラウディオの瞳が揺れた。
説明されている。
制圧されながら。
自分の血術の弱点を。
この男に。
それは、身体を地面へ押さえつけられるより、さらに深い屈辱だった。
「黙れ……!」
「暴れるほど分かりやすい」
ルストは続けた。
「怒りで血を動かすな。読むのが楽になる」
クラウディオは獣のように低く唸った。
今度は意図的な声ではない。
喉の奥から漏れた怒りの音。
美しい王の喉から、濁った音が出る。
ルストの刃が喉に触れているせいで、声が細く歪む。
そのことすら許せない。
「見るな……」
クラウディオは低く言った。
顔を横へ向けようとする。
だが、刃が顎の下にあり、首を動かせない。
喉を晒したまま。
ルストの視線の下で。
「見るなと言っているだろうが……ッ!」
怒鳴りながら、身体を捩る。
だが動けない。
腕を抜こうとしても、ルストの指が少し角度を変えるだけで力が逃げる。
足で蹴ろうとしても、重心を潰されている。
血術は通らない。
王命も届かない。
喉は晒されたまま。
クラウディオは、初めて完全に「制圧されている」と理解した。
敗北ではない。
まだ、そうは認めない。
だが、制圧されている。
動けない。
ルストは淡々と言った。
「お前は、よく喋る」
「貴様……!」
「罠も、血術も、怒りも、全部うるさい」
クラウディオの中で、怒りが爆ぜた。
「下郎がァッ!!」
血が暴走しかける。
瞳の赤がさらに濃くなり、周囲の血霧が荒れる。
だが、ルストはすぐにクラウディオの喉元を押さえた。
銀の刃ではなく、刃を持たない方の手。
指先が喉の横へ触れる。
血脈の起点。
そこを押された瞬間、クラウディオの血術が喉で詰まった。
「ぐ、ぁ……ッ!」
短い苦鳴。
身体が勝手に跳ねる。
ルストは体重をずらし、クラウディオを逃がさず地面へ伏せたままにする。
「暴れるな」
「命じるなァッ!!」
クラウディオの声は、今や完全に荒れていた。
王の整った低音ではない。
怒りで裂けかけた、吸血鬼の声。
「我は王だ……! 貴様ごときが、我を地に伏せるなど……ッ!」
「もう伏せている」
静かな一言。
クラウディオの呼吸が止まった。
その通りだった。
もう伏せている。
王は床に伏せない。
そう信じていたのに。
今、彼は地面に伏せている。
湿った土に頬を近づけ、腕を捻り上げられ、腰を押さえられ、喉を銀刃の前へ晒している。
言い返したかった。
だが、現実が先にある。
クラウディオは、歯を食いしばった。
赤い目が怒りで揺れる。
それでも、喉元に刃がある限り、声すら自由ではない。
ルストは、少しだけ身を屈めた。
声が近くなる。
「王なら、もう少し静かに負けろ」
その瞬間、クラウディオの理性がほとんど飛んだ。
「負けてなどいないッ!!」
絶叫に近い否定。
血霧が荒れ狂う。
木々が軋み、月光が赤く乱れる。
だが、その中心の王だけが動けない。
暴れている。
無様に。
全身で。
血術が通らないことに困惑し、怒り、否定し、喉を晒したまま叫ぶ。
ルストは、まったく揺れなかった。
暴れるクラウディオを、ただ押さえ込む。
必要なだけの力で。
必要な位置を。
必要な時間だけ。
それがさらに、クラウディオには耐えがたかった。
全力で押さえ込まれているのではない。
力任せに潰されているのでもない。
冷静に、手順として、制圧されている。
王としてではなく、危険個体として。
「離せ……ッ」
クラウディオの声が低く震える。
怒りと屈辱で、喉が掠れている。
「離せ、灰銀……ッ! 我に触れるな……!」
ルストは答えた。
「触れられたくなければ、崩れ種を餌にするな」
「説教か……!」
「警告だ」
「聞くと思うか」
「聞かせると言った」
ルストの手が、クラウディオの喉元から少し上へ動く。
顎を固定する。
喉がさらに晒される。
白い首筋に、銀の刃が冷たく沿う。
クラウディオは、その姿勢に耐えきれず、目を見開いた。
完全な屈辱。
吸血鬼にとって、喉を晒すことは命を預けるに等しい。
王がそれをされている。
しかも、相手は灰銀の狩人。
クラウディオの唇が震えた。
怒りで。
屈辱で。
そして、わずかな混乱で。
「なぜ……貴様は、我の血に酔わない」
それは、思わず漏れた問いだった。
ルストは短く答える。
「酔う理由がない」
「我の血だぞ……」
「だから何だ」
また、その言葉。
だから何だ。
王血。
稀血。
誰もが欲しがる血。
それを前にして、ルストは何も揺れない。
クラウディオは、怒りながらも理解し始めていた。
この男には、今までのすべてが通じない。
美貌も。
血の匂いも。
王命も。
血術も。
恐怖も。
欲望も。
何一つ、思った形では届かない。
そして、その理解がクラウディオをさらに激昂させた。
「我を見下ろすな……!」
ルストは冷静に言った。
「今は下にいる」
「黙れッ!!」
クラウディオはまた暴れた。
だが、やはり動けない。
ルストの手は揺れない。
刃は喉から離れない。
森の血霧は少しずつ薄れていく。
王の支配が、床に伏せた姿勢のまま乱れている。
それを見て、ルストはようやく言った。
「今日はここまでだ」
クラウディオの目が鋭くなる。
「勝手に終わらせるな……!」
「終わりだ」
ルストはクラウディオの腕を離した。
同時に、喉元の刃も離れる。
しかしクラウディオが動くより早く、ルストは距離を取っていた。
クラウディオは地面に片手をつき、勢いよく身を起こす。
外套は乱れ、髪には落ち葉が絡み、白い喉には銀刃の浅い傷が赤く残っている。
美しい王の姿は、初めて乱れていた。
それでも、目だけは死んでいない。
深紅の瞳で、ルストを睨みつける。
「殺す」
掠れた声。
「貴様だけは、必ず殺す……!」
ルストは、その言葉にも反応しなかった。
刃を下げる。
「次に崩れ種を餌にしたら、もっと深く押さえる」
クラウディオの顔が怒りで歪む。
「貴様が我に条件を出すな……!」
「出す」
即答。
クラウディオの血がまた荒れる。
だが、今度は動かさなかった。
いや。
動かせなかった記憶が、身体に残っている。
それがさらに屈辱だった。
ルストは背を向ける。
森の奥へ歩き出す。
クラウディオは血術を放とうとした。
だが、指先が一瞬だけ止まる。
喉を押さえられた感覚。
手首を封じられた感覚。
血が通らなかった困惑。
床へ伏せられた屈辱。
それらが、身体に刻まれている。
その一瞬の遅れのうちに、ルストの気配は森へ溶けた。
消えた。
追えない。
クラウディオは、地面に膝をついたまま、拳を握った。
爪が手袋を裂き、掌へ食い込む。
血が滲む。
自分の血。
王の血。
それでも、今は何も満たさない。
森には、ルストの声だけが残っている。
王なら、もう少し静かに負けろ。
クラウディオは、低く笑った。
喉が掠れている。
笑いも少し歪む。
「負けてなど……いない」
誰も聞いていない森の中で、彼はそう言った。
言い聞かせるように。
否定するように。
しかし、喉の傷は残っている。
乱れた外套も。
土のついた頬も。
床へ伏せられた記憶も。
ルストの手で動けなくされた身体の感覚も。
すべてが残っている。
クラウディオは立ち上がった。
少しだけ足元が揺れる。
それすら許せず、彼は血術で体勢を無理に整える。
王は伏せない。
王は落ちない。
王は狩られない。
そうでなければならない。
けれど、森は知っている。
今夜、王は床に伏せた。
喉を晒した。
血術は通らず、怒り狂い、無様に暴れ、それでも動けなかった。
そして、灰銀のハンターはそれを見下ろしていた。
クラウディオは喉の血を指で拭った。
赤い血を見つめる。
その指先が、怒りで震えていた。
「ルスト」
初めて、その名が明確な怒りとして唇から落ちた。
「貴様だけは、我が必ず」
言葉はそこで途切れた。
殺す、とは言わなかった。
殺すだけでは足りないと思ったからだ。
血を凍らせるほどの屈辱を返さなければならない。
王の身体を床へ伏せた罪を、喉を晒させた罪を、血術が通らないと知らしめた罪を。
必ず。
クラウディオは、黒い外套を整えた。
髪から落ち葉を払い、喉の傷を血術で塞ぐ。
だが、完全には消さなかった。
消せなかったのではない。
消さない。
記録するために。
この屈辱を。
この夜を。
床に伏せた王の記憶を。
王城へ戻る道で、クラウディオは一度も振り返らなかった。
だが森は、赤い霧の名残の中で、静かにその夜を覚えていた。
吸血鬼王が初めて、完膚なきまでに制圧された夜を。




