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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第43話 王の狩り支度


 王が外へ出る。


 その報せが王城に落ちた瞬間、城全体の空気が凍った。


 大広間でも、黒議の間でも、血糧庫でも、従者たちの控えの間でも、同じ沈黙が広がった。


 誰も声を上げない。


 誰も止めに走らない。


 だが、全員が同じことを思った。


 今代の吸血鬼王クラウディオ・ルジェリウスが、自ら灰銀のハンターを狩りに行く。


 それは王城にとって、勝利の予告ではなかった。


 災厄の前触れだった。


 クラウディオは、自室で狩り支度を整えていた。


 黒硝子の窓には夜が映っている。


 外縁の夜とは違う、王城の整えられた夜。


 青白い魔導灯に照らされた黒石の壁。


 銀の燭台。


 血石の飾り。


 王のためだけに用意された黒い衣。


 机の上には、灰銀の報告書が並んでいた。


 外縁南西。


 廃村。


 崩れ種五体、野良吸血鬼二体、全滅。


 人間の生存確認。


 王の血術罠、観測線切断。


 血術核、未破壊。


 戦闘痕、極小。


 必要以上の破壊なし。


 静かで、無駄がない。


 クラウディオは、その最後の記録を何度か読み返していた。


 灰銀が通ったあとには、死体だけが残る。


 その事実が、彼の血を静かに揺らしている。


 怒りではない。


 焦りでもない。


 警戒。


 不快。


 愉悦。


 その三つが、美しい毒のように混ざっていた。


 クラウディオは黒い手袋を手に取った。


 儀礼用ではない。


 狩り用の手袋だった。


 指先に細い血術線が仕込まれ、爪を立てればすぐに自分の血を流せるようになっている。


 外套は軽い。


 王城の夜会でまとう重い衣ではない。


 黒く、動きを邪魔せず、裏地には血術を通す赤黒い糸が縫い込まれている。


 腰には剣を佩かない。


 クラウディオに剣は不要だった。


 彼の武器は血であり、声であり、王権であり、相手の血脈へ触れる命令そのものだ。


 それでも、今夜は短い銀の小刀を一本だけ持った。


 銀は吸血鬼にとって不快なものだ。


 だが、クラウディオはそれを嫌悪だけで遠ざける王ではない。


 必要なら使う。


 不快なものほど、相手の不意を突ける。


 自分が嫌うものを使えない者は、王には向かない。


 彼はそう考えている。


 扉の外に気配があった。


「入れ」


 クラウディオが言うと、扉が開いた。


 ヴェルナー卿だった。


 灰黒い髪を後ろで束ね、軍装に近い黒衣をまとっている。


 彼は部屋へ入り、深く頭を下げた。


「陛下」


「止めに来たか」


「止められるなら」


 即答だった。


 クラウディオは手袋を嵌めながら、わずかに笑う。


「なら、無駄足だな」


「承知しております」


「では、何をしに来た」


「警告を」


「それも無駄だ」


「それでも申し上げます」


 ヴェルナーは顔を上げた。


 その目には、はっきりとした警戒がある。


「灰銀は、陛下の罠を読んだ相手です。崩れ種を処理し、人間を逃がし、野良を殺し、観測線だけを切り、血術核を残した。挑発に乗らず、必要なものだけを処理して去った」


「知っている」


「ならば、陛下が自ら出ることも読まれている可能性があります」


 クラウディオの指が止まった。


 ほんの一瞬。


 ヴェルナーはそれを見逃さなかった。


 だが、口には出さない。


 王の一瞬の停止を指摘するほど愚かではなかった。


 クラウディオは手袋の留め具を締める。


「読ませておけ」


「陛下」


「我が出ると読んでいるなら、灰銀は待つ」


 クラウディオの声に、冷たい愉悦が混じる。


「それでいい」


「待っている相手の場へ、王が向かうのですか」


「王は、どこへ向かおうと王だ」


「狩場でも?」


「当然だ」


 ヴェルナーは沈黙した。


 その沈黙は、同意ではない。


 諦めに近かった。


 クラウディオは黒い外套を羽織る。


「卿は灰銀を高く見すぎている」


「陛下は、まだ低く見ています」


「警戒すると言った」


「警戒と慢心は、同時に存在します」


 部屋の空気が鋭くなる。


 王に対して、あまりに踏み込んだ言葉だった。


 だが、ヴェルナーは頭を下げない。


 視線も逸らさない。


 クラウディオは、彼を見た。


 長い沈黙。


 やがて、低く言った。


「それで」


「灰銀は、狩人です」


「知っている」


「狩人は、自分が狩る側だと思っている獲物ほど扱いやすい」


 クラウディオの瞳の奥に、赤が薄く滲んだ。


 怒りか。


 愉悦か。


 あるいは、その両方か。


「我が獲物だと?」


「そう見られる可能性がある、と申し上げています」


 ヴェルナーの声は揺れない。


 「陛下が灰銀を狩るつもりでいるように、灰銀もまた、陛下を狩る対象として見るかもしれません」


 クラウディオは静かに笑った。


 美しい笑みだった。


 しかし、温度はない。


「面白い」


「面白がる話ではありません」


「我が狩られるかもしれないと、卿は本気で言っている」


「はい」


「不敬だな」


「承知しております」


「それでも言うか」


「言わなければ、私は王城守備を名乗れません」


 ヴェルナーは膝をついた。


 罰を受ける覚悟の姿勢だった。


 クラウディオは、彼を見下ろした。


 かつて多くの者が、この姿勢で許しを乞うた。


 血杯を落とした従者。


 一拍遅れた臣下。


 失態を隠した管理官。


 戻れない場所へ送られた者。


 だが、ヴェルナーは許しを乞うていない。


 自分の言葉の責任を受けるために膝をついている。


 そこだけが違った。


 クラウディオは言った。


「顔を上げろ」


 ヴェルナーは従う。


「卿の警告は聞いた」


「では」


「その上で出る」


 やはり、止まらない。


 ヴェルナーの顔に、ほんのわずかな疲労が浮かんだ。


 クラウディオは外套の襟を整えながら続ける。


「灰銀が我を獲物と見るなら、それもいい」


「陛下」


「獲物のつもりで近づいてきた狩人を、王が狩る。それだけだ」


 その声には、揺るぎがなかった。


 クラウディオは本気で、自分が狩る側だと信じている。


 灰銀が何を読もうと。


 どれほど静かに吸血鬼を処理しようと。


 王の罠を切ろうと。


 王を待っていようと。


 最後に狩るのは自分だと。


 その確信が、彼の美貌をさらに冷たく見せていた。


 ヴェルナーは、もう止めなかった。


 代わりに言う。


「同行を」


「要らない」


「最低限の護衛は」


「足手まといだ」


「陛下お一人で出るおつもりですか」


「我が出る」


 短い答え。


 それ以上の説明はない。


 王が出る。


 それが命令であり、結論だった。


 ヴェルナーは深く頭を下げた。


「ならば、せめて帰還路だけは確保いたします」


「好きにしろ」


「仰せのままに」


 その返答は遅れなかった。


 ヴェルナーが退いた後、次に訪れたのはオルディア・ネシュだった。


 彼女は白い手袋を嵌め、銀の箱を持っていた。


 中には、血術補助用の小瓶が並んでいる。


「陛下。外縁へ出られるのであれば、こちらを」


「何だ」


「封香と血脈安定剤です。陛下の稀血は、外縁の野良や崩れ種を強く寄せます。灰銀だけを誘うなら、香りを絞る必要があります」


 クラウディオは箱を見た。


「我の血を薄めろと?」


「いいえ」


 オルディアは即座に答えた。


 遅れはない。


「外へ漏れる量を制御するためのものです。陛下の血の格を損なうものではありません」


 クラウディオは彼女を見た。


「言葉を選んだな」


「はい」


「正しい」


 オルディアの肩が少しだけ緩む。


 彼女は箱を差し出した。


「灰銀は血脈を読む可能性が高い。陛下の血を隠しすぎれば、逆に違和感になります。漏らしすぎれば、雑多なものが寄ります。狩場では、匂いの強弱そのものが合図になります」


「つまり」


「陛下ご自身を、餌にすることもできます」


 部屋が静かになる。


 オルディアは言った後で、自分の言葉の危うさを理解したらしい。


 顔を伏せる。


 しかし、撤回しない。


 クラウディオは、低く笑った。


「我を餌にするか」


「恐れながら、灰銀ほどの相手を誘うなら、最も強い餌は陛下ご自身です」


「面白い」


「危険でもあります」


「皆、そればかりだな」


「事実ですので」


 クラウディオは銀の小瓶を一つ手に取った。


 封香剤。


 血の匂いを完全に消すのではなく、薄い霧のように散らすためのもの。


 彼はそれを外套の内側へしまう。


「使うかは我が決める」


「はい、陛下」


「下がれ」


「仰せのままに」


 オルディアも退いた。


 扉が閉まる。


 部屋にはまた、クラウディオだけが残る。


 黒硝子の窓には、夜の王城が映っている。


 自分の姿も。


 黒い外套をまとい、狩り支度を整えた吸血鬼王。


 美しい。


 冷たい。


 そして、どこか楽しげだった。


 クラウディオは机へ向かった。


 白い紙を取り出す。


 題を書く。


 王の狩り支度。


 そして、続けた。


 灰銀を狩るため、王自ら外縁へ出る。


 ヴェルナー、警告。


 灰銀は王が出ることを読んでいる可能性。


 狩人は、自分が狩る側だと思っている獲物ほど扱いやすい、と。


 不敬。


 だが、記録する価値あり。


 オルディア、封香と血脈安定剤を提出。


 我自身を餌にする案。


 危険。


 面白い。


 クラウディオは、そこでペンを止めた。


 自分自身を餌にする。


 それは不快な言葉だった。


 餌。


 かつてカルゼンが言った。


 血を餌にする者は、自分が餌であることを忘れます。


 忘れてはいない。


 クラウディオは、そう思った。


 自分が灰銀を誘う餌になり得ることは分かっている。


 だが、餌は罠の中心に置かれるものだ。


 餌を喰おうとした獣が罠にかかる。


 ならば、自分が餌であることは敗北ではない。


 罠の中心にいる王というだけだ。


 そう考えた。


 あまりに王らしい理屈だった。


 同時に、どこか危うい。


 罠の中心にいるものが、狩人なのか獲物なのかは、最後まで分からない。


 クラウディオはその危うさを、まだ快いものとしてしか感じていなかった。


 彼はさらに書いた。


 我は狩る側。


 灰銀は、王の罠へ入る。


 王に触れられるかどうか、見てやる。


 文字は冷たく整っていた。


 傲慢で。


 美しく。


 未来の反転を知らないまま。


 クラウディオは紙をしまった。


 部屋を出ると、廊下には従者たちが並んでいた。


 全員、頭を下げている。


 誰も顔を上げない。


 王が外へ出る。


 それを止めることなどできない。


 しかし、恐れている。


 王が戻らない可能性を恐れているのではない。


 王が戻った時、何を連れて戻るかを恐れている。


 灰銀の首か。


 灰銀の血か。


 あるいは、さらに深い飢えか。


 誰にも分からない。


 王城の門へ向かう途中、セシルが血杯を持って現れた。


 新しい血杯管理官。


 ノルベルトの死の後に任じられた者。


 顔は青白いが、手元は震えていない。


 血杯は銀盆の上で完全に静止している。


 クラウディオは足を止めた。


 セシルは即座に膝をつく。


「陛下。外縁へ向かわれる前に、狩りの血を」


 返答も動作も遅れない。


 完璧だった。


 クラウディオは血杯を見た。


 深紅の血。


 外縁へ出る前の儀礼血。


 本来なら、王の狩りの成功を祈るもの。


 彼は血杯を受け取った。


 杯は揺れない。


 セシルの手も揺れない。


 よく躾けられている。


 クラウディオは一口だけ飲んだ。


 血は整っていた。


 だが、足りない。


 いつものことだ。


 何を飲んでも、満たされない。


 彼は血杯を返す。


 セシルは一拍の遅れもなく受け取った。


 クラウディオは言った。


「よい」


 たった一言。


 セシルの顔に、ほんの少しだけ安堵が浮かぶ。


 それでも、礼の姿勢は崩れない。


 クラウディオは通り過ぎた。


 王城の門が開かれる。


 黒い夜が広がっている。


 外縁へ続く道は、湿った闇に沈んでいた。


 月は薄い。


 森は遠く、赤い目の気配はまだない。


 だが、クラウディオには分かる。


 灰銀はどこかにいる。


 崩れ種を斬り、野良を処理し、人間を逃がし、王の罠を読んだ男。


 その男を、今夜、自分が狩る。


 クラウディオは外へ出た。


 王城の門が背後で重く閉まる。


 その音を聞きながら、彼は微笑んだ。


 王城は緊張している。


 従者も、古参も、守備も、血術局も。


 誰も止められない。


 誰も彼の行く先を変えられない。


 当然だ。


 王が狩りへ出るのだから。


 狩られる側ではなく。


 狩る側として。


 クラウディオは、外縁の夜へ歩き出した。


 黒い外套が風に揺れる。


 白い指が、手袋越しにかすかに動く。


 血術が、まだ見ぬ獲物を探すように夜へ沈んでいく。


 彼は信じていた。


 自分が狩る側だと。


 灰銀のハンターが、王の罠へ入るのだと。


 その信仰にも似た傲慢が、夜の中で美しく光っていた。


 そして、闇のどこかで。


 まだ姿を見せない灰銀の刃が、静かに待っていた。


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