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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第44話 血霧の森


 外縁の森は、王城の庭ではない。


 黒石の床もない。


 磨かれた柱もない。


 血紋を刻んだ壁もない。


 従者が控える廊下も、命じれば膝をつく臣下もいない。


 湿った土。


 腐葉土。


 黒い木々。


 獣の匂い。


 古い血の残り香。


 遠くで鳴く夜鳥。


 風に擦れる枝。


 外縁の森は、王城とはまるで違う場所だった。


 だが、クラウディオ・ルジェリウスはそうは考えなかった。


 王が立てば、そこが王の夜になる。


 王が血を流せば、そこが王の領域になる。


 王が命じれば、森でさえ従う。


 そう信じている。


 そう信じられるだけの力を、彼は持っていた。


 だからこそ、傲慢だった。


 外縁南西、廃村へ続く森の入口で、クラウディオは足を止めた。


 夜は深い。


 月は薄く、枝の隙間から冷たい光を落としている。


 森の奥には、まだ灰銀の姿はない。


 だが、いる。


 遠く、どこかで。


 王の罠を読み、崩れ種を斬り、人間を逃がし、必要なものだけを残して去った灰銀のハンター。


 クラウディオは、その気配を探していた。


 視線ではない。


 耳でもない。


 血で。


 森には血の匂いが残っている。


 崩れ種の濁った血。


 野良吸血鬼の浅い血。


 獣化種の汚れた血。


 人間の薄い血。


 そして、前に自分が落とした稀血の残り香。


 それらが湿った土の中で混ざり合い、夜の底に沈んでいた。


 クラウディオは黒い手袋を外した。


 白い指先が月光に晒される。


 爪で皮膚を裂く。


 一滴。


 赤い血が滲んだ。


 その瞬間、森の空気が変わった。


 夜鳥が鳴き止む。


 枝の音が止まる。


 遠くで何かが地面を掻く音がした。


 野良か。


 崩れ種か。


 それとも、ただの獣か。


 クラウディオは指先を軽く振った。


 血は地面へ落ちない。


 空中でほどける。


 赤い糸になる。


 細く、薄く、霧のように。


 それは風に乗り、森の奥へ流れていった。


 一本ではない。


 二本。


 三本。


 無数の血糸が空気の中へ広がり、やがて薄い赤い霧へ変わる。


 血霧。


 クラウディオの血術が、森へ沈んでいく。


 月光が霧に触れると、赤は黒く沈み、白い光の端だけが濡れたように滲んだ。


 森の景色が変わっていく。


 木々の間に赤黒い霞が漂い、地面には血の匂いが低く這う。枝の先についた夜露が赤く光り、落ち葉の間から細い霧が立ち上る。


 美しい。


 そして、悪意があった。


 この霧に触れた吸血鬼は、血脈を撫でられる。


 野良なら飢えが揺れる。


 崩れ種なら赤い目がさらに濁る。


 獣化種なら牙を剥き、気配を隠せなくなる。


 人間なら、寒気と吐き気に足を止める。


 灰銀なら。


 どう反応するか。


 それを見るための霧だった。


 クラウディオは、森を見た。


「満ちろ」


 低い命令。


 血霧がさらに広がる。


 木の幹を這い、枝を濡らし、獣道を塞ぎ、廃村へ続く道をゆるやかに覆っていく。


 森の中に、赤い月光のような道ができた。


 誘導路。


 罠。


 王の狩場。


 クラウディオは、その中心に立っていた。


 自分の血で満たした森。


 自分の霧が支配する夜。


 この中へ灰銀が入れば、必ず分かる。


 血霧は、触れたものを王へ伝える。


 足音。


 体温。


 血の流れ。


 銀の気配。


 刃の角度。


 呼吸の間。


 そう設計した。


 灰銀が静かなら、静かさごと拾えばいい。


 無駄がないなら、無駄のなさを観測すればいい。


 罠を切るなら、切る瞬間を血へ刻めばいい。


 クラウディオは微笑んだ。


「今度は、見逃さぬ」


 その声は美しく、冷たく、夜の中でよく響いた。


 だが返事はない。


 森はただ、血霧を抱いて沈黙している。


 クラウディオは歩き出した。


 外套の裾が霧を割る。


 足元の落ち葉が湿った音を立てる。


 王城の黒石とは違い、森の地面は柔らかい。


 踏めば沈む。


 匂いが立つ。


 足跡が残る。


 クラウディオはそれを好まなかった。


 だが、今夜はその不快さも使う。


 自分が通った跡も、血術で薄く覆った。


 灰銀が足跡を読むなら、読めばいい。


 読ませる跡と、読ませない跡を分ける。


 王はただ歩いているわけではない。


 歩くことすら罠にする。


 森の奥から、低い呻き声がした。


 崩れ種だ。


 血霧に誘われたのだろう。


 常に禍々しい赤い目をしたものが、木々の間から這い出てきた。


 腕が長い。


 背骨が歪んでいる。


 口元から黒い涎が落ちている。


 かつて人間だったのか、吸血鬼だったのか、もう分からない。


 ただ、飢えている。


 血を求めている。


 クラウディオの稀血の匂いに、完全に狂っていた。


「ぁ、あ……血……」


 崩れ種は言葉にならない声を漏らし、クラウディオへ向かって這った。


 クラウディオは立ち止まらない。


 指先を少しだけ動かした。


 血霧が細い鎖になり、崩れ種の喉へ絡みつく。


 次の瞬間、その身体は木の幹へ叩きつけられた。


 骨が軋む音。


 濁った悲鳴。


「ぐ、がああああッ!」


 クラウディオは、崩れ種を見た。


 殺さない。


 まだ。


 血霧の鎖は崩れ種を木へ縫い止めた。


 赤い目がぎょろぎょろと動き、飢えで喉が鳴る。


 餌。


 道標。


 灰銀が来れば、これを見逃すかどうか。


 クラウディオは静かに言った。


「そこで鳴いていろ」


 崩れ種は呻いた。


 言葉は通じない。


 だが、血術は通じる。


 王の血が、崩れ種の飢えを縛っている。


 さらに奥へ進む。


 血霧は濃くなる。


 月光は霧の中で白く滲み、まるで森全体が薄い血の膜に包まれているようだった。


 遠くで、狼のような鳴き声がした。


 獣化種かもしれない。


 その声に、別の声が重なる。


 人間の声だった。


「助けて」


 クラウディオは足を止めた。


 声は本物ではない。


 森に染みついた残響。


 あるいは、崩れ種が拾った声。


 外縁ではよくある。


 死んだ者の声。


 逃げ遅れた者の声。


 開けて、と戸口で呼ぶ声。


 王城の者なら不快に思い、教会区の者なら祈り、外縁の人間なら耳を塞ぐ。


 クラウディオは、ただ聞いた。


「助けて」


 声はまた言った。


「痛いの」


 幼い声だった。


 王の瞳は揺れない。


 外縁の人間の声は、彼にとって罠の音でしかない。


 助けるつもりはない。


 だが、灰銀なら。


 反応するかもしれない。


 クラウディオは血霧をその声の方へ流した。


 声の残響が霧に絡む。


 森の中で、薄い泣き声のようなものが広がっていく。


 人間を誘う声ではない。


 灰銀を誘う声。


 クラウディオは、それを迷わず使った。


 救われなかった声を、罠の一部にする。


 王は本当に最悪だった。


 しかも自覚している。


 自覚してなお使うあたり、救いのなさが職人芸である。


 森の空気が、ふと変わった。


 血霧の端が、震えた。


 ほんのわずか。


 風ではない。


 獣でもない。


 崩れ種でもない。


 銀。


 冷たい気配。


 血霧の中に、細い裂け目が入った。


 クラウディオの足が止まる。


 瞳の奥に赤が沈む。


 来た。


 まだ姿は見えない。


 だが、灰銀の気配が近づいている。


 静かだった。


 本当に静かだった。


 野良吸血鬼なら、血霧に触れた瞬間に飢えが揺れる。


 崩れ種なら呻く。


 獣化種なら唸る。


 人間なら足音が乱れる。


 だが、その気配は乱れない。


 血霧の外縁を撫でるように通り、必要な部分だけを切り、こちらへまっすぐ近づいている。


 歩いているのか。


 立ち止まっているのか。


 分からないほど静かだ。


 クラウディオは、血霧へ意識を沈めた。


 左。


 いや、違う。


 木の上。


 違う。


 地面。


 違う。


 気配は、血霧の読みをずらしている。


 血術の中で、相手の位置がひとつに定まらない。


 これは隠れているのではない。


 読ませる情報を選んでいる。


 クラウディオの唇がわずかに動いた。


「やはり」


 灰銀は罠を読んでいる。


 血霧をただ避けるのではなく、利用している。


 濃い霧には踏み込まない。


 薄い霧にはわざと触れる。


 触れた場所に別の気配を残す。


 王へ返る情報を、少しずつ歪ませる。


 ただの狩人ではない。


 改めて、そう分かった。


 血霧の向こうで、縛っていた崩れ種が突然叫んだ。


「あ、があああッ!」


 クラウディオが振り返る。


 木に縫い止めていた崩れ種の喉が、横一文字に裂かれていた。


 いつの間に。


 灰銀は、そこにいたはずのない場所から刃を入れた。


 血霧の鎖を壊さず、崩れ種だけを殺した。


 鎖はそのまま残っている。


 中身だけが死んでいる。


 クラウディオの瞳が細くなる。


「器だけ残したか」


 血術を壊さない。


 観測線もすべては切らない。


 だが、王が置いた餌だけを殺す。


 挑発か。


 処理か。


 判断に迷う。


 その迷いが、クラウディオには不快だった。


 彼は右手を上げた。


 血霧が濃くなる。


 森全体が赤黒く沈む。


 月光はほとんど見えなくなり、木々の影だけが不自然に長く伸びる。


 王の血が、森を満たしていく。


「出てこい」


 クラウディオの声が夜を打つ。


 返事はない。


 代わりに、血霧の奥で銀が光った。


 一瞬。


 月光を受けた刃。


 長い。


 重い。


 静かな刃。


 クラウディオは、その光へ血の糸を放つ。


 赤黒い糸が霧を裂き、銀の光へ絡みつこうとする。


 だが、刃はもうそこにない。


 血糸は空を切り、木の幹へ刺さる。


 遅い。


 いや。


 誘われた。


 クラウディオの目が鋭くなる。


 血霧の反対側で、また気配が揺れた。


 今度は右。


 血糸を放つ。


 また外れる。


 左奥。


 上。


 下。


 灰銀の気配は、霧の中でいくつにも分かれている。


 足音はない。


 呼吸も拾えない。


 ただ、銀の冷たさだけが時折霧を裂く。


 クラウディオは笑った。


 低く。


 美しく。


 怒りではない。


 これは、愉しい。


 ようやく、自分の血術を乱す相手がいる。


 ようやく、命じてもすぐ膝をつかない相手がいる。


 ようやく、王の狩場で、王を観察する者がいる。


「灰銀」


 彼は呼んだ。


 名ではない。


 まだ名を知らない。


 それでも、その呼び方は以前より重かった。


「いつまで隠れる」


 森の奥から、初めて声が返った。


 低い声だった。


 遠い。


 だが、はっきり聞こえた。


「隠れているつもりはない」


 クラウディオの血が、一瞬で熱を持った。


 声。


 灰銀の声。


 静かで、低く、無駄がない。


 その声には、恐れがなかった。


 王への敬意もない。


 挑発の熱もない。


 ただ事実を返しただけ。


 それが、何より不快だった。


 そして。


 快かった。


 クラウディオは、声の方へ向き直る。


 血霧が渦を巻く。


 月光が霧の隙間から一筋落ちる。


 その光の中に、影が立っていた。


 灰銀の髪。


 鋼色の瞳。


 人間としては異様に大きな体。


 黒い外套。


 手には、銀の刃。


 血を浴びていない。


 先ほど崩れ種を斬ったはずなのに、刃も衣も汚れていないように見える。


 まるで、血を残す必要すらなかったとでも言うように。


 クラウディオは、初めて灰銀を正面から見た。


 報告書より、ずっと不快だった。


 そして、ずっと面白かった。


 灰銀のハンターは、クラウディオを見ていた。


 王を見る目ではない。


 獲物を見る目でもない。


 障害を見る目。


 処理すべきものを見る目。


 クラウディオの唇が、わずかに歪む。


「よく来たな、狩人」


 灰銀は答えない。


 クラウディオは続ける。


「我の森へ」


「お前の森ではない」


 即答だった。


 短く、低い。


 その言葉に、血霧が微かに揺れた。


 クラウディオの瞳の奥で、赤が深くなる。


「王の血で満ちている」


「だから何だ」


 灰銀は一歩、前へ出た。


 血霧が彼の足元で割れる。


 触れているのに、絡まない。


 王の血術が、彼の周囲だけ薄く避けているように見えた。


 いや、違う。


 避けさせられている。


 クラウディオは、その事実を認識した。


 この男は、血霧の流れを読んでいる。


 自分の血脈を乱さず、王の血術へ触れすぎず、しかし退かない。


 灰銀は、鋼色の瞳でクラウディオを見た。


「崩れ種を餌にしたのはお前か」


 問いではない。


 確認だった。


 クラウディオは微笑んだ。


「そうだと言ったら」


「斬る理由が増える」


 その瞬間、森が沈黙した。


 クラウディオは、静かに笑った。


 斬る理由。


 王へ向かって。


 吸血鬼王クラウディオへ向かって。


 灰銀は、そう言った。


 王城の者なら、言葉の途中で死んでいる。


 だが、この男は言い切った。


 恐れもなく。


 礼もなく。


 媚びもなく。


 クラウディオの血が、さらに熱を持つ。


「やってみろ」


 声は低い。


 血霧が渦を巻いた。


 月光が赤く濡れた。


 森全体が、王の血術で唸る。


「我に触れられるならな」


 灰銀は、刃を構えた。


 無駄のない動きだった。


 呼吸ひとつ乱れない。


 クラウディオは、心から愉しそうに目を細めた。


 血霧の森。


 月光。


 血の匂い。


 崩れ種の死骸。


 王の罠。


 そして、灰銀の刃。


 夜は、ようやく面白くなった。


 クラウディオは、右手を広げた。


 血霧が一斉に灰銀へ向かって流れ込む。


 灰銀の刃が、静かに動いた。


 次の瞬間、赤い霧と銀の光が、森の中心で衝突した。


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