第42話 灰銀が通ったあと
灰銀が通ったあとには、死体だけが残っていた。
悲鳴の余韻はない。
血に酔った気配もない。
戦闘の熱もない。
ただ、吸血鬼だったものが、吸血鬼ではなくなっている。
それだけだった。
外縁南西の廃村へ王城の者たちが入ったのは、夜明け前だった。
空はまだ暗く、東の端にだけ薄い灰色が滲んでいる。崩れた家々の屋根には夜露が降り、井戸の縁には黒い水滴がついていた。
廃村は静かだった。
前夜、崩れ種の呻き声が響いていたはずの井戸端にも、死者の声を真似る残響が漂っていたはずの礼拝堂にも、もう何もない。
声は消えていた。
赤い目もない。
ただ、黒石の地面と腐った木材の間に、吸血鬼の死体だけが残っている。
王城の外縁警備官は、廃村の入口で息を呑んだ。
死体の数は、想定より多かった。
クラウディオが餌場へ集めた崩れ種は五体。
だが、現場に残っていたのは七体だった。
崩れ種が五体。
野良吸血鬼が二体。
どちらも、夜の間に呼び寄せられたものだろう。
王の稀血の残り香に釣られたのか。
あるいは、崩れ種の騒ぎに寄ってきたのか。
理由はどうでもよかった。
七体すべてが、死んでいる。
そして、人間の死体はなかった。
それが、最初に異様だった。
廃村の中央には、昨夜迷い込んだ人間の男が落とした袋が残っていた。
乾いたパン。
小さな木彫りの人形。
割れた古い匙。
その周囲には足跡がある。
人間の足跡。
崩れ種の足跡。
そして、大きな男の足跡。
灰銀のハンターのものだろう。
人間の足跡は、村の外へ向かっていた。
途中で乱れ、転び、また立ち上がり、森とは反対側へ逃げている。
血の跡は少ない。
怪我はしたかもしれないが、死んではいない。
灰銀は、人間を逃がした。
そして、崩れ種と野良吸血鬼だけを殺した。
外縁警備官は喉を鳴らした。
「……本当に、吸血鬼だけを」
隣にいた血術局の男が、低く言う。
「余計なものに触れていない」
そう。
それが不気味だった。
戦闘があったはずなのに、廃村は壊れていない。
もともと壊れていた家は、そのまま。
井戸も崩れていない。
礼拝堂の壁も、余計に破られてはいない。
草木も必要以上に踏み荒らされていない。
ただ、吸血鬼だけが死んでいる。
まるで、この村から吸血鬼という要素だけを抜き取ったように。
崩れ種の一体は、井戸のそばに倒れていた。
首が落ちている。
だが、切断面は荒れていない。
銀の焼け跡が細く残り、血脈の暴走はそこで止められている。
通常、崩れ種を斬れば、血が狂い、周囲へ黒い飛沫を撒く。
だが、この死体にはそれが少ない。
刃が入った瞬間に、血の流れを断たれている。
ただ首を斬ったのではない。
どこを斬れば血が暴れないかを知っている。
別の崩れ種は、礼拝堂の階段に倒れていた。
胸を一突き。
心臓に近い血核を、銀で貫かれている。
傷は一つだけ。
防御の痕も、暴れた痕もほとんどない。
反応する前に終わっている。
野良吸血鬼の一体は、礼拝堂の奥に座るように崩れていた。
牙を剥いたまま、瞳は赤く濁っている。
喉元に細い傷。
それだけ。
だが、その傷から血脈が断たれ、身体は再生を失っていた。
もう一体は、屋根の梁から落ちたように地面へ伏している。
背中に銀刃の痕。
逃げようとしたところを、後ろから仕留められた。
ただし、追いかけ回した痕跡はない。
一歩で距離を詰めたのか。
投げたのか。
あるいは、相手が逃げる前からそこにいたのか。
分からない。
分からないことが、気味悪い。
血術局の男は、顔を強張らせながら呟いた。
「狩りではありません」
外縁警備官が振り返る。
「何だと」
「これは、狩りではない」
男は死体を見下ろしたまま言った。
「処理です」
その言葉は、廃村の冷たい空気によく似合った。
狩りなら、熱が残る。
追跡。
闘争。
獲物への執着。
殺した後の荒れ。
そういうものが現場に残る。
だが、灰銀が通った後には、それがなかった。
必要なものを見つけ、必要な順に殺し、必要以上に壊さず、次へ進んだ。
静かで、無駄がない。
感情が見えない。
それは、暴力というより作業に近かった。
ただし、その作業の対象は吸血鬼だった。
外縁警備官は、背筋に冷たいものを感じた。
王城の斥候が消えた理由が、少し分かった。
あの灰銀は、派手に強いのではない。
静かに強い。
気づいた時には、終わっている。
その時、廃村の空気が変わった。
外縁警備官も、血術局の男も、即座に膝をついた。
クラウディオ・ルジェリウスが来たのだ。
黒い外套。
白い肌。
夜より深い黒髪。
朝の気配が滲む外縁の廃村でさえ、彼が立つだけで王城の一部に変わる。
ヴェルナー卿が後ろに続いている。
クラウディオは廃村へ入ると、まず死体を見なかった。
地面を見た。
足跡。
血の方向。
崩れた草。
切断された血術の糸。
自分が張った罠の残骸。
それらを、一つずつ見る。
灰銀が崩れ種を殺したことは、すでに血術の反応で分かっていた。
だが、現場を見ると違う。
王の罠は、壊されていた。
ただ破壊されたのではない。
読まれて、切られていた。
クラウディオは、井戸の縁へ近づく。
そこには、彼が張った血糸の一部が残っていた。
赤黒い糸は、途中で断たれている。
断面は焼けていない。
銀で削られてもいない。
ただ、最も負荷の少ない箇所を選んで切られている。
血術を爆ぜさせず。
反動を王へ強く返さず。
しかし、観測だけを狂わせるように。
クラウディオの指先が、断たれた血糸へ触れる。
微かな振動が残っていた。
灰銀の刃の気配。
冷たい。
重い。
静か。
クラウディオの瞳が細くなる。
「……見えていたか」
低い声だった。
ヴェルナーが近づく。
「陛下」
「この糸を切った者は、罠を罠と理解している」
クラウディオは言った。
「崩れ種に気を取られながら、人間を逃がし、野良を処理し、その上で我の血術の核へ触れず、観測線だけを断った」
外縁警備官が息を呑む。
クラウディオは、礼拝堂の方へ歩く。
そこにも血術の痕がある。
聖印の上へ重ねた王血の残り香。
灰銀はそこを踏んでいない。
避けている。
だが、避けただけではない。
通る必要のない場所を通らず、通る必要のある場所だけを通っている。
人間を逃がす経路。
崩れ種を一体ずつ分断する経路。
野良を逃がさない角度。
王血の中心を避けながら、罠の周囲だけを削る動き。
クラウディオは、礼拝堂の壊れた祭壇の前で足を止めた。
祭壇の下に埋め込んだ血術核は、まだ残っている。
壊されていない。
それが最も不快だった。
灰銀は壊せなかったのではない。
壊さなかった。
壊せばクラウディオへ強く反応が返る。
王が現場へすぐ来るかもしれない。
あるいは、周囲の血術が暴走して人間へ害が出る。
その可能性を読んで、あえて残した。
クラウディオは祭壇を見下ろした。
「我を誘い返す気もなかったか」
自分が誘った。
灰銀を誘い込むために罠を張った。
だが、灰銀はその罠へ踏み込み、獲物だけを斬り、観測線を切り、血術核を残して去った。
挑発していない。
名乗ってもいない。
余計な印も残していない。
ただ、必要なことをして去った。
それが、不愉快だった。
クラウディオの罠を、相手にしていないようで。
王の誘いを、狩場の邪魔な枝のように扱ったようで。
ヴェルナーが死体を確認しながら言った。
「灰銀は、陛下の血に釣られて来たわけではないようです」
クラウディオは振り返らない。
「続けろ」
「崩れ種と人間の悲鳴に反応した可能性が高い。王血は認識していたでしょうが、中心には触れていません」
「我の血を無視したと?」
「無視ではなく、優先順位を下げたのかと」
クラウディオの指がわずかに動いた。
外縁警備官が緊張する。
ヴェルナーは続けた。
「灰銀は、まず人間を逃がした。次に崩れ種を処理し、野良を逃がさず殺した。その後、罠の観測線だけを切った。陛下の血術核には触れていない」
「つまり」
クラウディオの声は低い。
「灰銀にとって、我は後回しか」
誰も答えなかった。
答えなくても、現場が答えていた。
灰銀は、王を最初に見なかった。
王の稀血へ飛びつかなかった。
王の罠を破って挑発しなかった。
人間を逃がし、崩れ種を殺し、野良を処理し、罠の目だけを潰して去った。
その順序が、灰銀の本性を示している。
クラウディオは、前に自分で言った。
狩る者の本性は、獲物ではなく、残したものに出る。
灰銀が残したもの。
人間の足跡。
壊されなかった血術核。
必要以上に荒らされなかった廃村。
吸血鬼の死体だけ。
それが答えだった。
クラウディオは、崩れ種の死体の前へ立った。
首を落とされた死体。
赤い目はもう光を失っている。
その死に、苦しみの余白は少なかった。
崩れ種ですら、無駄に苦しませていない。
殺すべきものを、殺すべき速さで殺している。
クラウディオは、初めて灰銀の戦い方を見た。
美しくはない。
派手でもない。
王城の血術のような優雅さもない。
だが、無駄がない。
それが何より厄介だった。
血に酔わない。
勝利に酔わない。
敵の悲鳴を愉しまない。
王の罠にも熱くならない。
淡々と、吸血鬼だけを取り除く。
クラウディオの胸の奥で、冷たいものが動いた。
不快。
愉悦。
そして、わずかな警戒。
それは初めての感覚だった。
クラウディオは灰銀を、狩人風情と呼んだ。
王に触れられるはずがないと断じた。
だが、この現場は違うことを告げている。
灰銀は、まだ王に触れていない。
だが、王の血術を読んだ。
王の罠の目を切った。
王の稀血を優先順位の外へ置いた。
それは、ただの狩人風情にはできない。
クラウディオは、ゆっくり息を吐いた。
「これは、狩りではない」
先ほど血術局の男が言ったのと同じ言葉。
だが、王の声で言われると重さが違った。
ヴェルナーが答える。
「処理です」
「そうだ」
クラウディオは言った。
「灰銀は、吸血鬼を獲物として見ていない」
沈黙。
「障害として見ている」
その言葉に、外縁警備官の顔が青ざめた。
獲物なら、まだ分かる。
狩人と吸血鬼。
狩る者と狩られる者。
そこには執着がある。
憎しみがある。
快楽がある。
血の匂いがある。
だが、障害。
邪魔なもの。
取り除くもの。
そう見られているなら、吸血鬼の誇りも恐怖も意味を失う。
灰銀は、吸血鬼を憎んでいるのかもしれない。
しかし、その戦い方には憎しみが滲んでいない。
そこが恐ろしい。
クラウディオは、壊れた祭壇へ視線を戻した。
「ヴェルナー」
「はい」
「灰銀を、狩人風情と呼ぶのはやめる」
ヴェルナーがわずかに顔を上げた。
外縁警備官も、血術局の者も息を呑む。
クラウディオが認めた。
初めて。
完全にではない。
だが、ただの狩人ではないと認めた。
クラウディオは続ける。
「まだ王に触れられるとは思わぬ」
その声は冷たい。
「だが、王の罠を読める」
彼の瞳の奥に、赤が薄く沈む。
「警戒する」
その一言で、廃村の空気が変わった。
王が警戒する。
それは、王城の者にとって重大な意味を持つ。
クラウディオは多くを軽んじる。
人間も。
外縁も。
野良吸血鬼も。
崩れ種も。
古参血族の訴えも。
命乞いも。
悲鳴も。
だが、一度警戒したものは、決して見落とさない。
灰銀は、その位置へ入った。
廃村の外れで、朝の気配が少しずつ濃くなる。
吸血鬼にとって不快な時間が近づいている。
それでもクラウディオは、すぐには戻らなかった。
彼は灰銀の足跡を見ていた。
大きな足跡。
迷いがない。
逃がした人間の足跡の横を、一定の距離で追っている。
守ったのか。
監視したのか。
確認したのか。
分からない。
だが、そこにも無駄はなかった。
クラウディオは、膝を折らずに身を屈め、地面へ指先を近づけた。
触れない。
足跡の形だけを見る。
重心。
歩幅。
止まった位置。
振り返った方向。
そのすべてを読む。
王が、狩人の跡を読む。
その光景に、周囲の吸血鬼たちは息を殺した。
やがてクラウディオは立ち上がった。
「次は、逃げ道をなくす」
ヴェルナーが言う。
「灰銀のですか」
「違う」
クラウディオは、灰銀の足跡から視線を離さない。
「選択肢だ」
灰銀は選ぶ。
人間を逃がす。
崩れ種を処理する。
野良を殺す。
王血を後回しにする。
ならば、次は選択肢を削る。
何を選んでも、王へ近づくように。
何を残しても、王へ答えが返るように。
罠はまだ終わっていない。
むしろ、ここからだ。
クラウディオは、初めて警戒した。
そして警戒したことで、興味はさらに深くなった。
不快。
愉悦。
警戒。
その三つが、血の底で混ざり合う。
クラウディオは低く呟いた。
「灰銀」
その声は、前よりもわずかに重かった。
「そなたは、思ったより静かだな」
静かな者ほど、近づいた時に音がしない。
それを、クラウディオは知っている。
自分もそうだったからだ。
王座を奪うまで、彼は何度も笑わず、怒鳴らず、ただ記録し、罠を張り、奪ってきた。
灰銀の現場には、どこか同じ冷たさがある。
方向は違う。
目的も違う。
だが、無駄のなさが似ている。
それが、さらに不愉快だった。
廃村を離れる前、クラウディオは血術核へ手を伸ばした。
壊されずに残された核。
灰銀が触れなかったもの。
それを自らの手で回収する。
血術核はまだ脈打っていた。
しかし、観測線は断たれている。
罠としては半分死んでいる。
クラウディオは、それを握り潰した。
赤黒い光が指の間で消える。
「不完全だ」
低い声。
誰も返事をしない。
罠が不完全だった。
灰銀を捕らえられなかった。
観測線を切られた。
それを許す気はなかった。
自分の作った罠であっても、不完全なら壊す。
クラウディオは外套を翻した。
「戻る」
「仰せのままに」
吸血鬼たちは一斉に頭を下げる。
廃村には、灰銀が通ったあとの死体だけが残った。
崩れ種。
野良吸血鬼。
吸血鬼だったもの。
人間の死体はない。
余計な破壊もない。
ただ、王の罠を読んだ静かな刃の痕跡だけがある。
クラウディオは、もう灰銀をただの狩人風情とは呼ばない。
呼ばないことにした。
その代わり、記録する。
警戒対象として。
そして、いずれ王の前へ引きずり出す相手として。
外縁の空は、夜明けに近づいていた。
吸血鬼王は、その薄い灰色の光を嫌うように目を細める。
けれど、唇にはかすかな笑みがあった。
不愉快で。
面白く。
そして、初めて少し危険な相手を見つけた王の笑みだった。




