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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第41話 崩れ種の餌場


 外縁には、地図から消えかけた村がいくつもある。


 名だけが残っている村。


 井戸だけが残っている村。


 教会の鐘楼だけが折れたまま残っている村。


 家の形はあるのに、戸口に人の足音が戻らない村。


 王城の帳簿では、それらは「放棄集落」と記される。


 人間たちの言葉では、廃村。


 吸血鬼たちにとっては、使い道のある空白。


 クラウディオ・ルジェリウスにとって、その夜の廃村は罠だった。


 外縁南西、オルディ村からさらに北へ外れた場所に、名を失った小さな村があった。


 かつては人間が暮らしていた。


 畑があり、井戸があり、小さな礼拝堂があり、家畜小屋があり、子どもが走る道があった。


 今はない。


 畑は黒い草に覆われ、井戸には蓋が落ち、礼拝堂の聖印は割れ、家畜小屋には骨だけが残っている。


 家々の戸は半分開いたまま、内側から破られたように歪んでいた。


 誰かが逃げようとした跡。


 誰かが入ろうとした跡。


 どちらもある。


 夜になると、その村では声がした。


 生きている者の声ではない。


 死者の声でもない。


 声を真似るものの声だった。


 「開けて」


 「寒い」


 「お母さん」


 「返事して」


 そんな言葉が、井戸の底から、家の奥から、礼拝堂の割れた扉の向こうから、何度も聞こえる。


 人間がいれば、耐えられなかっただろう。


 けれど今、その村に人間はいない。


 いるのは、崩れ種だった。


 吸血鬼化に失敗し、理性も人格も失い、飢えだけを残したもの。


 かつては人間だったのか。


 吸血鬼に噛まれ、失敗したものか。


 血術の実験に巻き込まれたものか。


 誰にも分からない。


 分かったところで、王城は気にしない。


 崩れ種は崩れ種。


 常に禍々しい赤い目をし、戻る自我を持たず、夜の中で喉を鳴らしながら血を求める災害。


 その廃村には、崩れ種が五体いた。


 多い。


 普通なら、外縁警備がすぐに処分すべき数だった。


 だが今夜、処分はされない。


 むしろ、生かされていた。


 餌として。


 クラウディオは、廃村を見下ろせる丘の上に立っていた。


 黒い外套が夜風に揺れる。


 王冠はない。


 だが、その立ち姿だけで周囲の吸血鬼たちは膝を折りたくなる。


 白い肌。


 黒い髪。


 深い琥珀の瞳。


 瞳の奥には、赤が沈んでいる。


 暴走ではない。


 飢餓でもない。


 理性を持ったまま、夜を罠へ変える王の赤だった。


 ヴェルナー卿が少し後ろに立っていた。


 血術局の者が二人、さらに外縁警備官が一人。


 皆、声を潜めている。


 崩れ種に気づかれるからではない。


 王の思考を邪魔しないためだ。


 クラウディオは廃村を見た。


 崩れ種の一体が、井戸のそばを這っている。


 背骨が曲がり、腕が妙に長く、指先が土を掻いていた。


 赤い目は常に開きっぱなしで、瞬きすらしない。


 もう一体は、礼拝堂の屋根に張りついている。


 首が逆さまに垂れ、口から黒い涎が糸を引いていた。


 残りは家の中にいる。


 窓の隙間から、赤い目だけが見える。


 クラウディオは、静かに言った。


「よく集まった」


 外縁警備官が答える。


「陛下の血術核に反応して寄っております。王血稀血の残り香を、餌と誤認しているものと思われます」


「誤認ではない」


 クラウディオは言った。


「餌だ」


 警備官の顔が強張る。


「失礼いたしました」


「崩れ種に餌の意味は分からぬ。だが、寄る。喉を鳴らし、赤い目を開き、血を求めて這う」


 クラウディオは、わずかに目を細めた。


「灰銀が本当に吸血鬼だけを狩るなら、この餌場を見逃さない」


 ヴェルナーが低く言った。


「崩れ種を五体も集めれば、外縁の人間にも危険が及びます」


「この村に人間はいない」


「近隣にはいます」


「なら、戸を閉じていればいい」


 冷たい返答。


 ヴェルナーは表情を変えない。


「閉じた戸を、崩れ種は叩きます」


「叩かせろ」


 クラウディオは即答した。


「悲鳴が上がれば、灰銀は来る」


 外縁警備官の喉が鳴った。


 人間の悲鳴を、灰銀への呼び鈴として使う。


 前夜の廃修道院と同じだった。


 いや、もっと悪い。


 今回は崩れ種そのものを餌場へ集めている。


 人間を守るためではない。


 崩れ種を処分するためでもない。


 灰銀のハンター、ルスト・ヴァルレインを誘い込むため。


 クラウディオはまだ、その名を知らない。


 彼にとっては、灰銀。


 狩人風情。


 王の夜を荒らす刃。


 だが、物語の夜はすでにその男の名を知っている。


 ルスト。


 灰銀のハンター。


 最古の王の影を持つ男。


 クラウディオは、それを知らないまま、罠を張る。


 よくあることだ。


 傲慢な王は、自分が作った罠の形だけを見て、踏み込んでくる相手の重さを知らない。人類も吸血鬼も学習しない。慢心の量産工場でもあるのか。


 クラウディオは手袋を外した。


 白い指先が、夜気に晒される。


 血術局の者たちが一斉に目を伏せる。


 王の稀血は、見ただけで血を揺らす。


 特に今夜は、崩れ種の餌場に置くための血だ。


 余分に香る。


 クラウディオは爪で指先を裂いた。


 一滴。


 赤い血が浮かぶ。


 その瞬間、廃村の崩れ種たちが一斉に顔を上げた。


 赤い目が、丘の上へ向く。


 声がした。


 人間の声ではない。


 獣の呻きでもない。


 喉の奥で血を探す、濁った音。


「ぁ……」


「ぐ、ぅ……」


「ち、血……」


 崩れ種の一体が、人間の言葉の残骸のようなものを漏らした。


 言葉ではない。


 記憶の破片だ。


 それでも、血を求める音だけは分かる。


 クラウディオは、指先の血を夜へ落とした。


 血は地面に落ちる前に、細い糸になった。


 赤黒い糸。


 それは丘の草を這い、廃村へ伸び、井戸と礼拝堂と家々の間へ絡んでいく。


 崩れ種の足元を撫でる。


 彼らの赤い目がさらに濁る。


 飢えが強まる。


 理性などない。


 だから、抵抗もない。


 餌場は完成していく。


 クラウディオは、静かに命じた。


「集まれ」


 血術の声は、崩れ種の血へ沈む。


 彼らは従うのではない。


 誘われる。


 餌へ。


 飢えへ。


 クラウディオの血の残り香へ。


 五体の崩れ種が、廃村の中央に集まり始めた。


 井戸の周り。


 割れた石畳。


 かつて村人たちが水を汲み、話し、子どもを叱り、夕暮れの支度をしていた場所。


 そこが今、崩れ種の餌場になる。


 王はそれを見ていた。


 何の感慨もない。


 人間が暮らしていた場所が穢されることへの哀れみなど、欠片もない。


 むしろ、使いやすいと思っている。


 廃村は、人間の気配の残骸を持つ。


 崩れ種は、それに寄る。


 灰銀は、崩れ種を狩る。


 ならば、ここは罠になる。


 それだけだ。


 ヴェルナーが言った。


「灰銀が来なかった場合は」


「崩れ種を処分する」


「いつ」


「飽きたら」


 外縁警備官の顔が引き攣る。


 ヴェルナーは黙った。


 クラウディオは、廃村の中央へ視線を向けたまま続ける。


「灰銀は来る」


「なぜそう思われます」


「選ぶ男だからだ」


 クラウディオの声に、奇妙な確信があった。


「人間は襲わず、吸血鬼だけを狩る。ならば、選ぶ理由がある。理由を持つ者は、罠だと知っても無視できぬものがある」


 ヴェルナーは、わずかに目を細めた。


「陛下にも、無視できぬものが」


 クラウディオの視線が、彼へ向いた。


 冷たい。


 しかし怒りではない。


「言葉を選べ」


「申し訳ございません」


 返答は即座だった。


 クラウディオはそれ以上罰しなかった。


 今は、灰銀の罠の方が面白い。


 ヴェルナーの首など、いつでも落とせる。


 クラウディオは廃村へ手を伸ばした。


 血の糸が、さらに深く張られる。


 崩れ種たちの周囲に、見えない円ができる。


 灰銀が踏み込めば、王へ届く。


 彼の刃が崩れ種を斬れば、その振動が血術を通って戻る。


 彼が人間を助けに動けば、その経路も分かる。


 彼が罠を避けるなら、その避け方が分かる。


 逃げ場は用意してある。


 王の罠は、閉じ込めるだけではない。


 逃げ道もまた、観察のための線になる。


 クラウディオは、そう設計した。


 崩れ種の一体が、井戸の縁へ爪を立てた。


 音がした。


 がり。


 がり。


 がり。


 その音に、廃村の家の中から別の声が重なる。


「開けて」


 死んだ村人の声か。


 崩れ種が拾った記憶か。


 血術に引かれて浮いた残響か。


 分からない。


 だが、罠には向いていた。


 人間が聞けば、戸を開けたくなる。


 灰銀が聞けば、近づくかもしれない。


 クラウディオは、微笑んだ。


「良い声だ」


 外縁警備官がぞっとした顔をした。


 クラウディオは気にしない。


 「灰銀は、人間の声に反応するか」


 誰にも答えられない問いだった。


「あるいは、崩れ種の赤にだけ反応するか」


 彼は廃村を見下ろした。


「それとも、我の血へ来るか」


 その最後の言葉に、わずかな期待があった。


 灰銀が人間のために来るのか。


 崩れ種を狩るために来るのか。


 王の血を辿って来るのか。


 それが知りたい。


 クラウディオは、己の稀血が他者を引き寄せることを知っている。


 吸血鬼たちは欲しがる。


 王城の者たちは膝を乱す。


 女も男も、王の血と美貌に惑う。


 だが、灰銀はどうか。


 吸血鬼だけを狩る男が、王の血をどう読むのか。


 その答えだけが、今夜の罠の中心だった。


 廃村の外れで、物音がした。


 血術局の者が身構える。


 だが出てきたのは、痩せた人間の男だった。


 外縁の生き残りだろう。


 古い外套を着て、手に小さな袋を持っている。


 廃村に残した何かを取りに来たのか。


 馬鹿な人間だ。


 夜に、廃村へ、ひとりで。


 生きる努力と死にに行く行動が同居している。人間、本当に不思議な仕様だ。


 男は井戸の方へ近づきかけ、崩れ種の赤い目に気づいた。


 足が止まる。


 顔が恐怖で歪む。


 逃げようとした。


 その時、礼拝堂の屋根にいた崩れ種が飛び降りた。


 男が悲鳴を上げる。


「うわああああッ!!」


 その声は、廃村の夜を裂いた。


 崩れ種が地面へ落ち、四肢を歪めたまま男へ向かう。


 クラウディオは動かなかった。


 ヴェルナーが一歩出かける。


 王の声が止めた。


「動くな」


 ヴェルナーは止まった。


 男は必死に走る。


 崩れ種が追う。


 赤い目。


 長い指。


 黒い涎。


 男は転んだ。


 袋の中身が散らばる。


 乾いたパン。


 小さな木彫りの人形。


 子どものものだろう。


 男はそれを拾おうとして、崩れ種に追いつかれた。


 悲鳴。


「やめろ、やめてくれええッ!!」


 クラウディオは、ただ見ていた。


 崩れ種の牙が男の肩へ近づく。


 その瞬間。


 森の奥で、何かが動いた。


 音はほとんどない。


 しかし、クラウディオの血術の糸が震えた。


 鋭く。


 強く。


 一瞬で。


 廃村の空気が裂けた。


 礼拝堂の屋根から飛び降りた崩れ種の首が、男へ届く前に弾けるように横へ飛んだ。


 黒い血が石畳へ散る。


 男は何が起きたか分からず、地面に倒れたまま震えている。


 クラウディオの瞳が、細くなった。


 血術の糸が、さらに震える。


 廃村の入口に、影が立っていた。


 大きい。


 人間としては異様に。


 灰銀の髪が、夜の中で淡く光る。


 鋼色の瞳。


 巨大な刃。


 王城の報告書にあった姿。


 灰銀のハンター。


 ルスト・ヴァルレイン。


 クラウディオは、まだその名を知らない。


 だが、血が理解した。


 来た。


 灰銀は、崩れ種の死骸を一瞥した。


 次に、倒れた男を見た。


 最後に、ゆっくりと廃村全体を見回した。


 罠を見ている。


 人間ではあり得ないほど正確に。


 崩れ種の配置。


 血術核。


 井戸の血糸。


 礼拝堂の聖印に重ねられた王血。


 すべてを読むように。


 そして、灰銀の視線が丘の上へ向いた。


 遠い距離。


 暗い夜。


 普通なら見えない。


 だが、その鋼色の目は、迷わずクラウディオを捉えた。


 王と狩人の視線が、初めて交わった。


 クラウディオの血が、熱を持つ。


 不快。


 愉悦。


 期待。


 そのすべてが、一瞬で濃くなる。


 灰銀は、すぐには動かなかった。


 逃げる人間を背に庇うでもなく、クラウディオへ突っ込んでくるでもなく、崩れ種へ向き直る。


 まず、餌場を潰す。


 そういう選択だった。


 クラウディオは笑った。


 声に出さず。


 美しく、危険に。


「そう来るか」


 灰銀の刃が動いた。


 崩れ種の一体が絶叫する。


 濁った、壊れた声。


 廃村の血術罠が激しく震える。


 クラウディオの指先に、その振動が届く。


 重い。


 速い。


 正確。


 報告書より、ずっといい。


 クラウディオは、丘の上で低く呟いた。


「灰銀」


 その声は夜に沈む。


「ようやく、見つけた」


 崩れ種の餌場は、王の思惑通り灰銀を呼んだ。


 だが、同時にクラウディオはまだ知らない。


 餌場へ来たのは、獲物ではない。


 罠を踏み抜き、罠を作った王の喉元へいずれ届く刃だということを。


 廃村の夜で、灰銀のハンターは崩れ種を斬り始めた。


 そして丘の上では、吸血鬼王が初めて、心から愉しそうに目を細めていた。


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