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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第40話 罠の王


 王は、待つものではない。


 そう、クラウディオは知っている。


 王座は待っていて与えられるものではなかった。


 血杯も、夜も、王冠も、すべて奪ってきた。


 ならば獲物も同じだ。


 灰銀のハンター。


 外縁で吸血鬼だけを狩る男。


 人間に祈られ、教会区に期待され、王城の斥候を消し、野良も崩れ種も獣化種も、夜から削り取っていく狩人。


 クラウディオは、その男をまだ見ていない。


 ただ報告書で知っているだけだ。


 灰銀の髪。


 鋼色の瞳。


 巨躯。


 銀刃。


 血脈を読む追跡。


 吸血鬼への殺傷精度、極めて高。


 そして、人間を襲わない。


 その最後の一点が、何よりも不快だった。


 吸血鬼だけを狩る。


 まるで吸血鬼こそが、夜から取り除くべき穢れだと言わんばかりに。


 しかも、その刃が王城の許可なく動いている。


 王の夜を、勝手に裁いている。


 不愉快だった。


 腹立たしいほどに。


 そして、その不愉快さが、退屈な王の血をわずかに温める。


 実に面倒な感情だった。人間なら恋とか呼びそうだが、吸血鬼王なので罠と呼ぶ。情緒の墓場である。


 黒議の間では、外縁地図が広げられていた。


 黒い羊皮紙の上に、赤い印がいくつも打たれている。


 野良吸血鬼の消失地点。


 崩れ種の処分跡。


 獣化種の死骸が見つかった場所。


 灰銀らしき影の目撃地点。


 教会区の鐘が強化された地点。


 外縁の人間が避難し始めた村。


 そのすべてを、クラウディオは見下ろしていた。


 ヴェルナー卿が隣に立つ。


 メルキオル卿は杖に手を重ね、少し離れた場所から地図を眺めている。


 オルディア・ネシュは血の痕跡記録を確認していた。


 外縁警備官は顔色を悪くしながら、王の言葉を待っている。


 クラウディオは、地図の上で指を滑らせた。


 白い指先が、赤い印を一つずつなぞる。


「灰銀は、野良を追う」


 低い声だった。


「崩れ種を見逃さない。獣化種も放置しない。だが、人間は襲わない」


 誰も口を挟まない。


「ならば、餌は吸血鬼だ」


 黒議の間の空気が沈んだ。


 ヴェルナーが目を細める。


「囮を出すおつもりですか」


「囮ではない」


 クラウディオは言った。


「罠だ」


 その差を、誰も聞き返さなかった。


 聞き返すほど愚かではない。


 囮は、相手を呼び寄せるために置かれるもの。


 罠は、相手を捕らえるために作られるもの。


 クラウディオは、灰銀を呼ぶだけでは満足しない。


 測りたいのだ。


 どこまで来るか。


 何に反応するか。


 何を選び、何を捨てるか。


 何を救い、何を斬るか。


 そして、どの瞬間に王へ牙を向けるか。


 メルキオルが静かに言った。


「どの血を使われますかな」


 クラウディオは彼を見た。


「分かって聞いているのか」


「年寄りの確認です」


「なら、老いても耳は使えるらしい」


 メルキオルは低く笑った。


 クラウディオは地図の外縁南西を指す。


「ここだ」


 オルディアが顔を上げる。


「オルディ村の北、廃修道院跡ですか」


「教会区の古い封印が残っている。人間は近づかない。野良は隠れやすい。崩れ種も引き寄せられる。灰銀が外縁を歩くなら、見落とさない」


「血術を置くには、教会の残滓が邪魔になります」


「だからいい」


 クラウディオの唇がわずかに動いた。


「銀と祈りの残り香の中で、我の血術がどれほど見えるか。灰銀が吸血鬼だけを狩るなら、その違和を拾うだろう」


 オルディアは息を呑んだ。


「陛下の血を使われるおつもりで」


「一滴でいい」


 黒議の間に、沈黙が落ちた。


 一滴。


 クラウディオの稀血。


 王血稀血。


 ロイヤルレア。


 その一滴は、並の吸血鬼にとって毒にも蜜にもなる。


 野良吸血鬼を狂わせることもできる。


 崩れ種を寄せることもできる。


 血術の核として置けば、夜そのものへ香りを沈めることもできる。


 そして、灰銀のハンターが本当に血脈を読む者なら。


 その一滴を、見逃さない。


 ヴェルナーが低く言った。


「危険です」


「聞き飽きた」


「陛下の血を外縁に置けば、灰銀だけでなく、野良も離反種も寄ります」


「寄らせろ」


「外縁の人間にも被害が出ます」


「すでに出ている」


 冷たい返答だった。


 ヴェルナーの顔がわずかに強張る。


 クラウディオは続ける。


「人間の村を守るための罠ではない。灰銀を引き出すための罠だ」


「それを教会区が知れば」


「知る頃には終わっている」


 簡潔だった。


 救いようがないほどに。


 外縁の人間がどうなるか。


 教会区がどう思うか。


 灰銀が人間を守ろうとするか。


 それらすべてを、クラウディオは計算に入れている。


 入れた上で、切り捨てている。


 王が狩る時、人間は盤面の石になる。


 人道とかいう便利な布は、この王城ではとっくに雑巾になっている。悲しいですね。誰も洗濯しないのでなおさら。


 クラウディオは、外縁警備官へ命じた。


「廃修道院跡へ、野良の痕跡を作れ」


 警備官は即座に頭を下げる。


「はい、陛下」


「実際の野良も使え。王城の管理外にいるものを三体。生かして誘導しろ」


 警備官の喉が動く。


「生かして、でございますか」


「殺せば匂いが死ぬ」


「仰せのままに」


「崩れ種を一体、近隣へ流せ。ただし罠の中心へ入れるな。灰銀が先にそちらへ反応するかを見る」


 ヴェルナーの眉が動いた。


「崩れ種を流すのは危険です」


「だから見る価値がある」


 クラウディオは、地図の上へ白い指を置いた。


「灰銀が崩れ種を優先するか、野良を追うか、我の血を探すか。人間の悲鳴へ向かうか。全部、見る」


 オルディアが小さく息を吸った。


「人間の悲鳴も、罠に使われるのですか」


 言ってから、彼女は自分の発言に気づいたように顔を伏せた。


 一拍の遅れはない。


 だが、踏み込みすぎた。


 クラウディオは彼女を見た。


「何か問題があるか」


 オルディアは、唇を引き結んだ。


 答えなければならない。


 遅れてはならない。


「いいえ、陛下」


「なら、血術核の調整を」


「仰せのままに」


 クラウディオは、そこで初めて笑った。


 小さく。


 美しく。


 冷たく。


「灰銀が人間を助けるなら、人間の悲鳴は道標になる」


 黒議の間にいる者たちは、全員その言葉を聞いた。


 誰も反論しない。


 人間の悲鳴を道標にする。


 王はそう言った。


 外縁の村がいくつ怯えようと、クラウディオにとっては灰銀の動きを測るための鐘でしかない。


 ヴェルナーだけが、低く言った。


「陛下」


「まだ言うか」


「灰銀が、その罠を罠と見抜いた場合は」


 クラウディオの瞳が、わずかに光った。


「その時は、その時だ」


「それでは答えになりません」


「答えだ」


 クラウディオは地図から手を離した。


「罠を見抜けないなら、灰銀はその程度。罠を見抜いた上で踏み込むなら、少しは面白い。罠を壊すなら、なおいい」


 声に、愉悦が混じる。


「我の前へ来る理由が増える」


 ヴェルナーは沈黙した。


 それ以上言っても、止まらないと分かっている。


 クラウディオはもう、灰銀を待つだけではいられない。


 王が狩る側として動き出した。


 黒議の間で決まった命令は、すぐに外縁へ流された。


 王城の斥候が動く。


 血術局の小隊が動く。


 血糧庫の裏経路が開かれる。


 外縁南西の廃修道院跡へ、王の血術罠が組まれていく。


 かつて教会が祈りを刻んだ石壁に、吸血鬼王の血紋が薄く重ねられる。


 銀釘の残る扉に、赤黒い糸が通される。


 崩れた祭壇の下へ、血術核が埋め込まれる。


 鐘楼の割れた鐘には、聞こえない血の響きが仕込まれる。


 人間には見えない。


 吸血鬼なら、近づけば違和感を覚える。


 野良なら、甘い血の匂いに引き寄せられる。


 崩れ種なら、赤い目をさらに濁らせる。


 そして灰銀なら。


 どうするか。


 それを見るための罠だった。


 クラウディオは、その夜、自ら外縁へ出た。


 供は少ない。


 ヴェルナー。


 血術局の者が二名。


 外縁警備官が一名。


 それだけだった。


 馬車は使わない。


 王は黒い外套をまとい、夜の道を歩いた。


 外縁の空気は、王城より湿っていた。


 土の匂い。


 腐葉土。


 獣の毛。


 遠い血。


 人間の生活臭。


 煙。


 恐怖。


 王都の黒石とは違う夜。


 クラウディオは、それを不快だと思った。


 だが、その不快さも今夜は悪くない。


 この夜に灰銀がいるかもしれない。


 そう思うだけで、退屈が薄れる。


 廃修道院は、森の奥にあった。


 尖塔は折れ、壁は蔦に覆われ、入口の扉は半分腐っている。


 古い聖印が石壁に刻まれているが、ほとんど風化していた。


 それでも、わずかに銀と祈りの残り香がある。


 吸血鬼にとっては不快な場所だ。


 だからこそ、罠に向いている。


 クラウディオは祭壇の前に立った。


 かつて人間が祈った場所。


 今は王の罠になる。


 皮肉だった。


 祈りの場所を餌場に変えるあたり、王城のセンスは最悪である。まあ、王本人が最悪なので統一感はある。


 クラウディオは黒い手袋を外した。


 白い指が夜気に晒される。


 ヴェルナーがわずかに眉を動かした。


「陛下」


「黙っていろ」


 クラウディオは、自分の指先へ爪を立てた。


 皮膚が裂ける。


 一滴、血が滲む。


 その瞬間、周囲の空気が変わった。


 血術局の者が息を呑む。


 外縁警備官の瞳に赤が滲みかけ、慌てて目を伏せる。


 ヴェルナーだけが動かない。


 クラウディオの稀血は、夜の中で甘く香った。


 濃すぎない。


 だが、抗いがたい。


 廃修道院の古い石が、その一滴に反応する。


 銀の残り香が嫌悪するように軋み、教会の古い聖印が一瞬だけ白く光る。


 クラウディオは、その上へ血を落とした。


 祭壇の割れ目に、一滴。


 赤が石へ染み込む。


 すぐには消えない。


 血は、石の中で脈打ち始めた。


 クラウディオは低く呟く。


「来い」


 血が線になる。


 祭壇から床へ。


 床から壁へ。


 壁から鐘楼へ。


 鐘楼から森へ。


 見えない赤い糸が、廃修道院跡全体へ張り巡らされていく。


 血術の罠。


 近づく吸血鬼の血脈を撫で、灰銀の刃に触れれば震え、王へ知らせる。


 ただ閉じ込める罠ではない。


 誘い、測り、選ばせる罠。


 人間の悲鳴。


 野良の飢え。


 崩れ種の赤。


 王の稀血。


 そのすべてを重ねた、悪意ある舞台。


 クラウディオは、祭壇の前で微笑んだ。


「狩人風情」


 声は低い。


「吸血鬼だけを狩ると言うなら、選んでみせろ」


 森の奥で、何かが鳴いた。


 獣か。


 崩れ種か。


 あるいは、夜そのものか。


 クラウディオは指先の血を舐めなかった。


 そのまま、白い布で拭った。


 自分の血を味わう趣味はない。


 味わうのは、灰銀の反応でいい。


 ヴェルナーが言った。


「罠を張った以上、灰銀だけが来るとは限りません」


「知っている」


「外縁の被害は増えます」


「それも知っている」


「なら」


「ヴェルナー」


 クラウディオは振り返った。


 赤くはない瞳。


 琥珀色のまま、冷たい。


「我は灰銀を狩る」


 それが答えだった。


 外縁の被害。


 人間の恐怖。


 教会区の鐘。


 野良吸血鬼。


 崩れ種。


 すべて、二の次だ。


 今、王の興味は灰銀に向いている。


 王が狩る側として動き出した以上、盤面の石は踏まれる。


 それが人間であれ、吸血鬼であれ。


 ヴェルナーは深く頭を下げた。


「仰せのままに」


 クラウディオは廃修道院の奥へ視線を向けた。


 古い祭壇の下で、血術核が脈打っている。


 外から見れば、ただの廃墟だ。


 人間が迷い込めば、声に惑う。


 野良吸血鬼が来れば、稀血の匂いに引かれる。


 崩れ種が来れば、血に狂う。


 そして灰銀が来れば。


 何を見るのか。


 何を斬るのか。


 何を残すのか。


 クラウディオは、それを知りたかった。


 狩るために。


 測るために。


 あるいは、自分の飢えを満たす何かを見つけるために。


 彼は最後に、祭壇へ向けて命じた。


「鳴れ」


 割れた鐘が、音のない鐘声を放った。


 人間の耳には届かない。


 だが、吸血鬼の血には届く。


 遠くの森で、赤い目が動き出す。


 外縁のどこかで、野良が顔を上げる。


 崩れ種が涎を垂らし、夜の中で呻く。


 そして、どこかにいる灰銀のハンターが、もし本当に血脈を読む者なら。


 この鐘を聞く。


 クラウディオは外套を翻し、廃修道院を出た。


 罠は張った。


 王は待つ。


 ただし、玉座でではない。


 狩場を作った王として。


 夜の中へ、獲物を誘い込む者として。


 森の向こうで、教会区の鐘が微かに鳴った気がした。


 人間のための鐘。


 それとは別に、廃修道院の割れた鐘は血だけに響く。


 灰銀へ届くかどうか。


 クラウディオは、静かに笑った。


「来い、灰銀」


 声は夜に溶けた。


「王を狩るつもりなら、まず王の罠を越えてみせろ」


 外縁の夜は、静かに罠の形を取った。


 そしてその中心には、吸血鬼王の一滴が甘く脈打っていた。


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