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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第39話 稀血の夜



 クラウディオ・ルジェリウスの血は、甘い。


 その噂は、今では王城だけでなく、ルグランディア中に広がっていた。


 王血であり、稀血であり、王座を奪った血。


 同族の血術を噛み砕き、父王から王権を奪い、血杯を落とした者を許さず、返答が一拍遅れた者を消し、外縁の人間がいくら喰われても夜の当然と切り捨てる王。


 その王の血は、甘い。


 吸血鬼にとって、その言葉は香水より危険だった。


 甘い血。


 飲みたい。


 嗅ぎたい。


 触れたい。


 噛みたい。


 屈服させたい。


 跪きたい。


 跪かせたい。


 王の喉に牙を立てたい。


 王の美しい顔を苦痛に歪めたい。


 冷たい声が崩れ、絶叫へ変わる瞬間を聞きたい。


 あるいは、あの唇から甘い声が漏れるところを聞きたい。


 その欲は、男女を問わなかった。


 古参吸血鬼も、若い眷属も、女吸血鬼も、男吸血鬼も、王城に仕える者も、王へ忠誠を誓う者も、王を恐れる者も、心の奥では一度は考える。


 あの王が崩れる姿は、どれほど美しいのだろう、と。


 もちろん、それを口に出す者はいない。


 口に出せば死ぬ。


 目に出しても、死ぬかもしれない。


 それでも、欲望は血の奥で滲む。


 吸血鬼は血に嘘をつけない。


 だから、クラウディオはすべて分かっていた。


 王城の夜会は、黒薔薇の間で開かれていた。


 外縁の荒れも、教会区の鐘も、灰銀の噂も、王城の中心にいる者たちにとっては遠い。


 少なくとも、今夜は遠いものとして扱われている。


 黒薔薇の間には、深紅の魔導灯が吊るされ、磨かれた黒石の床に赤い光が落ちていた。壁には黒薔薇の紋が絡み、卓には血入りの酒、赤い果実、薔薇砂糖、薄く切られた血糧肉が並ぶ。


 吸血鬼たちは、美しく着飾っていた。


 黒。


 深紅。


 銀。


 紫。


 夜をまとったような衣。


 首元を飾る宝石。


 指先を覆う薄い手袋。


 誰もが優雅に笑い、礼を交わし、互いの血筋を値踏みし合っている。


 そして全員が、王を見ないふりをしながら見ていた。


 クラウディオは、広間の奥に立っていた。


 玉座ではない。


 夜会の場であるため、彼は王座に座っていない。


 だが、彼が立つ場所が玉座だった。


 黒い礼服は身体の線に沿って仕立てられ、銀糸が細く光っている。喉元は高く覆われているが、それでも白い首筋の一部だけが見えている。


 ほんの一部。


 それだけで、視線が集まる。


 黒髪が肩へ流れ、白い肌と赤い唇が深紅の灯りに浮かび上がる。


 美しい。


 あまりにも。


 クラウディオは、それを知っている。


 自分の美貌が武器であることを知っている。


 自分の血の匂いが、人を狂わせることも知っている。


 だから今夜、彼は封香の銀護符をつけていなかった。


 血の香りを抑えるための護符。


 それを外している。


 意図的に。


 王城の吸血鬼たちは、まだ気づいていないふりをしている。


 けれど、彼らの血はすでに気づいていた。


 広間の空気に、ほのかに甘い血の匂いが滲んでいる。


 強すぎない。


 ただ、鼻の奥を撫でる程度。


 喉の奥を軽く引く程度。


 しかし吸血鬼にとっては、それで十分だった。


 血酒より深く、薔薇砂糖より甘く、香油よりも肌に近い匂い。


 王の血。


 稀血。


 ロイヤルレア。


 クラウディオは、杯を持っていた。


 中身は飲んでいない。


 ただ指先で持っているだけだ。


 それだけで、広間の者たちは彼の指を見てしまう。


 あの白い指が血杯を持つ。


 あの指先から、かつて一滴の血が落ちた。


 その一滴に、王城の柱が反応した。


 その一滴が、誰かの目を赤くし、誰かの膝を落とし、誰かの王権を奪った。


 そう思うだけで、吸血鬼たちの喉は渇く。


 最初に距離を誤ったのは、女吸血鬼だった。


 名をディアドラ・モルヴァンという。


 古参血族の一つ、モルヴァン家の未亡人。


 美しい女だった。


 夜色の髪を高く結い、白い肩を深紅の衣から覗かせている。唇には血を思わせる紅。瞳は深い菫色。


 彼女は、王へ近づく資格を持っていた。


 家格も、年齢も、礼法も十分。


 ただし、今夜は一歩近かった。


 クラウディオは、彼女が近づく前から気づいていた。


 足音。


 香油。


 呼吸。


 そして、血の揺れ。


 ディアドラの瞳の奥に、薄く赤が滲んでいる。


 自我はある。


 礼も守れる。


 だが、王の血の匂いに酔い始めていた。


 彼女は完璧な礼をした。


「陛下。今宵も、月よりお美しくいらっしゃいます」


 クラウディオは、彼女を見た。


「月は血を持たぬ」


「では、月よりも恐ろしいお方と申し上げるべきでしたわ」


「媚びる言葉は選べ」


 冷たい返答。


 普通なら、そこで引く。


 しかしディアドラは引かなかった。


 むしろ、その冷たさに目を細めた。


 欲を刺激された顔だった。


 王の拒絶。


 王の棘。


 美しい顔から吐かれる冷たい言葉。


 それすら、彼女には蜜になっている。


「失礼いたしました」


 彼女は微笑む。


 「ですが、陛下のお声は、叱責ですら甘く響きます」


 広間の空気が微かに張った。


 踏み込んだ。


 言葉が近すぎる。


 クラウディオは杯を持つ指を少しだけ動かした。


 血酒の水面が揺れる。


 その小さな動きに、ディアドラの瞳の赤が濃くなった。


 彼女は喉を鳴らした。


 自分でも気づき、すぐに唇を結ぶ。


 遅い。


 クラウディオは見ている。


「欲しいか」


 彼は唐突に言った。


 ディアドラの顔が固まった。


「何を、でございましょう」


「分かっているだろう」


 声は低い。


 広間のざわめきが薄く遠のく。


 ディアドラは、王の杯を見た。


 次に、白い指を見た。


 最後に、喉元を見た。


 ほんの一瞬。


 だが十分だった。


 彼女は、王の血が欲しい。


 王の肌が欲しい。


 王の声が欲しい。


 王の冷たい顔を歪めたい。


 跪きたいのか、跪かせたいのか、自分でも分からないほどに。


 ディアドラは、かすれた声で言った。


「……恐れ多いことでございます」


「答えになっていない」


 クラウディオは彼女を見下ろす。


「欲しいか」


 ディアドラの呼吸が乱れた。


 瞳の赤がさらに濃くなる。


 吸血衝動。


 欲情。


 支配欲。


 崇拝。


 それらが血の中で混ざり、礼法の薄い膜を押し破ろうとしている。


「吸血鬼としては」


 彼女は、かつてエドガーが言ったのと似た言葉を選んだ。


「惹かれます」


「吸血鬼としては、か」


 クラウディオの唇がわずかに動く。


「女としては」


 ディアドラの顔が赤くなる。


 吸血鬼の肌に血色が差すほど、血が揺れている。


 彼女は答えなかった。


 答えないことが答えだった。


 クラウディオは興味を失ったように杯から手を離した。


 控えていた従者がすぐに受け取る。


 一拍の遅れもない。


 よく躾けられている。


「下がれ」


 ディアドラは膝を折りかけた。


 従いかけたのだ。


 自分の意思より先に。


 その事実に、彼女自身が震える。


「……仰せのままに」


 彼女は下がった。


 だが、下がる足はわずかに乱れていた。


 クラウディオはそれを見送った。


 次に近づいたのは、男だった。


 若い古参血族。


 いや、若く見えるだけで、実年齢は百を越えているだろう。


 名はラウル・ゼルク。


 外縁血族の一つから王都へ上がってきた男で、戦闘能力に長けていると聞く。


 背が高く、肩幅もある。


 黒い髪を短く整え、目は灰色。


 王城の礼法にはまだ少し硬さがあるが、血の気配は強い。


 ラウルはクラウディオの前で礼をした。


「陛下。外縁では、灰銀のハンターがまた野良を狩ったと聞きます」


 話題としては妥当だった。


 だが、ラウルの目は話題ではなく王を見ていた。


 正確には、王の顔を。


 唇を。


 喉を。


 そして目を。


 この男の欲は、ディアドラとは違った。


 跪きたい欲ではない。


 崇拝だけでもない。


 歪めたいのだ。


 王の美しい顔を。


 苦痛に。


 怒りに。


 屈辱に。


 あの冷たい瞳を赤く染め、自分へ向けさせたい。


 あの喉から、王命ではなく絶叫を引きずり出したい。


 そういう欲だった。


 クラウディオは、それを感じ取った。


 血の匂いは、相手の本性を表へ出す。


 ラウルの瞳には、まだ赤は薄い。


 だが、欲は濃い。


「灰銀の話をしに来たのか」


 クラウディオが言う。


「はい、陛下」


「なら、なぜ我の顔ばかり見る」


 ラウルの表情が一瞬だけ固まった。


 周囲の空気が凍る。


 クラウディオは続ける。


「灰銀ではなく、我の顔を歪めたいのか」


 ラウルの瞳に、赤が走った。


 図星。


 彼はすぐ頭を下げる。


「滅相もございません」


「嘘だな」


 クラウディオは静かに言った。


「そなたは、我が叫ぶところを想像した」


 ラウルの顔から血の気が引く。


 クラウディオの声が、さらに低くなる。


「この顔が歪むところを。王の声が悲鳴へ変わるところを。冷たい喉が、甘く裂けるところを」


 ラウルの呼吸が荒くなる。


 恐怖と欲望が同時に血を揺らしている。


 瞳の赤が濃くなる。


 彼は否定したいのに、血が否定を許さない。


 クラウディオの稀血の匂いが、彼の奥の欲を引きずり出している。


 ラウルは膝をついた。


 自分から。


 耐えきれなかったのだ。


「陛下……お許しを」


「何を許す」


 クラウディオは一歩近づく。


 ラウルの背が震える。


「欲をか」


「……はい」


「見ただけで許しを乞うのか」


 クラウディオの声に、わずかな嘲りが混じる。


「触れられもしないくせに」


 ラウルの喉が鳴った。


 その言葉が、彼の欲をさらに抉った。


 触れたい。


 だが触れられない。


 王に。


 美しき暴君王に。


 手を伸ばせば、跡形もなく消される。


 分かっていて、血が欲しがる。


 この人が欲しい。


 この顔を歪めたい。


 この声を聞きたい。


 絶叫も。


 甘い声も。


 王命ではない声を。


 ラウルは額を床につけた。


「触れるなど、決して」


「当然だ」


 クラウディオは冷たく言った。


「そなたごときに触れられる王ではない」


 ラウルは震えた。


 屈辱。


 安堵。


 欲望。


 すべてが混ざる。


 クラウディオは彼を見下ろし、興味を失ったように言った。


「下がれ。血が濁る」


 ラウルは床に額を擦りつけるように礼をし、下がった。


 歩き方がわずかに崩れている。


 王の血の匂いだけで、膝が乱れていた。


 その後も、夜会は続いた。


 誰も何もなかったように振る舞う。


 だが、広間の空気は明らかに変わっていた。


 クラウディオの周囲だけ、温度が違う。


 吸血鬼たちは近づきたい。


 だが、近づけば自分の欲を暴かれる。


 怖い。


 それでも、見たい。


 匂いを嗅ぎたい。


 声を聞きたい。


 王に見られたい。


 王に見下されたい。


 王の顔を歪めたい。


 王の血を欲しい。


 この王が、自分だけに怒るところを見たい。


 この王が、自分だけに喉を震わせるところを見たい。


 欲望は、礼服の下で蠢いていた。


 クラウディオは、それを浴びていた。


 不快だった。


 同時に、退屈ではなかった。


 自分の血が、どれほど相手を変えるか。


 自分の美貌が、どれほど相手の理性を削るか。


 自分の王としての圧が、どれほど欲望を屈服へ変えるか。


 観察するには、悪くない夜だった。


 だが、満たされはしない。


 誰も王に触れられない。


 誰も牙を立てられない。


 誰も本当に、彼の声を崩せない。


 欲しがるだけ。


 怯えるだけ。


 跪くだけ。


 弱い。


 つまらない。


 クラウディオは、広間の中央を見渡した。


 男女を問わず、いくつもの瞳が彼から逃げ、そしてまた戻る。


 赤くなりかけた目。


 震える手。


 喉を鳴らす者。


 扇で口元を隠す女。


 杯を持つ指に力を入れすぎる男。


 彼らは皆、王を欲しがっている。


 しかし、誰も近づけない。


 誰も超えない。


 超えられない。


 クラウディオは、低く呟いた。


「つまらぬ」


 近くにいた従者が震えた。


 だが、返答を求められていないと理解し、黙っていた。


 正しい。


 クラウディオは黒薔薇の間を出た。


 夜会の音が背後へ遠ざかる。


 廊下は静かだった。


 青白い魔導灯。


 黒石の床。


 遠い外縁の夜。


 灰銀の噂。


 彼はふと、その名を思い出した。


 狩人風情。


 王に触れられるはずがない。


 そう断じた男。


 しかし、あの灰銀はどうだろう。


 王の顔を歪めたいなどという、王城の吸血鬼たちの甘えた欲とは違うかもしれない。


 絶叫を聞きたいなどという、血に酔った妄想とも違うかもしれない。


 灰銀のハンターは、吸血鬼だけを狩る。


 なら、王を見た時、何を欲しがるのか。


 血か。


 首か。


 命か。


 それとも、王そのものを檻へ落とすことか。


 クラウディオの瞳の奥に、赤が薄く滲んだ。


 不快。


 愉悦。


 期待。


 彼は自室へ戻り、記録の紙を取り出した。


 題を書く。


 稀血の夜。


 そして続ける。


 封香なし。


 夜会にて、複数名が血の匂いに反応。


 ディアドラ・モルヴァン。


 崇拝、吸血衝動、女としての欲。


 ラウル・ゼルク。


 支配欲、王の顔を歪めたい欲、絶叫を聞きたい欲。


 いずれも王へ触れられず。


 瞳に赤。


 呼吸の乱れ。


 膝の乱れ。


 欲は血に出る。


 クラウディオはペンを止める。


 しばらく考え、さらに書いた。


 我を欲しがる者は多い。


 だが、誰も届かない。


 血の匂いに酔い、美貌に惑い、王の圧に膝を折るだけ。


 つまらない。


 最後に、一行。


 灰銀なら、どう見る。


 その文字を見て、クラウディオはわずかに笑った。


 王城の吸血鬼たちは、彼を欲望で見た。


 灰銀のハンターは、彼を獲物として見るのかもしれない。


 その可能性だけが、今夜の欲望まみれの広間より、ずっと鮮やかだった。


 クラウディオは黒硝子に映る自分を見る。


 美しい王。


 甘い血を持つ暴君。


 誰もが欲しがり、誰も触れられない存在。


 彼は静かに呟いた。


「この顔を歪めたいなら、歪めてみせろ」


 誰に向けた言葉か。


 夜会の者たちではない。


 まだ見ぬ灰銀へ。


 王の夜を荒らす狩人風情へ。


 そしてその時、クラウディオはまだ知らない。


 王城の者たちが妄想するだけだった絶叫を、いつか本当に自分の喉から引きずり出す者が現れることを。


 その名が、灰銀であることを。


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