第2話 白い手と焼き菓子
クラウディオは、王城の外を知らなかった。
いや、正しくは、知らされていなかった。
黒い石壁の内側。青白い魔導灯の下。血杯の赤と、銀器の冷たい光。王族たちの笑い声。従者たちの小さな悪意。礼法教師の「もう一度」。侍女の櫛。焦げた肉の苦味。
それが、クラウディオに与えられた世界だった。
王城の外にも街があることは知っている。城下町ルグランディア。人間と吸血鬼が混ざって暮らす、王都の心臓。古い教会区、商人通り、倉庫街、貴族街、下層の水路、夜ごと血と金が動く闇市。
教師は地図の上で教えた。
けれど地図に描かれた町は、町ではなかった。
線と区画と名称。
そこに匂いはない。
足音もない。
人の声も、焼けた砂糖の甘さもない。
クラウディオが初めて王城の外へ出たのは、王族の子どもたちが教会区の儀礼へ連れていかれた帰りだった。
その日、空は厚い雲に覆われていた。
吸血鬼にとっては都合のいい昼だった。太陽は雲の向こうで鈍く滲み、王都の石畳には淡い灰色の光だけが落ちていた。王城の馬車は黒塗りで、窓には遮光紋を刻んだ硝子がはめ込まれている。
クラウディオは馬車の隅に座っていた。
向かいにはリヴィアがいる。銀の髪飾りを揺らし、退屈そうに窓の外を見ていた。隣にはセヴラン。彼は外の景色に興味がないふりをしているが、時折、視線だけが街並みへ流れる。
アドリアンは別の馬車だった。
正妃に近い王子は、同じ馬車に押し込まれない。
クラウディオは窓の外を見ないようにしていた。
見たいと思えば、リヴィアが笑う。珍しそうに見ていると気づかれれば、王城育ちのくせに下町に目を奪われていると嗤われる。
だから彼は、窓に映った自分の顔を見ていた。
黒髪。
白い頬。
まだ幼い輪郭。
唇の端には、数日前に切れた傷の名残が薄く残っている。
その向こうで、街が流れていた。
黒硝子越しでも、色は見える。
王城にはない色だった。
布屋の軒先に垂れた濃い藍。
果物売りの籠に積まれた赤。
薬草商の束ねた緑。
石畳に落ちる水の反射。
人間の子どもが走っていく背中。
吸血鬼の女が日避けの帽子を深くかぶり、店先で銀貨を渡す指先。
世界は、城の中よりずっと雑然としていた。
そして、少しだけ温かく見えた。
「そんなに見たいの?」
リヴィアの声がした。
クラウディオは視線を動かさなかった。
「見ていません」
「嘘。硝子に映っているもの」
リヴィアは小さく笑った。
「城下が珍しいのね。可哀想。閉じ込められた子犬みたい」
セヴランが鼻で笑った。
「子犬ならまだ愛嬌がある」
クラウディオは黙っていた。
子犬。
愛嬌。
そういう言葉が自分に向かないことは、彼自身がよく知っていた。
馬車が大きく揺れた。
外で馬が嘶き、御者の短い声が響く。車輪が石の段差に引っかかったらしい。リヴィアが小さく悲鳴を上げ、セヴランが眉をひそめた。
クラウディオの身体も揺れた。
反射的に窓枠へ手をつく。
その時だった。
黒硝子の向こうに、小さな横道が見えた。
王城へ戻る大通りから少し外れた、細い坂道。その途中に、古びた木の看板が下がっている。
丸い菓子の絵。
薄い金色の文字。
看板の下から、白い湯気のようなものが立っていた。
その匂いが、馬車の隙間から入り込んだ。
甘い。
クラウディオは、息を止めた。
砂糖の匂い。
焼いた小麦。
溶けたバター。
ほんの少し焦げた蜂蜜。
王城の菓子とは違う。王城で出される菓子は美しい。形が整っていて、皿の上で宝石のように並んでいる。だが匂いは薄い。儀礼の一部であり、味わうものではない。
この匂いは違った。
誰かの手で焼かれた匂いがした。
火と粉と甘さが混ざり、狭い店の奥から道へ零れている。
「なに、この匂い」
リヴィアが眉を寄せた。
「下町の菓子だろう」
セヴランは不快そうに言った。
「香りが強すぎる」
クラウディオは、何も言わなかった。
けれど、手は窓枠に置かれたままだった。
馬車が動き出す。
看板が遠ざかる。
甘い匂いも薄くなる。
クラウディオは、初めて、王城へ戻りたくないと思った。
その夜、彼は床下の紙片に一行だけ書き加えた。
坂道。
丸い菓子の看板。
甘い匂い。
店の名までは読めなかった。
だが場所は覚えた。
クラウディオは忘れることが下手だった。
それは、時に祝福のようで、ほとんどの場合は呪いに近かった。
数日後、彼は王城を抜け出した。
計画というほど立派なものではない。王城には無数の通路があり、王族のための大階段とは別に、従者や物資が通る細い通路がいくつもある。誰もクラウディオが逃げ出すとは思っていなかった。逃げる場所がないと思われていたからだ。
その油断が、いちばん大きな鍵だった。
昼近く、礼法の稽古が終わったあと、マルタが薬草室へ呼ばれた。膝の傷はもう塞がっていたが、痛みの記憶は残っている。クラウディオは部屋で休んでいるように命じられた。
彼は扉が閉まる音を聞き、しばらく待った。
足音が遠ざかる。
廊下の空気が静まる。
それから、寝台の下から小さな外套を取り出した。王族用のものではない。古い従者服を切って作った黒い布だ。少し大きく、袖が長い。頭巾をかぶれば顔の半分は隠れる。
床下の紙片の隣には、いつか使うために隠しておいた銀貨が三枚あった。
誰かが落としたもの。
拾っても届けなかったもの。
届ければ褒められるかもしれない。だが褒める者は忘れる。銀貨は忘れない。
クラウディオはそのうち一枚だけを取った。
部屋を出る。
廊下は静かだった。青白い魔導灯が壁を照らしている。彼は音を立てずに歩いた。王族の歩き方ではない。従者の歩き方でもない。誰にも見つからないための歩き方だった。
使用人用の階段を降りる。
洗濯室の裏を通る。
荷運び用の小門へ向かう。
途中で、従者二人の声が聞こえた。
「妾の子は?」
「部屋だろう。どうせ本でも読んでいる」
「気味が悪いな、あの子ども」
「泣くところを見たことがない」
「泣けないんじゃないのか」
「それとも、泣くほどの心がないのかもな」
クラウディオは壁の影に隠れていた。
声の主は見えない。
だが声は覚えた。
片方はミルゴ。
もう片方は知らない。少し鼻にかかった低い声。金属の留め具が歩くたびに鳴る。おそらく衛兵見習い。
覚えた。
通路が空く。
クラウディオは小門を抜けた。
王城の外気が、頬に触れた。
冷たいのに、重くない。
城の冷気とは違う。
街の空気には、いろいろなものが混ざっていた。石畳の湿り気。馬の匂い。焼いたパン。魚。血。薬草。雨の気配。人間の汗。吸血鬼の香油。煙突から落ちる煤。
雑で、騒がしく、整っていない。
だからこそ、息がしやすかった。
クラウディオは頭巾を深くかぶり、坂道を目指した。
城下町は、地図で見たより複雑だった。大通りは馬車が行き交い、商人が声を張り上げている。昼でも日避けの幕が張られている通りでは、吸血鬼たちがゆっくり歩いていた。人間は彼らを避ける。避けながら、それでも店を開け、荷を運び、生活している。
クラウディオは人波の中に紛れた。
小さい身体は、こういう時だけ都合がよかった。
誰も彼を王の子とは思わない。
誰も頭を下げない。
誰も妾の子と嗤わない。
ただ、小さな黒い外套の子どもが一人、通りを歩いているだけだった。
それが不思議だった。
王城では、彼は常に何かだった。
妾の子。
正妃の目障り。
王の失敗。
血の薄い子。
半端な王族。
ここでは、誰も彼を知らない。
知らないということが、こんなにも軽いとは思わなかった。
坂道を見つけた時、甘い匂いが先に届いた。
クラウディオは足を止めた。
数日前、馬車の中で嗅いだ匂い。
砂糖。
小麦。
バター。
蜂蜜。
火。
丸い菓子の看板が揺れている。
店は小さかった。
王城の広間なら、隅の飾り棚ほどの広さしかないかもしれない。木の扉は古く、窓硝子には細かな傷がある。窓辺には焼き上がった菓子が並べられ、白い布の上で淡い金色に光っていた。
クラウディオは扉の前に立った。
入っていいのか分からなかった。
金はある。
銀貨が一枚。
だが買い物の仕方を知らない。
王城では、欲しいものを自分で買うことなどない。用意されるか、与えられないか。そのどちらかだった。
扉の取っ手に手を伸ばしかける。
その手が汚れていることに、そこで気づいた。
王城を抜ける途中、壁の煤に触れたのだろう。小さな指先が黒く汚れている。爪の間にも汚れが入っている。王城なら、マルタが嫌な顔をする。リヴィアなら笑う。セヴランなら鼻で息を吐く。アドリアンなら優しい声で、下男の手だと言うかもしれない。
クラウディオは手を引っ込めた。
その時、扉が内側から開いた。
「あら」
声が降ってきた。
クラウディオは顔を上げた。
店の中から出てきたのは、若い女だった。
二十代の半ばほどに見える。人間か、吸血鬼の血が薄く混じった者か、すぐには分からない。栗色の髪を後ろでまとめ、白い前掛けをつけている。袖を肘までまくった腕には、粉が薄くついていた。
そして、手が白かった。
王城の女たちのように、宝石で飾られた白さではない。
粉と砂糖にまみれた白さ。
働いた手だった。
女はクラウディオを見て、少し目を丸くした。
「お客さん?」
クラウディオは答えられなかった。
お客さん。
その言葉が、自分に向けられるとは思わなかった。
女は屈んだ。
目線が近くなる。
王城の者は、クラウディオを見る時、たいてい見下ろす。小さいことを思い知らせるために。自分の方が上だと、角度で教えるために。
だが、この女は屈んだ。
覗き込むのではなく、近づいた。
「迷子?」
クラウディオは首を横に振った。
「違う」
声が少し硬くなった。
女は笑わなかった。
「じゃあ、お菓子を買いに来た?」
クラウディオは黙った。
それは、肯定に近かった。
女は彼の手元を見た。
煤で汚れた指。
握りしめられた銀貨。
長すぎる外套の袖。
それから、彼の顔を見た。
正確には、顔を隠す頭巾の奥を見ようとはしなかった。
「寒いでしょう。中に入る?」
「……いいのか」
「お店だからね」
女は扉を大きく開いた。
「入っていい場所だよ」
入っていい場所。
その言葉もまた、クラウディオには馴染みがなかった。
王城には、入ってはいけない場所ばかりだった。
正妃の庭。
王の書庫。
兄弟たちの遊戯室。
血術の訓練場。
古い地下礼拝堂。
入っていいと言われても、そこに居ていいとは限らない場所ばかりだった。
クラウディオは一歩、店の中へ入った。
温かかった。
火の熱がある。
焼き窯の奥で、赤い火が小さく揺れていた。店の中は狭く、棚には菓子が並んでいる。丸い焼き菓子、細長い砂糖菓子、蜂蜜を塗った小さなパン、木の実を混ぜた菓子。どれも王城の皿に並ぶ菓子ほど整っていない。
少し形が違う。
焼き色も均一ではない。
端が濃く焼けたものもある。
だが、不思議と嫌ではなかった。
女はカウンターの内側へ回ると、小さな桶から水を汲んだ。
「手、洗おうか」
クラウディオの肩がこわばった。
女はすぐにそれに気づいた。
「怒ってるんじゃないよ。せっかくのお菓子が煤だらけになったら、もったいないから」
クラウディオは自分の手を見た。
汚い手。
王城なら、汚れた手を責められる。
ここでは、菓子がもったいないと言われた。
彼はゆっくり手を出した。
女は白い布を水に浸し、軽く絞った。
その手が、クラウディオの指に触れる。
彼は反射的に身を引きかけた。
痛くされると思ったからだ。
水は温かかった。
布も柔らかかった。
女は、指先の煤を丁寧に拭いた。
爪の間に入った黒い汚れも、無理に擦らず、少しずつ落としていく。強く引かない。痛ませようとしない。汚れていることを責めない。
クラウディオは、動けなかった。
手を拭かれることなら、王城でも毎朝されている。
けれど、これは違った。
マルタの手は、彼を整える。
見苦しくない形にする。
王城の恥にならないようにする。
この女の手は、ただ汚れを落としていた。
小さな指を一本ずつ持ち上げ、布で包むように拭う。
白い手。
粉の匂い。
温かい水。
クラウディオは、息の仕方を忘れそうになった。
「痛くない?」
女が聞いた。
クラウディオは顔を上げた。
痛くないか。
痛むなら言っていいのか。
それは罠ではないのか。
痛いと言えば笑われるのではないのか。
クラウディオは彼女の顔を見た。
女は、答えを急かさなかった。
ただ待っていた。
「……痛くない」
「そっか。よかった」
よかった。
その言葉が、彼の中で妙に響いた。
痛くないことを、誰かがよかったと言った。
そんなことは初めてだった。
手が綺麗になると、女は乾いた布で軽く包んだ。
「はい。これで大丈夫」
クラウディオは自分の手を見た。
小さく、白い。
けれど今は、王城で見下ろされる手ではなかった。
菓子を持っていい手だった。
「どれにする?」
女が棚を示した。
クラウディオは並んだ菓子を見た。
どれが良いのか分からない。
美しいものを選ぶべきなのか。
高いものを選ぶべきなのか。
銀貨一枚で何が買えるのかも分からない。
彼は握りしめていた銀貨を差し出した。
「これで買えるものを」
女は銀貨を見て、少し困った顔をした。
「それだと多いね」
多い。
クラウディオは瞬きをした。
「多いのか」
「うん。うちのお菓子、王様の宴会用じゃないから」
王様。
その言葉に、クラウディオの指がわずかに動いた。
女は気づかなかったのか、気づいても触れなかったのか、棚から丸い焼き菓子を一つ取った。
「初めてなら、これがいいと思う」
手のひらほどの、小さな焼き菓子だった。
表面に蜂蜜が薄く塗られ、端は少し濃い色に焼けている。上には砕いた木の実が散らされていた。形は完全な円ではない。少し歪んでいる。
女はそれを白い紙に乗せ、クラウディオへ差し出した。
「はい」
クラウディオは受け取らなかった。
「金は」
「いいよ」
「なぜ」
「焼きすぎたから」
クラウディオは菓子を見た。
焼きすぎた。
王城で出された焦げた肉のことを思い出す。
あれは嘲るための焦げだった。
これは違う。
確かに端は少し濃く焼けている。
けれど匂いは甘い。
焦げではなく、火の温度の匂いがした。
「売り物ではないのか」
「売り物にできないほどじゃないけど、綺麗な形の方から売るからね。これは私のおやつになる予定だったの」
「なら、あなたのものだ」
「じゃあ、半分こにする?」
クラウディオは言葉を失った。
半分。
王城では、彼に与えられるものは残り物か、形だけのものだった。分け与えられることはあっても、それは相手の余裕を見せつけるためだった。
だが、この女は本当に半分に割ろうとしている。
女は焼き菓子をそっと二つに割った。
中から湯気が少し立った。
甘い匂いが強くなる。
彼女は大きい方をクラウディオへ渡した。
「はい」
「大きい」
「子どもは大きい方」
「なぜ」
「そういうもの」
理由になっていなかった。
けれど、クラウディオは反論できなかった。
白い紙ごと受け取る。
焼き菓子は温かかった。
指先に熱が移る。
クラウディオはしばらく、それを見ていた。
「食べないの?」
女が聞く。
「食べていいのか」
口に出してから、自分でも奇妙な問いだと思った。
もらった。
食べるためのもの。
それなのに、許可を取ってしまった。
女は笑わなかった。
「うん。食べていいよ」
クラウディオは、小さくかじった。
表面は少し硬い。
中は柔らかい。
蜂蜜の甘さと、木の実の香ばしさが広がる。王城の菓子ほど繊細ではない。砂糖の粒も少し舌に触れる。焼き色の濃い端は、ほろ苦い。
けれど、焦げた肉の苦さとはまるで違った。
苦味が、甘さを深くしていた。
クラウディオは、二口目を食べた。
女は自分の分をかじりながら、嬉しそうに目を細めた。
「おいしい?」
クラウディオは答えようとして、少し迷った。
王城では、おいしいと言えば笑われることがある。焦げたものが好きなのね、と。下町の味が似合う、と。物を知らない子どもだ、と。
けれど、この店にはリヴィアはいない。
セヴランもいない。
アドリアンも、正妃も、王もいない。
女はただ、答えを待っている。
「……おいしい」
小さな声だった。
女は笑った。
「よかった」
二度目の、よかった。
クラウディオは焼き菓子を見た。
おいしいと言ったら、よかったと言われた。
痛くないと言った時と同じ声だった。
誰かの都合のためではなく、彼がそう感じたことを受け取る声だった。
「あなた」
クラウディオは言った。
女は首を傾げる。
「名前は」
「ああ、私? ロウェナ。ロウェナ・ミル」
ロウェナ。
クラウディオは、その名を胸の内で繰り返した。
ロウェナ・ミル。
栗色の髪。白い前掛け。粉のついた手。温かい水。焼きすぎた菓子を半分にした。
覚えた。
ロウェナは、今度はクラウディオを見た。
「あなたは?」
問われた瞬間、クラウディオの身体が硬くなった。
名前。
王城では、彼の名はあまり呼ばれない。
妾の子。
あの子。
クラウディオ様、と呼ばれる時もあるが、その様には敬意がない。形だけ。発音の端に、薄い嘲りが混ざる。
父である王が名を呼んだことはある。
だが、それは温度のない確認だった。
道具の名を呼ぶ声に近かった。
名を名として呼ばれた記憶は、ほとんどない。
クラウディオは答えるべきか迷った。
王族だと知られたら、彼女は態度を変えるかもしれない。
頭を下げるかもしれない。
怖がるかもしれない。
媚びるかもしれない。
あるいは、厄介な子どもが来たと追い出すかもしれない。
だから彼は、少しだけ嘘をついた。
「クラウ」
短く切った名。
王の名でも、王族の名でもないように。
ロウェナは笑った。
「クラウ?」
クラウディオは頷いた。
そのまま受け入れられると思った。
だがロウェナは、少しだけ彼を見つめた。
そして、不意に言った。
「本当は、もう少し長い名前?」
クラウディオの喉が詰まった。
咎める声ではなかった。
責める声でもない。
ただ、気づいた声だった。
彼は焼き菓子を持ったまま黙った。
ロウェナは続けなかった。
問い詰めなかった。
ただ棚の上から小さな紙袋を取る。
「じゃあ、今日はクラウって呼ぶね」
今日は。
その言い方が、不思議だった。
いつか本当の名を言ってもいいと、残してくれたように聞こえた。
クラウディオは、焼き菓子をもう一口食べた。
ロウェナは紙袋に小さな菓子を二つ入れた。
「持って帰る?」
「金は」
「さっきの銀貨で、十分すぎるくらい」
クラウディオは銀貨を差し出した。
ロウェナは受け取らず、代わりに小さな銅貨を何枚かカウンターへ置いた。
「おつり」
「いらない」
「いるよ」
「なぜ」
「多く払ったら、その分返す。それだけ」
クラウディオは銅貨を見た。
返す。
多すぎるものを、返す。
王城では、多く奪える者が勝つ。足りなく与える者が上に立つ。返すという考えは、あまり見たことがなかった。
「受け取らないと、次に買いに来られないでしょう?」
次。
クラウディオは顔を上げた。
「また来ていいのか」
「お店だからね」
ロウェナは同じように笑った。
「それに、手を洗ってからなら、いつでも」
手を洗ってから。
彼女にとって、条件はそれだけだった。
血筋ではない。
王位ではない。
妾腹でもない。
礼法でもない。
誰の子かでもない。
手を洗って、菓子を買う。
それだけ。
クラウディオは銅貨を受け取った。
紙袋も受け取った。
ロウェナは店の扉を開けてくれた。
外の空気が入る。
石畳の湿り気と、遠くの馬の匂いが混ざる。店の温かさが、背中から少しずつ離れていく。
クラウディオは扉の前で立ち止まった。
言うべき言葉を探した。
ありがとう。
その言葉は知っている。
礼法で習った。
けれど王城で口にするありがとうは、ただの形だった。感謝ではなく、儀礼の一部。言えば済む言葉。心などなくても整う言葉。
今ここで言えば、違う意味になる気がした。
その違いが怖かった。
ロウェナは急かさなかった。
クラウディオは、小さく言った。
「……また来る」
ありがとうではなかった。
けれどロウェナは、満足そうに笑った。
「うん。待ってるね、クラウ」
クラウ。
短い名。
偽った名。
それでも、彼女の声の中では、蔑みではなかった。
クラウディオは店を出た。
坂道を下る間、紙袋を外套の内側に隠した。誰にも見つからないように。潰れないように。温かさが逃げないように。
街のざわめきが耳に戻ってくる。
売り声。
馬車の音。
水を撒く音。
誰かの笑い声。
王城へ戻る道は、行きより少しだけ遠く感じた。
帰りたくないと思ったからだ。
小門へ戻る頃には、紙袋の温かさはほとんど消えていた。それでも、甘い匂いは残っている。クラウディオは何度も外套の上から袋に触れた。
王城の中へ入ると、空気が変わった。
冷たい。
重い。
青白い。
遠くでマルタの声がする。
誰かを探しているらしい。
クラウディオは急いで部屋へ戻った。
外套を隠す。
銀貨の残りと銅貨を床下へ戻す。
紙袋だけを机の引き出しに入れようとして、手を止めた。
ここでは駄目だ。
マルタが見つける。
彼は寝台の下の床板を外した。
名前の紙片がある。
罪の記録がある。
その隣へ、紙袋を置こうとして、やめた。
菓子をそこへ置きたくなかった。
あそこは冷たい場所だった。
忘れないための場所。
いつか返すための場所。
ロウェナの菓子は、そこに置くものではない。
クラウディオは部屋を見回した。
隠し場所など多くない。
結局、寝台の奥、枕の下へ紙袋を入れた。
その時、扉が開いた。
マルタだった。
彼女は部屋へ入り、クラウディオを見た。
「どちらへ」
声が低い。
クラウディオは机の前に立ったまま、振り返った。
「部屋にいた」
「嘘をおっしゃらないでください」
マルタは近づいた。
目が鋭い。
「外套はどこです」
「知らない」
「クラウディオ様」
様がついた。
だが、敬意はない。
「勝手に部屋を出れば、私が叱責を受けます」
私が。
クラウディオはその言葉を聞いた。
彼を心配しているのではない。
自分が叱られることを恐れている。
それは別に珍しいことではなかった。
王城では、誰もが自分の立場を守るために誰かを踏む。
クラウディオは言った。
「迷惑をかけた」
マルタは一瞬、目を丸くした。
謝罪を期待していたわけではないのだろう。
叱る準備をしていた顔が、少し崩れた。
「……今後はお控えください」
「分かった」
マルタはなおも疑うように部屋を見回したが、枕の下までは見なかった。
彼女が去った後、クラウディオはしばらく動かなかった。
扉の向こうの足音が完全に遠ざかる。
それから、枕の下から紙袋を取り出した。
中には小さな焼き菓子が二つ。
一つは丸いもの。
もう一つは細長く、砂糖がかかっている。
クラウディオは丸い方を手に取った。
もう冷めていた。
それでも、口に入れると甘かった。
王城の空気の中で食べると、店で食べた時よりも、甘さがはっきりした。
まるで、あの小さな店だけが、別の世界として口の中に戻ってくるようだった。
クラウディオは半分だけ食べた。
残りは紙に包み直した。
全部食べてしまうのが惜しかった。
その夜、彼は床下の紙片を出した。
ミルゴ。
ベルニエ。
マルタ。
オルガン。
リヴィア。
セヴラン。
アドリアン。
エレオノーラ。
ヴァレンティヌス。
それらの名前が並んだ紙とは別に、新しい紙を出す。
そして、書いた。
ロウェナ・ミル。
菓子屋。
栗色の髪。白い前掛け。粉のついた手。温かい水。汚れた手を責めなかった。焼き菓子を半分にした。大きい方をくれた。痛くないと言ったら、よかったと言った。おいしいと言ったら、よかったと言った。
少し迷ってから、もう一行書く。
クラウと呼んだ。
ペン先が止まる。
クラウ。
正しい名ではない。
だが、初めて、名前が刃ではないものになった。
クラウディオは紙を折らなかった。
床下へも入れなかった。
その紙だけは、机の奥にしまった。
罪の記録と同じ場所へ入れる気にはなれなかった。
部屋は相変わらず冷えていた。
暖炉には火がない。
青白い魔導灯の光が、扉の隙間から細く床を切っている。
膝の痛みは、もうほとんど消えている。
唇の傷も塞がりかけていた。
けれど、手にはまだ温かい布の感触が残っていた。
汚れた指を一本ずつ拭う白い手。
痛くないかと聞く声。
おいしいと言った時の、よかった。
クラウディオは寝台に横になった。
枕元に、残りの焼き菓子を包んだ紙を置く。
眠る前、彼は指先を鼻に近づけた。
ほんのわずかに、蜂蜜と小麦の匂いがした。
王城の匂いではない。
血杯でも、銀器でも、冷たい水でも、焦げた肉でもない。
それは小さく、弱く、すぐに消えてしまいそうな匂いだった。
だからこそ、クラウディオは必死に覚えた。
誰かの顔と名前を覚える時とは違う。
いつか裁くためではない。
いつか返すためでもない。
失くしたくないから覚えた。
その違いを、彼はまだうまく言葉にできなかった。
ただ胸の奥で、黒い種の隣に、別のものが落ちた気がした。
冷たい種ではない。
小さな火種だった。
弱く、頼りなく、吹けば消えるほどの火。
けれど、それは確かに温かかった。
クラウディオは目を閉じた。
城の外には、入っていい場所がある。
汚れた手を責めずに拭く人がいる。
多すぎる金を返す店がある。
自分を血筋ではなく、王位でもなく、ただ名前で呼ぶ声がある。
クラウ。
偽りの短い名だった。
それでも、その響きは夜の底で何度も戻ってきた。
翌朝、マルタが部屋に入った時、クラウディオはいつものように寝台の端に座っていた。
顔は静かだった。
泣いた跡もない。
笑った跡もない。
ただ、枕元に置いた紙包みはもう消えていた。
焼き菓子は、夜のうちに食べてしまった。
最後のひとかけらまで。
名残の甘さだけが、舌の奥に残っている。
マルタは彼の顔を見て、怪訝そうに眉を寄せた。
「何か、よいことでも?」
クラウディオは答えなかった。
言えば、奪われる。
この城では、温かいものほど早く踏まれる。
だから言わない。
隠す。
覚える。
守る。
クラウディオはいつも通り、冷たい水で顔を拭われた。
櫛が髪を引く。
襟元を整えられる。
妾腹とはいえ、とマルタが言う。
王城の恥にならぬように、と続ける。
クラウディオは黙っていた。
けれど、その沈黙の奥に、昨日までなかったものが一つだけあった。
城下の小さな菓子屋。
ロウェナ・ミル。
白い手。
焼き菓子。
クラウと呼ぶ声。
王城の誰も、それを知らない。
知らないままでいい。
クラウディオは鏡の中の自分を見た。
黒髪。
白い肌。
琥珀色の瞳。
妾の子。
王の血を引く半端な子。
誰にも望まれず、誰にも正しく呼ばれない子ども。
けれど、昨日、彼は菓子を食べた。
温かい手で汚れを拭われた。
名前を呼ばれた。
それだけのことだった。
たったそれだけのことが、王城のどの宝石よりも重かった。
マルタが扉を開ける。
「参ります」
クラウディオは歩き出した。
廊下は冷たい。
青白い燭火が揺れている。
すれ違う従者が、また小さく笑う。
誰かが妾の子と囁く。
彼は振り返らない。
ただ、外套の内側に残った蜂蜜の匂いを思い出した。
そして、心の奥で、誰にも聞こえないように繰り返した。
ロウェナ。
クラウ。
温かい水。
焼き菓子。
その記憶は、まだ小さかった。
けれど、いつか火刑台の炎に汚されるその日まで、クラウディオの中で、何よりも柔らかく燃え続けることになる。




