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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第2話 白い手と焼き菓子




 クラウディオは、王城の外を知らなかった。


 いや、正しくは、知らされていなかった。


 黒い石壁の内側。青白い魔導灯の下。血杯の赤と、銀器の冷たい光。王族たちの笑い声。従者たちの小さな悪意。礼法教師の「もう一度」。侍女の櫛。焦げた肉の苦味。


 それが、クラウディオに与えられた世界だった。


 王城の外にも街があることは知っている。城下町ルグランディア。人間と吸血鬼が混ざって暮らす、王都の心臓。古い教会区、商人通り、倉庫街、貴族街、下層の水路、夜ごと血と金が動く闇市。


 教師は地図の上で教えた。


 けれど地図に描かれた町は、町ではなかった。


 線と区画と名称。


 そこに匂いはない。


 足音もない。


 人の声も、焼けた砂糖の甘さもない。


 クラウディオが初めて王城の外へ出たのは、王族の子どもたちが教会区の儀礼へ連れていかれた帰りだった。


 その日、空は厚い雲に覆われていた。


 吸血鬼にとっては都合のいい昼だった。太陽は雲の向こうで鈍く滲み、王都の石畳には淡い灰色の光だけが落ちていた。王城の馬車は黒塗りで、窓には遮光紋を刻んだ硝子がはめ込まれている。


 クラウディオは馬車の隅に座っていた。


 向かいにはリヴィアがいる。銀の髪飾りを揺らし、退屈そうに窓の外を見ていた。隣にはセヴラン。彼は外の景色に興味がないふりをしているが、時折、視線だけが街並みへ流れる。


 アドリアンは別の馬車だった。


 正妃に近い王子は、同じ馬車に押し込まれない。


 クラウディオは窓の外を見ないようにしていた。


 見たいと思えば、リヴィアが笑う。珍しそうに見ていると気づかれれば、王城育ちのくせに下町に目を奪われていると嗤われる。


 だから彼は、窓に映った自分の顔を見ていた。


 黒髪。


 白い頬。


 まだ幼い輪郭。


 唇の端には、数日前に切れた傷の名残が薄く残っている。


 その向こうで、街が流れていた。


 黒硝子越しでも、色は見える。


 王城にはない色だった。


 布屋の軒先に垂れた濃い藍。


 果物売りの籠に積まれた赤。


 薬草商の束ねた緑。


 石畳に落ちる水の反射。


 人間の子どもが走っていく背中。


 吸血鬼の女が日避けの帽子を深くかぶり、店先で銀貨を渡す指先。


 世界は、城の中よりずっと雑然としていた。


 そして、少しだけ温かく見えた。


「そんなに見たいの?」


 リヴィアの声がした。


 クラウディオは視線を動かさなかった。


「見ていません」


「嘘。硝子に映っているもの」


 リヴィアは小さく笑った。


「城下が珍しいのね。可哀想。閉じ込められた子犬みたい」


 セヴランが鼻で笑った。


「子犬ならまだ愛嬌がある」


 クラウディオは黙っていた。


 子犬。


 愛嬌。


 そういう言葉が自分に向かないことは、彼自身がよく知っていた。


 馬車が大きく揺れた。


 外で馬が嘶き、御者の短い声が響く。車輪が石の段差に引っかかったらしい。リヴィアが小さく悲鳴を上げ、セヴランが眉をひそめた。


 クラウディオの身体も揺れた。


 反射的に窓枠へ手をつく。


 その時だった。


 黒硝子の向こうに、小さな横道が見えた。


 王城へ戻る大通りから少し外れた、細い坂道。その途中に、古びた木の看板が下がっている。


 丸い菓子の絵。


 薄い金色の文字。


 看板の下から、白い湯気のようなものが立っていた。


 その匂いが、馬車の隙間から入り込んだ。


 甘い。


 クラウディオは、息を止めた。


 砂糖の匂い。


 焼いた小麦。


 溶けたバター。


 ほんの少し焦げた蜂蜜。


 王城の菓子とは違う。王城で出される菓子は美しい。形が整っていて、皿の上で宝石のように並んでいる。だが匂いは薄い。儀礼の一部であり、味わうものではない。


 この匂いは違った。


 誰かの手で焼かれた匂いがした。


 火と粉と甘さが混ざり、狭い店の奥から道へ零れている。


「なに、この匂い」


 リヴィアが眉を寄せた。


「下町の菓子だろう」


 セヴランは不快そうに言った。


「香りが強すぎる」


 クラウディオは、何も言わなかった。


 けれど、手は窓枠に置かれたままだった。


 馬車が動き出す。


 看板が遠ざかる。


 甘い匂いも薄くなる。


 クラウディオは、初めて、王城へ戻りたくないと思った。


 その夜、彼は床下の紙片に一行だけ書き加えた。


 坂道。


 丸い菓子の看板。


 甘い匂い。


 店の名までは読めなかった。


 だが場所は覚えた。


 クラウディオは忘れることが下手だった。


 それは、時に祝福のようで、ほとんどの場合は呪いに近かった。


 数日後、彼は王城を抜け出した。


 計画というほど立派なものではない。王城には無数の通路があり、王族のための大階段とは別に、従者や物資が通る細い通路がいくつもある。誰もクラウディオが逃げ出すとは思っていなかった。逃げる場所がないと思われていたからだ。


 その油断が、いちばん大きな鍵だった。


 昼近く、礼法の稽古が終わったあと、マルタが薬草室へ呼ばれた。膝の傷はもう塞がっていたが、痛みの記憶は残っている。クラウディオは部屋で休んでいるように命じられた。


 彼は扉が閉まる音を聞き、しばらく待った。


 足音が遠ざかる。


 廊下の空気が静まる。


 それから、寝台の下から小さな外套を取り出した。王族用のものではない。古い従者服を切って作った黒い布だ。少し大きく、袖が長い。頭巾をかぶれば顔の半分は隠れる。


 床下の紙片の隣には、いつか使うために隠しておいた銀貨が三枚あった。


 誰かが落としたもの。


 拾っても届けなかったもの。


 届ければ褒められるかもしれない。だが褒める者は忘れる。銀貨は忘れない。


 クラウディオはそのうち一枚だけを取った。


 部屋を出る。


 廊下は静かだった。青白い魔導灯が壁を照らしている。彼は音を立てずに歩いた。王族の歩き方ではない。従者の歩き方でもない。誰にも見つからないための歩き方だった。


 使用人用の階段を降りる。


 洗濯室の裏を通る。


 荷運び用の小門へ向かう。


 途中で、従者二人の声が聞こえた。


「妾の子は?」


「部屋だろう。どうせ本でも読んでいる」


「気味が悪いな、あの子ども」


「泣くところを見たことがない」


「泣けないんじゃないのか」


「それとも、泣くほどの心がないのかもな」


 クラウディオは壁の影に隠れていた。


 声の主は見えない。


 だが声は覚えた。


 片方はミルゴ。


 もう片方は知らない。少し鼻にかかった低い声。金属の留め具が歩くたびに鳴る。おそらく衛兵見習い。


 覚えた。


 通路が空く。


 クラウディオは小門を抜けた。


 王城の外気が、頬に触れた。


 冷たいのに、重くない。


 城の冷気とは違う。


 街の空気には、いろいろなものが混ざっていた。石畳の湿り気。馬の匂い。焼いたパン。魚。血。薬草。雨の気配。人間の汗。吸血鬼の香油。煙突から落ちる煤。


 雑で、騒がしく、整っていない。


 だからこそ、息がしやすかった。


 クラウディオは頭巾を深くかぶり、坂道を目指した。


 城下町は、地図で見たより複雑だった。大通りは馬車が行き交い、商人が声を張り上げている。昼でも日避けの幕が張られている通りでは、吸血鬼たちがゆっくり歩いていた。人間は彼らを避ける。避けながら、それでも店を開け、荷を運び、生活している。


 クラウディオは人波の中に紛れた。


 小さい身体は、こういう時だけ都合がよかった。


 誰も彼を王の子とは思わない。


 誰も頭を下げない。


 誰も妾の子と嗤わない。


 ただ、小さな黒い外套の子どもが一人、通りを歩いているだけだった。


 それが不思議だった。


 王城では、彼は常に何かだった。


 妾の子。


 正妃の目障り。


 王の失敗。


 血の薄い子。


 半端な王族。


 ここでは、誰も彼を知らない。


 知らないということが、こんなにも軽いとは思わなかった。


 坂道を見つけた時、甘い匂いが先に届いた。


 クラウディオは足を止めた。


 数日前、馬車の中で嗅いだ匂い。


 砂糖。


 小麦。


 バター。


 蜂蜜。


 火。


 丸い菓子の看板が揺れている。


 店は小さかった。


 王城の広間なら、隅の飾り棚ほどの広さしかないかもしれない。木の扉は古く、窓硝子には細かな傷がある。窓辺には焼き上がった菓子が並べられ、白い布の上で淡い金色に光っていた。


 クラウディオは扉の前に立った。


 入っていいのか分からなかった。


 金はある。


 銀貨が一枚。


 だが買い物の仕方を知らない。


 王城では、欲しいものを自分で買うことなどない。用意されるか、与えられないか。そのどちらかだった。


 扉の取っ手に手を伸ばしかける。


 その手が汚れていることに、そこで気づいた。


 王城を抜ける途中、壁の煤に触れたのだろう。小さな指先が黒く汚れている。爪の間にも汚れが入っている。王城なら、マルタが嫌な顔をする。リヴィアなら笑う。セヴランなら鼻で息を吐く。アドリアンなら優しい声で、下男の手だと言うかもしれない。


 クラウディオは手を引っ込めた。


 その時、扉が内側から開いた。


「あら」


 声が降ってきた。


 クラウディオは顔を上げた。


 店の中から出てきたのは、若い女だった。


 二十代の半ばほどに見える。人間か、吸血鬼の血が薄く混じった者か、すぐには分からない。栗色の髪を後ろでまとめ、白い前掛けをつけている。袖を肘までまくった腕には、粉が薄くついていた。


 そして、手が白かった。


 王城の女たちのように、宝石で飾られた白さではない。


 粉と砂糖にまみれた白さ。


 働いた手だった。


 女はクラウディオを見て、少し目を丸くした。


「お客さん?」


 クラウディオは答えられなかった。


 お客さん。


 その言葉が、自分に向けられるとは思わなかった。


 女は屈んだ。


 目線が近くなる。


 王城の者は、クラウディオを見る時、たいてい見下ろす。小さいことを思い知らせるために。自分の方が上だと、角度で教えるために。


 だが、この女は屈んだ。


 覗き込むのではなく、近づいた。


「迷子?」


 クラウディオは首を横に振った。


「違う」


 声が少し硬くなった。


 女は笑わなかった。


「じゃあ、お菓子を買いに来た?」


 クラウディオは黙った。


 それは、肯定に近かった。


 女は彼の手元を見た。


 煤で汚れた指。


 握りしめられた銀貨。


 長すぎる外套の袖。


 それから、彼の顔を見た。


 正確には、顔を隠す頭巾の奥を見ようとはしなかった。


「寒いでしょう。中に入る?」


「……いいのか」


「お店だからね」


 女は扉を大きく開いた。


「入っていい場所だよ」


 入っていい場所。


 その言葉もまた、クラウディオには馴染みがなかった。


 王城には、入ってはいけない場所ばかりだった。


 正妃の庭。


 王の書庫。


 兄弟たちの遊戯室。


 血術の訓練場。


 古い地下礼拝堂。


 入っていいと言われても、そこに居ていいとは限らない場所ばかりだった。


 クラウディオは一歩、店の中へ入った。


 温かかった。


 火の熱がある。


 焼き窯の奥で、赤い火が小さく揺れていた。店の中は狭く、棚には菓子が並んでいる。丸い焼き菓子、細長い砂糖菓子、蜂蜜を塗った小さなパン、木の実を混ぜた菓子。どれも王城の皿に並ぶ菓子ほど整っていない。


 少し形が違う。


 焼き色も均一ではない。


 端が濃く焼けたものもある。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 女はカウンターの内側へ回ると、小さな桶から水を汲んだ。


「手、洗おうか」


 クラウディオの肩がこわばった。


 女はすぐにそれに気づいた。


「怒ってるんじゃないよ。せっかくのお菓子が煤だらけになったら、もったいないから」


 クラウディオは自分の手を見た。


 汚い手。


 王城なら、汚れた手を責められる。


 ここでは、菓子がもったいないと言われた。


 彼はゆっくり手を出した。


 女は白い布を水に浸し、軽く絞った。


 その手が、クラウディオの指に触れる。


 彼は反射的に身を引きかけた。


 痛くされると思ったからだ。


 水は温かかった。


 布も柔らかかった。


 女は、指先の煤を丁寧に拭いた。


 爪の間に入った黒い汚れも、無理に擦らず、少しずつ落としていく。強く引かない。痛ませようとしない。汚れていることを責めない。


 クラウディオは、動けなかった。


 手を拭かれることなら、王城でも毎朝されている。


 けれど、これは違った。


 マルタの手は、彼を整える。


 見苦しくない形にする。


 王城の恥にならないようにする。


 この女の手は、ただ汚れを落としていた。


 小さな指を一本ずつ持ち上げ、布で包むように拭う。


 白い手。


 粉の匂い。


 温かい水。


 クラウディオは、息の仕方を忘れそうになった。


「痛くない?」


 女が聞いた。


 クラウディオは顔を上げた。


 痛くないか。


 痛むなら言っていいのか。


 それは罠ではないのか。


 痛いと言えば笑われるのではないのか。


 クラウディオは彼女の顔を見た。


 女は、答えを急かさなかった。


 ただ待っていた。


「……痛くない」


「そっか。よかった」


 よかった。


 その言葉が、彼の中で妙に響いた。


 痛くないことを、誰かがよかったと言った。


 そんなことは初めてだった。


 手が綺麗になると、女は乾いた布で軽く包んだ。


「はい。これで大丈夫」


 クラウディオは自分の手を見た。


 小さく、白い。


 けれど今は、王城で見下ろされる手ではなかった。


 菓子を持っていい手だった。


「どれにする?」


 女が棚を示した。


 クラウディオは並んだ菓子を見た。


 どれが良いのか分からない。


 美しいものを選ぶべきなのか。


 高いものを選ぶべきなのか。


 銀貨一枚で何が買えるのかも分からない。


 彼は握りしめていた銀貨を差し出した。


「これで買えるものを」


 女は銀貨を見て、少し困った顔をした。


「それだと多いね」


 多い。


 クラウディオは瞬きをした。


「多いのか」


「うん。うちのお菓子、王様の宴会用じゃないから」


 王様。


 その言葉に、クラウディオの指がわずかに動いた。


 女は気づかなかったのか、気づいても触れなかったのか、棚から丸い焼き菓子を一つ取った。


「初めてなら、これがいいと思う」


 手のひらほどの、小さな焼き菓子だった。


 表面に蜂蜜が薄く塗られ、端は少し濃い色に焼けている。上には砕いた木の実が散らされていた。形は完全な円ではない。少し歪んでいる。


 女はそれを白い紙に乗せ、クラウディオへ差し出した。


「はい」


 クラウディオは受け取らなかった。


「金は」


「いいよ」


「なぜ」


「焼きすぎたから」


 クラウディオは菓子を見た。


 焼きすぎた。


 王城で出された焦げた肉のことを思い出す。


 あれは嘲るための焦げだった。


 これは違う。


 確かに端は少し濃く焼けている。


 けれど匂いは甘い。


 焦げではなく、火の温度の匂いがした。


「売り物ではないのか」


「売り物にできないほどじゃないけど、綺麗な形の方から売るからね。これは私のおやつになる予定だったの」


「なら、あなたのものだ」


「じゃあ、半分こにする?」


 クラウディオは言葉を失った。


 半分。


 王城では、彼に与えられるものは残り物か、形だけのものだった。分け与えられることはあっても、それは相手の余裕を見せつけるためだった。


 だが、この女は本当に半分に割ろうとしている。


 女は焼き菓子をそっと二つに割った。


 中から湯気が少し立った。


 甘い匂いが強くなる。


 彼女は大きい方をクラウディオへ渡した。


「はい」


「大きい」


「子どもは大きい方」


「なぜ」


「そういうもの」


 理由になっていなかった。


 けれど、クラウディオは反論できなかった。


 白い紙ごと受け取る。


 焼き菓子は温かかった。


 指先に熱が移る。


 クラウディオはしばらく、それを見ていた。


「食べないの?」


 女が聞く。


「食べていいのか」


 口に出してから、自分でも奇妙な問いだと思った。


 もらった。


 食べるためのもの。


 それなのに、許可を取ってしまった。


 女は笑わなかった。


「うん。食べていいよ」


 クラウディオは、小さくかじった。


 表面は少し硬い。


 中は柔らかい。


 蜂蜜の甘さと、木の実の香ばしさが広がる。王城の菓子ほど繊細ではない。砂糖の粒も少し舌に触れる。焼き色の濃い端は、ほろ苦い。


 けれど、焦げた肉の苦さとはまるで違った。


 苦味が、甘さを深くしていた。


 クラウディオは、二口目を食べた。


 女は自分の分をかじりながら、嬉しそうに目を細めた。


「おいしい?」


 クラウディオは答えようとして、少し迷った。


 王城では、おいしいと言えば笑われることがある。焦げたものが好きなのね、と。下町の味が似合う、と。物を知らない子どもだ、と。


 けれど、この店にはリヴィアはいない。


 セヴランもいない。


 アドリアンも、正妃も、王もいない。


 女はただ、答えを待っている。


「……おいしい」


 小さな声だった。


 女は笑った。


「よかった」


 二度目の、よかった。


 クラウディオは焼き菓子を見た。


 おいしいと言ったら、よかったと言われた。


 痛くないと言った時と同じ声だった。


 誰かの都合のためではなく、彼がそう感じたことを受け取る声だった。


「あなた」


 クラウディオは言った。


 女は首を傾げる。


「名前は」


「ああ、私? ロウェナ。ロウェナ・ミル」


 ロウェナ。


 クラウディオは、その名を胸の内で繰り返した。


 ロウェナ・ミル。


 栗色の髪。白い前掛け。粉のついた手。温かい水。焼きすぎた菓子を半分にした。


 覚えた。


 ロウェナは、今度はクラウディオを見た。


「あなたは?」


 問われた瞬間、クラウディオの身体が硬くなった。


 名前。


 王城では、彼の名はあまり呼ばれない。


 妾の子。


 あの子。


 クラウディオ様、と呼ばれる時もあるが、その様には敬意がない。形だけ。発音の端に、薄い嘲りが混ざる。


 父である王が名を呼んだことはある。


 だが、それは温度のない確認だった。


 道具の名を呼ぶ声に近かった。


 名を名として呼ばれた記憶は、ほとんどない。


 クラウディオは答えるべきか迷った。


 王族だと知られたら、彼女は態度を変えるかもしれない。


 頭を下げるかもしれない。


 怖がるかもしれない。


 媚びるかもしれない。


 あるいは、厄介な子どもが来たと追い出すかもしれない。


 だから彼は、少しだけ嘘をついた。


「クラウ」


 短く切った名。


 王の名でも、王族の名でもないように。


 ロウェナは笑った。


「クラウ?」


 クラウディオは頷いた。


 そのまま受け入れられると思った。


 だがロウェナは、少しだけ彼を見つめた。


 そして、不意に言った。


「本当は、もう少し長い名前?」


 クラウディオの喉が詰まった。


 咎める声ではなかった。


 責める声でもない。


 ただ、気づいた声だった。


 彼は焼き菓子を持ったまま黙った。


 ロウェナは続けなかった。


 問い詰めなかった。


 ただ棚の上から小さな紙袋を取る。


「じゃあ、今日はクラウって呼ぶね」


 今日は。


 その言い方が、不思議だった。


 いつか本当の名を言ってもいいと、残してくれたように聞こえた。


 クラウディオは、焼き菓子をもう一口食べた。


 ロウェナは紙袋に小さな菓子を二つ入れた。


「持って帰る?」


「金は」


「さっきの銀貨で、十分すぎるくらい」


 クラウディオは銀貨を差し出した。


 ロウェナは受け取らず、代わりに小さな銅貨を何枚かカウンターへ置いた。


「おつり」


「いらない」


「いるよ」


「なぜ」


「多く払ったら、その分返す。それだけ」


 クラウディオは銅貨を見た。


 返す。


 多すぎるものを、返す。


 王城では、多く奪える者が勝つ。足りなく与える者が上に立つ。返すという考えは、あまり見たことがなかった。


「受け取らないと、次に買いに来られないでしょう?」


 次。


 クラウディオは顔を上げた。


「また来ていいのか」


「お店だからね」


 ロウェナは同じように笑った。


「それに、手を洗ってからなら、いつでも」


 手を洗ってから。


 彼女にとって、条件はそれだけだった。


 血筋ではない。


 王位ではない。


 妾腹でもない。


 礼法でもない。


 誰の子かでもない。


 手を洗って、菓子を買う。


 それだけ。


 クラウディオは銅貨を受け取った。


 紙袋も受け取った。


 ロウェナは店の扉を開けてくれた。


 外の空気が入る。


 石畳の湿り気と、遠くの馬の匂いが混ざる。店の温かさが、背中から少しずつ離れていく。


 クラウディオは扉の前で立ち止まった。


 言うべき言葉を探した。


 ありがとう。


 その言葉は知っている。


 礼法で習った。


 けれど王城で口にするありがとうは、ただの形だった。感謝ではなく、儀礼の一部。言えば済む言葉。心などなくても整う言葉。


 今ここで言えば、違う意味になる気がした。


 その違いが怖かった。


 ロウェナは急かさなかった。


 クラウディオは、小さく言った。


「……また来る」


 ありがとうではなかった。


 けれどロウェナは、満足そうに笑った。


「うん。待ってるね、クラウ」


 クラウ。


 短い名。


 偽った名。


 それでも、彼女の声の中では、蔑みではなかった。


 クラウディオは店を出た。


 坂道を下る間、紙袋を外套の内側に隠した。誰にも見つからないように。潰れないように。温かさが逃げないように。


 街のざわめきが耳に戻ってくる。


 売り声。


 馬車の音。


 水を撒く音。


 誰かの笑い声。


 王城へ戻る道は、行きより少しだけ遠く感じた。


 帰りたくないと思ったからだ。


 小門へ戻る頃には、紙袋の温かさはほとんど消えていた。それでも、甘い匂いは残っている。クラウディオは何度も外套の上から袋に触れた。


 王城の中へ入ると、空気が変わった。


 冷たい。


 重い。


 青白い。


 遠くでマルタの声がする。


 誰かを探しているらしい。


 クラウディオは急いで部屋へ戻った。


 外套を隠す。


 銀貨の残りと銅貨を床下へ戻す。


 紙袋だけを机の引き出しに入れようとして、手を止めた。


 ここでは駄目だ。


 マルタが見つける。


 彼は寝台の下の床板を外した。


 名前の紙片がある。


 罪の記録がある。


 その隣へ、紙袋を置こうとして、やめた。


 菓子をそこへ置きたくなかった。


 あそこは冷たい場所だった。


 忘れないための場所。


 いつか返すための場所。


 ロウェナの菓子は、そこに置くものではない。


 クラウディオは部屋を見回した。


 隠し場所など多くない。


 結局、寝台の奥、枕の下へ紙袋を入れた。


 その時、扉が開いた。


 マルタだった。


 彼女は部屋へ入り、クラウディオを見た。


「どちらへ」


 声が低い。


 クラウディオは机の前に立ったまま、振り返った。


「部屋にいた」


「嘘をおっしゃらないでください」


 マルタは近づいた。


 目が鋭い。


「外套はどこです」


「知らない」


「クラウディオ様」


 様がついた。


 だが、敬意はない。


「勝手に部屋を出れば、私が叱責を受けます」


 私が。


 クラウディオはその言葉を聞いた。


 彼を心配しているのではない。


 自分が叱られることを恐れている。


 それは別に珍しいことではなかった。


 王城では、誰もが自分の立場を守るために誰かを踏む。


 クラウディオは言った。


「迷惑をかけた」


 マルタは一瞬、目を丸くした。


 謝罪を期待していたわけではないのだろう。


 叱る準備をしていた顔が、少し崩れた。


「……今後はお控えください」


「分かった」


 マルタはなおも疑うように部屋を見回したが、枕の下までは見なかった。


 彼女が去った後、クラウディオはしばらく動かなかった。


 扉の向こうの足音が完全に遠ざかる。


 それから、枕の下から紙袋を取り出した。


 中には小さな焼き菓子が二つ。


 一つは丸いもの。


 もう一つは細長く、砂糖がかかっている。


 クラウディオは丸い方を手に取った。


 もう冷めていた。


 それでも、口に入れると甘かった。


 王城の空気の中で食べると、店で食べた時よりも、甘さがはっきりした。


 まるで、あの小さな店だけが、別の世界として口の中に戻ってくるようだった。


 クラウディオは半分だけ食べた。


 残りは紙に包み直した。


 全部食べてしまうのが惜しかった。


 その夜、彼は床下の紙片を出した。


 ミルゴ。


 ベルニエ。


 マルタ。


 オルガン。


 リヴィア。


 セヴラン。


 アドリアン。


 エレオノーラ。


 ヴァレンティヌス。


 それらの名前が並んだ紙とは別に、新しい紙を出す。


 そして、書いた。


 ロウェナ・ミル。


 菓子屋。


 栗色の髪。白い前掛け。粉のついた手。温かい水。汚れた手を責めなかった。焼き菓子を半分にした。大きい方をくれた。痛くないと言ったら、よかったと言った。おいしいと言ったら、よかったと言った。


 少し迷ってから、もう一行書く。


 クラウと呼んだ。


 ペン先が止まる。


 クラウ。


 正しい名ではない。


 だが、初めて、名前が刃ではないものになった。


 クラウディオは紙を折らなかった。


 床下へも入れなかった。


 その紙だけは、机の奥にしまった。


 罪の記録と同じ場所へ入れる気にはなれなかった。


 部屋は相変わらず冷えていた。


 暖炉には火がない。


 青白い魔導灯の光が、扉の隙間から細く床を切っている。


 膝の痛みは、もうほとんど消えている。


 唇の傷も塞がりかけていた。


 けれど、手にはまだ温かい布の感触が残っていた。


 汚れた指を一本ずつ拭う白い手。


 痛くないかと聞く声。


 おいしいと言った時の、よかった。


 クラウディオは寝台に横になった。


 枕元に、残りの焼き菓子を包んだ紙を置く。


 眠る前、彼は指先を鼻に近づけた。


 ほんのわずかに、蜂蜜と小麦の匂いがした。


 王城の匂いではない。


 血杯でも、銀器でも、冷たい水でも、焦げた肉でもない。


 それは小さく、弱く、すぐに消えてしまいそうな匂いだった。


 だからこそ、クラウディオは必死に覚えた。


 誰かの顔と名前を覚える時とは違う。


 いつか裁くためではない。


 いつか返すためでもない。


 失くしたくないから覚えた。


 その違いを、彼はまだうまく言葉にできなかった。


 ただ胸の奥で、黒い種の隣に、別のものが落ちた気がした。


 冷たい種ではない。


 小さな火種だった。


 弱く、頼りなく、吹けば消えるほどの火。


 けれど、それは確かに温かかった。


 クラウディオは目を閉じた。


 城の外には、入っていい場所がある。


 汚れた手を責めずに拭く人がいる。


 多すぎる金を返す店がある。


 自分を血筋ではなく、王位でもなく、ただ名前で呼ぶ声がある。


 クラウ。


 偽りの短い名だった。


 それでも、その響きは夜の底で何度も戻ってきた。


 翌朝、マルタが部屋に入った時、クラウディオはいつものように寝台の端に座っていた。


 顔は静かだった。


 泣いた跡もない。


 笑った跡もない。


 ただ、枕元に置いた紙包みはもう消えていた。


 焼き菓子は、夜のうちに食べてしまった。


 最後のひとかけらまで。


 名残の甘さだけが、舌の奥に残っている。


 マルタは彼の顔を見て、怪訝そうに眉を寄せた。


「何か、よいことでも?」


 クラウディオは答えなかった。


 言えば、奪われる。


 この城では、温かいものほど早く踏まれる。


 だから言わない。


 隠す。


 覚える。


 守る。


 クラウディオはいつも通り、冷たい水で顔を拭われた。


 櫛が髪を引く。


 襟元を整えられる。


 妾腹とはいえ、とマルタが言う。


 王城の恥にならぬように、と続ける。


 クラウディオは黙っていた。


 けれど、その沈黙の奥に、昨日までなかったものが一つだけあった。


 城下の小さな菓子屋。


 ロウェナ・ミル。


 白い手。


 焼き菓子。


 クラウと呼ぶ声。


 王城の誰も、それを知らない。


 知らないままでいい。


 クラウディオは鏡の中の自分を見た。


 黒髪。


 白い肌。


 琥珀色の瞳。


 妾の子。


 王の血を引く半端な子。


 誰にも望まれず、誰にも正しく呼ばれない子ども。


 けれど、昨日、彼は菓子を食べた。


 温かい手で汚れを拭われた。


 名前を呼ばれた。


 それだけのことだった。


 たったそれだけのことが、王城のどの宝石よりも重かった。


 マルタが扉を開ける。


「参ります」


 クラウディオは歩き出した。


 廊下は冷たい。


 青白い燭火が揺れている。


 すれ違う従者が、また小さく笑う。


 誰かが妾の子と囁く。


 彼は振り返らない。


 ただ、外套の内側に残った蜂蜜の匂いを思い出した。


 そして、心の奥で、誰にも聞こえないように繰り返した。


 ロウェナ。


 クラウ。


 温かい水。


 焼き菓子。


 その記憶は、まだ小さかった。


 けれど、いつか火刑台の炎に汚されるその日まで、クラウディオの中で、何よりも柔らかく燃え続けることになる。


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