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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第1話 妾の子


第30話までクラウディアの幼少期から王座を手に入れる話となります。






 ルジェリウス王城の石床は、いつも冷えていた。


 夜を支配する吸血鬼たちの城に、朝日は入らない。分厚い黒硝子、血で染めた遮光幕、古い魔導紋を刻んだ壁が、外の光を拒んでいる。けれど、光が差さないからといって、朝が来ないわけではなかった。


 城下で鐘が鳴る。


 人間たちにとっては一日の始まりを告げる鐘。吸血鬼たちにとっては夜の終わりを知らせる鐘。王城の深部にまで、その鈍い音は届いた。


 クラウディオは目を開けた。


 眠っていたわけではない。眠るふりをしていただけだった。


 小さな部屋だった。


 王の血を引く子どもの部屋とは思えないほど、飾り気がなかった。壁に掛けられた絵も、柔らかな絨毯も、香炉もない。暖炉はあるが、火は落とされている。黒木の寝台は幼い身体には大きすぎるのに、置かれた寝具は薄かった。


 クラウディオは寝台の上で膝を抱えたまま、扉を見ていた。


 鐘が三度鳴り終わる。


 それから少し遅れて、扉の向こうで足音が止まった。


「起きておいでですか」


 返事を待たず、扉が開いた。


 入ってきたのは、侍女のマルタだった。灰色の髪を固く結い上げ、喉元まで詰まった黒い侍女服を着ている。顔には年相応の皺があるが、表情には柔らかさがない。


 彼女は部屋に入り、まず暖炉を見た。


 火が消えていることを確認しても、薪をくべようとはしない。


 次に、寝台の上のクラウディオを見た。


「お支度を」


 それだけだった。


 王の子に向ける声ではない。けれど、使用人に向ける声よりはわずかに丁寧だった。その半端さが、クラウディオの立場そのものだった。


 クラウディオは寝台から降りた。


 裸足が石床に触れる。


 冷たい。


 けれど彼は顔を歪めなかった。


 マルタが水を含ませた布で顔を拭う。水は冷え切っていた。布は硬く、頬を擦る力は強すぎる。唇の端が切れ、薄く血が滲んだ。


 マルタの手が一瞬止まる。


 クラウディオは何も言わなかった。


 痛い、とも。


 冷たい、とも。


 マルタは薄く息を吐いた。


「少しは痛がればよろしいのに」


 クラウディオは答えなかった。


 侍女は櫛を取った。黒髪を梳く手つきは丁寧ではない。絡まった髪を解くより、引き千切らない程度に押さえつけるための動きだった。櫛の歯が頭皮を引く。


 幼い指が、寝衣の裾を掴んだ。


 それだけだった。


「本日は王族の朝餐に同席なさいます」


 マルタは淡々と言った。


「余計なことはおっしゃらないように。陛下に問われた時だけ、お答えください。王子殿下方に口を挟むなど、もってのほかです」


「分かっている」


 幼い声だった。


 けれど、その声には甘えがない。


 マルタは鏡越しにクラウディオを見た。


 その目には、わずかな苛立ちがあった。


 子どもなら、もっと扱いやすいはずだった。怯え、泣き、縋り、怒り、すぐに顔へ出す。そうすれば、大人たちはそれを見て笑える。憐れむこともできる。躾けたつもりにもなれる。


 だがクラウディオは、泣かなかった。


 怯えを見せなかった。


 縋らなかった。


 怒りもしなかった。


 ただ、見ていた。


 その目が、城の者たちを不快にさせる。


 幼いくせに、何かを覚えているような目。


 何かを待っているような目。


 それが気味悪いのだと、誰かが言っていた。


「妾腹とはいえ、陛下のお子です」


 マルタは襟元を整えながら言った。


「せめて王城の恥にならぬようになさいませ」


 妾腹。


 その言葉を聞いても、クラウディオは瞬きもしなかった。


 何度も聞いた言葉だった。


 妾の子。


 半端な血。


 夜の気まぐれ。


 正妃の目障り。


 王が忘れたかった子。


 誰が最初にそう呼んだのかは知らない。だが、誰がどの顔でそれを繰り返したかは覚えている。


 クラウディオは、忘れることが下手だった。


 それは弱点ではなかった。


 少なくとも、彼自身はそう思っていた。


 支度が終わると、マルタは扉を開けた。


 王城の廊下は長く、静かだった。黒い石床は磨き込まれ、天井から吊るされた青白い燭火が、冷たい光を落としている。壁には歴代の王の肖像が並んでいた。どの王も美しく、冷たく、血を当然のように従えていた。


 クラウディオは、その肖像の下を歩いた。


 マルタの半歩後ろを。


 本来なら、侍女が王族の子の後ろにつく。だがクラウディオには、それが許されない。誰かに明確に命じられたわけではない。けれど、王城では明文化されない規則ほど残酷に守られる。


 すれ違う従者たちは頭を下げた。


 形だけ。


 首だけ。


 目だけ。


 彼が通り過ぎると、声が落ちる。


「また朝餐に出るのか」


「陛下も気まぐれが過ぎる」


「正妃様のお心を思えば、気の毒に」


「どちらが?」


「もちろん、正妃様が」


 小さな笑い声。


 聞こえるように落とした声。


 聞こえないと言い張れる程度の悪意。


 クラウディオは歩き続けた。


 途中、若い従者が水差しを持って角を曲がってきた。


 ぶつかるほどではない。


 避ける余地もある。


 それなのに、従者はわざと足をずらした。


 クラウディオの爪先が、従者の靴に引っかかる。


 小さな身体が前へ傾いた。


 マルタは助けなかった。


 廊下の端で、別の従者が息を呑むように笑った。


 クラウディオは倒れなかった。


 片足を強く踏み、姿勢を戻す。まだ幼い膝が痛んだが、彼は床を見なかった。


 足を出した従者を見た。


 薄茶の髪。


 右目の下に小さな黒子。


 左手の薬指に古い傷。


 名はミルゴ。


 覚えた。


 ミルゴは大げさに頭を下げた。


「失礼いたしました。小さくて、見えませんでした」


 また笑い声。


 クラウディオは何も言わない。


 怒れば、癇癪。


 泣けば、みじめ。


 訴えれば、器が小さい。


 黙れば、弱いと思われる。


 ならば、黙ることだけは自分のものにする。


 そうすれば、誰にも奪われない。


 朝餐の間の扉は高かった。


 黒鉄に銀の蔦模様が彫られ、その中央にルジェリウス王家の紋章がある。翼を広げた蝙蝠。血を受ける王冠。子どもの目には、それは美しいというより、重たく見えた。


 扉が開く。


 広間には、長い黒檀の食卓が置かれていた。燭台の火が銀器に映り、血杯の赤が暗く光る。食卓には肉や果実、香草を練り込んだパンも並んでいたが、吸血鬼たちにとって、それらは儀礼の飾りに近い。


 上座に王がいた。


 ヴァレンティヌス・ルジェリウス。


 クラウディオの父。


 銀髪を背に流し、赤みを帯びた金の瞳を持つ男だった。美しい。あまりに美しく、感情を持たない彫像のように見える。黒と深紅の衣をまとい、指には王権を示す血石の指輪が光っていた。


 その隣には、正妃エレオノーラ。


 白金の髪を高く結い、氷のような微笑みを浮かべている。彼女はクラウディオを見た。見たというより、食卓に落ちた染みを確認するような目だった。


 王子たちもいた。


 第一王子アドリアン。


 正妃の子。十五歳。すでに王太子候補としての教育を受け、座っているだけで周囲が道を譲るような雰囲気を持っている。青い瞳がクラウディオを捉え、柔らかく細められた。


 第二王子セヴラン。


 十二歳。線の細い少年だが、笑う時の口元に母の冷たさがある。


 第三王女リヴィア。


 十歳。銀髪に宝石を飾り、可憐な人形のような姿をしていた。だがクラウディオを見る目は、道端の虫を見る目に近い。


 クラウディオは上座へ向かい、礼をした。


「陛下」


 父とは呼ばない。


 呼ぶことを許された覚えがない。


 王は彼を見た。


 一瞬だけ。


 道具の出来を確かめるような視線だった。


「座れ」


「はい」


 クラウディオの席は、末席だった。


 王族の席ではある。


 だが王族の一員として扱うには遠く、使用人の席に落とすには近い。そういう位置だった。


 椅子は彼の身体には大きすぎた。座ると足が床に届ききらない。


 それを見て、リヴィアが笑った。


「子ども用の椅子を用意して差し上げたら?」


 セヴランが杯を持ち上げた。


「そうすると、乳母部屋のようになる」


 アドリアンは穏やかに言った。


「二人とも、やめなさい。クラウディオも一応、我々の弟だ」


 一応。


 その一言で、広間の空気がわずかに緩んだ。


 笑いを堪える従者。


 目を伏せる侍女。


 聞こえないふりをする大人たち。


 クラウディオは血杯の表面を見ていた。


 赤い液体に、自分の顔が映っている。


 小さく、歪んでいる。


 正妃が静かに言った。


「礼法教師を呼んでおります。王族の子らしく振る舞えるよう、皆で学ばねばなりません」


 王は血杯を持ったまま頷いた。


「ああ」


「皆で、でございますか」


 正妃の声は柔らかかった。


 柔らかいからこそ、刃が薄い。


「もちろん、クラウディオも?」


 王は答えない。


 それが答えだった。


 正妃の微笑みは崩れなかった。


「よろしいことです。血の薄い子ほど、形を覚えなければなりませんもの」


 リヴィアが口元を押さえて笑う。


 セヴランが言った。


「形で血が濃くなるなら、誰も苦労しないけれど」


 クラウディオは銀匙に触れた。


 銀器の表面に、セヴランの顔が歪んで映っている。


 覚えた。


 血が薄い。


 形で血は濃くならない。


 その時の正妃の指の角度。セヴランが杯を回す癖。リヴィアが笑う前に母の顔を見ること。アドリアンが止めるふりをして、一番深く刺すこと。


 全部、覚えた。


 従者がクラウディオの前に皿を置いた。


 肉料理だった。


 他の王子たちの皿より、明らかに肉の端が焦げている。添えられた果実も欠けていた。


 従者は頭を下げる。


「厨房の手違いでございます」


 声は謝っていた。


 顔は謝っていなかった。


 名はベルニエ。


 左耳に銀輪。


 正妃付きの従者。


 クラウディオはナイフを取った。


 焦げた肉を切る。


 香草と苦味が混じった匂いが立つ。


 リヴィアが明るく言った。


「おいしい?」


 クラウディオは肉を口へ運んだ。


 苦い。


 噛むたびに焦げの味が広がる。


 飲み込んだ。


「はい」


「まあ」


 リヴィアは嬉しそうに目を細めた。


「焦げたものがお好きなのね」


 セヴランが笑う。


 アドリアンも微笑む。


 正妃は嗜めない。


 王は何も言わない。


 クラウディオは、もう一口食べた。


 苦味は変わらない。


 だが、食べる手を止めなかった。


 止めれば負けだ。


 吐き出せば負けだ。


 泣けば、もっと負けだ。


 彼は焦げた肉を最後まで食べた。


 口の中に残った苦味を、血杯で流し込む。


 赤い液体は冷たかった。


 少し鉄臭い。


 その味だけが、やけにはっきりしていた。


 食事の間、王族たちは彼のいないところで話しているように会話を続けた。


 外交の話。


 教会区の監視。


 古参吸血鬼たちの派閥。


 外縁部で増えている野良吸血鬼。


 血税の徴収。


 王位継承をめぐる儀礼。


 子どもに聞かせる内容ではない。


 けれど、誰もクラウディオを子どもとして扱っていなかった。


 違う。


 子どもとして扱っていないのではない。


 聞いても理解できないと思っているのだ。


 クラウディオは黙って聞いていた。


 アドリアンがどの貴族名を口にした時、正妃が満足げに頷いたか。


 セヴランが兄の発言に嫉妬した瞬間、杯を持つ指に力が入ったこと。


 リヴィアが政治の話に興味を持っていないふりをしながら、母の反応だけは必ず見ていること。


 王が外縁部の被害報告には反応せず、「王城守備」という言葉でだけ指輪を撫でたこと。


 覚えた。


 言葉は刃になる。


 沈黙も刃になる。


 クラウディオはまだ刃を持っていない。


 けれど、刃の形を覚えることはできた。


「クラウディオ」


 突然、王が名を呼んだ。


 広間の空気が変わった。


 クラウディオは顔を上げる。


「はい、陛下」


「お前は今、何を学んでいる」


 正妃の目がわずかに細くなった。


 アドリアンが興味深そうにこちらを見る。


 セヴランは杯を止めた。


 リヴィアは笑う準備をしている。


 クラウディオは答えた。


「読み書きと、血統史を少し。礼法も」


「血術は」


「正式には、まだ」


「なぜだ」


 王の声は静かだった。


 その静けさが、広間の温度を下げた。


 クラウディオは正妃を見なかった。


 マルタも見なかった。


 教師たちが彼に血術を教えない理由など、子どもでも分かる。


 力を持たせたくないのだ。


 妾の子が王の血を証明することを、誰かが恐れている。


 クラウディオは答えた。


「まだ、その段階ではないと聞いております」


「誰に」


 正妃が血杯を置いた。


 小さな音だった。


 広間中に響いた。


 ここで名を出せば、誰かが罰を受けるかもしれない。


 だが、その者はクラウディオを恨むだろう。王が守るとは限らない。むしろ王は、守るかどうかさえ退屈そうに決めるだろう。


 クラウディオは幼いなりに、それを知っていた。


 だから、頭を下げた。


「教師たちの判断です」


「名を聞いた」


「一人の判断ではございません」


 広間がさらに静まる。


 クラウディオは続けた。


「ですから、私が未熟なのだと思います」


 正妃の目が冷えた。


 マルタが息を殺した。


 アドリアンの微笑みが消えた。


 王はクラウディオを見ていた。


 長い沈黙のあと、王は言った。


「そうか」


 それだけだった。


 だがクラウディオには分かった。


 今、王は初めて少しだけ自分を見た。


 哀れな妾の子としてではない。


 食卓の染みとしてでもない。


 ただの子どもとしてでもない。


 何かを選んだ者として見た。


 それが良いことなのか悪いことなのかは、まだ分からない。


 ただ、正妃が彼を嫌う理由が一つ増えたことだけは分かった。


 朝餐が終わると、王族の子どもたちは礼法室へ向かわされた。


 廊下を歩く間、アドリアンがクラウディオの隣に並んだ。


「賢い答えだったな」


 クラウディオは前を見たまま歩いた。


「誰の名も出さない。教師も侍女も敵に回さない。自分の未熟という形にして、父上には愚かではないと見せる」


 アドリアンの声は優しかった。


 優しい声で人を刺すことに慣れていた。


「だが、覚えておくといい」


 彼は足を止めた。


 クラウディオも止まる。


 アドリアンは少し身を屈めた。十五歳の王子から見れば、クラウディオはまだ小さい。見下ろすにはちょうどいい高さだった。


「妾の子が賢いことは、美点ではない」


 青い瞳が細められる。


「皆が困る」


 クラウディオはアドリアンを見上げた。


 何も言わない。


 アドリアンは微笑んだ。


「ほどほどに愚かでいろ。そうすれば、長生きできる」


 クラウディオは少しだけ頭を下げた。


「ご忠告、痛み入ります」


 アドリアンの笑みが止まった。


 礼を失してはいない。


 だが、子どもらしい返事でもない。


 アドリアンはゆっくり身を起こした。


「本当に可愛くない」


 クラウディオは、その声も覚えた。


 礼法室では、老教師オルガンが待っていた。


 背が高く、痩せた吸血鬼だった。灰色の髪を後ろへ撫でつけ、立っているだけで古い儀式書のような堅苦しさがある。かつて王族の儀礼官だったらしく、礼の形ひとつで相手の血筋まで裁くような目をしていた。


 最初の課題は、王前の礼だった。


 アドリアンは完璧だった。


 セヴランも硬いが正確だった。


 リヴィアは裾を美しく捌き、教師から褒められた。


 クラウディオの番になる。


 彼は教えられた通りに片膝を折り、右手を胸へ置き、頭を下げた。


 沈黙。


 長い沈黙。


 それから、オルガンが言った。


「もう一度」


 クラウディオは立ち、もう一度礼をした。


「もう一度」


 また立つ。


 また膝を折る。


「もう一度」


 何が違うのかは言われない。


 背の角度か。


 膝の位置か。


 指の揃え方か。


 視線の落とし方か。


 教えられない。


 ただ、違うと言われる。


 クラウディオは続けた。


 黒い石床は硬かった。片膝をつくたび、薄い布越しに痛みが骨へ響く。吸血鬼の子どもでも、痛みは消えない。何度も繰り返すうちに、膝の内側が熱を持ち始めた。


 リヴィアは退屈そうに笑っている。


 セヴランは窓のない壁を見ている。


 アドリアンだけが、クラウディオを観察していた。


「違います」


 オルガンが言う。


「王の血を引く者の礼ではありません」


 クラウディオは立つ。


「下男の礼です」


 また膝を折る。


「違います」


 また。


「もう一度」


 また。


 膝が床に触れた瞬間、鋭い痛みが走った。皮膚が裂けた。布の下で、血が滲む感覚がある。


 クラウディオの息が、一瞬だけ止まった。


 オルガンは見ていた。


 気づいていた。


「痛むなら、痛いとおっしゃってよろしいのですよ」


 慈悲の声ではなかった。


 誘いだった。


 痛いと言えば、笑う。


 泣けば、もっと笑う。


 王族の礼に耐えられない妾の子として、この場の記憶に残る。


 クラウディオはゆっくり顔を上げた。


「痛くありません」


 リヴィアがつまらなさそうに唇を尖らせる。


 オルガンは目を細めた。


「強情は礼ではありません」


「痛くありません」


 同じ言葉を、同じ声で返した。


 教師はしばらく黙っていた。


 やがて、細い指を軽く振る。


「では、続けましょう」


 その日、クラウディオは誰よりも長く礼をさせられた。


 膝は腫れた。


 足首は熱を持った。


 立ち上がるたびに、裂けた皮膚が布に擦れて痛んだ。


 それでも、彼は転ばなかった。


 泣かなかった。


 痛いと言わなかった。


 礼法の時間が終わり、廊下へ出た時、リヴィアが後ろから言った。


「ほんとに痛くなかったの?」


 クラウディオは振り返らない。


「痛くありません」


「嘘つき」


 リヴィアは笑った。


「でも、泣かないところだけは褒めてあげる」


 クラウディオは足を止めた。


 少しだけ振り返る。


 リヴィアは小首を傾げた。


「なに?」


「褒めなくて結構です」


 リヴィアの顔から笑みが消えた。


 彼女はすぐに母に似た冷たい目をした。


「妾の子のくせに」


 クラウディオは何も返さなかった。


 それ以上言えば、リヴィアは泣くかもしれない。泣けば周囲は彼女を慰めるだろう。小さな王女を泣かせた悪い子どもとして、クラウディオが責められる。


 だから、言わない。


 言葉を選ぶ。


 言葉を捨てる。


 言わなかった言葉も、刃として取っておく。


 部屋へ戻る途中、マルタが言った。


「なぜ、余計なことをおっしゃるのです」


「余計なこと?」


「王女殿下に対して」


「褒めなくていいと言っただけだ」


「それが余計なのです」


 マルタの声には疲労があった。


 心配ではない。


 面倒が増えたことへの苛立ちだった。


「お立場をお考えください」


 クラウディオは歩きながら言った。


「俺の立場とは?」


 マルタが足を止めた。


 クラウディオも止まる。


 廊下には二人しかいなかった。遠くの角を曲がる従者の足音が消える。青白い燭火が揺れている。


「あなた様は」


 マルタは言いかけて、口を閉じた。


 妾の子。


 そう言おうとしたのだ。


 クラウディオはじっと彼女を見た。


「言えばいい」


 幼い声だった。


 けれど、命令に似ていた。


 マルタは眉をひそめた。


「そのような口の利き方をなさるから、皆様に嫌われるのです」


「嫌われない口の利き方をすれば、好かれるのか」


 マルタは答えなかった。


 答えられるはずがなかった。


 クラウディオは小さく頷いた。


「そう」


 彼はまた歩き出した。


 部屋に戻ると、マルタは膝の手当てをした。


 裂けた皮膚に薬を塗る。吸血鬼の治癒力があれば、明日には塞がる。だから手当ては最低限だった。痛みを和らげる香油は使われない。


「じきに治ります」


 マルタは言った。


 つまり、問題ではないという意味だった。


 傷が塞がれば、痛んだこともなかったことになる。


 そういう扱いだった。


 クラウディオは何も言わなかった。


 マルタが去る。


 扉が閉まる。


 鍵はかからない。


 かける必要がないと思われているからだ。


 この子どもには、逃げる場所などない。


 クラウディオはしばらく寝台に座っていた。


 部屋は冷えている。


 膝が痛む。


 唇の切れたところも、まだ少しひりつく。


 口の奥には、焦げた肉の苦味が残っている気がした。


 彼は泣かなかった。


 泣けなかったのではない。


 泣く価値を、あの者たちに与えなかった。


 ゆっくり寝台から降りる。


 膝が痛んだ。


 足元が揺れた。


 それでも彼は机まで歩いた。


 小さな机の引き出しを開ける。そこには粗末な紙と羽根ペンが入っていた。勉学用に与えられたものだ。上等ではない。インクも薄く、紙もざらついている。


 クラウディオは椅子に座った。


 紙を広げる。


 ペンを取る。


 そして、書いた。


 ミルゴ。


 右目の下に黒子。左手薬指に古い傷。廊下で足を出した。小さくて見えなかったと言った。


 ベルニエ。


 左耳に銀輪。焦げた肉を出した。厨房の手違いと言った。


 マルタ。


 顔を強く拭く。櫛を強く引く。妾腹と言う。立場を考えろと言う。答えられない時、口を閉じる。


 オルガン。


 礼法教師。間違いを教えず、もう一度と言う。痛いと言わせようとした。


 リヴィア。


 母の顔を見てから笑う。焦げたものが好きなのね、と言った。妾の子のくせに、と言った。


 セヴラン。


 杯を回す。形式で血は濃くならないと言った。笑う前に犬歯の裏を舐める。


 アドリアン。


 青い目。優しい声で刺す。ほどほどに愚かでいろと言った。


 エレオノーラ。


 血の薄い子ほど形を覚えろと言った。笑う時、目が笑わない。


 ヴァレンティヌス。


 陛下。見ていた。問うた。止めなかった。


 最後の一行を書いた時、クラウディオの指が少し止まった。


 父ではない。


 陛下。


 そう書いた。


 インクが乾くまで待つ。


 待っている間、部屋の外から遠い笑い声が聞こえた。誰の声かは分からない。王城には笑う者が多い。誰かを踏む時、人はよく笑う。


 クラウディオは紙を折った。


 一度。


 二度。


 小さく、小さく。


 それから寝台の下へ膝をついた。


 痛みが走る。


 息が詰まりかけたが、声は出さない。


 床板の一枚を外す。


 そこには、すでにいくつもの紙片が隠されていた。


 名前。


 顔。


 声。


 仕草。


 言葉。


 忘れないための記録。


 誰にも見せない帳簿。


 クラウディオは新しい紙をそこへ入れた。


 床板を戻す。


 指先で隙間をなぞり、元通りに見えることを確かめる。


 それから寝台に戻った。


 部屋は暗い。


 黒硝子の向こうで、本当の朝がどうなっているのか、クラウディオは知らない。人間たちは今頃、白い光の中で歩いているのかもしれない。店を開け、火を入れ、パンを焼き、笑っているのかもしれない。


 王城には、そういう光はない。


 あるのは青白い燭火と、冷たい石床と、誰かを見下す声だけだった。


 クラウディオは寝台の上で膝を抱えた。


 傷が痛む。


 けれど、痛みは消える。


 明日には塞がる。


 明後日には、誰も今日の膝の傷など覚えていない。


 だから彼が覚える。


 誰も覚えていないなら、彼が忘れない。


 誰も罪だと思わないなら、彼が数える。


 誰も裁かれないなら、いつか彼が裁く。


 まだ、その言葉を彼は知らなかった。


 復讐という言葉も、粛清という言葉も、処刑という言葉も、王権という言葉の重さも、本当には知らなかった。


 ただ、胸の奥に小さな黒い種が落ちた。


 冷たく、硬い種だった。


 涙では溶けない。


 同情では腐らない。


 忘却では消えない。


 それは静かに沈み、幼いクラウディオの中で根を張り始めた。


 今はまだ、誰も彼を恐れていない。


 ミルゴは足を出して笑う。


 ベルニエは焦げた皿を置く。


 マルタは櫛を強く引く。


 オルガンは何度でも膝をつかせる。


 リヴィアは妾の子と嗤う。


 セヴランは血の薄さを語る。


 アドリアンは優しい声で愚かでいろと言う。


 正妃は形を覚えろと微笑む。


 王は見ているだけ。


 誰も、怖がらない。


 クラウディオは、それが不思議だった。


 こんなにも顔を覚えているのに。


 こんなにも声を覚えているのに。


 こんなにも、言葉を一つも捨てずにいるのに。


 なぜ、誰も怖がらないのだろう。


 幼い唇が、ほんの少しだけ笑った。


 子どもの笑みではなかった。


 泣く代わりに、彼は笑った。


 声もなく。


 誰にも見せず。


 暗い部屋の中で、琥珀色の瞳だけが、静かに光っていた。


 その夜、クラウディオは夢を見なかった。


 眠りの底でも、彼の中では名前が並んでいた。


 ミルゴ。


 ベルニエ。


 マルタ。


 オルガン。


 リヴィア。


 セヴラン。


 アドリアン。


 エレオノーラ。


 ヴァレンティヌス。


 ひとつも消えない。


 ひとつも薄れない。


 王城の石床は冷たい。


 だが、冷たいものは嫌いではない。


 熱いものは、いずれ消える。


 冷たいものは、長く残る。


 クラウディオは目を閉じた。


 膝の痛みを抱えたまま、朝と夜の境目で眠りに落ちていく。


 扉の向こうで、誰かの足音が遠ざかった。


 王城は彼を閉じ込めているつもりだった。


 誰も知らない。


 この小さな部屋の床下に、すでに王城の罪が一枚ずつ積まれていることを。


 誰も知らない。


 妾の子と呼ばれた幼い吸血鬼が、泣く代わりに名を記していることを。


 誰も知らない。


 彼がいつか王座に座る時、その記憶を一つも忘れていないことを。


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