第1話 妾の子
第30話までクラウディアの幼少期から王座を手に入れる話となります。
ルジェリウス王城の石床は、いつも冷えていた。
夜を支配する吸血鬼たちの城に、朝日は入らない。分厚い黒硝子、血で染めた遮光幕、古い魔導紋を刻んだ壁が、外の光を拒んでいる。けれど、光が差さないからといって、朝が来ないわけではなかった。
城下で鐘が鳴る。
人間たちにとっては一日の始まりを告げる鐘。吸血鬼たちにとっては夜の終わりを知らせる鐘。王城の深部にまで、その鈍い音は届いた。
クラウディオは目を開けた。
眠っていたわけではない。眠るふりをしていただけだった。
小さな部屋だった。
王の血を引く子どもの部屋とは思えないほど、飾り気がなかった。壁に掛けられた絵も、柔らかな絨毯も、香炉もない。暖炉はあるが、火は落とされている。黒木の寝台は幼い身体には大きすぎるのに、置かれた寝具は薄かった。
クラウディオは寝台の上で膝を抱えたまま、扉を見ていた。
鐘が三度鳴り終わる。
それから少し遅れて、扉の向こうで足音が止まった。
「起きておいでですか」
返事を待たず、扉が開いた。
入ってきたのは、侍女のマルタだった。灰色の髪を固く結い上げ、喉元まで詰まった黒い侍女服を着ている。顔には年相応の皺があるが、表情には柔らかさがない。
彼女は部屋に入り、まず暖炉を見た。
火が消えていることを確認しても、薪をくべようとはしない。
次に、寝台の上のクラウディオを見た。
「お支度を」
それだけだった。
王の子に向ける声ではない。けれど、使用人に向ける声よりはわずかに丁寧だった。その半端さが、クラウディオの立場そのものだった。
クラウディオは寝台から降りた。
裸足が石床に触れる。
冷たい。
けれど彼は顔を歪めなかった。
マルタが水を含ませた布で顔を拭う。水は冷え切っていた。布は硬く、頬を擦る力は強すぎる。唇の端が切れ、薄く血が滲んだ。
マルタの手が一瞬止まる。
クラウディオは何も言わなかった。
痛い、とも。
冷たい、とも。
マルタは薄く息を吐いた。
「少しは痛がればよろしいのに」
クラウディオは答えなかった。
侍女は櫛を取った。黒髪を梳く手つきは丁寧ではない。絡まった髪を解くより、引き千切らない程度に押さえつけるための動きだった。櫛の歯が頭皮を引く。
幼い指が、寝衣の裾を掴んだ。
それだけだった。
「本日は王族の朝餐に同席なさいます」
マルタは淡々と言った。
「余計なことはおっしゃらないように。陛下に問われた時だけ、お答えください。王子殿下方に口を挟むなど、もってのほかです」
「分かっている」
幼い声だった。
けれど、その声には甘えがない。
マルタは鏡越しにクラウディオを見た。
その目には、わずかな苛立ちがあった。
子どもなら、もっと扱いやすいはずだった。怯え、泣き、縋り、怒り、すぐに顔へ出す。そうすれば、大人たちはそれを見て笑える。憐れむこともできる。躾けたつもりにもなれる。
だがクラウディオは、泣かなかった。
怯えを見せなかった。
縋らなかった。
怒りもしなかった。
ただ、見ていた。
その目が、城の者たちを不快にさせる。
幼いくせに、何かを覚えているような目。
何かを待っているような目。
それが気味悪いのだと、誰かが言っていた。
「妾腹とはいえ、陛下のお子です」
マルタは襟元を整えながら言った。
「せめて王城の恥にならぬようになさいませ」
妾腹。
その言葉を聞いても、クラウディオは瞬きもしなかった。
何度も聞いた言葉だった。
妾の子。
半端な血。
夜の気まぐれ。
正妃の目障り。
王が忘れたかった子。
誰が最初にそう呼んだのかは知らない。だが、誰がどの顔でそれを繰り返したかは覚えている。
クラウディオは、忘れることが下手だった。
それは弱点ではなかった。
少なくとも、彼自身はそう思っていた。
支度が終わると、マルタは扉を開けた。
王城の廊下は長く、静かだった。黒い石床は磨き込まれ、天井から吊るされた青白い燭火が、冷たい光を落としている。壁には歴代の王の肖像が並んでいた。どの王も美しく、冷たく、血を当然のように従えていた。
クラウディオは、その肖像の下を歩いた。
マルタの半歩後ろを。
本来なら、侍女が王族の子の後ろにつく。だがクラウディオには、それが許されない。誰かに明確に命じられたわけではない。けれど、王城では明文化されない規則ほど残酷に守られる。
すれ違う従者たちは頭を下げた。
形だけ。
首だけ。
目だけ。
彼が通り過ぎると、声が落ちる。
「また朝餐に出るのか」
「陛下も気まぐれが過ぎる」
「正妃様のお心を思えば、気の毒に」
「どちらが?」
「もちろん、正妃様が」
小さな笑い声。
聞こえるように落とした声。
聞こえないと言い張れる程度の悪意。
クラウディオは歩き続けた。
途中、若い従者が水差しを持って角を曲がってきた。
ぶつかるほどではない。
避ける余地もある。
それなのに、従者はわざと足をずらした。
クラウディオの爪先が、従者の靴に引っかかる。
小さな身体が前へ傾いた。
マルタは助けなかった。
廊下の端で、別の従者が息を呑むように笑った。
クラウディオは倒れなかった。
片足を強く踏み、姿勢を戻す。まだ幼い膝が痛んだが、彼は床を見なかった。
足を出した従者を見た。
薄茶の髪。
右目の下に小さな黒子。
左手の薬指に古い傷。
名はミルゴ。
覚えた。
ミルゴは大げさに頭を下げた。
「失礼いたしました。小さくて、見えませんでした」
また笑い声。
クラウディオは何も言わない。
怒れば、癇癪。
泣けば、みじめ。
訴えれば、器が小さい。
黙れば、弱いと思われる。
ならば、黙ることだけは自分のものにする。
そうすれば、誰にも奪われない。
朝餐の間の扉は高かった。
黒鉄に銀の蔦模様が彫られ、その中央にルジェリウス王家の紋章がある。翼を広げた蝙蝠。血を受ける王冠。子どもの目には、それは美しいというより、重たく見えた。
扉が開く。
広間には、長い黒檀の食卓が置かれていた。燭台の火が銀器に映り、血杯の赤が暗く光る。食卓には肉や果実、香草を練り込んだパンも並んでいたが、吸血鬼たちにとって、それらは儀礼の飾りに近い。
上座に王がいた。
ヴァレンティヌス・ルジェリウス。
クラウディオの父。
銀髪を背に流し、赤みを帯びた金の瞳を持つ男だった。美しい。あまりに美しく、感情を持たない彫像のように見える。黒と深紅の衣をまとい、指には王権を示す血石の指輪が光っていた。
その隣には、正妃エレオノーラ。
白金の髪を高く結い、氷のような微笑みを浮かべている。彼女はクラウディオを見た。見たというより、食卓に落ちた染みを確認するような目だった。
王子たちもいた。
第一王子アドリアン。
正妃の子。十五歳。すでに王太子候補としての教育を受け、座っているだけで周囲が道を譲るような雰囲気を持っている。青い瞳がクラウディオを捉え、柔らかく細められた。
第二王子セヴラン。
十二歳。線の細い少年だが、笑う時の口元に母の冷たさがある。
第三王女リヴィア。
十歳。銀髪に宝石を飾り、可憐な人形のような姿をしていた。だがクラウディオを見る目は、道端の虫を見る目に近い。
クラウディオは上座へ向かい、礼をした。
「陛下」
父とは呼ばない。
呼ぶことを許された覚えがない。
王は彼を見た。
一瞬だけ。
道具の出来を確かめるような視線だった。
「座れ」
「はい」
クラウディオの席は、末席だった。
王族の席ではある。
だが王族の一員として扱うには遠く、使用人の席に落とすには近い。そういう位置だった。
椅子は彼の身体には大きすぎた。座ると足が床に届ききらない。
それを見て、リヴィアが笑った。
「子ども用の椅子を用意して差し上げたら?」
セヴランが杯を持ち上げた。
「そうすると、乳母部屋のようになる」
アドリアンは穏やかに言った。
「二人とも、やめなさい。クラウディオも一応、我々の弟だ」
一応。
その一言で、広間の空気がわずかに緩んだ。
笑いを堪える従者。
目を伏せる侍女。
聞こえないふりをする大人たち。
クラウディオは血杯の表面を見ていた。
赤い液体に、自分の顔が映っている。
小さく、歪んでいる。
正妃が静かに言った。
「礼法教師を呼んでおります。王族の子らしく振る舞えるよう、皆で学ばねばなりません」
王は血杯を持ったまま頷いた。
「ああ」
「皆で、でございますか」
正妃の声は柔らかかった。
柔らかいからこそ、刃が薄い。
「もちろん、クラウディオも?」
王は答えない。
それが答えだった。
正妃の微笑みは崩れなかった。
「よろしいことです。血の薄い子ほど、形を覚えなければなりませんもの」
リヴィアが口元を押さえて笑う。
セヴランが言った。
「形で血が濃くなるなら、誰も苦労しないけれど」
クラウディオは銀匙に触れた。
銀器の表面に、セヴランの顔が歪んで映っている。
覚えた。
血が薄い。
形で血は濃くならない。
その時の正妃の指の角度。セヴランが杯を回す癖。リヴィアが笑う前に母の顔を見ること。アドリアンが止めるふりをして、一番深く刺すこと。
全部、覚えた。
従者がクラウディオの前に皿を置いた。
肉料理だった。
他の王子たちの皿より、明らかに肉の端が焦げている。添えられた果実も欠けていた。
従者は頭を下げる。
「厨房の手違いでございます」
声は謝っていた。
顔は謝っていなかった。
名はベルニエ。
左耳に銀輪。
正妃付きの従者。
クラウディオはナイフを取った。
焦げた肉を切る。
香草と苦味が混じった匂いが立つ。
リヴィアが明るく言った。
「おいしい?」
クラウディオは肉を口へ運んだ。
苦い。
噛むたびに焦げの味が広がる。
飲み込んだ。
「はい」
「まあ」
リヴィアは嬉しそうに目を細めた。
「焦げたものがお好きなのね」
セヴランが笑う。
アドリアンも微笑む。
正妃は嗜めない。
王は何も言わない。
クラウディオは、もう一口食べた。
苦味は変わらない。
だが、食べる手を止めなかった。
止めれば負けだ。
吐き出せば負けだ。
泣けば、もっと負けだ。
彼は焦げた肉を最後まで食べた。
口の中に残った苦味を、血杯で流し込む。
赤い液体は冷たかった。
少し鉄臭い。
その味だけが、やけにはっきりしていた。
食事の間、王族たちは彼のいないところで話しているように会話を続けた。
外交の話。
教会区の監視。
古参吸血鬼たちの派閥。
外縁部で増えている野良吸血鬼。
血税の徴収。
王位継承をめぐる儀礼。
子どもに聞かせる内容ではない。
けれど、誰もクラウディオを子どもとして扱っていなかった。
違う。
子どもとして扱っていないのではない。
聞いても理解できないと思っているのだ。
クラウディオは黙って聞いていた。
アドリアンがどの貴族名を口にした時、正妃が満足げに頷いたか。
セヴランが兄の発言に嫉妬した瞬間、杯を持つ指に力が入ったこと。
リヴィアが政治の話に興味を持っていないふりをしながら、母の反応だけは必ず見ていること。
王が外縁部の被害報告には反応せず、「王城守備」という言葉でだけ指輪を撫でたこと。
覚えた。
言葉は刃になる。
沈黙も刃になる。
クラウディオはまだ刃を持っていない。
けれど、刃の形を覚えることはできた。
「クラウディオ」
突然、王が名を呼んだ。
広間の空気が変わった。
クラウディオは顔を上げる。
「はい、陛下」
「お前は今、何を学んでいる」
正妃の目がわずかに細くなった。
アドリアンが興味深そうにこちらを見る。
セヴランは杯を止めた。
リヴィアは笑う準備をしている。
クラウディオは答えた。
「読み書きと、血統史を少し。礼法も」
「血術は」
「正式には、まだ」
「なぜだ」
王の声は静かだった。
その静けさが、広間の温度を下げた。
クラウディオは正妃を見なかった。
マルタも見なかった。
教師たちが彼に血術を教えない理由など、子どもでも分かる。
力を持たせたくないのだ。
妾の子が王の血を証明することを、誰かが恐れている。
クラウディオは答えた。
「まだ、その段階ではないと聞いております」
「誰に」
正妃が血杯を置いた。
小さな音だった。
広間中に響いた。
ここで名を出せば、誰かが罰を受けるかもしれない。
だが、その者はクラウディオを恨むだろう。王が守るとは限らない。むしろ王は、守るかどうかさえ退屈そうに決めるだろう。
クラウディオは幼いなりに、それを知っていた。
だから、頭を下げた。
「教師たちの判断です」
「名を聞いた」
「一人の判断ではございません」
広間がさらに静まる。
クラウディオは続けた。
「ですから、私が未熟なのだと思います」
正妃の目が冷えた。
マルタが息を殺した。
アドリアンの微笑みが消えた。
王はクラウディオを見ていた。
長い沈黙のあと、王は言った。
「そうか」
それだけだった。
だがクラウディオには分かった。
今、王は初めて少しだけ自分を見た。
哀れな妾の子としてではない。
食卓の染みとしてでもない。
ただの子どもとしてでもない。
何かを選んだ者として見た。
それが良いことなのか悪いことなのかは、まだ分からない。
ただ、正妃が彼を嫌う理由が一つ増えたことだけは分かった。
朝餐が終わると、王族の子どもたちは礼法室へ向かわされた。
廊下を歩く間、アドリアンがクラウディオの隣に並んだ。
「賢い答えだったな」
クラウディオは前を見たまま歩いた。
「誰の名も出さない。教師も侍女も敵に回さない。自分の未熟という形にして、父上には愚かではないと見せる」
アドリアンの声は優しかった。
優しい声で人を刺すことに慣れていた。
「だが、覚えておくといい」
彼は足を止めた。
クラウディオも止まる。
アドリアンは少し身を屈めた。十五歳の王子から見れば、クラウディオはまだ小さい。見下ろすにはちょうどいい高さだった。
「妾の子が賢いことは、美点ではない」
青い瞳が細められる。
「皆が困る」
クラウディオはアドリアンを見上げた。
何も言わない。
アドリアンは微笑んだ。
「ほどほどに愚かでいろ。そうすれば、長生きできる」
クラウディオは少しだけ頭を下げた。
「ご忠告、痛み入ります」
アドリアンの笑みが止まった。
礼を失してはいない。
だが、子どもらしい返事でもない。
アドリアンはゆっくり身を起こした。
「本当に可愛くない」
クラウディオは、その声も覚えた。
礼法室では、老教師オルガンが待っていた。
背が高く、痩せた吸血鬼だった。灰色の髪を後ろへ撫でつけ、立っているだけで古い儀式書のような堅苦しさがある。かつて王族の儀礼官だったらしく、礼の形ひとつで相手の血筋まで裁くような目をしていた。
最初の課題は、王前の礼だった。
アドリアンは完璧だった。
セヴランも硬いが正確だった。
リヴィアは裾を美しく捌き、教師から褒められた。
クラウディオの番になる。
彼は教えられた通りに片膝を折り、右手を胸へ置き、頭を下げた。
沈黙。
長い沈黙。
それから、オルガンが言った。
「もう一度」
クラウディオは立ち、もう一度礼をした。
「もう一度」
また立つ。
また膝を折る。
「もう一度」
何が違うのかは言われない。
背の角度か。
膝の位置か。
指の揃え方か。
視線の落とし方か。
教えられない。
ただ、違うと言われる。
クラウディオは続けた。
黒い石床は硬かった。片膝をつくたび、薄い布越しに痛みが骨へ響く。吸血鬼の子どもでも、痛みは消えない。何度も繰り返すうちに、膝の内側が熱を持ち始めた。
リヴィアは退屈そうに笑っている。
セヴランは窓のない壁を見ている。
アドリアンだけが、クラウディオを観察していた。
「違います」
オルガンが言う。
「王の血を引く者の礼ではありません」
クラウディオは立つ。
「下男の礼です」
また膝を折る。
「違います」
また。
「もう一度」
また。
膝が床に触れた瞬間、鋭い痛みが走った。皮膚が裂けた。布の下で、血が滲む感覚がある。
クラウディオの息が、一瞬だけ止まった。
オルガンは見ていた。
気づいていた。
「痛むなら、痛いとおっしゃってよろしいのですよ」
慈悲の声ではなかった。
誘いだった。
痛いと言えば、笑う。
泣けば、もっと笑う。
王族の礼に耐えられない妾の子として、この場の記憶に残る。
クラウディオはゆっくり顔を上げた。
「痛くありません」
リヴィアがつまらなさそうに唇を尖らせる。
オルガンは目を細めた。
「強情は礼ではありません」
「痛くありません」
同じ言葉を、同じ声で返した。
教師はしばらく黙っていた。
やがて、細い指を軽く振る。
「では、続けましょう」
その日、クラウディオは誰よりも長く礼をさせられた。
膝は腫れた。
足首は熱を持った。
立ち上がるたびに、裂けた皮膚が布に擦れて痛んだ。
それでも、彼は転ばなかった。
泣かなかった。
痛いと言わなかった。
礼法の時間が終わり、廊下へ出た時、リヴィアが後ろから言った。
「ほんとに痛くなかったの?」
クラウディオは振り返らない。
「痛くありません」
「嘘つき」
リヴィアは笑った。
「でも、泣かないところだけは褒めてあげる」
クラウディオは足を止めた。
少しだけ振り返る。
リヴィアは小首を傾げた。
「なに?」
「褒めなくて結構です」
リヴィアの顔から笑みが消えた。
彼女はすぐに母に似た冷たい目をした。
「妾の子のくせに」
クラウディオは何も返さなかった。
それ以上言えば、リヴィアは泣くかもしれない。泣けば周囲は彼女を慰めるだろう。小さな王女を泣かせた悪い子どもとして、クラウディオが責められる。
だから、言わない。
言葉を選ぶ。
言葉を捨てる。
言わなかった言葉も、刃として取っておく。
部屋へ戻る途中、マルタが言った。
「なぜ、余計なことをおっしゃるのです」
「余計なこと?」
「王女殿下に対して」
「褒めなくていいと言っただけだ」
「それが余計なのです」
マルタの声には疲労があった。
心配ではない。
面倒が増えたことへの苛立ちだった。
「お立場をお考えください」
クラウディオは歩きながら言った。
「俺の立場とは?」
マルタが足を止めた。
クラウディオも止まる。
廊下には二人しかいなかった。遠くの角を曲がる従者の足音が消える。青白い燭火が揺れている。
「あなた様は」
マルタは言いかけて、口を閉じた。
妾の子。
そう言おうとしたのだ。
クラウディオはじっと彼女を見た。
「言えばいい」
幼い声だった。
けれど、命令に似ていた。
マルタは眉をひそめた。
「そのような口の利き方をなさるから、皆様に嫌われるのです」
「嫌われない口の利き方をすれば、好かれるのか」
マルタは答えなかった。
答えられるはずがなかった。
クラウディオは小さく頷いた。
「そう」
彼はまた歩き出した。
部屋に戻ると、マルタは膝の手当てをした。
裂けた皮膚に薬を塗る。吸血鬼の治癒力があれば、明日には塞がる。だから手当ては最低限だった。痛みを和らげる香油は使われない。
「じきに治ります」
マルタは言った。
つまり、問題ではないという意味だった。
傷が塞がれば、痛んだこともなかったことになる。
そういう扱いだった。
クラウディオは何も言わなかった。
マルタが去る。
扉が閉まる。
鍵はかからない。
かける必要がないと思われているからだ。
この子どもには、逃げる場所などない。
クラウディオはしばらく寝台に座っていた。
部屋は冷えている。
膝が痛む。
唇の切れたところも、まだ少しひりつく。
口の奥には、焦げた肉の苦味が残っている気がした。
彼は泣かなかった。
泣けなかったのではない。
泣く価値を、あの者たちに与えなかった。
ゆっくり寝台から降りる。
膝が痛んだ。
足元が揺れた。
それでも彼は机まで歩いた。
小さな机の引き出しを開ける。そこには粗末な紙と羽根ペンが入っていた。勉学用に与えられたものだ。上等ではない。インクも薄く、紙もざらついている。
クラウディオは椅子に座った。
紙を広げる。
ペンを取る。
そして、書いた。
ミルゴ。
右目の下に黒子。左手薬指に古い傷。廊下で足を出した。小さくて見えなかったと言った。
ベルニエ。
左耳に銀輪。焦げた肉を出した。厨房の手違いと言った。
マルタ。
顔を強く拭く。櫛を強く引く。妾腹と言う。立場を考えろと言う。答えられない時、口を閉じる。
オルガン。
礼法教師。間違いを教えず、もう一度と言う。痛いと言わせようとした。
リヴィア。
母の顔を見てから笑う。焦げたものが好きなのね、と言った。妾の子のくせに、と言った。
セヴラン。
杯を回す。形式で血は濃くならないと言った。笑う前に犬歯の裏を舐める。
アドリアン。
青い目。優しい声で刺す。ほどほどに愚かでいろと言った。
エレオノーラ。
血の薄い子ほど形を覚えろと言った。笑う時、目が笑わない。
ヴァレンティヌス。
陛下。見ていた。問うた。止めなかった。
最後の一行を書いた時、クラウディオの指が少し止まった。
父ではない。
陛下。
そう書いた。
インクが乾くまで待つ。
待っている間、部屋の外から遠い笑い声が聞こえた。誰の声かは分からない。王城には笑う者が多い。誰かを踏む時、人はよく笑う。
クラウディオは紙を折った。
一度。
二度。
小さく、小さく。
それから寝台の下へ膝をついた。
痛みが走る。
息が詰まりかけたが、声は出さない。
床板の一枚を外す。
そこには、すでにいくつもの紙片が隠されていた。
名前。
顔。
声。
仕草。
言葉。
忘れないための記録。
誰にも見せない帳簿。
クラウディオは新しい紙をそこへ入れた。
床板を戻す。
指先で隙間をなぞり、元通りに見えることを確かめる。
それから寝台に戻った。
部屋は暗い。
黒硝子の向こうで、本当の朝がどうなっているのか、クラウディオは知らない。人間たちは今頃、白い光の中で歩いているのかもしれない。店を開け、火を入れ、パンを焼き、笑っているのかもしれない。
王城には、そういう光はない。
あるのは青白い燭火と、冷たい石床と、誰かを見下す声だけだった。
クラウディオは寝台の上で膝を抱えた。
傷が痛む。
けれど、痛みは消える。
明日には塞がる。
明後日には、誰も今日の膝の傷など覚えていない。
だから彼が覚える。
誰も覚えていないなら、彼が忘れない。
誰も罪だと思わないなら、彼が数える。
誰も裁かれないなら、いつか彼が裁く。
まだ、その言葉を彼は知らなかった。
復讐という言葉も、粛清という言葉も、処刑という言葉も、王権という言葉の重さも、本当には知らなかった。
ただ、胸の奥に小さな黒い種が落ちた。
冷たく、硬い種だった。
涙では溶けない。
同情では腐らない。
忘却では消えない。
それは静かに沈み、幼いクラウディオの中で根を張り始めた。
今はまだ、誰も彼を恐れていない。
ミルゴは足を出して笑う。
ベルニエは焦げた皿を置く。
マルタは櫛を強く引く。
オルガンは何度でも膝をつかせる。
リヴィアは妾の子と嗤う。
セヴランは血の薄さを語る。
アドリアンは優しい声で愚かでいろと言う。
正妃は形を覚えろと微笑む。
王は見ているだけ。
誰も、怖がらない。
クラウディオは、それが不思議だった。
こんなにも顔を覚えているのに。
こんなにも声を覚えているのに。
こんなにも、言葉を一つも捨てずにいるのに。
なぜ、誰も怖がらないのだろう。
幼い唇が、ほんの少しだけ笑った。
子どもの笑みではなかった。
泣く代わりに、彼は笑った。
声もなく。
誰にも見せず。
暗い部屋の中で、琥珀色の瞳だけが、静かに光っていた。
その夜、クラウディオは夢を見なかった。
眠りの底でも、彼の中では名前が並んでいた。
ミルゴ。
ベルニエ。
マルタ。
オルガン。
リヴィア。
セヴラン。
アドリアン。
エレオノーラ。
ヴァレンティヌス。
ひとつも消えない。
ひとつも薄れない。
王城の石床は冷たい。
だが、冷たいものは嫌いではない。
熱いものは、いずれ消える。
冷たいものは、長く残る。
クラウディオは目を閉じた。
膝の痛みを抱えたまま、朝と夜の境目で眠りに落ちていく。
扉の向こうで、誰かの足音が遠ざかった。
王城は彼を閉じ込めているつもりだった。
誰も知らない。
この小さな部屋の床下に、すでに王城の罪が一枚ずつ積まれていることを。
誰も知らない。
妾の子と呼ばれた幼い吸血鬼が、泣く代わりに名を記していることを。
誰も知らない。
彼がいつか王座に座る時、その記憶を一つも忘れていないことを。




