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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第3話 名前を呼ぶ声



 王城で、クラウディオの名は滅多に呼ばれなかった。


 呼ばれないわけではない。


 むしろ、音としては何度も聞いていた。


 クラウディオ様。


 クラウディオ殿下。


 陛下の御子。


 王家の末子。


 けれど、そのどれもが、彼に届く前に別の意味へ変わっていた。


 クラウディオ様、と侍女が言う時、そこには面倒を押しつけられた者の疲れが混ざる。


 殿下、と従者が頭を下げる時、その声の底には、殿下と呼ぶしかないから呼んでいるだけだという薄い笑いが沈んでいる。


 陛下の御子、と教師が言う時、それは敬意ではなく、王の血を引いているのだから恥をかかせるなという戒めだった。


 王家の末子、と書類に記される時、その文字の行間には、正妃の子ではない、継承順位から遠い、扱いに困る、という注釈が見えない墨で書かれていた。


 本当の名は、いつも別の呼び名に覆われていた。


 妾の子。


 半端な血。


 薄い血。


 王の気まぐれ。


 正妃様の目障り。


 あの子。


 あれ。


 城の奥に置かれた黒い染み。


 誰も、そう呼ぶ時には声を荒げない。


 むしろ穏やかに、柔らかく、聞こえるか聞こえないかの絶妙な高さで口にする。


 声を荒げれば罪になる。


 囁けば、ただの噂で済む。


 王城の者たちは、その境目をよく知っていた。


 その朝も、クラウディオは名ではなく、別のものとして扱われていた。


 礼法室の前の廊下で、彼は待たされていた。


 黒い石床の上に立ち、両手を前で揃え、顔を上げたまま動かない。礼法教師オルガンが、正妃付きの女官と何かを話している。声は低い。けれど吸血鬼の耳には届く。


「本日も同席を?」


「陛下のご意向です」


「妾腹の子に王前礼を教えたところで、使う場があるのか疑問ですが」


「口を慎みなさい」


 女官はそう言った。


 だが本気で咎める声ではなかった。


「聞こえますよ」


「聞こえるように言ったわけではございません」


「では、聞こえたなら仕方ありませんね」


 二人は小さく笑った。


 クラウディオは瞬きもしなかった。


 女官の名はセリア。


 右耳に真珠の飾り。


 左の袖口に針で引っかけたような糸のほつれ。


 オルガンは今日も香油を変えていない。乾いた薬草と古い紙の匂いがする。笑う時、下唇だけがわずかに歪む。


 覚えた。


 覚えて、しまった。


 彼は自分が覚えることを、もう止められない。


 忘れようとすれば、なおさら鮮明になる。


 誰の声が、どの言葉を、どんな角度で投げたか。


 それが胸の中に積もっていく。


 礼法の稽古が始まると、クラウディオはまた何度も膝をつかされた。


 昨日ほど長くはなかった。


 けれど、膝が床に触れるたび、裂けた皮膚の記憶が奥で疼く。傷は塞がっている。吸血鬼の身体は、人間よりずっと早く傷を閉じる。


 だが、痛んだという事実までは消えない。


 オルガンは言った。


「クラウディオ様、もう一度」


 様。


 その音の軽さが、膝の痛みより不快だった。


 クラウディオは立ち上がり、もう一度礼をした。


「違います」


 もう一度。


「まだ幼いとはいえ、王の血を引く者としては遅れています」


 もう一度。


「正統な教育を受けた殿下方との差は、こういうところに出るものです」


 もう一度。


 リヴィアが近くで笑った。


「先生、あまり厳しくすると可哀想よ」


 声だけ聞けば、優しい王女だった。


 オルガンは浅く頭を下げる。


「王女殿下はお優しい」


「だって、あの子は仕方ないもの」


 あの子。


 クラウディオは膝をついたまま、床を見ていた。


 磨かれた石に、自分の影が映る。小さい。黒い。輪郭の曖昧な影だった。


 リヴィアは続けた。


「お母様が違うんだから」


 オルガンは答えなかった。


 沈黙が、肯定だった。


 稽古が終わったあと、クラウディオは礼法室を出た。


 廊下では、従者が二人、銀盆を持って待っていた。王子たちへ運ぶための香草水と血菓子が並んでいる。クラウディオの分はない。彼はまだ正式な休憩席を与えられていなかった。


 一人の従者が、もう一人へ囁く。


「妾の子も疲れるのかね」


「疲れないだろう。感情がなさそうだから」


「では痛みも知らないか」


「便利な身体だ」


 笑い。


 銀盆の上で杯がかすかに揺れる。


 クラウディオは、その横を通り過ぎた。


 疲れる。


 痛い。


 感情もある。


 言えば、彼らは喜ぶだろう。


 あるのか、と。


 ならば見せてみろ、と。


 泣け、と。


 痛がれ、と。


 怒れ、と。


 だから、見せない。


 見せなければ、彼の中にあるものはまだ彼のものだった。


 部屋へ戻る途中、マルタが迎えに来た。


 彼女はクラウディオの服を見て、眉を寄せる。


「裾が少し汚れております」


「床についた」


「だから気をつけるよう申し上げたのです。クラウディオ様は、何かと目をつけられやすいのですから」


 クラウディオ様。


 また、様がついた。


 けれど、そこにクラウディオはいなかった。


 マルタが呼んでいるのは、自分が管理を任された厄介な子どもだった。


 失敗すれば自分が叱られる荷物。


 正妃の機嫌を損ねる火種。


 王に見られる時だけ整えておかねばならない不都合。


 クラウディオは黙って歩いた。


 部屋に戻り、扉が閉まる。


 マルタは外へ出る前に言った。


「本日は余計な外出をなさらないように」


 クラウディオは答えなかった。


「聞いておいでですか」


「聞いている」


「でしたら、よろしいのですが」


 扉が閉まった。


 足音が遠ざかる。


 クラウディオはしばらく寝台の端に座っていた。


 手を見下ろす。


 数日前、ロウェナに拭かれた手。


 もう煤はない。


 蜂蜜の匂いも、小麦の匂いも残っていない。


 それなのに、温かい布の感触だけは、まだ消えていなかった。


 痛くない?


 あの声が蘇る。


 王城の声は、彼を形にはめる。


 妾の子。


 王の血。


 半端なもの。


 恥にならぬように。


 愚かでいろ。


 血は濃くならない。


 けれど、あの店の声は違った。


 痛くない?


 おいしい?


 また来ていいよ。


 待ってるね、クラウ。


 クラウ。


 偽った短い名。


 それでも、あの声は彼を刺さなかった。


 クラウディオは立ち上がった。


 引き出しを開ける。そこには、ロウェナのことを書いた紙がしまってある。罪の記録ではない。誰を裁くためでもない。忘れないためというより、失くしたくないための紙だった。


 彼はその紙を一度だけ開いた。


 ロウェナ・ミル。


 菓子屋。


 栗色の髪。白い前掛け。粉のついた手。温かい水。


 クラウと呼んだ。


 その最後の一行を、じっと見た。


 本当は、もう少し長い名前?


 ロウェナはそう聞いた。


 問い詰めなかった。


 嘘を責めなかった。


 今日はクラウって呼ぶね、と言った。


 今日は。


 なら、次は。


 次に行けば、どうなるのだろう。


 クラウディオは紙を戻した。


 それから、床下に隠してある銀貨のうち、一枚を取る。


 前と同じ古い外套を羽織る。


 頭巾を深くかぶる。


 王城を抜け出すことが危険だとは分かっていた。


 見つかればマルタは叱られる。


 彼も叱られる。


 正妃に知られれば、もっと悪いことになるかもしれない。


 けれど、王城に残っていれば安全なのかと問われれば、それも違った。


 安全とは、傷つかない場所のことではない。


 王城は傷を作り、すぐに塞がるから問題ないと言う場所だった。


 ならば、あの小さな菓子屋へ行く方が、まだましだった。


 クラウディオは部屋を出た。


 廊下は静かだった。


 彼は使用人用の階段を降り、洗濯室の裏を通り、荷運び用の小門へ向かう。前より少しだけ足取りは確かだった。道を覚えていたからだ。


 小門の近くで、若い衛兵見習いがあくびをしていた。


 前にミルゴと話していた声の主かもしれない。金属の留め具が腰で小さく鳴っている。クラウディオは影に隠れ、彼が水場へ向かうのを待った。


 足音が遠ざかる。


 小門を抜ける。


 外気が頬に触れた。


 街は、今日も雑然としていた。


 王城の空気とは違う。


 湿った石畳、干された布、焼いたパン、馬の汗、薬草、煤、遠くの教会の鐘。どれもが混ざり、決して美しくはない。けれど、そこには生きているものの気配があった。


 クラウディオは坂道へ向かった。


 菓子屋の看板が見える前に、甘い匂いが届く。


 胸の奥が、少しだけ緩んだ。


 それを彼は不快だと思った。


 緩むということは、弱くなるということだ。


 弱くなれば、踏まれる。


 分かっている。


 それでも足は止まらなかった。


 店の扉の前に立つ。


 今回は、自分で取っ手に触れた。


 数日前、手が汚れていることに気づいて引っ込めた場所だ。


 今日は手を見た。


 汚れてはいない。


 それでも、入る前に袖口で指先を拭った。


 扉を開ける。


 鈴が鳴った。


 小さな店内に、甘い匂いが満ちていた。


 棚には焼き菓子が並んでいる。奥の窯では火が小さく揺れ、白い粉のついた台の上に、丸く抜かれた生地がいくつも置かれていた。


 ロウェナは奥にいた。


 白い前掛けをつけ、袖をまくり、髪を後ろで束ねている。手には粉がついていた。


 鈴の音に振り返る。


 彼女の顔が明るくなる。


「いらっしゃい」


 それは店の客に向ける普通の言葉だった。


 けれど次の言葉で、クラウディオの呼吸が止まりかけた。


「また来たね、クラウ」


 クラウ。


 覚えていた。


 ロウェナは、覚えていた。


 たった一度来ただけの、黒い外套の子どもの名を。


 偽った短い名を。


 クラウディオは扉のそばで立ち尽くした。


 ロウェナは不思議そうに首を傾げる。


「どうしたの? 寒かった?」


「……覚えていたのか」


「名前?」


 ロウェナは当たり前のように言った。


「うん。覚えてるよ」


「なぜ」


「なぜって」


 彼女は少し考えた。


 それから笑った。


「名前を聞いたから」


 あまりに単純な答えだった。


 クラウディオは、それに言葉を返せなかった。


 名前を聞いたから覚える。


 王城では、そんなことはなかった。


 誰もが彼を知っている。


 知っているからこそ、名を使わない。


 名を呼ぶ時でさえ、その上から別の意味をかぶせる。


 けれどロウェナは、知らないからこそ、その名をそのまま持っていた。


「手、洗う?」


 ロウェナが言った。


 クラウディオは無言で手を出した。


 今回は、引かなかった。


 ロウェナは温かい水を用意し、白い布で指先を拭いた。汚れていないはずなのに、彼女は前と同じように丁寧だった。


「今日はあんまり汚れてないね」


「入る前に拭いた」


「えらい」


 えらい。


 その言葉に、クラウディオは眉を寄せた。


「子ども扱いするな」


 ロウェナは瞬きをした。


 それから、小さく笑った。


「ごめん。でも、手を綺麗にして入ってくれたのは助かる」


「菓子が煤だらけになるからか」


「そう」


 彼女は真面目に頷いた。


「菓子にも、手にも悪いから」


 手にも。


 クラウディオは、自分の指を見た。


 王城では、手は見栄えのために整えられる。


 礼の形を崩さないため。


 血杯を美しく持つため。


 王族として恥をかかないため。


 ここでは、菓子に悪い。手にも悪い。


 ただそれだけだった。


 その単純さが、妙に胸に引っかかった。


 ロウェナは布を置く。


「今日は何にする?」


 クラウディオは棚を見た。


 前と同じ丸い焼き菓子もある。細長い砂糖菓子。木の実を混ぜたもの。小さな果実を乗せたもの。黒い蜜を塗ったもの。


 どれを選べばいいかは、まだ分からない。


 だが今日は、銀貨を差し出す前に言った。


「前と同じものを」


「丸い蜂蜜の?」


「そう」


「気に入った?」


 クラウディオは黙った。


 気に入った。


 そう言うのが、少し怖かった。


 好きだと知られれば奪われる。


 王城ではそうだった。


 好きなものは隠す。


 痛む場所は隠す。


 欲しいものは隠す。


 名でさえ、隠す。


 ロウェナは答えを急がなかった。


 棚から丸い焼き菓子を取る。


「今日のは焼きすぎてないよ」


 白い紙に乗せて差し出す。


 クラウディオは銀貨を置いた。


 ロウェナは受け取って、すぐにおつりを用意する。


「また多いね」


「これしかない」


「じゃあ、細かいお金も持っておいた方がいいね」


 銅貨がいくつか置かれる。


 クラウディオはそれを受け取った。


 王城では、金を受け取ることも渡すことも、自分で管理することもほとんどない。けれど、この店では、銀貨と銅貨のやり取りが彼とロウェナの間でまっすぐ成立していた。


 そこに王家は挟まらない。


 血筋も挟まらない。


 ただ、菓子と代金だけがある。


 クラウディオは焼き菓子を持った。


 ロウェナは店の隅にある小さな椅子を示す。


「食べていく?」


「ここで?」


「うん。急いでいないなら」


 急いではいない。


 けれど、帰らなければならない。


 王城を抜け出していることを思えば、一刻も早く戻るべきだった。


 それでも、クラウディオは椅子に座った。


 小さな木の椅子だった。


 王城の椅子のように大きすぎない。


 足が床につく。


 それだけのことが、妙に落ち着かなかった。


 ロウェナはカウンターの向こうで生地を丸めながら、時折こちらを見る。


「熱いから、ゆっくりね」


「分かっている」


「そう? 前はしばらく見てたから」


「食べていいか分からなかっただけだ」


 言ってから、余計なことを言ったと思った。


 だがロウェナは笑わなかった。


 手を止め、少しだけ柔らかい目をした。


「ここでは、買ったものは食べていいよ」


 クラウディオは焼き菓子を見た。


「もらったものは」


「それも、食べていい」


「半分にされたものは」


「もちろん」


「大きい方を渡されたものは」


「食べていい」


「なぜ」


「渡したから」


 ロウェナは、ごく当たり前に言った。


「渡したものは、あなたのもの」


 あなたのもの。


 クラウディオは、その言葉を胸の奥で繰り返した。


 自分のもの。


 王城で、彼のものは少ない。


 部屋も、本も、服も、寝台も、すべて与えられたものだ。いつでも取り上げられる。勝手に入られる。触られる。整えられる。調べられる。


 名前さえ、好きに呼ばれない。


 だが、この焼き菓子は。


 ロウェナが渡した。


 クラウディオが受け取った。


 だから彼のもの。


 彼は焼き菓子をかじった。


 前と同じ蜂蜜の甘さがした。


 少しだけ違うのは、今日は端が焦げていないこと。中がふんわり柔らかいこと。木の実の香りが前より強いこと。


「おいしい?」


 ロウェナが聞いた。


 クラウディオは今度、少しだけ早く答えた。


「おいしい」


「よかった」


 その声を聞いた瞬間、焼き菓子の甘さが少し変わった。


 味ではない。


 記憶の置き場所が変わる。


 おいしいと言えば、よかったと返ってくる。


 痛くないと言えば、よかったと返ってくる。


 彼の感覚を、誰かがそのまま受け取る。


 それが救いと呼ばれるものに近いのだと、幼いクラウディオはまだ知らなかった。


 知らないまま、深く覚えた。


「クラウ」


 ロウェナが呼んだ。


 クラウディオは顔を上げた。


「飲み物はいる? 薄い果実水ならあるよ」


 クラウ。


 また呼ばれた。


 用事があるから呼んだだけ。


 それでも、胸の奥が一瞬だけ揺れた。


 返事が遅れる。


 ロウェナは待っている。


「……いる」


「甘いのと、少し酸っぱいの、どっちがいい?」


「分からない」


「じゃあ、少し酸っぱい方にしよう。蜂蜜の菓子には合うから」


 彼女は木の杯に薄い果実水を注いだ。


 王城の杯と違って、銀ではない。


 木製で、縁に小さな傷がある。


 だが手に持つと冷たすぎない。


 クラウディオはそれを口にした。


 酸味が甘さを流し、また菓子が食べたくなる。


 ロウェナは楽しげに言った。


「合うでしょう?」


「……悪くない」


「それは、気に入ったってことでいい?」


「悪くないと言った」


「はいはい」


 軽い返事。


 馬鹿にしているわけではない。


 ただ、子どもの意地をそのまま見ている声だった。


 クラウディオは少し不機嫌になった。


 だが、その不機嫌は王城で感じるものとは違った。


 刺された怒りではない。


 踏まれた屈辱でもない。


 どう扱えばいいのか分からない、温かな不快感だった。


 しばらくして、店に別の客が来た。


 年配の女だった。人間で、籠を腕にかけている。彼女はロウェナと親しげに話し、パンに近い菓子を三つ買った。


 クラウディオは椅子に座ったまま、頭巾を少し下げた。


 知られたくない。


 王城の子だと。


 妾の子だと。


 ロウェナは彼に余計な視線を向けなかった。


 客の女も、黒い外套の子どもがいるな、という程度で深く見なかった。


 それがありがたかった。


 客が出ていくと、ロウェナは片づけをしながら言った。


「クラウは、近くの子?」


 クラウディオの手が止まった。


 近く。


 王城は近い。


 だが、近いと言うにはあまりに遠い。


「……遠くはない」


「そう」


 ロウェナはそれ以上聞かなかった。


「家の人、心配しない?」


「しない」


 即答だった。


 ロウェナの手が少し止まった。


 だが、彼女はすぐに動き出す。


「そっか」


 それだけだった。


 可哀想に、とは言わない。


 どうして、とも聞かない。


 嘘でしょう、とも言わない。


 ただ、そっか。


 その短さが、クラウディオには楽だった。


 言葉は長いほど、相手の事情へ踏み込んでくる。短い言葉は、時に扉の前で止まってくれる。


 ロウェナの言葉は、いつも扉を叩く。


 壊して入ってこない。


 クラウディオは焼き菓子の残りを食べた。


 指先についた蜂蜜を、紙で拭う。


 ロウェナがそれを見て、笑った。


「手、洗っていく?」


「また?」


「蜂蜜でべたべたするから」


 クラウディオは少し迷い、頷いた。


 ロウェナは温かい水を用意した。


 白い布がまた指に触れる。


 今回は煤ではなく、蜂蜜を拭う。


 クラウディオは、その手を見ていた。


 粉のついた白い指。


 爪の周りに小麦粉が入り込んでいる。


 火のそばで働く手だから、少し赤くなっているところもある。


 王城の白い手とは違う。


 正妃の手は、美しい。


 リヴィアの手も、宝石細工のように小さい。


 侍女たちの手は、彼を整えるために動く。


 ロウェナの手は、物を作る。


 菓子を焼く。


 水を絞る。


 汚れを落とす。


 その手が、クラウディオの指を包んでいる。


「クラウ」


 また呼ばれた。


 クラウディオは返事をしなかった。


 ロウェナは、彼の指先を拭きながら言った。


「本当の名前、聞いてもいい?」


 布の温かさが、急に遠くなった気がした。


 クラウディオは顔を上げる。


 ロウェナの声はいつも通りだった。


 急かしていない。


 暴こうとしていない。


 ただ聞いている。


「嫌なら、言わなくていいよ」


 彼女はすぐに付け加えた。


「クラウでもいい」


 クラウでもいい。


 それは、逃げ道だった。


 王城では、逃げ道は塞がれる。


 問われたら答えなければならない。


 答えれば傷になる。


 答えなければ罪になる。


 けれどロウェナは、答えないことを許した。


 だからこそ、クラウディオは答えたくなった。


 喉が、少しだけ詰まる。


 名前を言うだけだ。


 それだけのこと。


 だが彼にとって名は、ただの音ではなかった。


 王城で踏まれたもの。


 嘲られたもの。


 様をつけて軽くされたもの。


 妾の子という言葉に隠されたもの。


 クラウディオは、自分の指を見た。


 ロウェナの白い布に包まれている。


 温かい。


「クラウディオ」


 声は小さかった。


 だが、確かに言った。


「クラウディオ、という」


 ロウェナは動きを止めた。


 一瞬だけ、彼女の目に何かが過った。


 王都で、その名を知らない者はいない。


 ルジェリウス王家の名。


 王の血を引く子の名。


 そして、噂好きな城下では、妾の子の名として囁かれる名。


 クラウディオは、彼女が手を離すと思った。


 頭を下げるかもしれない。


 顔色を変えるかもしれない。


 店から出ていけと言うかもしれない。


 関わりたくない、と。


 王城へ知らせる、と。


 しかし、ロウェナは手を離さなかった。


 彼女は少しだけ瞬きをして、それからゆっくり微笑んだ。


「クラウディオ」


 その声は、あまりにも普通だった。


 呼び捨てにする無礼もない。


 敬いすぎる硬さもない。


 怯えもない。


 媚びもない。


 嘲りもない。


 ただ、名前を呼ぶ声だった。


 クラウディオは息を止めた。


 ロウェナはもう一度言った。


「クラウディオ」


 白い布が、彼の指先から蜂蜜を拭う。


「綺麗な名前だね」


 綺麗。


 その言葉は、城でも聞いたことがある。


 顔が綺麗。


 肌が白い。


 血筋の割に見目だけは良い。


 けれど、名前を綺麗だと言われたことはなかった。


 クラウディオは唇を動かした。


 何かを言おうとした。


 だが声にならなかった。


 ロウェナは首を傾げる。


「嫌だった?」


「何が」


「名前で呼ばれるの」


 クラウディオはすぐには答えられなかった。


 嫌ではない。


 だが、平気でもない。


 胸の奥が痛い。


 それは礼法室で膝をついた時の痛みとは違う。


 唇を切られた時の痛みとも違う。


 名前を呼ばれただけで痛むなど、馬鹿げている。


 なのに、痛い。


 痛いのに、離れたくない。


「……分からない」


 それが、精一杯だった。


 ロウェナは頷いた。


「そっか」


 また、その短い言葉。


 彼女はそれ以上聞かなかった。


 クラウディオは、手を拭かれたまま黙っていた。


 ロウェナが布を置く。


「じゃあ、私はクラウディオって呼んでもいい?」


 クラウディオは彼女を見た。


 許可を求められている。


 自分の名前をどう呼ぶかについて。


 そんなことは初めてだった。


 王城では、誰も許可など求めない。


 呼びたいように呼ぶ。


 隠したいものを暴く。


 傷つけたい言葉を選ぶ。


 クラウディオは、自分の名前に対してすら、主ではなかった。


 けれど今、ロウェナは待っている。


 呼んでもいいか、と。


 クラウディオは喉を鳴らした。


 小さく。


「……いい」


 ロウェナは笑った。


「ありがとう、クラウディオ」


 ありがとう。


 名前を呼ぶ許可を得たことに、彼女は礼を言った。


 クラウディオは、視線を落とした。


 胸の奥で何かがほどける。


 ほどけてはいけないものだ。


 ほどければ、弱くなる。


 分かっている。


 それでも、どうしようもなかった。


 その後、ロウェナは何度も彼の名を呼んだ。


 特別な儀式ではない。


 ただ、店の中の普通の声として。


「クラウディオ、そこにある紙袋を取ってくれる?」


「クラウディオ、熱いから窯には近づきすぎないで」


「クラウディオ、その椅子、少しぐらつくから気をつけて」


「クラウディオ、果実水をもう少し飲む?」


 そのたびに、クラウディオは少しずつ慣れていった。


 名を呼ばれても、何かを奪われないことに。


 名を呼ばれても、笑われないことに。


 名を呼ばれても、膝をつかされないことに。


 名を呼ばれても、血筋の話にならないことに。


 自分の名が、ただ自分へ向けられる音であることに。


 夕方に近づく前、クラウディオは店を出ることにした。


 戻らなければならない。


 王城では、彼の不在に気づいた者がいるかもしれない。


 ロウェナは小さな紙袋を差し出した。


「これ、持っていって」


「金は」


「今日は手伝ってくれたから」


「紙袋を取っただけだ」


「助かったよ」


 クラウディオは紙袋を見た。


「労働の対価としては多い」


 ロウェナは吹き出しかけて、咳払いで誤魔化した。


「難しいこと言うね」


「事実だ」


「じゃあ、次に来た時、棚の紙を切るのを手伝って。それで釣り合う?」


 次。


 次がある。


 クラウディオは紙袋を受け取った。


「考えておく」


「うん。待ってる」


 扉の前で、ロウェナは言った。


「またね、クラウディオ」


 またね。


 クラウディオ。


 その二つの音を、彼は胸の中で抱えたまま店を出た。


 坂道を下る。


 夕方前の街は少し騒がしくなっていた。店じまいの準備をする人間、夜に備えて動き出す吸血鬼、教会区へ急ぐ者、家路につく子どもたち。石畳に馬車の音が響く。


 クラウディオは外套の内側に紙袋を隠した。


 その奥に、もっと大事なものを隠すように。


 クラウディオ。


 ロウェナの声が、頭の中で繰り返される。


 クラウディオ。


 それは王の声とは違う。


 冷たく確認する音ではない。


 マルタの声とも違う。


 面倒を呼ぶ音ではない。


 アドリアンの声とも違う。


 優しく刺す音ではない。


 リヴィアの声とも違う。


 嘲るための音ではない。


 ロウェナの声の中で、クラウディオという名は、ただ彼を呼んでいた。


 それだけのことが、彼の中で救いに近いものになった。


 王城へ戻ると、空気はすぐに冷えた。


 小門を抜けた瞬間、甘い匂いは遠ざかり、石と血と香油の匂いが戻ってくる。


 廊下を進む途中、ミルゴとすれ違った。


 彼はクラウディオに気づき、口元を歪めた。


「おや、妾の子様。どちらへ?」


 クラウディオは足を止めた。


 ミルゴは笑っている。


 右目の下の黒子。


 左手薬指の傷。


 あの日と同じ顔。


 同じ声。


 同じ軽さ。


 妾の子様。


 それは名前ではない。


 それは彼を小さくするための縄だった。


 だが、今日は。


 クラウディオの中に、別の声があった。


 またね、クラウディオ。


 温かい水。


 白い手。


 蜂蜜の匂い。


 名前を呼ぶ声。


 ミルゴの言葉が、いつもより少しだけ遠く聞こえた。


 消えたわけではない。


 傷つかないわけでもない。


 怒りがなくなったわけでもない。


 むしろ、はっきりと残っている。


 だが、その言葉だけで彼を全部覆うことは、もうできなかった。


 クラウディオはミルゴを見た。


 静かな目だった。


「部屋へ戻る」


 それだけ言って、歩き出す。


 ミルゴは少し拍子抜けしたようだった。


「愛想のない」


 背後でそう呟かれる。


 クラウディオは振り返らなかった。


 部屋に戻ると、マルタが待っていた。


 彼女は厳しい顔をしていた。


「また外へ?」


 クラウディオは答えなかった。


「クラウディオ様」


 様のついた声。


 軽い声。


 叱責の前置き。


 クラウディオはその声を聞きながら、ロウェナの声を思い出した。


 クラウディオ。


 同じ名。


 違う声。


 同じ文字。


 違う意味。


 マルタは続けた。


「勝手なお振る舞いはお控えください。ご自分のお立場をお忘れですか」


「忘れていない」


「でしたら」


「俺は部屋にいる」


 クラウディオはそれ以上言わず、寝台へ向かった。


 マルタは不満げだったが、紙袋には気づかなかった。外套の内側に隠したまま、クラウディオは彼女が去るのを待った。


 扉が閉まる。


 足音が遠ざかる。


 彼はようやく紙袋を取り出した。


 中には、小さな蜂蜜の焼き菓子が二つ入っていた。


 そして、紙袋の底に、小さな紙片が一枚あった。


 クラウディオはそれを取り出す。


 そこには丸い文字で、短く書かれていた。


 また来てね、クラウディオ。


 たった一行。


 それだけ。


 クラウディオは紙片を長い間見ていた。


 王城で彼の名は、書類の上に載る。


 血統表に書かれる。


 教師の記録に書かれる。


 正妃の管理する名簿に書かれる。


 だが、それらの文字は、彼を分類するためのものだった。


 この紙片の名は違った。


 また来てね。


 その言葉の中に、クラウディオがいた。


 クラウディオは机の引き出しを開けた。


 ロウェナのことを書いた紙の隣に、その紙片を置こうとして、やめた。


 もっと奥へ入れる。


 誰にも見つからないように。


 けれど、罪の記録を隠す床下ではない。


 あそこには入れない。


 名前を刃にした者たちの記録と、名前を手渡してくれた声を、同じ暗がりへ置きたくなかった。


 彼は紙片を小さな布に包み、机の奥、インク瓶の下へ隠した。


 それから焼き菓子を一つ食べた。


 冷めている。


 けれど甘い。


 もう一つは残した。


 全部食べてしまうと、声まで消える気がした。


 夜、クラウディオは寝台の上で目を閉じた。


 王城のどこかで、従者たちの足音がする。


 遠くでリヴィアの笑い声が聞こえる。


 マルタが誰かと話している声。


 妾腹。


 あの子。


 扱いに困る。


 王城の言葉は相変わらず壁を伝ってくる。


 けれど、その奥で、別の声がした。


 クラウディオ。


 柔らかく。


 普通に。


 まっすぐに。


 何度も、何度も。


 それはまだ、救いと呼ぶには小さすぎた。


 明日の朝になれば、また冷たい水で顔を拭かれる。


 礼法室では膝をつかされる。


 廊下では妾の子と囁かれる。


 食卓では血が薄いと笑われる。


 王は見ているだけで、正妃は微笑む。


 何も変わらない。


 それでも、クラウディオは知ってしまった。


 王城の外に、自分の名をそのまま呼ぶ声がある。


 妾の子ではなく。


 半端な血ではなく。


 あの子でも、あれでもなく。


 クラウディオ、と。


 ただ、そう呼ぶ声がある。


 幼い彼は、その声を胸の奥へしまった。


 黒い種の隣。


 小さな火種のそば。


 誰にも見せない場所へ。


 いつか王城のすべてを血で染める夜が来ても。


 誰かの名を裁きの帳簿から読み上げる日が来ても。


 この声だけは、別の場所に置いておくのだと、まだ言葉にならない形で決めた。


 クラウディオ。


 その声を思い出しながら、彼は眠りに落ちた。


 この城の誰も知らない。


 妾の子と呼ばれた幼い吸血鬼が、初めて自分の名を嫌いではないと思った夜のことを。


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