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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第36話 教会区の鐘



 教会区の鐘は、夜明けを告げるために鳴るものだった。


 かつては。


 少なくとも、古い聖典にはそう書かれている。


 鐘は朝を呼び、夜を退け、人々に祈りの時を知らせる。


 死者を弔い、婚礼を祝福し、火事を告げ、災厄を遠ざける。


 そういうものだった。


 だが、ルグランディアの教会区で鳴る鐘は、もう朝のためだけのものではない。


 吸血鬼を遠ざけるため。


 崩れ種の接近を知らせるため。


 野良吸血鬼が人間の声を真似て戸口へ近づいた時、村人に返事をさせないため。


 夜間避難所の扉を開く最後の合図として。


 そして、外縁から届く死の報告を数えるため。


 鐘は鳴る。


 低く、重く、何度も。


 その音を聞くたび、人間たちは窓を閉め、祈りの言葉を飲み込み、子どもの口を塞ぐ。


 鐘が鳴るということは、何かが近づいているということだからだ。


 教会区の朝は、銀の匂いがした。


 聖堂の石畳には、銀粉を混ぜた白砂が撒かれている。扉には銀釘が打ち込まれ、窓枠には聖別油が塗られ、祈祷室の壁には赤黒い護符が何枚も貼られていた。


 祭壇の前には、吸血鬼対策用の道具が並べられている。


 銀の短杭。


 聖別油の小瓶。


 浄化蝋。


 銀糸を編み込んだ網。


 血止め布。


 赤い目を見た時に飲ませる苦薬。


 崩れ種に噛まれた者を隔離するための鎖。


 それらは本来、祭壇に置くものではない。


 だが今は、祈りよりも防衛が優先されていた。


 人間は神へ祈りながら、同時に戸口へ銀釘を打つ。


 神だけでは間に合わないと知っているからだ。


 信仰の敗北と言えばそれまでだが、人間は敗北しても生活しなければならない。厄介な生き物である。実にしぶとい。


 聖堂の奥では、司祭レオナールが外縁から届いた報告書を読んでいた。


 四十を少し過ぎた男で、灰色の髪を短く整え、黒い司祭服の上に銀糸の肩掛けをしている。


 彼の目元には濃い疲労があった。


 眠っていないのだろう。


 ここ数日、教会区には外縁からの嘆願が相次いでいた。


 オルディ村。


 粉挽き小屋の親子消失。


 宿駅手前の荷車襲撃。


 家畜小屋三棟、全滅。


 戸口を叩く声。


 死者の声真似。


 赤い目の崩れ種。


 獣化種の痕跡。


 王城へ救援を求めたが、本格的な守備隊派遣はない。


 教会区による独自対応を許可。


 ただし、王都血族への干渉は禁止。


 それが王城からの返答だった。


 レオナールはその文面を何度も読んだ。


 読み直すたび、胸の奥に冷たいものが溜まっていく。


 許可。


 独自対応を許可。


 つまり、王は助けない。


 人間たちが自分たちでどうにかしろ、ということだ。


 ただし、吸血鬼の王都へ手を伸ばすな。


 王城の血族へ触れるな。


 人間が何人喰われても、王の秩序へ傷をつけるな。


 それが、今代の吸血鬼王クラウディオ・ルジェリウスの返答だった。


 レオナールは報告書を机に置いた。


「……美しき暴君王、か」


 教会区でも、その名は広がっている。


 血で王冠を作った王。


 兄弟を膝まずかせ、父王から王権を奪った王。


 血杯を落とした者を許さず、一拍遅れた返答すら罪にする王。


 同族でさえ跡形もなく消す王。


 美貌は月より冷たく、声は王城全体を凍らせる。


 そして、人間の被害には興味を示さない。


 弱いものが喰われるのは夜の当然。


 そう切り捨てた王。


 吸血鬼王クラウディオの名は、人間の間ではすでに王ではなく、災厄に近い響きを持っていた。


 直接襲ってくるわけではない。


 血を吸いに村へ来るわけでもない。


 それでも、彼は恐れられている。


 なぜなら、彼が救わないからだ。


 救える力があるのに、救わない。


 命じれば野良吸血鬼を狩れる。


 王城守備を出せる。


 崩れ種を処分できる。


 獣化種を封じられる。


 それなのに動かない。


 それは、牙で喉を裂く暴力とは違う。


 だが、人間にとっては同じほど恐ろしい。


 見捨てる王。


 夜の当然として人間の死を数える王。


 レオナールは、報告書の端を握りしめた。


 紙が軋む。


 聖堂の扉が開き、若い修道士が入ってきた。


 名をユリスという。


 まだ十七歳。


 顔には幼さが残っているが、目元だけはこの数日で妙に老けていた。


「司祭様。銀釘の配布準備が整いました」


「数は」


「外縁南西へ送れるのは、三箱です」


「少ないな」


「王城側からの追加銀材はありません」


 レオナールは目を閉じた。


 やはり、来ない。


「聖別油は」


「小瓶で二十七。浄化蝋は四十本。銀糸の網は二枚のみです」


「崩れ種相手に二枚か」


「はい」


「祈りの言葉で網が増えるなら、今すぐ百回唱えるんだがな」


 ユリスは笑わなかった。


 笑える状況ではない。


 レオナールも、冗談を言ったつもりではなかった。


 人間が使える手段は少ない。


 銀。


 火。


 聖別油。


 結界。


 鐘。


 祈り。


 そして、ハンター。


 ユリスが小さく言った。


「ハンター組合からの返答は、まだですか」


 レオナールは机の上の別の封書を見た。


 未開封ではない。


 何度も読み返し、折り目がついている。


「近隣の登録ハンターは、すでに別件で出払っている。崩れ種と獣化種が同時に出ているなら、並の者では無理だ」


「では、外縁は」


「持たないだろうな」


 ユリスの顔が白くなった。


 正直すぎた。


 だが、慰めは役に立たない。


 レオナールは知っている。


 外縁では、嘘の安心ほど残酷なものはない。


「ただ、一人だけ名が挙がっている」


 ユリスが顔を上げる。


「誰ですか」


 レオナールは少しだけためらった。


 その名は、教会区でも噂に近い。


 存在は確認されている。


 だが、常に現れるわけではない。


 雇えるかも分からない。


 人間の味方かどうかすら、人によって意見が分かれる。


 それでも、吸血鬼を狩れる者として、その名は知られていた。


「灰銀のハンター」


 ユリスが息を呑んだ。


「実在するのですか」


「実在はする」


「では、その方に頼めば」


「頼めば来るような相手なら、皆こんな顔はしていない」


 レオナールは苦く言った。


 灰銀のハンター。


 灰銀の髪を持つ、異様なほど巨大な男。


 吸血鬼の痕跡を読む。


 崩れ種を躊躇なく狩る。


 野良吸血鬼の巣を一夜で潰したことがある。


 獣化種の群れから村を一つ救ったことがある。


 教会区の命令には従わない。


 王城にも属さない。


 人間側に立つこともあるが、人間のためだけに動くわけではない。


 そして、吸血鬼たちからも恐れられている。


 そういう噂だった。


 ユリスは拳を握った。


「それでも、期待するしかありません」


「そうだな」


 レオナールは立ち上がった。


 聖堂の奥から、鐘の音が響く。


 一度。


 二度。


 三度。


 外縁警戒鐘。


 日没までまだ時間がある。


 それでも鳴らされたということは、新しい被害報告が届いたのだ。


 ユリスが走り出そうとする。


 レオナールが止めた。


「慌てるな。まず鐘を数えろ」


 鐘は続く。


 四度。


 五度。


 六度。


 七度。


 ユリスの顔が強張った。


「七……」


 七つの鐘。


 それは、崩れ種の増加を示す合図だった。


 聖堂内の修道士たちが一斉に動き出す。


 銀釘の箱が運ばれる。


 聖別油が小瓶へ詰められる。


 浄化蝋が布で包まれる。


 負傷者用の寝台が地下へ運ばれる。


 泣きそうな顔の少女修道士が、赤い護符へ祈祷印を押している。


 誰も無駄口を叩かない。


 祈りの言葉だけが、低く、早く、幾重にも重なっていく。


 だが、その祈りは穏やかではなかった。


 切迫している。


 まるで祈りですら、走って逃げようとしているようだった。


 レオナールは聖堂の中央へ出た。


 人間たちが集まり始めている。


 外縁から逃げてきた者。


 王都下層の住人。


 教会区に保護を求める親子。


 商人。


 病人。


 足を引きずる老人。


 母親の手を離さない子ども。


 彼らは皆、鐘の音を聞いてやって来た。


 誰も吸血鬼王を見たことはない。


 それでも、彼らはクラウディオを恐れている。


 なぜなら、王が助けないと知っているからだ。


 ひとりの女が、レオナールに縋った。


「司祭様、王城は来るんですか」


 レオナールは、すぐに答えられなかった。


 その沈黙だけで、女は理解した。


 顔が崩れる。


「じゃあ、私たちはどうすれば」


 別の男が叫んだ。


「王は何をしてるんだ! 吸血鬼どもの王なんだろう! 野良も崩れ種も、あいつらの問題じゃないのか!」


 誰も止めなかった。


 その怒りは当然だった。


 けれど、危うい。


 吸血鬼への恐怖は、すぐに別の誰かへ向かう。


 過去の魔女狩りも、そうやって始まった。


 レオナールは声を張った。


「王城は動かない」


 聖堂が静まった。


 言ってしまった。


 だが、必要だった。


「少なくとも、今すぐには動かない。だから教会区が防衛を強化する。銀釘を配る。夜間避難所を開く。外縁へ護符と聖別油を送る。ハンター組合にも依頼を出している」


 女が震える声で言った。


「ハンター……」


 その言葉に、周囲が反応した。


 吸血鬼に怯える人間たちにとって、ハンターは最後の希望だった。


 王城は守らない。


 教会だけでは足りない。


 なら、吸血鬼を狩る者へ縋るしかない。


 誰かが囁いた。


「灰銀の……」


 別の誰かが続ける。


「灰銀のハンターなら、崩れ種を殺せるって」


「野良の巣を潰したって聞いた」


「吸血鬼王にも怯まないって」


「本当に来るのか」


「来てくれなきゃ、私たちは」


 期待は、すぐに祈りへ似た形になる。


 危険なことだった。


 ひとりのハンターにすべてを背負わせれば、来なかった時に絶望が大きくなる。


 来たとしても、救えないものは救えない。


 それでも、人間は期待する。


 期待しなければ、夜を越えられないからだ。


 レオナールは、彼らを見た。


 怯えた目。


 疲れた顔。


 泣き出しそうな子ども。


 血を失った村人。


 彼らに向かって、灰銀のハンターが必ず来るとは言えなかった。


 嘘になる。


 だが、何も言わなければ崩れる。


 レオナールは低く告げた。


「依頼は出した」


 それが、今言える限界だった。


「教会区は、夜が明けるまで扉を閉じない。鐘が鳴ったら、外へ出るな。声がしても返事をするな。死者の声でも、家族の声でも、絶対に扉を開けるな」


 人々は震えながら頷く。


 その中で、小さな男の子が聞いた。


「王さまは、ぼくたちを助けてくれないの?」


 聖堂が静かになった。


 レオナールは、その子を見た。


 幼い顔。


 何も知らない目。


 だが、もう夜を怖がっている。


 この子は、吸血鬼王クラウディオを見たことがない。


 王城も知らない。


 血杯も知らない。


 同族の処刑も知らない。


 ただ、王というものは助けてくれるのではないかと、まだどこかで思っている。


 レオナールは、嘘をつけなかった。


「吸血鬼王は、人間の王ではない」


 男の子の目が揺れた。


「では、だれが助けてくれるの」


 レオナールは答えられなかった。


 教会。


 ハンター。


 銀。


 祈り。


 それらを並べることはできる。


 だが、絶対の救いではない。


 そこへ、また鐘が鳴った。


 今度は一度だけ。


 低く、長く。


 聖堂の者たちが一斉に顔を上げる。


 門番が走ってきた。


「司祭様! 外縁から負傷者です!」


 聖堂の扉が開かれる。


 数人の男たちが、血まみれの青年を担ぎ込んできた。


 片腕がない。


 肩から下が、何かに噛み千切られたように失われている。


 顔は蒼白で、唇が紫になっている。


 だが、彼はまだ生きていた。


 目を開け、焦点の合わない視線で天井を見ている。


 レオナールは駆け寄った。


「噛まれたのか」


 担いできた男が答える。


「分かりません……森で、赤い目が……声が、妻の声がして……そいつが振り向いたら、腕を……!」


 青年の瞳が揺れる。


 赤くはない。


 まだ人間の目だ。


 だが、噛まれた傷から、黒い血の筋が広がり始めている。


 崩れ種の毒か。


 獣化種の汚染か。


 時間がない。


 ユリスが苦薬を持ってくる。


 修道女が聖別油を用意する。


 銀鎖が運ばれる。


 青年が突然、身体を跳ねさせた。


「来る……」


 掠れた声。


「何が」


 レオナールが聞く。


 青年の目から涙が落ちた。


「声が……まだ、聞こえる……」


 聖堂の外から、かすかに女の声がした。


 優しい声だった。


「開けて」


 聖堂内の全員が凍りつく。


 あり得ない。


 ここは教会区の中心だ。


 銀釘も、結界も、鐘もある。


 それでも声が届いた。


「開けて」


 負傷した青年が泣きながら叫んだ。


「妻の声だ……妻なんです……!」


 レオナールは彼の肩を押さえた。


「違う。聞くな」


「でも、外に……!」


「違う!」


 鐘が鳴った。


 今度は激しく。


 教会区の鐘楼が震えるほどに。


 吸血鬼対策の鐘。


 聖堂の修道士たちが一斉に扉へ銀の棒を渡す。


 窓を閉ざす。


 祈祷蝋に火をつける。


 人々が悲鳴を上げる。


 子どもが泣く。


 外から、女の声が何度も響く。


「開けて」


「寒いの」


「あなた」


「ねえ」


 レオナールは、鐘の音の中で立ち尽くした。


 王城は来ない。


 吸血鬼王は動かない。


 夜は、人間の扉のすぐ外まで来ている。


 その時、誰かが叫んだ。


「ハンターを呼んで!」


 別の声が重なる。


「灰銀のハンターを!」


「お願い、誰か!」


「吸血鬼を狩れる人を!」


 鐘が鳴る。


 祈りが乱れる。


 人間たちの恐怖が、聖堂の中で渦を巻く。


 その中心で、レオナールは初めて思った。


 この鐘は、神を呼んでいるのではない。


 王を呼んでいるのでもない。


 人間たちは、もう別のものを呼んでいる。


 吸血鬼王に対抗できるかもしれない者。


 王城の冷たい沈黙を破れるかもしれない者。


 灰銀のハンター。


 その名が、教会区の鐘とともに広がっていく。


 外では、女の声がやがて低く歪んだ。


「開けろ」


 人間の声ではなくなる。


 扉の向こうで、爪が銀を掻いた。


 ぎり、と嫌な音がした。


 人々が悲鳴を上げる。


 レオナールは聖別油を手に取り、扉へ向かった。


 手は震えている。


 それでも止まらない。


 王が助けないなら、人間は人間の手で扉を押さえるしかない。


 ハンターが来るまで。


 夜が明けるまで。


 あるいは、扉が破られるまで。


 教会区の鐘は鳴り続けた。


 その音は王城にも届かない。


 クラウディオの玉座にも届かない。


 だが、人間たちはその鐘の下で、吸血鬼王の恐ろしさを知った。


 彼が牙を剥いたからではない。


 彼が来ないからだ。


 救えるはずの夜に、救わない王。


 その冷たさこそが、人間にとって最も恐ろしい吸血鬼王の姿だった。


 そしてその夜、教会区では誰もが同じ名を待った。


 灰銀のハンター。


 夜の外から来るかもしれない、ただ一つの刃を。


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