表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/231

第37話 灰銀の噂



 灰銀の噂が、王城へ届いた。


 最初は、外縁からの小さな報告だった。


 野良吸血鬼の巣が一夜で潰された。


 崩れ種が三体、森の入口に並べられていた。


 獣化種に襲われていた人間の集落が、なぜか一晩だけ被害を免れた。


 外縁の宿駅近くで、赤い目の群れを狩る男を見た者がいる。


 人間ではないように大きく、しかし吸血鬼でもない。


 灰銀の髪。


 鋼色の瞳。


 巨大な刃。


 夜の中を歩き、吸血鬼だけを狩る男。


 人間を喰わず、人間へ牙を向けず、しかし吸血鬼には容赦しない。


 外縁では、彼を灰銀のハンターと呼び始めていた。


 教会区では、その名が祈りの代わりに囁かれているという。


 王城では、その名が不快な沈黙を連れてきた。


 黒議の間で、外縁警備官はその報告を読み上げていた。


 声は慎重だった。


 紙を持つ指がわずかに震えている。


 王の前で一拍遅れることを、彼は恐れているのだろう。


 正しい恐怖だった。


 恐怖で手が震えても、声だけは遅れていない。


 それだけで、まだ生きる資格がある。


 クラウディオ・ルジェリウスは、黒い椅子に座っていた。


 王冠はない。


 だが、頭上に王冠がなくとも、彼の周囲には王権の冷たさが満ちている。


 黒髪は夜を流したように艶やかで、白い指は肘掛けに静かに置かれていた。琥珀色の瞳は半ば伏せられ、その奥に沈む赤はまだ表へ出ていない。


 外縁警備官が続ける。


「被害地域は外縁南西から北西へ移動しております。野良吸血鬼の小規模群れが三つ、消滅。崩れ種の活動痕も複数途絶えております」


 ヴェルナー卿が腕を組んだ。


「誰が処分した」


「不明です。ただ、生存者の証言では、灰銀の髪を持つ大男が、夜明け前に森から出てきたと」


 メルキオル卿が小さく目を細める。


「人間か」


「少なくとも、外見上は」


 外縁警備官は言葉を選んだ。


「ただし、通常の人間とは考えにくいとの報告です。崩れ種の群れを相手に単独で生存し、野良吸血鬼を追跡している形跡がございます」


 オルディア・ネシュが低く言った。


「吸血鬼狩りの専門か」


「教会区では、ハンターと呼ばれております」


「教会区の狗か」


 古参血族の一人が吐き捨てた。


 クラウディオは、そこで初めて目を開いた。


 部屋の空気が凍る。


 古参血族は即座に顔を伏せた。


 不用意な言葉だったと気づいたのだろう。


 クラウディオは、怒らなかった。


 怒るほどでもない。


 ただ、その言葉を記録した。


 教会区の狗。


 灰銀のハンター。


 吸血鬼だけを狩る男。


 王の夜を勝手に歩く刃。


 外縁警備官は、声を整えて続ける。


「現時点で、その男が人間を襲った報告はありません。むしろ、襲われた人間を結果的に救った例が複数」


「結果的に」


 クラウディオが繰り返した。


 低い声。


 外縁警備官の肩が震える。


「は、はい。人間救助を目的としているかは不明ですが、吸血鬼を狩った結果、人間側の被害が減っております」


「吸血鬼だけを狩る」


 クラウディオは、静かに言った。


 その声音に、わずかな愉悦が混じっていた。


 黒議の間の者たちは気づいた。


 王が不快に思っている。


 同時に、興味を持っている。


 危険な兆候だった。


 クラウディオにとって、退屈は飢えに似ている。


 飢えた王が何かへ興味を持つ時、周囲はたいてい血を見る。


 クラウディオは報告書を受け取った。


 白い指が紙へ触れる。


 そこに記された灰銀の噂を、ゆっくり眺める。


 外縁南西。


 野良吸血鬼、三体消滅。


 崩れ種、首を断たれた状態で発見。


 獣化種、銀を打ち込まれた痕跡。


 人間の負傷者、救出。


 目撃証言。


 灰銀の髪。


 鋼色の瞳。


 巨躯。


 吸血鬼のみを攻撃。


 教会区、灰銀のハンターと呼称。


 クラウディオは、紙から目を上げた。


「つまらぬ外縁かと思えば」


 声は静かだった。


「面白いものが混じったな」


 外縁警備官は返事をしなかった。


 正しい判断だった。


 メルキオルが慎重に言う。


「陛下は、そのハンターにご興味を?」


「興味」


 クラウディオはその言葉を口の中で転がした。


 美しい唇が、わずかに笑みの形へ動く。


 だが、笑ってはいない。


「そうだな」


 彼は報告書を指先で軽く弾いた。


「我の夜で、我の同族を狩る。しかも人間へ牙を向けず、吸血鬼だけを選ぶ。ずいぶんと躾の悪い刃だ」


 躾。


 その言葉に、外縁警備官の顔がさらに白くなる。


 ヴェルナーが言った。


「放置すれば、王城の管理能力を疑われる」


「誰に」


「外縁の血族、人間、教会区」


「人間に疑われて、我が困るのか」


 ヴェルナーは黙った。


 クラウディオは続ける。


「教会区は、すでに我を恐れている。外縁血族は、我の顔色を見て動く。疑いたければ疑わせろ。疑いが牙になる前に折ればいい」


 冷たい判断だった。


 だが、そこでクラウディオの声に別の色が混じる。


「ただし」


 全員が身構える。


「その灰銀が、我の夜を荒らすなら別だ」


 黒議の間の空気が重くなる。


 クラウディオの瞳の奥に、赤が薄く滲んだ。


 吸血衝動ではない。


 怒りでもない。


 愉悦に近い。


 退屈な夜へ、知らない刃が入ってきた。


 その事実が、彼の血をわずかに揺らした。


 クラウディオは、長い間、満たされていなかった。


 同族を処断しても。


 血杯を落とした従者を消しても。


 一拍遅れた臣下を裁いても。


 外縁の人間が喰われても。


 王城全体を凍らせても。


 何かが足りなかった。


 まずいな。


 我を満たす糧は、この世に存在するのか。


 そう呟いた自分の声を、彼は覚えている。


 そして今。


 灰銀の噂が届いた。


 吸血鬼だけを狩る男。


 野良も崩れ種も獣化種も、区別なく夜から削る男。


 王城の許可なく、王の夜へ刃を入れる男。


 不愉快だった。


 当然だ。


 王の夜を荒らす存在など、不愉快に決まっている。


 だが、その不愉快さの奥に、鋭い快感があった。


 自分の領域へ踏み込むものがいる。


 自分の同族を狩るものがいる。


 自分の命令ではないところで、夜の形を変えるものがいる。


 それは、王として許しがたい。


 同時に。


 血が、少しだけ愉しんでいる。


 退屈な王城の中で、久しく感じていなかった刺激だった。


 クラウディオは、ゆっくり笑った。


 黒議の間の者たちは、誰もその笑みを見なかった。


 見れば、自分の血が凍ると分かっていた。


「灰銀」


 クラウディオは、その名を呼ぶように呟いた。


「見た者はいるのか」


 外縁警備官が即座に答える。


「直接確認した王城側の者はおりません。外縁人間の証言のみです」


「探れ」


「はっ」


「ただし、殺すな」


 外縁警備官が一瞬だけ戸惑った。


 その一瞬で、部屋の空気が鋭くなる。


 彼はすぐに頭を下げる。


「承知いたしました、陛下」


 返答は間に合った。


 クラウディオはそれを見逃さないが、罰するほどではないと判断したらしい。


「殺せると思うな、という意味だ」


 王の声が低くなる。


「野良や崩れ種を狩る者を、外縁の雑兵で処分できるはずがない。愚かに刃を向けて死ぬな。近づくな。見つけたら報告しろ」


「仰せのままに」


 ヴェルナーが言った。


「私の配下を出します」


 クラウディオはヴェルナーを見る。


「興味があるのか」


「危険を測る必要があります」


「便利な言葉だ」


「陛下がお使いになるものほどでは」


 黒議の間が凍りついた。


 ヴェルナーだけが、こういう返しをする。


 そして、まだ生きている。


 クラウディオは少しだけ目を細めた。


「測れ」


 短い許可。


「ただし、灰銀が我の前へ来る前に壊すな」


「壊せる相手なら」


「ヴェルナー」


 クラウディオの声が静かに落ちる。


「我の愉しみを奪るな」


 その一言で、部屋の空気が完全に変わった。


 愉しみ。


 王が言った。


 不愉快なはずのハンターを、愉しみと呼んだ。


 それは、王城の者たちにとって危険な言葉だった。


 クラウディオの愉しみは、たいてい誰かの命と尊厳を削る。


 ヴェルナーは深く頭を下げた。


「承知しました」


 クラウディオは椅子から立ち上がった。


 会議は終わりだと、全員が理解した。


 彼が立つだけで、場が終わる。


 議題も、反論も、意見も、すべて沈む。


 王が歩き出す。


 黒い衣が床を滑る。


 外縁報告書は彼の手にある。


 灰銀のハンターの噂。


 王の夜を荒らす刃。


 王の飢えをわずかに揺らした名。


 黒議の間を出ると、廊下には青白い魔導灯が灯っていた。


 クラウディオは歩きながら、報告書をもう一度見る。


 灰銀。


 鋼色の瞳。


 吸血鬼のみを狩る。


 人間を襲わない。


 教会区が期待を寄せる。


 外縁の人間が祈りのように名を呼ぶ。


 その構図が不快だった。


 人間が、王ではなくハンターへ期待する。


 教会区が、王城ではなく灰銀へ縋る。


 外縁が、吸血鬼王の夜に別の刃を呼ぶ。


 クラウディオの王権へ直接触れたわけではない。


 だが、夜の見え方を変え始めている。


 それが不快だった。


 同時に、快かった。


 自分の支配する夜へ、別の理屈が入り込む。


 自分の当然を、誰かが切り裂いている。


 弱いものが喰われるのが夜の当然なら、その当然を狩るものがいる。


 吸血鬼だけを狩る灰銀。


 クラウディオは、口元をわずかに歪めた。


「面白い」


 声は低かった。


 廊下に控える従者が震える。


 王が面白いと言う時、何かが壊れる。


 その程度のことは、王城の者なら全員知っている。


 クラウディオは自室へ戻ると、報告書を机に置いた。


 黒硝子の窓には、王都の夜が映っている。


 遠く、外縁の方角は見えない。


 だが、そこに何かがいる。


 灰銀の髪をしたハンター。


 吸血鬼だけを狩る男。


 クラウディオは、黒硝子に映る自分を見る。


 美しい王。


 暴君。


 血杯を落とす者を許さず、返答の遅れを罪とし、人間の被害を夜の当然と切り捨てる王。


 その王が、今、外縁の噂に心を動かしている。


 心。


 そんな柔らかいものではない。


 血だ。


 血が反応している。


 クラウディオは、静かに指先で机を叩いた。


 一度。


 二度。


 三度。


「吸血鬼だけを狩る、か」


 彼は呟いた。


「選ぶのだな。そなたは」


 人間は殺さない。


 吸血鬼だけを狩る。


 野良も崩れ種も区別なく。


 灰銀のハンターは、夜に線を引いている。


 クラウディオもまた、線を引いている。


 王都へ近づくなら狩る。


 血糧路を荒らすなら処分する。


 外縁の人間だけなら放置する。


 弱いものが喰われるのは夜の当然。


 その線を、灰銀は別の線で切る。


 吸血鬼だけを狩る。


 その選び方が、不愉快だった。


 まるで、吸血鬼こそが夜の病だと言われているようで。


 まるで、王の夜に間違いがあると突きつけられているようで。


 不快で。


 愉快だった。


 クラウディオは、報告書の余白に指を置く。


 紙は白い。


 そこに、灰銀の名はまだ正式には書かれていない。


 ただの噂。


 ただの目撃情報。


 ただの人間たちの希望。


 だが、いつかこの名は記録になる。


 クラウディオは、その予感がした。


 彼は新しい紙を取り出した。


 今でも、自分だけの記録を続けている。


 題を書く。


 灰銀の噂。


 そして、続ける。


 外縁にて、吸血鬼のみを狩る者の噂。


 灰銀の髪。


 鋼色の瞳。


 巨躯。


 人間を襲わず、野良吸血鬼、崩れ種、獣化種を狩る。


 教会区が期待。


 外縁人間が祈りのように名を呼ぶ。


 王の夜を荒らす刃。


 不愉快。


 だが、血が愉しんでいる。


 クラウディオは、そこでペンを止めた。


 不愉快。


 愉悦。


 この二つは矛盾しない。


 むしろ、近い。


 王である自分を乱すもの。


 王城の秩序へ傷を入れるもの。


 王の当然へ別の答えを持ち込むもの。


 それは不快だ。


 だが、退屈な夜を破るものでもある。


 それは快い。


 クラウディオは、さらに書いた。


 我の糧になり得るか。


 その一文を見て、彼は少しだけ笑った。


 糧。


 吸血鬼王が誰かをそう呼ぶ時、それはたいてい相手にとって不幸である。


 だが、灰銀がただ喰われるだけのものかどうかは、まだ分からない。


 むしろ、喰われるどころか、こちらへ牙を立てるかもしれない。


 吸血鬼だけを狩る男。


 クラウディオは、その可能性を思い、胸の奥にわずかな熱を覚えた。


 怒りではない。


 飢えでもない。


 もっと鋭く、危険な期待。


 「王の前に来い」


 彼は黒硝子へ向けて呟いた。


 まだ見ぬ灰銀へ。


「我の夜を荒らすなら、我の目の前でやれ」


 黒硝子には、クラウディオ自身の姿だけが映っている。


 だが、その向こうに、遠い外縁の森がある気がした。


 赤い目の野良が倒れる夜。


 崩れ種の叫びが途切れる夜。


 人間が扉の内側で、灰銀の名を祈る夜。


 そして、吸血鬼王が初めて、その名を記録する夜。


 クラウディオは紙を折らず、机の上に置いた。


 灰銀の噂。


 それはまだ、噂にすぎない。


 だが、彼の血はもう覚えた。


 王の夜を荒らす存在として。


 不愉快で。


 愉悦に満ちた、未知の刃として。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ