第37話 灰銀の噂
灰銀の噂が、王城へ届いた。
最初は、外縁からの小さな報告だった。
野良吸血鬼の巣が一夜で潰された。
崩れ種が三体、森の入口に並べられていた。
獣化種に襲われていた人間の集落が、なぜか一晩だけ被害を免れた。
外縁の宿駅近くで、赤い目の群れを狩る男を見た者がいる。
人間ではないように大きく、しかし吸血鬼でもない。
灰銀の髪。
鋼色の瞳。
巨大な刃。
夜の中を歩き、吸血鬼だけを狩る男。
人間を喰わず、人間へ牙を向けず、しかし吸血鬼には容赦しない。
外縁では、彼を灰銀のハンターと呼び始めていた。
教会区では、その名が祈りの代わりに囁かれているという。
王城では、その名が不快な沈黙を連れてきた。
黒議の間で、外縁警備官はその報告を読み上げていた。
声は慎重だった。
紙を持つ指がわずかに震えている。
王の前で一拍遅れることを、彼は恐れているのだろう。
正しい恐怖だった。
恐怖で手が震えても、声だけは遅れていない。
それだけで、まだ生きる資格がある。
クラウディオ・ルジェリウスは、黒い椅子に座っていた。
王冠はない。
だが、頭上に王冠がなくとも、彼の周囲には王権の冷たさが満ちている。
黒髪は夜を流したように艶やかで、白い指は肘掛けに静かに置かれていた。琥珀色の瞳は半ば伏せられ、その奥に沈む赤はまだ表へ出ていない。
外縁警備官が続ける。
「被害地域は外縁南西から北西へ移動しております。野良吸血鬼の小規模群れが三つ、消滅。崩れ種の活動痕も複数途絶えております」
ヴェルナー卿が腕を組んだ。
「誰が処分した」
「不明です。ただ、生存者の証言では、灰銀の髪を持つ大男が、夜明け前に森から出てきたと」
メルキオル卿が小さく目を細める。
「人間か」
「少なくとも、外見上は」
外縁警備官は言葉を選んだ。
「ただし、通常の人間とは考えにくいとの報告です。崩れ種の群れを相手に単独で生存し、野良吸血鬼を追跡している形跡がございます」
オルディア・ネシュが低く言った。
「吸血鬼狩りの専門か」
「教会区では、ハンターと呼ばれております」
「教会区の狗か」
古参血族の一人が吐き捨てた。
クラウディオは、そこで初めて目を開いた。
部屋の空気が凍る。
古参血族は即座に顔を伏せた。
不用意な言葉だったと気づいたのだろう。
クラウディオは、怒らなかった。
怒るほどでもない。
ただ、その言葉を記録した。
教会区の狗。
灰銀のハンター。
吸血鬼だけを狩る男。
王の夜を勝手に歩く刃。
外縁警備官は、声を整えて続ける。
「現時点で、その男が人間を襲った報告はありません。むしろ、襲われた人間を結果的に救った例が複数」
「結果的に」
クラウディオが繰り返した。
低い声。
外縁警備官の肩が震える。
「は、はい。人間救助を目的としているかは不明ですが、吸血鬼を狩った結果、人間側の被害が減っております」
「吸血鬼だけを狩る」
クラウディオは、静かに言った。
その声音に、わずかな愉悦が混じっていた。
黒議の間の者たちは気づいた。
王が不快に思っている。
同時に、興味を持っている。
危険な兆候だった。
クラウディオにとって、退屈は飢えに似ている。
飢えた王が何かへ興味を持つ時、周囲はたいてい血を見る。
クラウディオは報告書を受け取った。
白い指が紙へ触れる。
そこに記された灰銀の噂を、ゆっくり眺める。
外縁南西。
野良吸血鬼、三体消滅。
崩れ種、首を断たれた状態で発見。
獣化種、銀を打ち込まれた痕跡。
人間の負傷者、救出。
目撃証言。
灰銀の髪。
鋼色の瞳。
巨躯。
吸血鬼のみを攻撃。
教会区、灰銀のハンターと呼称。
クラウディオは、紙から目を上げた。
「つまらぬ外縁かと思えば」
声は静かだった。
「面白いものが混じったな」
外縁警備官は返事をしなかった。
正しい判断だった。
メルキオルが慎重に言う。
「陛下は、そのハンターにご興味を?」
「興味」
クラウディオはその言葉を口の中で転がした。
美しい唇が、わずかに笑みの形へ動く。
だが、笑ってはいない。
「そうだな」
彼は報告書を指先で軽く弾いた。
「我の夜で、我の同族を狩る。しかも人間へ牙を向けず、吸血鬼だけを選ぶ。ずいぶんと躾の悪い刃だ」
躾。
その言葉に、外縁警備官の顔がさらに白くなる。
ヴェルナーが言った。
「放置すれば、王城の管理能力を疑われる」
「誰に」
「外縁の血族、人間、教会区」
「人間に疑われて、我が困るのか」
ヴェルナーは黙った。
クラウディオは続ける。
「教会区は、すでに我を恐れている。外縁血族は、我の顔色を見て動く。疑いたければ疑わせろ。疑いが牙になる前に折ればいい」
冷たい判断だった。
だが、そこでクラウディオの声に別の色が混じる。
「ただし」
全員が身構える。
「その灰銀が、我の夜を荒らすなら別だ」
黒議の間の空気が重くなる。
クラウディオの瞳の奥に、赤が薄く滲んだ。
吸血衝動ではない。
怒りでもない。
愉悦に近い。
退屈な夜へ、知らない刃が入ってきた。
その事実が、彼の血をわずかに揺らした。
クラウディオは、長い間、満たされていなかった。
同族を処断しても。
血杯を落とした従者を消しても。
一拍遅れた臣下を裁いても。
外縁の人間が喰われても。
王城全体を凍らせても。
何かが足りなかった。
まずいな。
我を満たす糧は、この世に存在するのか。
そう呟いた自分の声を、彼は覚えている。
そして今。
灰銀の噂が届いた。
吸血鬼だけを狩る男。
野良も崩れ種も獣化種も、区別なく夜から削る男。
王城の許可なく、王の夜へ刃を入れる男。
不愉快だった。
当然だ。
王の夜を荒らす存在など、不愉快に決まっている。
だが、その不愉快さの奥に、鋭い快感があった。
自分の領域へ踏み込むものがいる。
自分の同族を狩るものがいる。
自分の命令ではないところで、夜の形を変えるものがいる。
それは、王として許しがたい。
同時に。
血が、少しだけ愉しんでいる。
退屈な王城の中で、久しく感じていなかった刺激だった。
クラウディオは、ゆっくり笑った。
黒議の間の者たちは、誰もその笑みを見なかった。
見れば、自分の血が凍ると分かっていた。
「灰銀」
クラウディオは、その名を呼ぶように呟いた。
「見た者はいるのか」
外縁警備官が即座に答える。
「直接確認した王城側の者はおりません。外縁人間の証言のみです」
「探れ」
「はっ」
「ただし、殺すな」
外縁警備官が一瞬だけ戸惑った。
その一瞬で、部屋の空気が鋭くなる。
彼はすぐに頭を下げる。
「承知いたしました、陛下」
返答は間に合った。
クラウディオはそれを見逃さないが、罰するほどではないと判断したらしい。
「殺せると思うな、という意味だ」
王の声が低くなる。
「野良や崩れ種を狩る者を、外縁の雑兵で処分できるはずがない。愚かに刃を向けて死ぬな。近づくな。見つけたら報告しろ」
「仰せのままに」
ヴェルナーが言った。
「私の配下を出します」
クラウディオはヴェルナーを見る。
「興味があるのか」
「危険を測る必要があります」
「便利な言葉だ」
「陛下がお使いになるものほどでは」
黒議の間が凍りついた。
ヴェルナーだけが、こういう返しをする。
そして、まだ生きている。
クラウディオは少しだけ目を細めた。
「測れ」
短い許可。
「ただし、灰銀が我の前へ来る前に壊すな」
「壊せる相手なら」
「ヴェルナー」
クラウディオの声が静かに落ちる。
「我の愉しみを奪るな」
その一言で、部屋の空気が完全に変わった。
愉しみ。
王が言った。
不愉快なはずのハンターを、愉しみと呼んだ。
それは、王城の者たちにとって危険な言葉だった。
クラウディオの愉しみは、たいてい誰かの命と尊厳を削る。
ヴェルナーは深く頭を下げた。
「承知しました」
クラウディオは椅子から立ち上がった。
会議は終わりだと、全員が理解した。
彼が立つだけで、場が終わる。
議題も、反論も、意見も、すべて沈む。
王が歩き出す。
黒い衣が床を滑る。
外縁報告書は彼の手にある。
灰銀のハンターの噂。
王の夜を荒らす刃。
王の飢えをわずかに揺らした名。
黒議の間を出ると、廊下には青白い魔導灯が灯っていた。
クラウディオは歩きながら、報告書をもう一度見る。
灰銀。
鋼色の瞳。
吸血鬼のみを狩る。
人間を襲わない。
教会区が期待を寄せる。
外縁の人間が祈りのように名を呼ぶ。
その構図が不快だった。
人間が、王ではなくハンターへ期待する。
教会区が、王城ではなく灰銀へ縋る。
外縁が、吸血鬼王の夜に別の刃を呼ぶ。
クラウディオの王権へ直接触れたわけではない。
だが、夜の見え方を変え始めている。
それが不快だった。
同時に、快かった。
自分の支配する夜へ、別の理屈が入り込む。
自分の当然を、誰かが切り裂いている。
弱いものが喰われるのが夜の当然なら、その当然を狩るものがいる。
吸血鬼だけを狩る灰銀。
クラウディオは、口元をわずかに歪めた。
「面白い」
声は低かった。
廊下に控える従者が震える。
王が面白いと言う時、何かが壊れる。
その程度のことは、王城の者なら全員知っている。
クラウディオは自室へ戻ると、報告書を机に置いた。
黒硝子の窓には、王都の夜が映っている。
遠く、外縁の方角は見えない。
だが、そこに何かがいる。
灰銀の髪をしたハンター。
吸血鬼だけを狩る男。
クラウディオは、黒硝子に映る自分を見る。
美しい王。
暴君。
血杯を落とす者を許さず、返答の遅れを罪とし、人間の被害を夜の当然と切り捨てる王。
その王が、今、外縁の噂に心を動かしている。
心。
そんな柔らかいものではない。
血だ。
血が反応している。
クラウディオは、静かに指先で机を叩いた。
一度。
二度。
三度。
「吸血鬼だけを狩る、か」
彼は呟いた。
「選ぶのだな。そなたは」
人間は殺さない。
吸血鬼だけを狩る。
野良も崩れ種も区別なく。
灰銀のハンターは、夜に線を引いている。
クラウディオもまた、線を引いている。
王都へ近づくなら狩る。
血糧路を荒らすなら処分する。
外縁の人間だけなら放置する。
弱いものが喰われるのは夜の当然。
その線を、灰銀は別の線で切る。
吸血鬼だけを狩る。
その選び方が、不愉快だった。
まるで、吸血鬼こそが夜の病だと言われているようで。
まるで、王の夜に間違いがあると突きつけられているようで。
不快で。
愉快だった。
クラウディオは、報告書の余白に指を置く。
紙は白い。
そこに、灰銀の名はまだ正式には書かれていない。
ただの噂。
ただの目撃情報。
ただの人間たちの希望。
だが、いつかこの名は記録になる。
クラウディオは、その予感がした。
彼は新しい紙を取り出した。
今でも、自分だけの記録を続けている。
題を書く。
灰銀の噂。
そして、続ける。
外縁にて、吸血鬼のみを狩る者の噂。
灰銀の髪。
鋼色の瞳。
巨躯。
人間を襲わず、野良吸血鬼、崩れ種、獣化種を狩る。
教会区が期待。
外縁人間が祈りのように名を呼ぶ。
王の夜を荒らす刃。
不愉快。
だが、血が愉しんでいる。
クラウディオは、そこでペンを止めた。
不愉快。
愉悦。
この二つは矛盾しない。
むしろ、近い。
王である自分を乱すもの。
王城の秩序へ傷を入れるもの。
王の当然へ別の答えを持ち込むもの。
それは不快だ。
だが、退屈な夜を破るものでもある。
それは快い。
クラウディオは、さらに書いた。
我の糧になり得るか。
その一文を見て、彼は少しだけ笑った。
糧。
吸血鬼王が誰かをそう呼ぶ時、それはたいてい相手にとって不幸である。
だが、灰銀がただ喰われるだけのものかどうかは、まだ分からない。
むしろ、喰われるどころか、こちらへ牙を立てるかもしれない。
吸血鬼だけを狩る男。
クラウディオは、その可能性を思い、胸の奥にわずかな熱を覚えた。
怒りではない。
飢えでもない。
もっと鋭く、危険な期待。
「王の前に来い」
彼は黒硝子へ向けて呟いた。
まだ見ぬ灰銀へ。
「我の夜を荒らすなら、我の目の前でやれ」
黒硝子には、クラウディオ自身の姿だけが映っている。
だが、その向こうに、遠い外縁の森がある気がした。
赤い目の野良が倒れる夜。
崩れ種の叫びが途切れる夜。
人間が扉の内側で、灰銀の名を祈る夜。
そして、吸血鬼王が初めて、その名を記録する夜。
クラウディオは紙を折らず、机の上に置いた。
灰銀の噂。
それはまだ、噂にすぎない。
だが、彼の血はもう覚えた。
王の夜を荒らす存在として。
不愉快で。
愉悦に満ちた、未知の刃として。




