第35話 夜の当然
外縁からの報告は、さらに増えていた。
オルディ村。
粉挽き小屋の親子、行方不明。
宿駅手前の街道、荷車襲撃。
生存者なし。
森沿いの墓地で、夜ごとに人間の声を真似るものを確認。
家畜小屋三棟、全滅。
村人二名、夜間に戸口へ近づき失踪。
教会区配布の護符、効果薄。
銀釘、在庫不足。
外縁南西一帯、夜間移動不能。
報告書の文字は整っていた。
書いた者は、きっと手を震わせていたのだろう。
だが、王城へ届く頃には、恐怖は紙の上で乾く。
血も、悲鳴も、濡れた土も、戸口を叩く爪の音も、すべて数字と地名へ変わる。
人間の死は、王城では軽い。
軽くするために、そう書かれる。
美しい王城の机の上に、人間の悲鳴をそのまま載せるわけにはいかないのだろう。実に上品な処理だった。汚物を絹で包めば贈答品になるとでも思っているらしい。なるほど、貴族文化。
黒議の間では、外縁警備官が報告を読み上げていた。
声は慎重だった。
言葉を選びすぎて、かえって怯えが滲んでいる。
クラウディオ・ルジェリウスは、黒い椅子に座っていた。
玉座ではない。
だが、そこが玉座ではないことに意味はなかった。
彼が座れば、そこが王の席になる。
黒髪は夜のように艶やかで、白い指は肘掛けに静かに置かれている。琥珀色の瞳は報告書を見ているようで、どこも見ていないようでもあった。
王冠はない。
それでも、部屋にいる者は全員、頭を垂れている。
美しき暴君王。
血杯を落とした者を許さず、返答が一拍遅れた者を消し、同族の命を跡形もなく奪う王。
その王の前で、人間の村の被害を読む。
それがどれほど空虚なことか、外縁警備官自身も分かっていた。
それでも読まねばならない。
仕事とは、時に死体を紙に直す作業である。嫌な職業だ。人類はなぜこんなものを発明したのか。
「……以上が、外縁南西からの追加報告にございます」
警備官は深く頭を下げた。
クラウディオは、すぐには答えなかった。
沈黙が落ちる。
黒議の間にいる者たちは、誰も動かない。
ヴェルナー卿は壁際で腕を組んでいる。
メルキオル卿は杖に両手を置き、いつもの笑みを消していた。
血糧庫鑑定官オルディア・ネシュは、外縁血糧への影響を示す資料を手元に置いている。
教会区との折衝役である司祭服の男も、今は沈黙している。
人間の村からの嘆願。
それは吸血鬼王の会議では、ひどく場違いだった。
やがてクラウディオが言った。
「王都への接近は」
低い声だった。
警備官は即座に答える。
「確認されておりません、陛下」
「主要血糧路は」
「遅延なし。外縁南西の支路のみ、停止に近い状態です」
「古参血族の領地被害は」
「今のところ軽微です」
「ならば、変わらぬ」
短い言葉だった。
外縁警備官の顔が白くなる。
それでも、彼は食い下がった。
命知らずというより、外縁を見てしまった者の顔だった。
「恐れながら、陛下。崩れ種の増加が確認されております。野良吸血鬼も統制されておらず、人間の集落が夜間孤立しております。このままでは、外縁南西一帯が」
「一帯が何だ」
クラウディオの視線が、警備官へ向いた。
それだけで、警備官の声が止まりかける。
だが彼は、必死に続けた。
「壊滅する恐れがございます」
「人間の村がか」
「はい」
「それで」
黒議の間が凍った。
警備官の喉が動く。
「……それで、とは」
クラウディオは、表情を変えなかった。
「人間の村が壊滅する。それが、我の王城へ何をもたらす」
あまりに冷たい問いだった。
警備官は答えられない。
人命。
恐怖。
嘆願。
それらは、この王の前では答えにならない。
王城へ何をもたらすか。
王権へどう影響するか。
血糧へどう響くか。
外縁の人間が何人死のうと、その形で語れなければ、クラウディオには届かない。
教会区の男が、そこで口を開いた。
「陛下。人間の恐怖が高まりすぎれば、魔女狩りの再燃につながる恐れがございます。既に外縁では、吸血鬼と関わった者、夜に声を聞いた者、崩れ種に襲われ生き残った者への疑いが広がっております」
魔女狩り。
その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに変わった。
ヴェルナーがクラウディオを見る。
メルキオルの目が細くなる。
オルディアは顔を伏せた。
クラウディオだけが、すぐには動かなかった。
胸の奥で、古い煙が揺れる。
火刑台。
焦げた砂糖。
私は魔女じゃない。
誰も止めなかった広場。
クラウディオは、その記憶を知っている。
誰よりも。
けれど、彼の声は冷たかった。
「教会区が恐怖を扱えぬなら、それは教会区の失態だ」
教会区の男が息を詰めた。
「しかし、陛下」
「人間は恐れる」
クラウディオは続けた。
「恐れれば、身近な弱い者を疑う。疑えば、火を焚く。昔からそうだ」
その声には、怒りがなかった。
怒りがないことが、かえって恐ろしい。
彼は憎んでいるはずの構図を、まるで天候の話のように語っている。
「止める価値がある火なら、そちらで止めろ。王都へ届くなら我が潰す。外縁で燃えるだけなら、好きに燃えさせろ」
教会区の男は言葉を失った。
好きに燃えさせろ。
その一言は、あまりに重かった。
クラウディオは魔女狩りを知らないわけではない。
知らないから軽んじているのではない。
知っていて、切り捨てている。
それが部屋の者たちに伝わった。
ヴェルナーが低く言う。
「外縁の崩れ種は、放置すれば増える」
「増えれば狩れ」
「今狩れば被害は抑えられる」
「王城守備を出したいのか」
クラウディオの声が少し低くなる。
ヴェルナーは黙らない。
「出す価値はある」
「王都を守るためならな」
「外縁を失えば、いずれ王都へ近づく」
「なら、近づいた時に狩れ」
ヴェルナーの眉がわずかに動いた。
それでも、彼は踏み込む。
「その時には、人間の村がいくつか消えている」
「そうだろうな」
クラウディオは淡々と言った。
「弱いものが喰われる。それが夜だ」
その言葉は、黒議の間に冷たく響いた。
誰も返せなかった。
弱いものが喰われる。
それが夜。
美しい王の口から出たのは、統治者の言葉ではなかった。
捕食者の言葉だった。
それも、飢餓に狂った獣ではない。
理性を持った捕食者の言葉。
クラウディオは、警備官へ視線を戻した。
「人間は朝を持つ」
低い声。
「我らは夜を持つ」
誰も動かない。
「朝に弱い者は、朝の法で守られるのだろう。夜に出て、夜に呼ばれ、夜に喰われるなら、それは夜の当然だ」
教会区の男がかすれた声で言った。
「子どももおります」
「子どもなら、喰われた血が戻るのか」
即答だった。
その問いに、男は言葉を失う。
クラウディオは続ける。
「母が泣けば、牙は引くのか」
沈黙。
「祈れば、崩れ種の赤い目は戻るのか」
誰も答えない。
「戻らぬものを、我に差し出すな」
その声には、わずかな苛立ちがあった。
王の心を動かすものとして、人間の悲嘆を出したことへの苛立ち。
あるいは。
自分の中の古い傷を、他人の子どもで揺らそうとしたことへの苛立ち。
クラウディオは、立ち上がった。
衣の裾が黒石の床を滑る。
その場の全員が頭を下げた。
彼は黒議の間を歩き、報告書の置かれた机の前で止まる。
白い指が、外縁南西の地図へ触れる。
そこには赤い印がいくつもついていた。
襲撃地点。
失踪地点。
崩れ種の目撃場所。
獣化種の痕跡。
人間の恐怖の地図。
クラウディオは、それを見下ろした。
「ここに王城守備を出せば、他の外縁が動く」
ヴェルナーが顔を上げる。
クラウディオは続けた。
「野良は散る。崩れ種は森へ潜る。獣化種は別の道へ逃げる。王城の兵が去れば、また戻る」
「なら、駐留を」
「誰の費用で」
現実的な問いだった。
冷たいが、正しい。
ヴェルナーは答えない。
クラウディオは、地図から指を離した。
「外縁全域を守るほど、我は人間に価値を置いていない」
はっきりと言った。
黒議の間にいる者たちが息を呑む。
クラウディオは続ける。
「血糧路を守れ。王都へ近づくものは狩れ。古参血族の領地を荒らすものは処分しろ。だが、人間の村ひとつひとつへ、王城の血を割くな」
命令だった。
残酷なほど明確な線引きだった。
外縁の人間は、王の守るべきものではない。
血糧路なら守る。
王都なら守る。
血族の領地なら守る。
人間の命そのものは、守らない。
クラウディオはそう決めた。
外縁警備官は、青ざめながら頭を下げるしかなかった。
「……仰せのままに」
その声は苦かった。
だが、遅れなかった。
遅れれば死ぬ。
この王城では、苦しみより返答の速度が重要だった。
まったく救いがない。制度設計者は誰だ。たぶん全員死んでいる。よかったですね、責任逃れだけは完璧です。
会議は終わった。
外縁報告書は、分類された。
王都接近なし。
主要血糧路影響なし。
古参血族領地被害軽微。
したがって、王城守備の本格投入なし。
外縁南西の小規模警戒のみ。
教会区には、独自対応を許可。
ただし、王都血族への干渉は禁止。
それが結論だった。
紙の上では、整っていた。
外縁では、その夜も扉が叩かれるというのに。
オルディ村では、夕暮れ前から誰も外へ出なかった。
井戸水を汲みに行く者もいない。
家畜小屋の戸は閉ざされたが、中の牛は落ち着かず鳴き続けている。
子どもは泣くことを禁じられた。
母親たちは布を噛ませ、抱きしめ、震える声で子守歌を歌わない。
歌も呼ぶからだ。
村長の家には、王都からの返答が届いていた。
難しい言葉で書かれていた。
外縁状況について確認中。
教会区と連携。
夜間外出を控えること。
戸口の防護を徹底すること。
異変があれば追加報告を行うこと。
助けは来ない。
それだけが分かる文書だった。
村長は、その紙を暖炉へ投げ入れた。
火が紙を舐める。
王城の美しい文字が黒く縮んでいく。
その火を見て、誰も何も言わなかった。
夜になると、粉挽き小屋の中で石臼が回り始めた。
ごり、ごり。
ごり、ごり。
粉を挽く音。
あるはずのない音。
死んだはずの女の声。
「おじさん」
子どもの声。
「開けて」
別の家の戸が、こん、と鳴った。
誰も息をしなかった。
こん。
こん。
爪ではない。
小さな手で叩くような音。
「寒いの」
村人たちは、祈ることすら怖がった。
祈りの声を聞かれるからだ。
朝までに、家が一つ空になった。
戸は内側から開いていた。
中には誰もいなかった。
寝台も、皿も、靴も、全部残っている。
ただ、赤ん坊の揺り籠だけが、ゆっくり揺れていた。
外縁では、それが夜だった。
弱いものが喰われる。
クラウディオが言った通りに。
それが夜の当然だった。
王城では、クラウディオが黒硝子の前に立っていた。
報告はもう終わっている。
外縁の人間たちが今夜どう過ごすかも、彼は知っている。
戸を塞ぐ。
声に怯える。
子どもの口を押さえる。
祈りもできず、朝を待つ。
それでも、彼は動かない。
黒硝子に映る王は、美しかった。
冷たいほどに。
彼の瞳は琥珀色で、赤は沈んでいる。
外縁の惨状を聞いても、吸血衝動は揺れない。
怒りもない。
憐れみもない。
ただ、夜の理屈がある。
弱いものが喰われる。
かつて彼も、弱い側にいた。
王城で蔑まれ、食卓で見下され、火刑台で何もできず、守りたい者を奪われた。
その記憶はある。
あるからこそ、彼はこうなった。
弱いままでいることを、許さない。
自分にも。
他人にも。
外縁の人間にも。
クラウディオは、静かに呟いた。
「喰われたくなければ、夜を従わせろ」
それができない者は、喰われる。
あまりに冷たい。
あまりに傲慢。
あまりに王らしい。
そして、あまりに暴君らしい。
彼は自分の言葉が理不尽であることを知っている。
外縁の人間が夜を従わせられるはずがない。
子どもが崩れ種に勝てるはずがない。
村人が野良吸血鬼を狩れるはずがない。
それでも、知った上で切り捨てる。
知っていても救わない。
それが、今代の吸血鬼王だった。
机の上には、外縁報告書の写しがあった。
クラウディオはそれを手に取り、しばらく見た。
オルディ村。
失踪者。
崩れ種。
獣化種。
教会区。
魔女狩り再燃の恐れ。
紙の上に並ぶ言葉は、遠い昔の火刑台へ少しだけ似ていた。
クラウディオは、その紙を燃やさなかった。
捨てもせず、封じもしなかった。
ただ、自分の記録の箱へ入れた。
忘れないためではない。
助けるためでもない。
夜の当然として、そこに置いた。
彼の王城では、悲劇も資料になる。
恐怖も判断材料になる。
人間の叫びも、王権に関係しない限り、ただの外縁情報になる。
クラウディオは黒硝子へ目を戻した。
そして、低く言った。
「夜は優しくない」
それは、誰よりも彼が知っている。
だが、知っていることと、救うことは違う。
美しき暴君王は、外縁を救わない。
弱いものが喰われるのは夜の当然だと、静かに切り捨てる。
その冷たい当然の中で、ルグランディアの外縁は、また一つ朝を失った。




