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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第26話 奪う者になる



 夜血の儀の前夜、王城は眠らなかった。


 表向きには静かだった。


 廊下には青白い魔導灯が灯り、従者たちは足音を殺し、侍女たちは声を潜めて動いている。黒石の床は磨かれ、地下礼拝堂へ続く扉には封印が重ねられ、儀礼に使う血杯と魔導具はすべて再検査された。


 だが、静けさの下では、誰もが動いていた。


 アドリアンの部屋には、古参血族の使いが何度か出入りした。


 セヴランの側近は減ったが、それでも彼の部屋には正妃派の若い吸血鬼が集まっている。


 リヴィアの侍女たちは、彼女を落ち着かせるために香油を焚いていた。


 正妃エレオノーラの部屋では、夜更けまで灯りが消えなかった。


 王ヴァレンティヌスの部屋からは、何も漏れてこない。


 王はいつも、最も静かな場所にいる。


 だから最も不気味だった。


 クラウディオは、自室の机に向かっていた。


 机の上には、夜血の儀に関する記録が積まれている。


 過去の王族たちの反応。


 血杯渡りの評価。


 稀血とされた者の管理記録。


 暴走飢餓に陥った王族の処分記録。


 王血が濃すぎた者。


 血術の才が強すぎた者。


 夜に耐えられなかった者。


 王座へ近づきすぎて、兄弟に殺された者。


 兄弟を殺して王座へ近づいた者。


 記録は淡々としていた。


 誰が誰を殺したかも、誰が誰を陥れたかも、古い紙の上では整った文字になる。


 王城は、死体すら行儀よく並べる。


 クラウディオは、その文字を読みながら、自分の指先を見た。


 血は出ていない。


 だが、指の奥にまだ昨日の感覚が残っていた。


 エドガー・リースが、自分の一滴に目を赤くした。


 吸血衝動。


 距離の誤り。


 牙。


 欲。


 それを見た時、クラウディオは理解した。


 自分の血は、ただ守るべきものではない。


 ただ隠すべきものでもない。


 武器になる。


 餌になる。


 罠になる。


 相手の本性を引き出す試金石になる。


 そして、それを使う者になるか、使われる者になるか。


 道は二つに一つだった。


 机の隅には、カルゼンから渡された封香の銀護符が置かれている。


 血の香りを抑えるためのもの。


 つければ、周囲の吸血衝動は少し鈍る。


 つけなければ、自分の血は匂う。


 欲を呼ぶ。


 恐怖を呼ぶ。


 警戒を呼ぶ。


 クラウディオは護符を見た。


 それは、守りにもなる。


 同時に、首輪にもなる。


 血を隠せ。


 匂いを抑えろ。


 欲しがられないようにしろ。


 安全にしていろ。


 大人たちは、そういう言葉を好む。


 そして安全にされたものは、たいてい誰かの棚へしまわれる。


 ロウェナも、最初は守ると言われたのかもしれない。


 教会区は民を守ると言った。


 魔女狩りは街を守ると言った。


 その結果、守るという言葉の下で、彼女は火刑台へ連れていかれた。


 クラウディオは目を閉じた。


 煙の匂いが戻る。


 焦げた砂糖。


 湿った薪。


 祈祷蝋。


 油。


 群衆の息。


 ロウェナの叫び。


 私は魔女じゃない。


 違うわ。


 お願い、信じて。


 誰も信じなかった。


 誰も止めなかった。


 彼女は奪われた。


 店を奪われた。


 名前を奪われた。


 善意を奪われた。


 魔女ではないという声を奪われた。


 最後には、命を奪われた。


 そしてクラウディオは、その場で何も奪い返せなかった。


 群衆の背中に押し戻されるだけだった。


 小さな身体。


 弱い血術。


 届かない声。


 手の中で震えるだけの血。


 あの日の自分は、奪われる側だった。


 いや、奪われる側ですらなかった。


 奪われる者を見ているだけの子どもだった。


 その事実が、今でも一番許せなかった。


 クラウディオは目を開けた。


 机の奥の引き出しを開ける。


 そこには、ロウェナの紙片がある。


 また来てね、クラウディオ。


 丸い文字。


 あの日から、何度も見た。


 何度も見て、何度も閉じた。


 その隣には、自分の記録が増えている。


 ロウェナ・ミル。魔女ではない。


 焦がし砂糖の匂い。火を同じにしない。


 裁かれる側にはならない。


 血を覚える。


 最初の命令。


 甘い記憶は灰の下。


 夜は王を選ばない。


 後継争いの始まり。


 王にふさわしくない子。


 兄弟の杯。


 王座に近い血。


 微笑む暴君の卵。


 夜会の屈辱。


 古参吸血鬼の嘲笑。


 噂の甘い血。


 どれも、彼が失わないために書いたものだった。


 失ったものを書いたのではない。


 奪われたものを、二度と誰かの言葉で塗り替えられないように書いた。


 クラウディオは、新しい紙を出した。


 まだ何も書かない。


 白い紙の上に、青白い魔導灯の光が落ちている。


 彼はペンを持ったまま、しばらく動かなかった。


 奪う者になる。


 その言葉は、胸の底にすでにあった。


 だが、書けば戻れなくなる。


 文字には形がある。


 形を持ったものは、いずれ現実になる。


 クラウディオは、それを知っていた。


 だからこそ、書いた。


 奪う者になる。


 文字は幼い。


 だが、線は硬かった。


 彼はその一行を見下ろした。


 奪われる側ではなく。


 裁かれる側ではなく。


 信じてと乞う側ではなく。


 守られる名目で囲われる側ではなく。


 欲しがられる血として棚に置かれる側でもなく。


 奪う者になる。


 王座を。


 夜を。


 自分の血の扱いを。


 自分の名の意味を。


 ロウェナの記憶を誰にも汚されない場所を。


 クラウディオは、さらに書いた。


 王座は与えられない。


 王座は、奪うもの。


 与えられた王座は、与えた者の手にある。


 奪った王座だけが、自分のものになる。


 書きながら、彼は王の言葉を思い出していた。


 夜は王を選ばない。


 王が、夜を従わせる。


 その時は、まだ言葉の意味を完全には掴んでいなかった。


 今は分かる。


 夜は、ロウェナを選ばなかった。


 夜は、火刑台を止めなかった。


 夜は、群衆を裁かなかった。


 夜は、クラウディオを救わなかった。


 夜は公平ではない。


 夜は優しくない。


 夜はただ、そこにあるだけだ。


 なら、自分が従わせるしかない。


 王座も同じだ。


 王座は、正しい者を選ばない。


 優しい者を選ばない。


 泣いた者を救わない。


 血筋だけで渡されるわけでもない。


 与える者がいれば、その王座は与える者のもの。


 奪わなければ、自分のものにはならない。


 クラウディオは、ペンを置いた。


 胸の奥で、血が静かに動いた。


 吸血衝動ではない。


 血術でもない。


 飢えでもない。


 もっと深い場所。


 ロウェナの声が沈んでいる場所。


 火刑台の煙が沈んでいる場所。


 そこから、赤がゆっくりと滲む。


 黒硝子に映る自分の瞳の奥に、禍々しい赤が薄く灯っていた。


 能力を使っているわけではない。


 だが、血が反応している。


 決意に。


 王座への野心に。


 奪われた記憶に。


 クラウディオは硝子を見た。


 小さな身体。


 白い肌。


 黒い髪。


 まだ子どもの顔。


 だが、目は違う。


 もう、王城の食卓で焦げた肉を黙って切っていた子どもの目ではなかった。


 火刑台の群衆に押し戻された子どもの目でもなかった。


 奪われたものを数え終えた目。


 次に何を奪うかを決め始めた目。


 扉の外で、かすかな足音がした。


 マルタだった。


 彼女は控えめに扉を叩く。


「クラウディオ様」


「入れ」


 マルタが入ってくる。


 手には、小さな銀盆がある。


 その上に、夜血の儀で身につける黒い手袋が置かれていた。


 指先に血術用の薄い切れ目が入った儀礼手袋。


 血を出しやすく、同時に手元を美しく見せるためのもの。


 王城らしい品だった。


 血を流すことすら美しく整えたがる。


「明日の儀式用でございます」


 マルタは静かに言った。


 クラウディオは手袋を見た。


「置け」


「はい」


 マルタは机の端へ銀盆を置いた。


 その時、白い紙に書かれた一行が彼女の目に入った。


 奪う者になる。


 マルタの顔が、一瞬で青ざめた。


 見た。


 クラウディオはすぐに分かった。


 隠そうとはしなかった。


 マルタは慌てて視線を伏せる。


「申し訳ございません」


「読んだのか」


「……目に入ってしまいました」


「なら、読んだのだろう」


 マルタは唇を震わせた。


「はい」


 クラウディオは椅子に座ったまま、彼女を見た。


 マルタは逃げない。


 恐れている。


 だが、逃げない。


 最近、彼女はそうなった。


「どう思った」


 クラウディオが聞く。


 マルタは答えに詰まった。


 正直に言えば危うい。


 嘘を言えば、見抜かれる。


 その迷いが顔に出ていた。


 クラウディオは待った。


 沈黙を与える。


 逃げ道を狭くする。


 だが、今日は追い詰めたいわけではなかった。


 ただ、聞きたかった。


 マルタはやがて、小さく答えた。


「恐ろしいと、思いました」


「そうか」


「ですが」


 彼女は一度、息を吸った。


「今のクラウディオ様が、そう書かれるまでに、何があったのかを……私は、すべて知っているわけではございません」


 クラウディオの目が少し細くなる。


 マルタは続けた。


「ですので、恐ろしいとだけ申し上げるのは、違うようにも思いました」


 意外だった。


 もっと単純に怯えるかと思った。


 あるいは、そんなことをお書きになってはいけませんと言うかと。


 マルタは、彼の紙ではなく、手元を見ていた。


「私は、昔からクラウディオ様に温かくできた者ではございません」


 声は硬かった。


「冷たい水も、硬い布も、見て見ぬふりも、ございました」


 クラウディオは黙っていた。


 マルタは自分で言った。


 クラウディオが言わせたのではない。


 彼女が、自分で。


「今さら忠義を語れる立場ではないと、分かっております」


「なら、なぜ言う」


「明日の儀式で、あなた様が何を奪うおつもりでも」


 マルタはそこで言葉を切った。


 少し震えている。


「どうか、奪われたものまで、捨てないでくださいませ」


 部屋が静まった。


 奪われたものまで、捨てないでください。


 その言葉は、クラウディオの胸の奥へ届いた。


 ロウェナの紙片。


 甘い記憶。


 温かい水。


 白い手。


 月の欠片。


 それらを捨てるな、と。


 マルタはロウェナを知らない。


 何があったかも知らない。


 それでも、何かがあることだけは分かっている。


 クラウディオは、長く黙った。


 そして言った。


「お前は、私の何を知っている」


 冷たい声だった。


 マルタは顔を伏せる。


「多くは存じません」


「なら、言うな」


「はい」


 マルタは深く頭を下げた。


 怒られることを覚悟していた顔だった。


 クラウディオは彼女を見た。


 ここでさらに追えば、彼女は黙る。


 恐怖だけが残る。


 それは使える。


 だが、今はそうしなかった。


「下がれ」


「はい」


 マルタは一礼し、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 クラウディオは、しばらく動かなかった。


 奪われたものまで、捨てないでください。


 余計なことを言った。


 本当に余計なことだった。


 けれど、その余計な言葉が、灰の下の甘い記憶へ触れた。


 クラウディオは机の奥の引き出しをもう一度開けた。


 ロウェナの紙片を見る。


 また来てね、クラウディオ。


 彼は指先で、その紙の端に触れた。


 古い紙。


 少し擦れた文字。


 それでも、まだ残っている。


 捨てていない。


 捨てるつもりもない。


 奪う者になる。


 だが、奪われた記憶まで捨てるわけではない。


 それを捨てたら、ただの王城になる。


 ただの群衆になる。


 ただの火刑台になる。


 それだけは嫌だった。


 クラウディオは、新しい紙に続けて書いた。


 奪う者になる。


 だが、奪われたものを捨てない。


 ロウェナの火を忘れない。


 甘い記憶を灰の下に残す。


 王座を奪うのは、王城になるためではない。


 王城に奪わせないため。


 群衆に裁かせないため。


 夜に選ばれないまま燃やされる者を、もう見ないため。


 クラウディオは、そこで手を止めた。


 綺麗すぎる。


 この言葉は、綺麗すぎる。


 自分の中には、もっと冷たいものもある。


 復讐心。


 憎しみ。


 優しかった者を奪った世界への怒り。


 王城への軽蔑。


 自分を見下した者たちを見返したい欲。


 王座を奪いたい野心。


 それらを、綺麗な言葉で隠してはいけない。


 隠せば、また嘘になる。


 クラウディオは、さらに書いた。


 綺麗な理由だけではない。


 憎い。


 奪われたままでいるのが許せない。


 見下されたままでいるのが許せない。


 守られる名目で囲われるのが許せない。


 王座が誰かから与えられるのを待つのが許せない。


 だから奪う。


 それも忘れない。


 紙の上に、二種類の言葉が並んだ。


 守るため。


 奪うため。


 ロウェナを忘れないため。


 憎しみを返すため。


 どちらも本当だった。


 どちらかだけにすれば、嘘になる。


 クラウディオは紙を見下ろした。


 自分の中にあるものは、綺麗ではない。


 だが、すべてが汚いわけでもない。


 その曖昧さごと持って行くしかない。


 王座へ。


 夜血の儀へ。


 後継争いへ。


 黒い手袋を手に取る。


 薄い革は冷たい。


 明日、この手で血杯を持つ。


 明日、この指先から血を出す。


 明日、王城の前で血を見せる。


 誰かが欲しがる。


 誰かが恐れる。


 誰かが軽んじようとする。


 誰かが奪おうとする。


 なら、先に奪う。


 クラウディオは手袋を机へ戻した。


 夜がさらに深くなる。


 王城のどこかで、鐘が一度だけ鳴った。


 火刑台の鐘とは違う。


 教会区の重い鐘ではない。


 王城の儀礼を告げる、冷たい鐘。


 それでも、クラウディオの耳には、あの日の鐘が重なった。


 広場。


 群衆。


 ロウェナ。


 火。


 私は魔女じゃない。


 その声が、胸の奥で一度だけ響く。


 クラウディオは、目を閉じた。


 声に出さず、答える。


 知っている。


 お前は魔女ではない。


 誰も信じなかったなら、俺が覚えている。


 誰も止めなかったなら、俺が奪う側へ行く。


 止める力を。


 裁く権利を。


 夜を従わせる王座を。


 それが正しいかどうかは、まだ分からない。


 だが、もう立ち止まる気はなかった。


 彼は目を開けた。


 黒硝子に映る瞳は、また赤を帯びていた。


 禍々しい赤。


 血術の赤でも、吸血衝動の赤でも、飢餓の赤でもない。


 決意が血を揺らしている。


 すぐには引かなかった。


 だが、暴走ではない。


 自我はある。


 言葉も選べる。


 手も止められる。


 なら、まだ自分のものだ。


 クラウディオは、硝子の中の赤い目を見つめた。


 奪う者になる。


 その言葉は、もう紙の上だけではなかった。


 血の中へ入った。


 夜血の儀は、明日始まる。


 その儀式で、王城はクラウディオを測るつもりだろう。


 血の濃さを。


 稀血を。


 夜への耐性を。


 王座への距離を。


 だが、クラウディオもまた、王城を測る。


 誰が奪われる側に立たせようとするか。


 誰が奪う側にいるか。


 誰が自分の血を欲しがるか。


 誰が恐れるか。


 誰が使えるか。


 誰を、いつ奪うか。


 彼は机の紙を折らず、そのまま乾かした。


 奪う者になる。


 その文字は、青白い灯りの下で冷たく光っていた。


 夜の底で、クラウディオは静かに息をした。


 火刑台の記憶と、王座への野心が、初めて一本の線で繋がった。


 それは救いではない。


 正義でもない。


 けれど、彼が二度と奪われる側へ戻らないための、最初の確かな誓いだった。


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