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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第25話 噂の甘い血



 噂は、甘い匂いを持っていた。


 クラウディオの血は甘いらしい。


 稀血らしい。


 王血稀血かもしれない。


 飲めば血術が震えるほど濃いらしい。


 匂いだけで吸血衝動が揺れるらしい。


 黒薔薇の庭が従ったのも、その血のせいらしい。


 血杯を落とさなかったのも、その血が王座に近いかららしい。


 人々は、見てもいないものを、よくそこまで語れる。


 王城の廊下は、噂を運ぶためだけに作られたのではないかと思うほどだった。壁も床も柱も、誰かの囁きを吸い、別の場所で吐き出す。建築物まで性格が悪い。さすが王城、石材から教育が行き届いている。


 クラウディオは、その噂を否定しなかった。


 肯定もしなかった。


 否定すれば、隠していると思われる。


 肯定すれば、欲しがられる。


 どちらにしても面倒なら、沈黙が最も使いやすい。


 彼はもう、それを覚えていた。


 朝から、王城の空気は少し湿っていた。


 雨は降っていない。


 だが、黒硝子の向こうの夜気が重く、廊下には古い血のような冷たさが漂っている。


 クラウディオは東翼の書庫へ向かっていた。


 夜血の儀を前に、王血の過去記録を読む許可が下りたのだ。


 正確には、下ろさせた。


 カリエス卿の派閥を血糧供給路から揺らした後、古参血族たちは以前より慎重になった。王もそれを見ている。クラウディオが儀式の記録を求めた時、拒む理由を作る方が難しくなっていた。


 マルタが後ろについている。


 彼女は封香用の銀護符を手にしていた。


 カルゼンが持たせたものだ。


 血の香りを抑えるための護符。


 クラウディオは、今日はそれを身につけていない。


 マルタは何度か言いかけたが、結局黙っていた。


 賢くなった。


 あるいは、恐れるようになった。


 どちらでもいい。


 東翼の書庫は、王城の中でも特に静かな場所だった。


 壁一面に黒い書棚があり、古い革表紙の記録書が並んでいる。天井近くには魔導灯が浮かび、青白い光で埃を照らしていた。


 古い紙。


 乾いた革。


 封蝋。


 薄い血の匂い。


 王家の記録には、たいてい血が使われている。署名、封印、誓約。吸血鬼は何かを重くしたがるたびに血を使う。紙も迷惑だろう。


 クラウディオは、閲覧用の長机に座った。


 マルタが数冊の記録書を運んでくる。


 夜血の儀に関する古い記録。


 王族の血杯渡りの結果。


 過去の王血稀血の噂。


 稀血保護と称された監禁例。


 その最後の文字を見た時、クラウディオはわずかに目を細めた。


 監禁。


 保護。


 また同じだ。


 綺麗な言葉は、すぐ檻になる。


 彼は記録を開いた。


 古い文字が並ぶ。


 読みにくい。


 だが、必要な情報はある。


 稀血を持つ王族は、周囲の吸血衝動を誘発しやすい。


 未熟な吸血鬼、飢えを抱えた者、自制の弱い者は、近距離で理性を乱す。


 吸血衝動が高まると瞳は禍々しい赤へ変化する。


 自我を保つ者なら赤は引く。


 だが、自我を失った者、飢餓堕ち、崩れ種は常に赤い。


 クラウディオはその部分を指でなぞった。


 どの吸血鬼にも共通する反応。


 血が本性を表へ押し上げる時、目が赤くなる。


 自分も同じだ。


 血術を使う時。


 怒りが血の底へ触れる時。


 吸血衝動が高まる時。


 瞳の奥に、禍々しい赤が滲む。


 それは恥ではない。


 生理反応。


 吸血鬼という種の、隠しきれない本性。


 ただし、自分で戻せるうちは、まだ自我がある。


 戻らない者は危険。


 赤は、状態の印だ。


 クラウディオはその記述を覚えた。


 その時、紙の端が指先を掠めた。


 小さな痛み。


 古い羊皮紙の縁が、薄く皮膚を切った。


 ほんの小さな傷だった。


 血が滲むほどではないと思った。


 だが、滲んだ。


 一滴。


 小さな赤が、右手の人差し指の腹に浮かぶ。


 マルタがすぐに気づいた。


「クラウディオ様」


「騒ぐな」


 彼は短く言った。


 ほんの一滴だ。


 傷はすぐ塞がる。


 だが、血が空気に触れた瞬間、書庫の匂いが変わった。


 古い紙。


 革。


 封蝋。


 その中へ、甘い鉄の匂いが混じる。


 自分の血の匂い。


 クラウディオは眉を動かさなかった。


 けれど、書庫の入口近くで、別の誰かが息を止めたのが分かった。


 彼は顔を上げた。


 そこに、若い吸血鬼が立っていた。


 見た目は二十代前半ほど。


 薄茶の髪を後ろで束ね、黒い礼服を着ている。胸元には小さな血族章。リース家のものだった。古参ではないが、王城の記録管理に関わる中堅血族。


 名は、エドガー・リース。


 以前、夜会で一度だけ見た。


 アドリアンに礼をして、セヴランには少し距離を置き、クラウディオへは視線を向けすぎていた男。


 その時は、ただの観察者だと思った。


 今は違う。


 エドガーは、クラウディオの指先を見ていた。


 目が離れていない。


 喉が動く。


 呼吸が浅い。


 そして、瞳の奥に赤が滲み始めていた。


 禍々しい赤。


 吸血衝動の赤だった。


 クラウディオは、それを見た。


 自我はまだある。


 完全に飲まれてはいない。


 だが、赤が出ている。


 たった一滴で。


 エドガーは慌てて礼をした。


「クラウディオ様。失礼いたしました。記録官より、こちらの補助資料を」


 声が少し掠れている。


 彼の手には、薄い記録束があった。


 だが、視線は資料ではなく、クラウディオの指へ戻る。


 マルタがクラウディオの前へ出ようとした。


 クラウディオは左手をわずかに上げて止めた。


 動くな。


 マルタは止まった。


 クラウディオは、指先の血をそのままにした。


 傷は小さい。


 すぐ塞がる。


 だが、完全に塞がる前に観察する価値がある。


 彼は穏やかに言った。


「資料を」


 エドガーが近づく。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 近すぎる。


 資料を渡すには、まだ距離があるはずなのに、彼はさらに一歩近づいた。


 瞳の赤が濃くなる。


 エドガー自身も気づいているのだろう。


 呼吸を整えようとしている。


 しかし、目はクラウディオの指から離れない。


 吸血鬼の本能が、礼儀の上へ浮かび上がっている。


 クラウディオは、静かにそれを見ていた。


 これが、自分の血の匂い。


 相手の目を変える。


 呼吸を乱す。


 距離を間違えさせる。


 言葉を掠れさせる。


 普段なら踏み込まない距離へ、足を出させる。


 血は、命令しなくても人を動かす。


 いや、人ではない。


 吸血鬼を。


 エドガーが資料を差し出した。


 その指が、クラウディオの指先へ近づきすぎる。


 血へ触れようとしている。


 故意か。


 本能か。


 両方か。


 クラウディオは微笑んだ。


「止まれ」


 小さな声だった。


 血術は使っていない。


 だが、エドガーの手は止まった。


 彼の喉が鳴る。


「……申し訳、ございません」


 瞳の赤はまだ引いていない。


 自我はある。


 謝罪もできる。


 だが、血から目を逸らせない。


 クラウディオは資料を受け取らなかった。


 右手の指先を少しだけ上げる。


 一滴の血が、青白い魔導灯に照らされて光った。


 エドガーの瞳の赤が、さらに濃くなる。


 マルタが息を呑む。


 クラウディオは、その反応を見た。


 血を動かしたわけではない。


 ただ、見せただけ。


 それだけで、相手の本能が揺れる。


 使える。


 その言葉が、胸の奥で静かに形になった。


 気味が悪い。


 同時に、使える。


 嫌悪と理解が、同じ場所に沈む。


 クラウディオは血を軽く親指で拭った。


 指先の赤が、白い肌に薄く広がる。


 エドガーの呼吸が乱れた。


 まるで、目の前で杯を傾けられたように。


 クラウディオは言った。


「私の血が欲しいか」


 マルタが固まった。


 エドガーの顔が青ざめる。


 しかし、瞳は赤いままだ。


「そ、そのような、不敬な」


「欲しいかと聞いた」


 声を荒げない。


 ただ、逃げ道を塞ぐ。


 エドガーは震えた。


 沈黙。


 喉が動く。


 唇が開く。


 閉じる。


 そして、かすれた声で言った。


「……吸血鬼としては」


 正直だった。


 あるいは、血が正直にさせた。


「惹かれます」


 クラウディオは微笑んだ。


「そうか」


 エドガーははっとして、深く頭を下げた。


「申し訳ございません! 私は、その、決して」


「顔を上げろ」


 エドガーは従った。


 赤い瞳。


 まだ戻らない。


 クラウディオは、その目を見た。


「お前は、今どこまで自分でいられる」


 エドガーは息を詰めた。


「……言葉は、選べます」


「足は」


「止められます」


「手は」


 エドガーは自分の手を見た。


 震えている。


「……近づけたくなります」


「牙は」


 その問いに、エドガーの顔が完全に青くなった。


 彼の唇の隙間から、わずかに牙が覗いていた。


 無意識だったのだろう。


 クラウディオはそれを見た。


 牙が出る。


 目が赤くなる。


 手が近づく。


 足が距離を誤る。


 だが、言葉は選べる。


 自我は残っている。


 つまり、この状態は暴走ではない。


 吸血衝動の誘発。


 制御可能な限界の手前。


 これも使える。


 相手がどれだけ自制できるか、血で測れる。


 誰が近づき、誰が止まり、誰が牙を隠せず、誰が礼儀を守れるか。


 血が試金石になる。


 クラウディオはゆっくり指を握った。


 傷はもう塞がっている。


 血の匂いは薄れていく。


 エドガーの瞳の赤も、少しずつ引き始めた。


 完全な赤ではなくなる。


 茶色が戻る。


 彼は大きく息を吐いた。


 恥と恐怖で震えている。


 クラウディオは、資料を受け取った。


「覚えておけ」


 エドガーの肩が震える。


「私の血を欲しがったことではない」


 クラウディオは静かに言った。


「近づきすぎたことを覚えろ」


 エドガーは深く頭を下げた。


「……はい」


「次に同じことをしたら、血に酔ったでは済ませない」


「承知、いたしました」


「下がれ」


 エドガーは下がった。


 一歩。


 二歩。


 今度は正しい距離で礼をする。


 そして書庫を出ていった。


 扉が閉まる。


 マルタはしばらく何も言わなかった。


 やがて、低い声で言う。


「クラウディオ様。今のは」


「観察だ」


「危険です」


「知っている」


「でしたら」


「危険だから使える」


 マルタは息を呑んだ。


 クラウディオは、指先を見る。


 もう傷はない。


 血もない。


 だが、匂いの残滓は自分にも分かる。


 甘い。


 嫌なほどに。


「マルタ」


「はい」


「エドガー・リースを調べろ」


「処分を?」


「まだ」


 まだ。


 最近、その言葉が増えている。


 クラウディオ自身も気づいていた。


 直接落とさない。


 すぐ殺さない。


 すぐ処分しない。


 まだ。


 握る。


 冷やす。


 必要な時に使う。


「リース家の立場。記録官とのつながり。アドリアン、セヴラン、正妃派の誰に近いか。全部」


「かしこまりました」


「それから、エドガー本人の飢えの記録も。血糧の受け取り、夜会での飲酒量、過去に吸血衝動で問題を起こしたことがあるか」


 マルタの顔色が悪くなる。


「そこまで」


「必要だ」


 クラウディオは資料を机へ置いた。


「私の血に近づく者が、どの程度で赤くなるのか知る必要がある」


 マルタは黙った。


 怖がっている。


 それでいい。


 クラウディオも、自分が言っていることの冷たさを理解していた。


 だが、必要だった。


 血は餌になる。


 餌は罠になる。


 罠は武器になる。


 その順番が、今日、はっきり見えた。


 書庫での閲覧を終えた後、クラウディオはカルゼンのもとへ向かった。


 東翼の訓練室ではなく、地下礼拝堂の準備室に彼はいた。


 夜血の儀で使う魔導円の確認中だったらしい。


 黒い長衣の袖をまくり、床の紋を見ていた。


 クラウディオが入ると、カルゼンはすぐ顔を上げた。


「血を出しましたね」


「紙で切った」


「それで済みましたか」


 鋭い。


 本当に厄介な教師だ。


 クラウディオは答えた。


「エドガー・リースが赤くなった」


 カルゼンの顔が冷えた。


「どこまで」


「目。呼吸。距離感。牙が少し。言葉は選べた。足も止められた。手は近づけたがった」


「あなたは」


「観察した」


「馬鹿なことを」


 低い声だった。


 怒鳴りはしない。


 だが、本気で怒っている。


 クラウディオは少しだけ眉を上げた。


「教師がそんな言葉を使うのか」


「使います。必要なら」


「危険だとは知っている」


「知っているだけでは足りません」


 カルゼンは近づいた。


「稀血は、他者の吸血衝動を誘う。相手が自制できるうちはいい。ですが、一線を越えれば、あなたが血術を使う前に噛まれる」


「噛ませない」


「その自信が危険です」


 カルゼンは冷たく言った。


「血を餌にする者は、いつか自分が餌であることを忘れます」


 クラウディオは黙った。


 その言葉は、胸に残った。


 餌にする者は、自分が餌であることを忘れる。


 自分の血は武器になる。


 そう理解したばかりだった。


 だが、同時に餌でもある。


 忘れれば、喰われる。


 クラウディオは静かに言った。


「では、どう使う」


 カルゼンは、わずかに目を細めた。


「使わない、とは言わないのですね」


「使われるよりはましだ」


「その考えは分かります。ですが、使うなら距離を決めなさい」


「距離」


「血の匂いが届く距離。相手が目を赤くする距離。足を誤る距離。牙を出す距離。飛びかかる距離。それぞれ違います」


 クラウディオは聞いていた。


 それは有益だった。


「観察するなら、護衛を置く。逃げ道を確保する。相手の血糧状態を把握する。飢えた者、若い者、崩れかけの者には近づけない」


「崩れ種は常に赤い」


「ええ。赤が戻らない者には、あなたの血を見せてはならない」


 カルゼンは続けた。


「自我を保つ吸血鬼は、赤くなっても戻れる。戻れる者だけが取引相手になります。戻らない者は敵ですらない。災害です」


 クラウディオはその言葉を覚えた。


 戻れる者。


 戻れない者。


 赤い目の意味。


 血で相手を測れる。


 だが、測る前に距離を誤れば、自分が傷つく。


「カルゼン」


「何です」


「私の血は、どこまで人を動かせる」


「まだ分かりません」


「分かる範囲で」


「吸血衝動を揺らす。欲を表に出す。距離を誤らせる。自制心の弱い者を炙り出す。血術師なら、血脈反応を乱す可能性がある」


 カルゼンは一度言葉を切った。


「そして何より、相手の本性を見せます」


 クラウディオは顔を上げた。


 本性。


「あなたの血を前に、礼を守れる者と守れない者が分かる。近づく者、耐える者、目を逸らす者、牙を隠す者、隠せない者。それは政治の場でも意味を持つ」


「武器になる」


「なります」


 カルゼンは認めた。


 だが、すぐに続ける。


「同時に、あなた自身を危険に晒します」


「分かっている」


「分かっていても使う」


「必要なら」


 カルゼンは深くため息をついた。


「本当に、王城向きに育っていますね」


「褒め言葉ではないな」


「ええ」


「知っている」


 クラウディオは準備室を出た。


 廊下へ出ると、空気が少し冷たく感じた。


 自分の血が武器になる。


 その実感が、指先に残っている。


 エドガーの赤い目。


 近づきすぎた足。


 震える手。


 牙。


 謝罪。


 惹かれます、と言った声。


 クラウディオは、それらを一つずつ胸の底へ沈めた。


 部屋に戻ると、マルタはすでに簡単な報告を用意していた。


 エドガー・リース。


 記録管理の中堅血族。


 アドリアン派に近いが、明確な忠誠はまだない。


 リース家は情報管理で地位を得ているが、近年は上位血族へ取り入ろうとしている。


 エドガー本人は、過去に大きな吸血衝動の問題はなし。


 ただし、夜会では血酒を多めに飲む傾向。


 若い吸血鬼としては自制が弱い可能性。


 クラウディオはそれを聞いた。


「アドリアン派に近い」


「はい」


「兄上の手か」


「そこまでは」


「分からないなら、分からないと記録する」


「はい」


 マルタは頭を下げた。


 クラウディオは机へ向かった。


 床下の帳簿を出す。


 新しい紙に書く。


 噂の甘い血。


 エドガー・リース。


 書庫で一滴の血に反応。


 瞳に禍々しい赤。


 吸血衝動。


 呼吸、距離、手、牙。


 言葉は選べた。足は止められた。


 私の血を欲しいかと問うた。


 吸血鬼としては惹かれる、と答えた。


 血は相手の自制を測れる。


 欲を表に出せる。


 距離を誤らせる。


 武器になる。


 同時に餌でもある。


 クラウディオは、そこでペンを止めた。


 餌。


 その言葉は不快だった。


 自分の血が武器になるのはいい。


 だが、自分が餌でもあることは忘れてはいけない。


 忘れれば、喰われる。


 カルゼンの言葉。


 クラウディオはさらに書いた。


 血を餌にする者は、自分が餌であることを忘れるな。


 赤い目は状態を示す。


 戻れる者は取引相手。


 戻らない者は災害。


 近づけない。


 その紙を床下の帳簿へ入れた後、彼は机の奥の引き出しを開けた。


 ロウェナの紙片がある。


 また来てね、クラウディオ。


 丸い文字。


 その隣に、冷たい記録が増えている。


 クラウディオは新しい紙を置いた。


 噂の甘い血。


 そこへ、帳簿とは別の言葉で書く。


 ロウェナの菓子は、誰かを近づけるための甘さではなかった。


 手を温めるための甘さだった。


 私の血の甘さは違う。


 人を近づける。


 目を赤くする。


 牙を出させる。


 同じにしない。


 けれど、どちらも私の中に残る。


 甘さは、守らなければ奪われる。


 甘さは、牙を持たなければ喰われる。


 クラウディオは、最後の一行を見つめた。


 甘さは、牙を持たなければ喰われる。


 ロウェナの菓子には牙がなかった。


 だから喰われたのか。


 違う。


 違う。


 そうではない。


 また、自分の思考が危うい場所へ行きかけた。


 ロウェナが悪いのではない。


 牙を持たない甘さを喰った世界が悪い。


 だが、自分はその世界で生きる。


 なら、自分の甘さには牙を持たせる。


 クラウディオは紙をしまった。


 夜、黒硝子の前に立つ。


 指先にはもう傷も血もない。


 だが、エドガーの赤い目は残っている。


 自分の一滴に、誰かが惑った。


 近づいた。


 牙を見せかけた。


 それを、恐ろしいと思う自分がいる。


 使えると思う自分もいる。


 その両方を、彼は否定しなかった。


 硝子に映る自分の瞳は琥珀色だった。


 だが、奥に赤が沈んでいる。


 血術を使えば灯る赤。


 吸血衝動で滲む赤。


 そして、他者の目にも灯せる赤。


 クラウディオは静かに呟いた。


「血は、命令しなくても人を動かす」


 それを知った。


 ならば、使う。


 ただし、忘れない。


 自分もまた、誰かにとっての餌に見えることを。


 王城の夜は、今日も噂を抱えている。


 甘い血。


 稀血。


 王座に近い血。


 欲しがる者は、これからさらに増えるだろう。


 クラウディオは黒硝子の中の自分へ微笑んだ。


 近づけばいい。


 その時、誰の目が赤くなるか。


 誰が戻れるか。


 誰が戻れないか。


 全部、見てやる。


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