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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第24話 古参吸血鬼の嘲笑



 王城では、誰かが転んでも笑い声はすぐには起きない。


 先に視線が動く。


 誰が見たか。


 誰が見なかったふりをしたか。


 誰が助けるか。


 誰が助けないか。


 そして、誰がその転倒を次の取引に使うか。


 それを全員が測ってから、ようやく笑い声が形になる。


 クラウディオは、それをもう知っていた。


 だから、笑われること自体は怖くなかった。


 怖いのは、笑いの裏にある数だった。


 ひとりの嘲笑は、ただの口の悪さで済む。


 だが、その後ろに派閥があれば、それは刃になる。


 刃なら、柄を探す。


 柄を握っている者を探す。


 そして、握る指を一本ずつ外せばいい。


 その日、王城の東翼にある黒議の間で、夜血の儀に向けた古参血族会議が開かれた。


 名目は、儀式運営の最終確認である。


 実際には、王血を持つ子らへの評価のすり合わせだった。


 アドリアンは整っている。


 セヴランは荒い。


 リヴィアは美しいが弱い。


 そしてクラウディオは、危険だ。


 その四つの評価を、古参吸血鬼たちがどう扱うか。


 それを見る場でもあった。


 黒議の間は、名前の通り黒かった。


 壁も床も磨かれた黒石で作られ、天井から吊るされた魔導灯だけが青白く光っている。中央には楕円形の長卓。卓上には血糧供給表、儀礼順序書、夜血の儀に使う器具の一覧、古い王族記録の写しが並んでいた。


 王ヴァレンティヌスは出席していない。


 正妃エレオノーラもいない。


 だが、二人の目はこの場にある。


 王城では、本人がいない場ほど本人の視線が濃くなる。意味が分からないが、本当にそういう場所だった。幽霊より厄介な政治である。


 古参血族たちは、長卓の周囲に座っていた。


 グラナート卿。


 ヴェルナー卿。


 メルキオル卿。


 血糧庫鑑定官オルディア・ネシュ。


 血術局の管理官たち。


 外縁領を代表する古参吸血鬼たち。


 そして、オーギュスト・カリエス卿。


 昨夜の夜会で、クラウディオに「稀血なら一滴、酒へ祝福を」と言った男である。


 年配の古参吸血鬼。


 灰色の髪。


 派手な香油。


 傷のある宝石。


 財政難の噂。


 外縁南路の血糧供給路。


 獣化種の血を薄めたような匂い。


 右手小指のない男との接触。


 クラウディオはそのすべてを覚えていた。


 そして、マルタは朝までに糸口を持ってきた。


 外縁南路。


 カリエス領に近い古い血糧庫。


 帳簿上は正常。


 だが、近月の血糧輸送量と王城側の受領量が合わない。


 一部の血糧が途中で消え、代わりに質の落ちた血が混じっている疑いがある。


 さらに、獣化種の血を薄めて通常血糧へ混ぜる違法な処理の噂。


 確定ではない。


 だが、十分だった。


 確定していない弱点は、すぐに刺すものではない。


 握るものだ。


 クラウディオは、その会議に「王血を持つ当事者のひとり」として同席を許されていた。


 許された、という形になっている。


 実際には、王が置いたのだろう。


 彼が古参血族たちの前でどう振る舞うかを見るために。


 クラウディオは長卓の端に座っていた。


 上座ではない。


 しかし末席でもない。


 その中途半端な位置が、今の彼の立場を示している。


 誰も完全には認めていない。


 だが、もう外へは出せない。


 そういう場所。


 会議の初めは穏やかだった。


 夜血の儀の順序。


 祭壇の配置。


 儀礼血の再検査。


 血杯を渡す従者の選別。


 黒香草の持ち込み禁止。


 儀式中の血術制限。


 兄弟の杯の件があったため、血杯に関する確認は以前より厳しくなっていた。


 それを面白く思わない者もいる。


 セヴラン派に近い古参たちだ。


 だが、誰も表立って反対しない。


 王血の儀礼を守るためと言われれば、反対しにくい。


 クラウディオは、そこには口を挟まなかった。


 挟む必要がない。


 沈黙もまた、場を作る。


 議題が「稀血の管理」に移った時、空気が変わった。


 オルディア・ネシュが、クラウディオの血について慎重な報告を読み上げる。


「クラウディオ様の血は、王血反応が濃厚。血術伝達性が高く、香気による吸血衝動誘発が認められます。稀血である可能性が高く、夜血の儀にて追加確認が必要です。ただし、正式分類は現時点では避けるべきかと」


 カルゼンが同席していれば、もっと冷たい声で釘を刺しただろう。


 だが今日は彼はいない。


 血術教師は、準備のため地下礼拝堂にいる。


 その不在を狙ったように、カリエス卿が低く笑った。


「可能性、可能性。近ごろ王城は、ずいぶんと子どもの一滴に振り回されるようになりましたな」


 長卓の空気が、わずかに固まる。


 クラウディオはカリエス卿を見た。


 相手は笑っている。


 昨夜の件を、まだ取り返せると思っている顔だった。


「黒薔薇の庭が礼をした。血杯を落とさなかった。稀血かもしれない。なるほど、話題には事欠かない。だが、それだけで王座に近づいたように扱うのは、少々早計では?」


 グラナート卿は口を挟まない。


 だが止めもしない。


 メルキオルは面白そうに目を細めている。


 ヴェルナーは腕を組んだまま黙っている。


 カリエス卿は、さらに続けた。


「血が甘いことと、王にふさわしいことは別です。香りと、王にふさわしいことは別です。香り高い血ならば、古い蔵にも珍しい瓶にもございます。王座は香水瓶を飾る棚ではない」


 何人かが小さく笑った。


 控えめな笑い。


 だが確かに、嘲笑だった。


 クラウディオは、その笑い声を聞いた。


 胸の奥は冷たかった。


 怒りはある。


 だが、熱くはない。


 この場で怒れば、カリエス卿の勝ちだ。


 稀血と噂される子どもが、侮辱に耐えられず感情を乱した。


 そういう記録になる。


 だから、笑う。


 クラウディオは、静かに微笑んだ。


 カリエス卿の笑みが、少しだけ揺れる。


 その顔を見るだけで、彼はまだ昨夜のことを引きずっていると分かった。


 自分の冗談が不敬に変えられたこと。


 王へ届く可能性があること。


 そして、それでもまだクラウディオを軽く見たいこと。


 その三つが混じっている。


「カリエス卿」


 クラウディオは柔らかく呼んだ。


「何かな、クラウディオ様」


「卿のおっしゃる通りです」


 長卓の空気が止まる。


 カリエス卿は、わずかに眉を上げた。


「血が甘いことと、王にふさわしいことは別。香り高い血で王座へ座れるなら、王城の血糧庫は玉座だらけになるでしょう」


 メルキオルが吹き出しかけた。


 グラナートの口元が引き攣る。


 カリエス卿は、笑っていいのか怒るべきか判断しかねている顔をした。


 クラウディオは続けた。


「ですから、稀血を理由に私を持ち上げる者も、稀血を理由に私を貶める者も、同じ程度に浅い」


 声は穏やかだった。


「卿が浅いかどうかは、これから見ます」


 カリエス卿の顔色が変わった。


 明らかに、今の一言は想定外だった。


 クラウディオは長卓の書類へ視線を落とす。


「本日の議題は、夜血の儀に関わる血糧と儀礼血の安全確認ですね」


 血術管理官が頷く。


「はい」


「であれば、外縁南路の供給記録も確認すべきではありませんか」


 カリエス卿の指が止まった。


 ほんの一瞬。


 だが見えた。


 ヴェルナーも見た。


 メルキオルも。


 グラナートは見ていないふりをしている。


 クラウディオは、あくまで資料を見る形で続けた。


「兄弟の杯、儀礼血の不審、保護契約の不備。ここ数日、血に関わる問題が続いています。夜血の儀の前に、王城へ入る血糧の経路を再確認するのは当然かと」


 正論。


 逃げにくい。


 カリエス卿は、笑みを戻そうとした。


「外縁南路は、我がカリエス家が長く担っております。疑いを向けられるのは心外ですな」


「疑いではありません」


 クラウディオは微笑んだ。


「確認です」


 その言葉に、何人かが顔を動かした。


 確認。


 便利な言葉だ。


 かつてクラウディオの血を見に来た者たちも、確認と言った。


 保護契約も、保護と言った。


 美しい言葉で縛ろうとした者たちへ、今度は同じ種類の布を返す。


 カリエス卿は、杯を持つ指に力を入れた。


「確認ならば、通常の手順で十分でしょう」


「通常の手順で、ここ数日の不備は防げましたか」


 沈黙。


 クラウディオは、さらに言葉を重ねる。


「血杯の件でも、渡す者の手が震えていました。杯は落ちませんでしたが、落ちる前に止めるべきです。血糧も同じ。問題が表へ落ちる前に止めるべきでしょう」


 血杯は落ちない。


 その言葉を出さなくても、前儀を見た者には伝わる。


 カリエス卿は不快そうに唇を引き結んだ。


 ヴェルナーが初めて口を開く。


「外縁南路の確認には賛成する」


 短い一言。


 だが重い。


 王城守備を担うヴェルナーが賛成した。


 血糧供給路は安全保障でもある。


 彼が頷けば、議題は軽く扱えない。


 カリエス卿の目がヴェルナーへ向く。


「ヴェルナー卿まで、そのような」


「夜血の儀前だ。血の経路を確認することに問題があるか」


 カリエス卿は答えられない。


 問題があると言えば、何か隠しているように見える。


 問題がないと言えば、確認される。


 クラウディオは、そこで一枚の紙を卓上へ置いた。


 マルタが得た、外縁記録の写し。


 完全な証拠ではない。


 だが、輸送量と受領量の差異を示す部分だけ抜き出してある。


 この場で出すには、十分に鋭い。


「これは」


 血糧庫の管理官が紙を取った。


 目を通し、顔色を変える。


 カリエス卿が身を乗り出す。


「何の資料です」


「外縁記録の写しです」


 クラウディオは答えた。


「正式な帳簿ではありません。ただ、数字が気になりました」


 カリエス卿の顔が歪む。


「クラウディオ様。そのような私的な写しを会議に持ち込むとは」


「だから、確認が必要なのです」


 クラウディオは穏やかに返す。


「この写しが誤りなら、正式記録を見れば済みます。誤りでなければ、問題が見つかる。どちらにしても、王城のためになる」


 王城のため。


 また便利な言葉だ。


 使わない手はない。


 血糧庫の管理官が、慎重に言った。


「確かに、この数字は通常の揺れ幅を超えています」


 長卓の空気が変わった。


 カリエス卿の後ろに座っていた外縁血族の二人が、わずかに距離を取るように姿勢を変えた。


 早い。


 忠誠というものは、数字一枚で薄くなるらしい。


 クラウディオはそれも見た。


 カリエス卿は声を荒げかけ、すぐに抑えた。


「外縁の輸送には、天候、獣害、崩れ種の襲撃など、さまざまな事情がございます。数字だけで」


「では、記録に理由が残っているはずです」


 クラウディオは言った。


「輸送量が減った理由。失われた血糧の補填。代替血の出所。すべて」


 カリエス卿は黙った。


 メルキオルが杖の先で床を軽く叩く。


「よい機会ではありませんかな。夜血の儀前に、血糧供給路を洗う。王城のため、実に結構」


 この男は面白がっている。


 だが、今はその面白がりも使える。


 グラナートは沈黙していた。


 カリエス卿と近すぎるわけではない。


 むしろ、ここで巻き込まれたくないのだろう。


 彼の沈黙は、見捨てる沈黙だった。


 クラウディオは見た。


 カリエス卿も、それに気づいた。


 孤立が始まる。


 派閥が壊れる時、最初に聞こえる音は裏切りではない。


 沈黙だ。


 誰も庇わない。


 誰も隣に立たない。


 誰も名前を呼ばない。


 あの広場と同じように。


 ただ、今回は火刑台ではない。


 黒い長卓だ。


 クラウディオは、その違いを意識した。


 同じにしない。


 ロウェナは無実だった。


 カリエス卿には、疑う理由がある。


 同じにしない。


 だが、沈黙の音が似ていることは忘れない。


 ヴェルナーが管理官へ言った。


「外縁南路の正式記録を取り寄せろ。王城守備の名で確認する」


 守備の名が出た。


 これでカリエス卿の問題は、単なる血糧管理ではなく、王城の安全に関わる問題になった。


 血糧庫管理官も頷く。


「血糧庫側でも確認いたします」


 オルディア・ネシュが静かに続ける。


「もし代替血に獣化種の血が混じっている場合、儀礼血への混入は極めて危険です。鑑定班を出します」


 獣化種の血。


 その言葉に、カリエス卿の顔が完全に変わった。


 出た。


 自分からではない。


 オルディアから出た。


 クラウディオは、まだ何も言っていない。


 獣化種の血を薄めた匂い。


 昨夜の男。


 それをここで直接言えば、証拠を求められる。


 だから出さない。


 ただ外縁南路を出す。


 血糧の差異を出す。


 夜血の儀前の安全を出す。


 あとは、血糧庫の専門家が勝手に深く掘る。


 オルディアは、もう掘り始めた。


 カリエス卿は彼女を睨んだ。


「ネシュ鑑定官。軽々しくそのような」


「軽くはありません」


 オルディアは静かに返した。


「クラウディオ様の稀血反応がある以上、儀礼血へ異物が混じれば反応が大きく出る可能性がございます。これは稀血保護ではなく、夜血の儀全体の安全管理です」


 稀血保護。


 イザベラたちが使った言葉とは違う形で使われた。


 今度はカリエス卿の逃げ道を塞ぐために。


 クラウディオは、オルディアを見た。


 彼女は自分の欲を持っている。


 クラウディオの血に吸血衝動を滲ませた女だ。


 だが、血の管理に関しては有能であり、危険に敏感だ。


 使える。


 ただし、近づけすぎてはいけない。


 会議の結論は、静かに決まった。


 外縁南路の血糧供給記録の正式確認。


 カリエス家が管理する血糧庫の臨時査察。


 夜血の儀に使う血は、カリエス領経由ではなく、王城直轄の古い貯蔵庫から再手配。


 カリエス卿は儀式運営の血糧担当から一時的に外される。


 一時的。


 便利な言葉だ。


 だが、王城では一時的な外しが、そのまま戻らないことも多い。


 カリエス卿の顔は青ざめていた。


 彼の周囲にいた者たちは、もう彼の方を見ていない。


 外縁血族の一人は、ヴェルナーへ何かを小声で確認している。


 もう一人は、血糧庫管理官と話している。


 グラナートは紙に目を落としている。


 メルキオルは笑っている。


 誰も、カリエス卿を庇わない。


 派閥の輪が、音もなくほどけていく。


 カリエス卿がクラウディオを見た。


 怒り。


 屈辱。


 恐怖。


 そして、遅れて理解した顔。


 昨夜、彼はクラウディオの血を酒の余興にしようとした。


 今朝、クラウディオは彼の血糧供給路を会議の議題にした。


 直接ではない。


 叫びもない。


 告発の形でもない。


 ただ、安全確認として。


 王城のためとして。


 そして彼は今、派閥から切り離され始めている。


 クラウディオは、彼へ微笑んだ。


 昨夜と同じように。


 優雅に。


 冷たく。


「カリエス卿」


 呼ぶ。


 カリエス卿の肩がわずかに跳ねた。


「何かな」


「昨夜の冗談を、私は記憶しております」


 その一言で、彼の顔がさらに歪む。


 クラウディオは続けた。


「ですが本日は、冗談ではありません」


 沈黙。


「血は、落ちる前に止めるべきですので」


 カリエス卿は何も返せなかった。


 会議はそのまま終了した。


 クラウディオが黒議の間を出る時、廊下でアドリアンが待っていた。


 またか。


 この兄は、どこにでもいる。便利すぎてもう壁の模様か何かだろうか。


 アドリアンは穏やかに笑っていた。


「派閥を壊したね」


 クラウディオは足を止める。


「私は確認を提案しただけです」


「便利な言葉だ」


「兄上が教えてくださったのでは」


「僕はそこまで親切じゃない」


「なら、王城が」


 アドリアンは少しだけ笑った。


「カリエス卿はしばらく動けない。血糧担当から外されれば、彼の周りにいた外縁血族は離れる。グラナートも助けない。むしろ距離を置く。王城守備と血糧庫が動けば、財政の傷まで見えるだろう」


「詳しいですね」


「お前がそうなるように動かしたからだろう」


 クラウディオは答えなかった。


 アドリアンは、静かに続ける。


「昨夜の屈辱を、翌日の会議で返した。しかも、お前個人の復讐ではなく、夜血の儀の安全確認として」


「復讐ではありません」


「本当に?」


 青い目が、クラウディオを探る。


 クラウディオは微笑んだ。


「王城のためです」


 アドリアンは声を出して笑った。


 珍しい。


 本当に可笑しかったのだろう。


「そう言えるようになったら、もう王城の子だよ」


「嬉しくありませんね」


「だろうね」


 アドリアンは笑みを収めた。


「でも、気をつけるといい。派閥を壊すと、恨みはひとりより広く残る」


「壊される程度の派閥なら、遅かれ早かれ壊れます」


「冷たいね」


「王城が温かい場所なら、こうはなりませんでした」


 アドリアンの目が、わずかに深くなる。


 また、奥を探ろうとしている。


 クラウディオはそれ以上言わなかった。


 ロウェナの名は渡さない。


 アドリアンは、諦めたように一歩引いた。


「夜血の儀の前に、随分と敵を増やす」


「敵は、見える場所にいた方がいい」


「見えない敵は?」


「見えるようにします」


 アドリアンは、しばらくクラウディオを見た。


「本当に、暴君の殻が厚くなってきた」


「割られないためです」


「孵るためじゃなく?」


 クラウディオは答えなかった。


 答える必要がない。


 アドリアンは、それで十分だという顔をした。


 部屋へ戻ると、マルタが待っていた。


 彼女はすでに会議の結論の一部を聞いているようだった。


 王城の噂は、やはり足が速い。


「カリエス卿が、血糧担当から」


「一時的に外れた」


「一時的に、で済むのでしょうか」


「済まないようにする者がいるだろう」


「クラウディオ様が?」


「私だけではない」


 クラウディオは外套を脱ぐ。


 マルタが受け取る。


「ヴェルナーは守備の名で動く。オルディアは血の安全で動く。血糧庫管理官は自分の責を避けるために動く。グラナートは巻き込まれないためにカリエスから距離を取る」


 マルタは黙って聞いていた。


「私は、紙を一枚置いただけだ」


 マルタの顔に、恐怖が浮かんだ。


「それで、派閥が」


「派閥は、ひとりの力で壊れるわけではない」


 クラウディオは手を洗った。


 温かい水。


 白い布。


 「自分の都合で繋がったものは、自分の都合で離れる。それだけだ」


 マルタは小さく息を呑んだ。


 クラウディオは彼女を見た。


「怖いか」


 マルタは答えに詰まった。


 嘘をつくか迷っている。


 結局、彼女は頭を下げた。


「……はい」


「それでいい」


「よろしいのですか」


「怖がらない者は、近づきすぎる」


 マルタは黙った。


 その沈黙も、クラウディオは覚えた。


 彼女はもう、以前のようにクラウディオをただの世話対象とは見ていない。


 恐れている。


 だが、逃げない。


 それは使える。


 同時に、壊しすぎてはいけない。


 クラウディオは机へ向かった。


 床下の帳簿を開く。


 新しい紙に書く。


 古参吸血鬼の嘲笑。


 カリエス卿。


 血が甘いことと王にふさわしいことは別。王座は香水瓶を飾る棚ではない、と嘲笑。


 外縁南路。


 血糧記録の差異。


 査察決定。


 カリエス家、儀式血糧担当から一時除外。


 ヴェルナー、賛成。


 オルディア、獣化種の血の危険を示唆。


 グラナート、庇わず。


 派閥、沈黙。


 孤立開始。


 クラウディオは、そこでペンを止めた。


 孤立開始。


 その文字は、あまりに冷たい。


 だが、それが今日の結果だった。


 血を酒へ垂らせと笑った男が、翌日には血糧の問題で孤立する。


 美しい因果ではない。


 都合よく整えた罠だ。


 クラウディオはそれを分かっている。


 分かった上で、使った。


 彼は机の奥の引き出しを開けた。


 ロウェナの記録の隣に、新しい紙を置く。


 古参吸血鬼の嘲笑。


 そして、別の言葉で書いた。


 嘲笑は、すぐに返さない。


 誰が笑ったか。


 誰が同調したか。


 誰が黙ったか。


 誰が庇わなかったか。


 全部見る。


 相手の派閥は、本人より脆い。


 派閥は忠誠ではなく利害でできている。


 利害をずらせば、勝手に壊れる。


 クラウディオは、最後にもう一行足した。


 広場の沈黙と、王城の沈黙は似ている。


 だが、同じにしない。


 ロウェナは無実だった。


 カリエスは隠している。


 同じにした瞬間、俺も群衆になる。


 ペン先が止まる。


 群衆。


 その言葉は、今でも胸の奥に刺さる。


 誰も庇わなかった。


 誰も止めなかった。


 誰も、違うと言わなかった。


 今日、カリエス卿も誰にも庇われなかった。


 違う。


 同じではない。


 それでも、沈黙の形は似ていた。


 だから、忘れない。


 自分がどの刃を握っているのか。


 自分が誰へ向けているのか。


 それを見失えば、いつか本当に群衆になる。


 クラウディオは紙をしまった。


 夜、黒硝子の前に立つ。


 瞳は琥珀色だった。


 だが、その奥に、赤が沈んでいる。


 血術の赤。


 怒りの赤。


 吸血衝動の赤ではない。


 政治戦のあとに血が静かに高ぶっている。


 古参吸血鬼の派閥を壊した。


 まだ完全ではない。


 だが、ひびは入った。


 そのひびへ、他の者たちが指を入れる。


 クラウディオが直接すべて壊す必要はない。


 壊れ始める角度を作ればいい。


 政治戦が、強まっている。


 血術だけではない。


 杯だけでもない。


 言葉、記録、供給路、沈黙、派閥、利害。


 それらすべてが、後継争いの武器になる。


 クラウディオは黒硝子に映る自分へ、静かに微笑んだ。


 その笑みは、また少しだけ王城に似ていた。


 嫌なことに。


「軽く見ていろ」


 彼は小さく呟いた。


「軽く見たものほど、足元から崩れる」


 夜は深い。


 王城は、眠ったふりをしている。


 その奥で、カリエス卿の名は少しずつ孤立へ向かって沈んでいった。


 クラウディオは、それを急がせない。


 ただ見ている。


 必要な時に、次の石を置くために。


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