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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第21話 微笑む暴君の卵



 稀血の噂が広がると、王城の者たちは急に優しくなった。


 不思議なほど、分かりやすかった。


 廊下ですれ違う従者は、以前より深く頭を下げる。侍女たちはクラウディオの前で声を落とす。血術局の者たちは、遠くから彼を見て、すぐに視線を逸らす。


 昨日まで邪魔な染みのように見ていた者たちが、今日になって急に硝子細工でも扱うような顔をする。


 クラウディオは、それを面白いとは思わなかった。


 ただ、記録した。


 恐怖。


 欲。


 計算。


 そして、遅すぎる礼儀。


 王城にいる者たちは、みな血を重んじる。


 けれど、血を重んじるという言葉の中には、いつも別の意味が混じっている。


 管理したい。


 所有したい。


 利用したい。


 近づきたい。


 飲みたい。


 隠したい。


 売りたい。


 守る、という言葉でさえ、王城では囲うという意味になる。


 クラウディオはその日、正妃派の茶会へ呼ばれた。


 名目は、夜血の儀前の激励。


 招いたのは、イザベラ・ヴェインだった。


 正妃エレオノーラの周辺でよく扇を揺らしている古参の女吸血鬼である。黒い扇、細い首、艶やかな黒髪。声は柔らかいが、目はいつも他人の弱点を探している。


 彼女は、前に血筋の話でクラウディオを遠回しに刺そうとした。


 品格。


 母君の家格。


 正統な血族との交わり。


 あの時、逃げ道を塞がれて黙った一人だ。


 そのイザベラが、今日は招待状を寄越した。


 黒薔薇の透かし入りの紙。


 香油の匂い。


 丁寧すぎる字。


 そこには、こう書かれていた。


 クラウディオ様の血術のご成長を祝し、ささやかな茶会を設けたく存じます。


 ささやか。


 王城でその言葉が使われる時、たいてい何かが隠れている。


 大人たちは本当に、罠に布をかければ花束になると思っている。愉快な錯覚だ。踏めば普通に足が折れる。


 クラウディオは招待を受けた。


 断る理由はない。


 罠なら、見に行く価値がある。


 茶会は、西棟の硝子温室で開かれた。


 昼でも薄暗い王城の中で、そこだけは青白い光に満ちている。黒硝子を通した月光を蓄える魔導石が吊るされ、夜にも花が咲くよう調整されているのだという。


 白い卓布。


 銀の茶器。


 血入りの茶。


 赤い果実。


 砂糖菓子。


 そして、焼き菓子。


 クラウディオは部屋へ入った瞬間、その匂いを感じた。


 蜂蜜。


 小麦。


 焦がし砂糖。


 火。


 足が止まりかけた。


 止めなかった。


 胸の奥で、灰がわずかに熱を持つ。


 ロウェナの店。


 月の欠片。


 焦げた砂糖。


 火刑台。


 私は魔女じゃない。


 クラウディオは一度だけ瞬きをした。


 瞳の奥に赤が滲まないよう、血を沈める。


 ここで反応すれば、相手の思うつぼだ。


 イザベラは、こちらを見て微笑んでいた。


 彼女は分かっているのか。


 焼き菓子の匂いがクラウディオに何かを呼び起こすと。


 あるいは、単に稀血の噂を聞いて、甘いものを合わせただけか。


 どちらでもいい。


 どちらにせよ、記録する。


 硝子温室には、イザベラのほかに数人の古参吸血鬼がいた。


 グラナート卿の姿もある。


 その隣には、先日の杯の件で失脚したフェルディナンの代わりに、別の分家筋の男が控えていた。名はロダン・オルグ。フェルディナンよりも若く、目に小賢しい光がある。


 メルキオル卿もいた。


 小柄な老人の姿をした古い吸血鬼は、杖を手に、面白そうにこちらを見ている。


 ヴェルナーはいない。


 あの男はこういう茶会を好まないだろう。


 アドリアンもいない。


 彼がいないのは、むしろ不自然だった。


 呼ばれなかったのか。


 呼ばれて断ったのか。


 あるいは、別の場所から見ているのか。


 クラウディオはそれも考えた。


 イザベラが立ち上がり、優雅に礼をした。


「ようこそお越しくださいました、クラウディオ様」


「お招き、感謝いたします」


 クラウディオは礼を返した。


 深すぎず、浅すぎず。


 王族として。


 イザベラの目がほんの少しだけ細くなる。


 以前なら、彼女は「妾腹の子どもが礼を返す」ことに不快を覚えただろう。


 今日は違う。


 彼女は不快を隠し、甘い笑みを浮かべている。


 稀血の噂が、礼の深さまで変えた。


 クラウディオは席へ案内された。


 用意された椅子は、中央に近い。


 末席ではない。


 だが上座でもない。


 王族として扱っているようで、囲いやすい位置だった。


 右にイザベラ。


 左にロダン。


 正面にグラナート。


 少し離れてメルキオル。


 四方から見られる場所。


 分かりやすい。


 クラウディオは何も言わずに座った。


 銀の茶杯が置かれる。


 血入りの茶。


 香りは整っている。


 異物はない。


 少なくとも、茶には。


 焼き菓子の皿が近づけられた。


 イザベラが微笑む。


「王城の菓子職人に、特別に焼かせましたの。蜂蜜と焦がし砂糖を使ったものですわ。クラウディオ様のお口に合えばよろしいのですが」


 蜂蜜と焦がし砂糖。


 わざとか。


 クラウディオは皿を見た。


 小さな丸菓子だった。


 形は美しい。


 焼き色も均一。


 王城の菓子らしく、欠けも歪みもない。


 ロウェナの菓子とはまるで違う。


 それなのに、匂いだけが少し似ている。


 それが不快だった。


 クラウディオは微笑んだ。


 微笑んだ瞬間、イザベラの表情がわずかに緩む。


 食いついた、と思ったのだろう。


 馬鹿な女だ。


 いや、馬鹿ではない。


 ただ、クラウディオがどこで傷ついているのか知らない。


 知らないまま、傷の上へ菓子を置いた。


 それは罪か。


 無知か。


 どちらでもいい。


 踏んだなら、踏まれたことを教えるだけだ。


「美しい菓子ですね」


 クラウディオは言った。


 声は柔らかかった。


「まあ、ありがとうございます」


「形が整いすぎていて、少し食べ物に見えません」


 イザベラの笑みが一瞬だけ止まった。


 クラウディオは続ける。


「王城のものは、何でも美しく整えますね。皿も、菓子も、言葉も、人の死も」


 温室の空気が止まった。


 グラナートが目を細める。


 ロダンは意味を測りかねている。


 メルキオルだけが、わずかに笑った。


 イザベラは扇を開き、口元を隠した。


「恐ろしいことをおっしゃいますのね」


「そうでしょうか」


「茶会で死の話など」


「失礼いたしました」


 クラウディオはすぐに頭を下げた。


 形は完璧だった。


 謝罪として。


 だが、その一言はもう場に残っている。


 王城は人の死も美しく整える。


 それを誰も聞かなかったことにはできない。


 イザベラは笑みを戻した。


「クラウディオ様は、最近ずいぶんとご立派になられて」


「皆様のおかげです」


「まあ」


「王城では、見下されることも、噂されることも、罠を仕掛けられることも、すべて学びになります」


 ロダンが茶を噴きそうになった。


 グラナートの目が冷える。


 イザベラの扇が止まる。


 クラウディオは穏やかに微笑んだままだった。


「良い場所です。教材に困りません」


 メルキオルがとうとう小さく笑った。


「これはこれは」


 グラナートが低く言う。


「クラウディオ様。年長者たちの心遣いを、そのように受け取られるのは」


「心遣い」


 クラウディオは焼き菓子を一つ指先でつまんだ。


 食べない。


 見つめる。


「では、この菓子も心遣いですか」


「もちろんですわ」


 イザベラが微笑む。


「稀血の噂で、皆様のお心もお疲れでしょう。甘いものは気持ちを和らげますもの」


「私の血が甘いという噂に合わせて?」


 イザベラの笑みが消えかけた。


 ロダンが完全に固まる。


 グラナートは咳払いをした。


「そのような意味では」


「違うのですか」


 クラウディオは首を傾げた。


「私の血が甘い。稀血かもしれない。王血稀血かもしれない。その噂に皆様は興味をお持ちなのでしょう」


 声は穏やかだった。


「なら、甘い菓子を出された理由を、その噂と無関係と考える方が不自然です」


 イザベラは微笑みを保った。


 その努力だけは見事だった。


「クラウディオ様は、少し疑い深くなられたのですね」


「ええ」


 即答した。


 イザベラが止まる。


 クラウディオは菓子を皿へ戻した。


「疑わずにいると、何かを奪われますから」


 ロウェナ。


 胸の奥で名が沈む。


 誰にも言わない。


 けれど、その名があるから、この言葉が出る。


 イザベラは、扇の奥から探るように彼を見た。


 触れようとしている。


 その「奪われた何か」に。


 クラウディオは先に動いた。


「本題へ入りませんか」


 温室が静かになる。


 イザベラは微笑んだ。


「本題?」


「茶会に見せかけた場で、私を囲んだ理由です」


 ロダンの顔色が変わる。


 グラナートが目で彼を制した。


 イザベラは扇を閉じた。


「本当に、率直でいらっしゃる」


「遠回りは時間の無駄です」


「では、率直に申し上げますわ」


 イザベラは姿勢を正した。


 その動きは優雅だった。


 まるで本当に善意を差し出すように。


「クラウディオ様の血が稀血である可能性が高まっている以上、その血を守る体制が必要です。王城には、血の管理と保護に長けた古参血族がございます。私どもは、クラウディオ様の今後のためにも、保護契約を結ぶべきではないかと考えておりますの」


 保護契約。


 クラウディオは、その言葉を聞いた。


 血を守る体制。


 古参血族。


 クラウディオの今後のため。


 綺麗な言葉ばかりだ。


 綺麗な言葉ほど、王城ではよく人を縛る。


 彼は静かに聞いた。


「誰が、誰を保護するのですか」


「古参血族が、クラウディオ様を」


「つまり、私の血を」


 イザベラの目が一瞬だけ動く。


「クラウディオ様ご自身を、ですわ」


「私と私の血は、別のものですか」


 沈黙。


 ロダンが視線を落とした。


 グラナートが答える。


「王族の血は、個人だけのものではありません。王城全体の資産とも言えます」


 資産。


 言った。


 クラウディオは微笑んだ。


 微笑んだまま、グラナートを見た。


「では、私の血は王城の資産ですか」


「王血であれば、当然」


「その王血は、陛下の血です」


 グラナートが黙る。


「卿は、陛下の血を古参血族の管理下へ置くべきだと?」


 グラナートの顔が強張った。


 まただ。


 彼は何度も同じ罠に落ちる。


 血筋を語る者は、王の血という言葉から逃げられない。


 イザベラがすぐに割り込んだ。


「管理ではありませんわ。保護です」


「言葉を変えれば、行為も変わりますか」


「クラウディオ様」


「では、保護契約の書面を見せてください」


 イザベラが止まった。


 クラウディオは微笑んでいた。


「ご用意があるのでしょう」


 ないはずがない。


 茶会の席で話だけするつもりなら、彼を囲む人数が多すぎる。


 古参血族が揃い、甘い菓子を出し、血の噂に触れ、保護の話をする。


 当然、契約書はある。


 イザベラはしばらく沈黙した。


 それから、控えていた侍女へ目配せする。


 侍女が銀盆に載せた書面を持ってきた。


 黒い紙。


 赤い封蝋。


 古参血族の紋章。


 クラウディオはそれを受け取らなかった。


「読んでください」


 イザベラの眉がわずかに動く。


「この場で?」


「はい」


「クラウディオ様にお渡しして、後ほど」


「この場で」


 声は柔らかい。


 だが、譲らない。


 メルキオルが杖に手を重ね、面白そうに見ている。


 グラナートは不快そうだった。


 ロダンは汗をかいている。


 イザベラは仕方なく書面を開いた。


 読み上げる声は、優雅だった。


 だが、内容は優雅ではなかった。


 クラウディオの稀血保護を名目に、採血記録を古参血族が共有する。


 夜血の儀後、定期的な血の状態確認を行う。


 血の暴走や香気漏れが確認された場合、保護者権限を持つ血族が一時隔離できる。


 外部への血の流出を防ぐため、護衛と称して古参血族の者を常時近くに置く。


 必要に応じて、血の封印具を装着する。


 クラウディオは、最後まで黙って聞いた。


 聞き終えてから、ゆっくり微笑んだ。


「なるほど」


 イザベラは書面を閉じた。


「すべて、クラウディオ様をお守りするためですわ」


「よく分かりました」


 クラウディオは頷いた。


 ロダンの顔に安堵が浮かびかける。


 グラナートも少しだけ表情を緩めた。


 クラウディオは続けた。


「つまり、私を採血し、記録し、隔離し、監視し、封具をつける権限を、古参血族へ渡せということですね」


 温室の空気が冷えた。


 ロダンが完全に青ざめる。


 イザベラは微笑みを保とうとする。


「言い方が」


「違いますか」


 クラウディオは首を傾けた。


「私は、読み上げられた内容を整理しただけです」


 メルキオルがくつくつと笑った。


「その通りですな」


 イザベラが彼を睨む。


 メルキオルは知らぬ顔で茶を飲んだ。


 クラウディオは書面を見た。


「この契約は、陛下の許可を得ていますか」


 イザベラの表情が固まる。


 グラナートが口を開く。


「これはあくまで提案です」


「では、陛下の許可はない」


「今後、正式に」


「正妃殿下の許可は」


 沈黙。


 イザベラは答えない。


 クラウディオは微笑んだまま言った。


「つまり、陛下にも正妃殿下にも通さず、古参血族の一部が、王血を持つ私に対し、採血、隔離、監視、封具装着の権限を求める書面を用意した」


 ひとつずつ。


 丁寧に。


 逃げ道を塞ぐように。


「王城のため、と言うには、少々手順が乱れていますね」


 グラナートの顔色が変わった。


 イザベラの扇が震える。


 ロダンはもう何も言えない。


 クラウディオはさらに続けた。


「それとも、卿らは陛下の王血を、陛下の許可なく管理できる立場にあるとお考えですか」


 誰も答えられない。


 また同じだ。


 王の血。


 その言葉を出せば、彼らは止まる。


 クラウディオ個人を見下すことはできる。


 だが、クラウディオの中の王の血を否定することは、王への不敬に近い。


 彼らはクラウディオを囲もうとして、王の血という壁にぶつかる。


 愚かだ。


 何度も同じ壁に頭を打っている。


 さすがに壁も迷惑だろう。


 クラウディオは、そこで初めて焼き菓子を一つ手に取った。


 食べない。


 指先で持ち上げるだけ。


「イザベラ卿」


「……何でしょう」


「この菓子は、私への心遣いでしたね」


「ええ」


「では、この契約書も心遣いですか」


 イザベラは答えない。


 クラウディオは菓子を皿へ戻した。


「心遣いとは、便利な言葉です」


 声は静かだった。


「薬草を渡すことも、菓子を渡すことも、手を温めることも、時には罪にされる。反対に、採血や監視や封具も、心遣いと呼べる」


 イザベラは怪訝そうな顔をした。


 ロウェナを知らないから、その言葉の底が分からない。


 それでいい。


 分からなくていい。


 クラウディオは微笑んだ。


「ですが、私はもう、心遣いという言葉だけでは信じません」


 グラナートが低く言う。


「クラウディオ様、我々を疑っておいでか」


「はい」


 即答した。


 グラナートが言葉を失う。


 クラウディオは優雅に茶杯を持ち上げた。


 飲まずに、香りだけ確かめる。


「疑っています。卿らが私の血を欲しがっていることも、私を守るより囲うことを望んでいることも、陛下を通さず先に私から署名を取ろうとしたことも」


 微笑んだまま、言う。


「すべて、疑っています」


 イザベラの顔から、ついに笑みが消えた。


「では、どうなさるおつもりですの」


「簡単です」


 クラウディオは茶杯を置いた。


「この書面を、陛下へお渡しします」


 温室が凍った。


 ロダンが立ち上がりかける。


 グラナートが鋭く制した。


 イザベラの顔が白くなる。


「お待ちください。これは正式なものでは」


「なら、なおさら確認が必要です」


「草案ですわ」


「草案で王血の採血権限を求めるのですか」


「言葉が過ぎます」


「契約書の方が過ぎています」


 クラウディオは立ち上がった。


 小さな身体。


 まだ椅子も大きい。


 それでも、温室の空気は彼を中心に動いていた。


 彼は書面を指差す。


「その書面を」


 侍女が動けない。


 イザベラも渡さない。


 クラウディオは微笑んだまま言った。


「私へくださるために用意したのでしょう」


 沈黙。


 逃げ道がない。


 渡さなければ、見られて困るものだと示す。


 渡せば、王へ届く。


 イザベラは、ゆっくり書面を閉じた。


 そして、銀盆へ戻す。


 侍女が震える手でそれをクラウディオへ差し出した。


 クラウディオは受け取った。


 紙は重かった。


 だが、重さは罠の重さではない。


 相手の失態の重さだった。


 メルキオルが笑う。


「いやはや。茶会とは、実に学びの多い場ですな」


 グラナートは沈黙している。


 ロダンは顔色を失っている。


 イザベラはクラウディオを見た。


 怒り。


 屈辱。


 恐怖。


 その三つが、美しい顔の奥にある。


 クラウディオは微笑んだ。


「本日は、お招きありがとうございました」


 完璧な礼。


 優雅な声。


 柔らかな微笑み。


「心遣い、記憶しておきます」


 イザベラの表情が歪みかけた。


 記憶しておきます。


 その言葉の意味を、彼女もようやく理解し始めたらしい。


 遅い。


 皆、遅い。


 温室を出ると、廊下の空気が冷たかった。


 クラウディオは書面を持ったまま歩く。


 マルタが後ろについてくる。


 彼女は茶会の間、壁際でずっと見ていた。


 顔色が悪い。


「クラウディオ様」


「何だ」


「……お見事でした」


 その声には恐怖が混じっていた。


 褒め言葉にしては震えている。


 クラウディオは少しだけ立ち止まり、振り返った。


「見事?」


「はい」


「俺が笑っていたからか」


 マルタは答えられない。


 クラウディオは、書面を見た。


「俺は笑っていたな」


 自分で言う。


 確かめるように。


 たしかに、笑っていた。


 菓子を出されても。


 保護契約を読まれても。


 採血、隔離、監視、封具という言葉を聞いても。


 微笑んでいた。


 昔なら、きっと怒った。


 もしくは黙った。


 今は違う。


 笑って、相手に最後まで言わせて、逃げ道を塞いだ。


 イザベラは自分で罠の内容を読み上げた。


 グラナートは自分で王の血の問題に踏み込んだ。


 ロダンは青ざめた。


 そしてクラウディオは、彼らの失態を紙ごと手に入れた。


 表面は優雅。


 内側は冷たい。


 その冷たさを、彼は否定できなかった。


 否定するつもりも、もうあまりなかった。


 王の間へ向かう途中、アドリアンと出くわした。


 やはり。


 彼は近くにいた。


 偶然ではない。


 青白い魔導灯の下で、第一王子は穏やかに微笑んでいる。


「楽しそうな茶会だったね」


 クラウディオは書面を持ち直した。


「覗き見ですか」


「人聞きが悪いな。噂が早いだけだよ」


「茶会が終わって、まだ数分です」


「王城の噂は足が速い」


「兄上の耳も」


 アドリアンは笑った。


「それで、その書面を父上へ?」


「はい」


「イザベラ卿は焦っているだろうね」


「でしょうね」


「怖い子だ」


 クラウディオはアドリアンを見た。


「兄上も、そう思いますか」


「思うよ」


 アドリアンは近づきすぎない距離で立っている。


「微笑みながら、相手に自分の罠を読み上げさせた。しかも、善意の形で差し出されたものを、王への不敬に変えた。怖いだろう」


「相手が勝手にそうしたのです」


「本気でそう思っている?」


 クラウディオは答えなかった。


 アドリアンは静かに続ける。


「お前はもう、ただ返しているだけじゃない。相手がどこへ落ちるかを分かって、そこへ歩かせている」


 クラウディオは微笑んだ。


「兄上は、よく見ておられますね」


「見逃すと危ないと言っただろう」


「では、次は兄上が気をつける番ですね」


 沈黙。


 アドリアンの青い瞳が、少しだけ鋭くなる。


 クラウディオはそれを見た。


 初めて、アドリアンに対しても同じ微笑みを向けた。


 柔らかく。


 優雅に。


 しかし逃げ道を用意しない笑み。


「私は、兄上がどこへ歩くかも見ています」


 アドリアンはしばらく彼を見ていた。


 そして、小さく笑った。


「暴君の卵みたいだ」


 暴君。


 その言葉が、廊下の冷たい空気に落ちた。


 クラウディオは表情を変えなかった。


「卵なら、まだ割れるでしょう」


「そうだね」


 アドリアンは言った。


「だから、誰が割るかを皆が考え始める」


「孵る前に?」


「孵った後では遅いから」


 クラウディオは、ほんの少し首を傾けた。


「では、守らなければなりませんね」


「誰が?」


「私が」


 アドリアンは一瞬だけ黙った。


 それから、低く笑った。


「本当に、面白くなってきた」


 クラウディオは彼の横を通り過ぎた。


 背後から、アドリアンの声がする。


「クラウディオ」


 足を止める。


「その笑い方、覚えておいた方がいい」


「なぜ」


「いつか、自分でも戻せなくなる」


 クラウディオは振り返らなかった。


「ご忠告、記憶しておきます」


 それだけ言って、歩き出した。


 王の間へ向かい、契約書を提出した。


 王ヴァレンティヌスは、書面を最後まで読んだ。


 表情はほとんど変わらない。


 正妃エレオノーラは同席していなかった。


 それも計算だろう。


 王は書面を読み終えると、短く言った。


「よく持ってきた」


「私に署名を求める内容でしたので」


「署名するつもりはなかったか」


「はい」


「なぜ」


 クラウディオは王を見た。


「私の血は、私のものです」


 王の目が細くなる。


 その言葉は、以前にも自室で呟いた。


 今度は王へ向けて言った。


 王の血を受け継いでいるとしても。


 王城の資産と呼ばれようとも。


 稀血と噂されようとも。


 この血は自分の身体の中にある。


 自分のものだ。


 王はしばらく黙っていた。


 そして、低く笑った。


「そう言うか」


「はい」


「覚えておこう」


 王が覚えておこうと言う。


 その言葉は、クラウディオの「記憶しておきます」と少し似ていた。


 だが重さが違う。


 王が覚えるということは、盤面に置かれるということだ。


 クラウディオは頭を下げた。


「恐れ入ります」


 王は書面を黒い箱へ入れた。


「この件は預かる」


 それで終わった。


 イザベラたちがすぐに処罰されるわけではないだろう。


 だが、王の手元に契約書が渡った。


 それだけで十分だった。


 彼らはしばらく動きにくくなる。


 動けば、自分たちの失態が王の箱から取り出される。


 社会的な喉元に、薄い刃を当てられた状態だ。


 直接殺す必要はない。


 息をするたび、刃があると意識させればいい。


 部屋へ戻った時、クラウディオは疲れていた。


 身体ではない。


 血でもない。


 内側が疲れていた。


 微笑み続けること。


 相手に喋らせること。


 言葉を拾い、逃げ道を塞ぐこと。


 それは血術とは違う疲労を残した。


 マルタが手洗いの水を用意する。


 温かい。


 クラウディオは自分で手を洗った。


 指先に、焼き菓子の匂いが少し残っている気がした。


 食べていないのに。


 持っただけなのに。


 蜂蜜と焦がし砂糖。


 ロウェナのものではない。


 同じにしない。


 同じにしてはいけない。


 クラウディオは手を洗いながら、胸の奥で何度も分けた。


 ロウェナの菓子。


 王城の菓子。


 温かい手。


 罠の茶会。


 違う。


 違う。


 違う。


 部屋に一人になると、彼は机へ向かった。


 引き出しを開ける。


 ロウェナの紙片の隣に、新しい紙を置く。


 微笑む暴君の卵。


 そう書いた。


 そして続ける。


 イザベラ。


 蜂蜜と焦がし砂糖の菓子を出した。


 稀血保護契約。


 採血、記録、隔離、監視、封具。


 心遣いと言った。


 私は読み上げさせた。


 陛下の許可なく王血を管理するのかと問うた。


 契約書を受け取り、陛下へ提出。


 イザベラ、グラナート、ロダン、失態。


 アドリアン。


 暴君の卵と言った。


 孵る前に誰が割るかを皆が考え始めると言った。


 私は、私が守ると答えた。


 クラウディオはペンを止めた。


 自分が守る。


 何を。


 自分を。


 血を。


 ロウェナの記憶を。


 誰にも渡したくないものを。


 そして、これから得るものを。


 そのために微笑む。


 そのために追い詰める。


 そのために、相手に自分の罠を自分で読ませる。


 過去に奪われた者の冷たい復讐心。


 それはもう、彼の中で芽を出している。


 暴君の卵。


 アドリアンの言葉は、間違っていない。


 クラウディオはまだ王ではない。


 まだ子どもだ。


 だが、卵の殻の内側で、何かが育っている。


 それはきっと、白い鳥ではない。


 優しい獣でもない。


 王城が作ったもの。


 火刑台が焼きつけたもの。


 ロウェナの甘い記憶を灰の下に抱えたまま、冷たく育つもの。


 クラウディオは紙の最後に書いた。


 笑え。


 怒りを見せるな。


 相手に喋らせろ。


 善意を名乗る罠は、善意のまま王へ差し出せ。


 直接殺すな。


 まだ。


 クラウディオは、最後の二文字を見た。


 まだ。


 それは、いつかがあるということだった。


 彼はペンを置いた。


 黒硝子の前へ行く。


 硝子に映る自分は、確かに微笑んでいた。


 子どもの笑みではない。


 王の笑みでもない。


 その手前。


 暴君になるものが、まだ殻の中から外を見ているような笑み。


 瞳の奥に、かすかな赤が滲んだ。


 吸血衝動ではない。


 血術でもない。


 怒りでも、飢えでもない。


 もっと静かなもの。


 過去に奪われたものを、いつか奪い返すための赤。


 クラウディオは、硝子の中の自分へ囁いた。


「割られる前に、孵ればいい」


 夜の王城は静かだった。


 だが、その静けさの奥で、誰かが彼を恐れ始めている。


 誰かが彼を欲しがっている。


 誰かが彼を壊そうとしている。


 そしてクラウディオは、そのすべてを微笑みながら記録していた。


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