第21話 微笑む暴君の卵
稀血の噂が広がると、王城の者たちは急に優しくなった。
不思議なほど、分かりやすかった。
廊下ですれ違う従者は、以前より深く頭を下げる。侍女たちはクラウディオの前で声を落とす。血術局の者たちは、遠くから彼を見て、すぐに視線を逸らす。
昨日まで邪魔な染みのように見ていた者たちが、今日になって急に硝子細工でも扱うような顔をする。
クラウディオは、それを面白いとは思わなかった。
ただ、記録した。
恐怖。
欲。
計算。
そして、遅すぎる礼儀。
王城にいる者たちは、みな血を重んじる。
けれど、血を重んじるという言葉の中には、いつも別の意味が混じっている。
管理したい。
所有したい。
利用したい。
近づきたい。
飲みたい。
隠したい。
売りたい。
守る、という言葉でさえ、王城では囲うという意味になる。
クラウディオはその日、正妃派の茶会へ呼ばれた。
名目は、夜血の儀前の激励。
招いたのは、イザベラ・ヴェインだった。
正妃エレオノーラの周辺でよく扇を揺らしている古参の女吸血鬼である。黒い扇、細い首、艶やかな黒髪。声は柔らかいが、目はいつも他人の弱点を探している。
彼女は、前に血筋の話でクラウディオを遠回しに刺そうとした。
品格。
母君の家格。
正統な血族との交わり。
あの時、逃げ道を塞がれて黙った一人だ。
そのイザベラが、今日は招待状を寄越した。
黒薔薇の透かし入りの紙。
香油の匂い。
丁寧すぎる字。
そこには、こう書かれていた。
クラウディオ様の血術のご成長を祝し、ささやかな茶会を設けたく存じます。
ささやか。
王城でその言葉が使われる時、たいてい何かが隠れている。
大人たちは本当に、罠に布をかければ花束になると思っている。愉快な錯覚だ。踏めば普通に足が折れる。
クラウディオは招待を受けた。
断る理由はない。
罠なら、見に行く価値がある。
茶会は、西棟の硝子温室で開かれた。
昼でも薄暗い王城の中で、そこだけは青白い光に満ちている。黒硝子を通した月光を蓄える魔導石が吊るされ、夜にも花が咲くよう調整されているのだという。
白い卓布。
銀の茶器。
血入りの茶。
赤い果実。
砂糖菓子。
そして、焼き菓子。
クラウディオは部屋へ入った瞬間、その匂いを感じた。
蜂蜜。
小麦。
焦がし砂糖。
火。
足が止まりかけた。
止めなかった。
胸の奥で、灰がわずかに熱を持つ。
ロウェナの店。
月の欠片。
焦げた砂糖。
火刑台。
私は魔女じゃない。
クラウディオは一度だけ瞬きをした。
瞳の奥に赤が滲まないよう、血を沈める。
ここで反応すれば、相手の思うつぼだ。
イザベラは、こちらを見て微笑んでいた。
彼女は分かっているのか。
焼き菓子の匂いがクラウディオに何かを呼び起こすと。
あるいは、単に稀血の噂を聞いて、甘いものを合わせただけか。
どちらでもいい。
どちらにせよ、記録する。
硝子温室には、イザベラのほかに数人の古参吸血鬼がいた。
グラナート卿の姿もある。
その隣には、先日の杯の件で失脚したフェルディナンの代わりに、別の分家筋の男が控えていた。名はロダン・オルグ。フェルディナンよりも若く、目に小賢しい光がある。
メルキオル卿もいた。
小柄な老人の姿をした古い吸血鬼は、杖を手に、面白そうにこちらを見ている。
ヴェルナーはいない。
あの男はこういう茶会を好まないだろう。
アドリアンもいない。
彼がいないのは、むしろ不自然だった。
呼ばれなかったのか。
呼ばれて断ったのか。
あるいは、別の場所から見ているのか。
クラウディオはそれも考えた。
イザベラが立ち上がり、優雅に礼をした。
「ようこそお越しくださいました、クラウディオ様」
「お招き、感謝いたします」
クラウディオは礼を返した。
深すぎず、浅すぎず。
王族として。
イザベラの目がほんの少しだけ細くなる。
以前なら、彼女は「妾腹の子どもが礼を返す」ことに不快を覚えただろう。
今日は違う。
彼女は不快を隠し、甘い笑みを浮かべている。
稀血の噂が、礼の深さまで変えた。
クラウディオは席へ案内された。
用意された椅子は、中央に近い。
末席ではない。
だが上座でもない。
王族として扱っているようで、囲いやすい位置だった。
右にイザベラ。
左にロダン。
正面にグラナート。
少し離れてメルキオル。
四方から見られる場所。
分かりやすい。
クラウディオは何も言わずに座った。
銀の茶杯が置かれる。
血入りの茶。
香りは整っている。
異物はない。
少なくとも、茶には。
焼き菓子の皿が近づけられた。
イザベラが微笑む。
「王城の菓子職人に、特別に焼かせましたの。蜂蜜と焦がし砂糖を使ったものですわ。クラウディオ様のお口に合えばよろしいのですが」
蜂蜜と焦がし砂糖。
わざとか。
クラウディオは皿を見た。
小さな丸菓子だった。
形は美しい。
焼き色も均一。
王城の菓子らしく、欠けも歪みもない。
ロウェナの菓子とはまるで違う。
それなのに、匂いだけが少し似ている。
それが不快だった。
クラウディオは微笑んだ。
微笑んだ瞬間、イザベラの表情がわずかに緩む。
食いついた、と思ったのだろう。
馬鹿な女だ。
いや、馬鹿ではない。
ただ、クラウディオがどこで傷ついているのか知らない。
知らないまま、傷の上へ菓子を置いた。
それは罪か。
無知か。
どちらでもいい。
踏んだなら、踏まれたことを教えるだけだ。
「美しい菓子ですね」
クラウディオは言った。
声は柔らかかった。
「まあ、ありがとうございます」
「形が整いすぎていて、少し食べ物に見えません」
イザベラの笑みが一瞬だけ止まった。
クラウディオは続ける。
「王城のものは、何でも美しく整えますね。皿も、菓子も、言葉も、人の死も」
温室の空気が止まった。
グラナートが目を細める。
ロダンは意味を測りかねている。
メルキオルだけが、わずかに笑った。
イザベラは扇を開き、口元を隠した。
「恐ろしいことをおっしゃいますのね」
「そうでしょうか」
「茶会で死の話など」
「失礼いたしました」
クラウディオはすぐに頭を下げた。
形は完璧だった。
謝罪として。
だが、その一言はもう場に残っている。
王城は人の死も美しく整える。
それを誰も聞かなかったことにはできない。
イザベラは笑みを戻した。
「クラウディオ様は、最近ずいぶんとご立派になられて」
「皆様のおかげです」
「まあ」
「王城では、見下されることも、噂されることも、罠を仕掛けられることも、すべて学びになります」
ロダンが茶を噴きそうになった。
グラナートの目が冷える。
イザベラの扇が止まる。
クラウディオは穏やかに微笑んだままだった。
「良い場所です。教材に困りません」
メルキオルがとうとう小さく笑った。
「これはこれは」
グラナートが低く言う。
「クラウディオ様。年長者たちの心遣いを、そのように受け取られるのは」
「心遣い」
クラウディオは焼き菓子を一つ指先でつまんだ。
食べない。
見つめる。
「では、この菓子も心遣いですか」
「もちろんですわ」
イザベラが微笑む。
「稀血の噂で、皆様のお心もお疲れでしょう。甘いものは気持ちを和らげますもの」
「私の血が甘いという噂に合わせて?」
イザベラの笑みが消えかけた。
ロダンが完全に固まる。
グラナートは咳払いをした。
「そのような意味では」
「違うのですか」
クラウディオは首を傾げた。
「私の血が甘い。稀血かもしれない。王血稀血かもしれない。その噂に皆様は興味をお持ちなのでしょう」
声は穏やかだった。
「なら、甘い菓子を出された理由を、その噂と無関係と考える方が不自然です」
イザベラは微笑みを保った。
その努力だけは見事だった。
「クラウディオ様は、少し疑い深くなられたのですね」
「ええ」
即答した。
イザベラが止まる。
クラウディオは菓子を皿へ戻した。
「疑わずにいると、何かを奪われますから」
ロウェナ。
胸の奥で名が沈む。
誰にも言わない。
けれど、その名があるから、この言葉が出る。
イザベラは、扇の奥から探るように彼を見た。
触れようとしている。
その「奪われた何か」に。
クラウディオは先に動いた。
「本題へ入りませんか」
温室が静かになる。
イザベラは微笑んだ。
「本題?」
「茶会に見せかけた場で、私を囲んだ理由です」
ロダンの顔色が変わる。
グラナートが目で彼を制した。
イザベラは扇を閉じた。
「本当に、率直でいらっしゃる」
「遠回りは時間の無駄です」
「では、率直に申し上げますわ」
イザベラは姿勢を正した。
その動きは優雅だった。
まるで本当に善意を差し出すように。
「クラウディオ様の血が稀血である可能性が高まっている以上、その血を守る体制が必要です。王城には、血の管理と保護に長けた古参血族がございます。私どもは、クラウディオ様の今後のためにも、保護契約を結ぶべきではないかと考えておりますの」
保護契約。
クラウディオは、その言葉を聞いた。
血を守る体制。
古参血族。
クラウディオの今後のため。
綺麗な言葉ばかりだ。
綺麗な言葉ほど、王城ではよく人を縛る。
彼は静かに聞いた。
「誰が、誰を保護するのですか」
「古参血族が、クラウディオ様を」
「つまり、私の血を」
イザベラの目が一瞬だけ動く。
「クラウディオ様ご自身を、ですわ」
「私と私の血は、別のものですか」
沈黙。
ロダンが視線を落とした。
グラナートが答える。
「王族の血は、個人だけのものではありません。王城全体の資産とも言えます」
資産。
言った。
クラウディオは微笑んだ。
微笑んだまま、グラナートを見た。
「では、私の血は王城の資産ですか」
「王血であれば、当然」
「その王血は、陛下の血です」
グラナートが黙る。
「卿は、陛下の血を古参血族の管理下へ置くべきだと?」
グラナートの顔が強張った。
まただ。
彼は何度も同じ罠に落ちる。
血筋を語る者は、王の血という言葉から逃げられない。
イザベラがすぐに割り込んだ。
「管理ではありませんわ。保護です」
「言葉を変えれば、行為も変わりますか」
「クラウディオ様」
「では、保護契約の書面を見せてください」
イザベラが止まった。
クラウディオは微笑んでいた。
「ご用意があるのでしょう」
ないはずがない。
茶会の席で話だけするつもりなら、彼を囲む人数が多すぎる。
古参血族が揃い、甘い菓子を出し、血の噂に触れ、保護の話をする。
当然、契約書はある。
イザベラはしばらく沈黙した。
それから、控えていた侍女へ目配せする。
侍女が銀盆に載せた書面を持ってきた。
黒い紙。
赤い封蝋。
古参血族の紋章。
クラウディオはそれを受け取らなかった。
「読んでください」
イザベラの眉がわずかに動く。
「この場で?」
「はい」
「クラウディオ様にお渡しして、後ほど」
「この場で」
声は柔らかい。
だが、譲らない。
メルキオルが杖に手を重ね、面白そうに見ている。
グラナートは不快そうだった。
ロダンは汗をかいている。
イザベラは仕方なく書面を開いた。
読み上げる声は、優雅だった。
だが、内容は優雅ではなかった。
クラウディオの稀血保護を名目に、採血記録を古参血族が共有する。
夜血の儀後、定期的な血の状態確認を行う。
血の暴走や香気漏れが確認された場合、保護者権限を持つ血族が一時隔離できる。
外部への血の流出を防ぐため、護衛と称して古参血族の者を常時近くに置く。
必要に応じて、血の封印具を装着する。
クラウディオは、最後まで黙って聞いた。
聞き終えてから、ゆっくり微笑んだ。
「なるほど」
イザベラは書面を閉じた。
「すべて、クラウディオ様をお守りするためですわ」
「よく分かりました」
クラウディオは頷いた。
ロダンの顔に安堵が浮かびかける。
グラナートも少しだけ表情を緩めた。
クラウディオは続けた。
「つまり、私を採血し、記録し、隔離し、監視し、封具をつける権限を、古参血族へ渡せということですね」
温室の空気が冷えた。
ロダンが完全に青ざめる。
イザベラは微笑みを保とうとする。
「言い方が」
「違いますか」
クラウディオは首を傾けた。
「私は、読み上げられた内容を整理しただけです」
メルキオルがくつくつと笑った。
「その通りですな」
イザベラが彼を睨む。
メルキオルは知らぬ顔で茶を飲んだ。
クラウディオは書面を見た。
「この契約は、陛下の許可を得ていますか」
イザベラの表情が固まる。
グラナートが口を開く。
「これはあくまで提案です」
「では、陛下の許可はない」
「今後、正式に」
「正妃殿下の許可は」
沈黙。
イザベラは答えない。
クラウディオは微笑んだまま言った。
「つまり、陛下にも正妃殿下にも通さず、古参血族の一部が、王血を持つ私に対し、採血、隔離、監視、封具装着の権限を求める書面を用意した」
ひとつずつ。
丁寧に。
逃げ道を塞ぐように。
「王城のため、と言うには、少々手順が乱れていますね」
グラナートの顔色が変わった。
イザベラの扇が震える。
ロダンはもう何も言えない。
クラウディオはさらに続けた。
「それとも、卿らは陛下の王血を、陛下の許可なく管理できる立場にあるとお考えですか」
誰も答えられない。
また同じだ。
王の血。
その言葉を出せば、彼らは止まる。
クラウディオ個人を見下すことはできる。
だが、クラウディオの中の王の血を否定することは、王への不敬に近い。
彼らはクラウディオを囲もうとして、王の血という壁にぶつかる。
愚かだ。
何度も同じ壁に頭を打っている。
さすがに壁も迷惑だろう。
クラウディオは、そこで初めて焼き菓子を一つ手に取った。
食べない。
指先で持ち上げるだけ。
「イザベラ卿」
「……何でしょう」
「この菓子は、私への心遣いでしたね」
「ええ」
「では、この契約書も心遣いですか」
イザベラは答えない。
クラウディオは菓子を皿へ戻した。
「心遣いとは、便利な言葉です」
声は静かだった。
「薬草を渡すことも、菓子を渡すことも、手を温めることも、時には罪にされる。反対に、採血や監視や封具も、心遣いと呼べる」
イザベラは怪訝そうな顔をした。
ロウェナを知らないから、その言葉の底が分からない。
それでいい。
分からなくていい。
クラウディオは微笑んだ。
「ですが、私はもう、心遣いという言葉だけでは信じません」
グラナートが低く言う。
「クラウディオ様、我々を疑っておいでか」
「はい」
即答した。
グラナートが言葉を失う。
クラウディオは優雅に茶杯を持ち上げた。
飲まずに、香りだけ確かめる。
「疑っています。卿らが私の血を欲しがっていることも、私を守るより囲うことを望んでいることも、陛下を通さず先に私から署名を取ろうとしたことも」
微笑んだまま、言う。
「すべて、疑っています」
イザベラの顔から、ついに笑みが消えた。
「では、どうなさるおつもりですの」
「簡単です」
クラウディオは茶杯を置いた。
「この書面を、陛下へお渡しします」
温室が凍った。
ロダンが立ち上がりかける。
グラナートが鋭く制した。
イザベラの顔が白くなる。
「お待ちください。これは正式なものでは」
「なら、なおさら確認が必要です」
「草案ですわ」
「草案で王血の採血権限を求めるのですか」
「言葉が過ぎます」
「契約書の方が過ぎています」
クラウディオは立ち上がった。
小さな身体。
まだ椅子も大きい。
それでも、温室の空気は彼を中心に動いていた。
彼は書面を指差す。
「その書面を」
侍女が動けない。
イザベラも渡さない。
クラウディオは微笑んだまま言った。
「私へくださるために用意したのでしょう」
沈黙。
逃げ道がない。
渡さなければ、見られて困るものだと示す。
渡せば、王へ届く。
イザベラは、ゆっくり書面を閉じた。
そして、銀盆へ戻す。
侍女が震える手でそれをクラウディオへ差し出した。
クラウディオは受け取った。
紙は重かった。
だが、重さは罠の重さではない。
相手の失態の重さだった。
メルキオルが笑う。
「いやはや。茶会とは、実に学びの多い場ですな」
グラナートは沈黙している。
ロダンは顔色を失っている。
イザベラはクラウディオを見た。
怒り。
屈辱。
恐怖。
その三つが、美しい顔の奥にある。
クラウディオは微笑んだ。
「本日は、お招きありがとうございました」
完璧な礼。
優雅な声。
柔らかな微笑み。
「心遣い、記憶しておきます」
イザベラの表情が歪みかけた。
記憶しておきます。
その言葉の意味を、彼女もようやく理解し始めたらしい。
遅い。
皆、遅い。
温室を出ると、廊下の空気が冷たかった。
クラウディオは書面を持ったまま歩く。
マルタが後ろについてくる。
彼女は茶会の間、壁際でずっと見ていた。
顔色が悪い。
「クラウディオ様」
「何だ」
「……お見事でした」
その声には恐怖が混じっていた。
褒め言葉にしては震えている。
クラウディオは少しだけ立ち止まり、振り返った。
「見事?」
「はい」
「俺が笑っていたからか」
マルタは答えられない。
クラウディオは、書面を見た。
「俺は笑っていたな」
自分で言う。
確かめるように。
たしかに、笑っていた。
菓子を出されても。
保護契約を読まれても。
採血、隔離、監視、封具という言葉を聞いても。
微笑んでいた。
昔なら、きっと怒った。
もしくは黙った。
今は違う。
笑って、相手に最後まで言わせて、逃げ道を塞いだ。
イザベラは自分で罠の内容を読み上げた。
グラナートは自分で王の血の問題に踏み込んだ。
ロダンは青ざめた。
そしてクラウディオは、彼らの失態を紙ごと手に入れた。
表面は優雅。
内側は冷たい。
その冷たさを、彼は否定できなかった。
否定するつもりも、もうあまりなかった。
王の間へ向かう途中、アドリアンと出くわした。
やはり。
彼は近くにいた。
偶然ではない。
青白い魔導灯の下で、第一王子は穏やかに微笑んでいる。
「楽しそうな茶会だったね」
クラウディオは書面を持ち直した。
「覗き見ですか」
「人聞きが悪いな。噂が早いだけだよ」
「茶会が終わって、まだ数分です」
「王城の噂は足が速い」
「兄上の耳も」
アドリアンは笑った。
「それで、その書面を父上へ?」
「はい」
「イザベラ卿は焦っているだろうね」
「でしょうね」
「怖い子だ」
クラウディオはアドリアンを見た。
「兄上も、そう思いますか」
「思うよ」
アドリアンは近づきすぎない距離で立っている。
「微笑みながら、相手に自分の罠を読み上げさせた。しかも、善意の形で差し出されたものを、王への不敬に変えた。怖いだろう」
「相手が勝手にそうしたのです」
「本気でそう思っている?」
クラウディオは答えなかった。
アドリアンは静かに続ける。
「お前はもう、ただ返しているだけじゃない。相手がどこへ落ちるかを分かって、そこへ歩かせている」
クラウディオは微笑んだ。
「兄上は、よく見ておられますね」
「見逃すと危ないと言っただろう」
「では、次は兄上が気をつける番ですね」
沈黙。
アドリアンの青い瞳が、少しだけ鋭くなる。
クラウディオはそれを見た。
初めて、アドリアンに対しても同じ微笑みを向けた。
柔らかく。
優雅に。
しかし逃げ道を用意しない笑み。
「私は、兄上がどこへ歩くかも見ています」
アドリアンはしばらく彼を見ていた。
そして、小さく笑った。
「暴君の卵みたいだ」
暴君。
その言葉が、廊下の冷たい空気に落ちた。
クラウディオは表情を変えなかった。
「卵なら、まだ割れるでしょう」
「そうだね」
アドリアンは言った。
「だから、誰が割るかを皆が考え始める」
「孵る前に?」
「孵った後では遅いから」
クラウディオは、ほんの少し首を傾けた。
「では、守らなければなりませんね」
「誰が?」
「私が」
アドリアンは一瞬だけ黙った。
それから、低く笑った。
「本当に、面白くなってきた」
クラウディオは彼の横を通り過ぎた。
背後から、アドリアンの声がする。
「クラウディオ」
足を止める。
「その笑い方、覚えておいた方がいい」
「なぜ」
「いつか、自分でも戻せなくなる」
クラウディオは振り返らなかった。
「ご忠告、記憶しておきます」
それだけ言って、歩き出した。
王の間へ向かい、契約書を提出した。
王ヴァレンティヌスは、書面を最後まで読んだ。
表情はほとんど変わらない。
正妃エレオノーラは同席していなかった。
それも計算だろう。
王は書面を読み終えると、短く言った。
「よく持ってきた」
「私に署名を求める内容でしたので」
「署名するつもりはなかったか」
「はい」
「なぜ」
クラウディオは王を見た。
「私の血は、私のものです」
王の目が細くなる。
その言葉は、以前にも自室で呟いた。
今度は王へ向けて言った。
王の血を受け継いでいるとしても。
王城の資産と呼ばれようとも。
稀血と噂されようとも。
この血は自分の身体の中にある。
自分のものだ。
王はしばらく黙っていた。
そして、低く笑った。
「そう言うか」
「はい」
「覚えておこう」
王が覚えておこうと言う。
その言葉は、クラウディオの「記憶しておきます」と少し似ていた。
だが重さが違う。
王が覚えるということは、盤面に置かれるということだ。
クラウディオは頭を下げた。
「恐れ入ります」
王は書面を黒い箱へ入れた。
「この件は預かる」
それで終わった。
イザベラたちがすぐに処罰されるわけではないだろう。
だが、王の手元に契約書が渡った。
それだけで十分だった。
彼らはしばらく動きにくくなる。
動けば、自分たちの失態が王の箱から取り出される。
社会的な喉元に、薄い刃を当てられた状態だ。
直接殺す必要はない。
息をするたび、刃があると意識させればいい。
部屋へ戻った時、クラウディオは疲れていた。
身体ではない。
血でもない。
内側が疲れていた。
微笑み続けること。
相手に喋らせること。
言葉を拾い、逃げ道を塞ぐこと。
それは血術とは違う疲労を残した。
マルタが手洗いの水を用意する。
温かい。
クラウディオは自分で手を洗った。
指先に、焼き菓子の匂いが少し残っている気がした。
食べていないのに。
持っただけなのに。
蜂蜜と焦がし砂糖。
ロウェナのものではない。
同じにしない。
同じにしてはいけない。
クラウディオは手を洗いながら、胸の奥で何度も分けた。
ロウェナの菓子。
王城の菓子。
温かい手。
罠の茶会。
違う。
違う。
違う。
部屋に一人になると、彼は机へ向かった。
引き出しを開ける。
ロウェナの紙片の隣に、新しい紙を置く。
微笑む暴君の卵。
そう書いた。
そして続ける。
イザベラ。
蜂蜜と焦がし砂糖の菓子を出した。
稀血保護契約。
採血、記録、隔離、監視、封具。
心遣いと言った。
私は読み上げさせた。
陛下の許可なく王血を管理するのかと問うた。
契約書を受け取り、陛下へ提出。
イザベラ、グラナート、ロダン、失態。
アドリアン。
暴君の卵と言った。
孵る前に誰が割るかを皆が考え始めると言った。
私は、私が守ると答えた。
クラウディオはペンを止めた。
自分が守る。
何を。
自分を。
血を。
ロウェナの記憶を。
誰にも渡したくないものを。
そして、これから得るものを。
そのために微笑む。
そのために追い詰める。
そのために、相手に自分の罠を自分で読ませる。
過去に奪われた者の冷たい復讐心。
それはもう、彼の中で芽を出している。
暴君の卵。
アドリアンの言葉は、間違っていない。
クラウディオはまだ王ではない。
まだ子どもだ。
だが、卵の殻の内側で、何かが育っている。
それはきっと、白い鳥ではない。
優しい獣でもない。
王城が作ったもの。
火刑台が焼きつけたもの。
ロウェナの甘い記憶を灰の下に抱えたまま、冷たく育つもの。
クラウディオは紙の最後に書いた。
笑え。
怒りを見せるな。
相手に喋らせろ。
善意を名乗る罠は、善意のまま王へ差し出せ。
直接殺すな。
まだ。
クラウディオは、最後の二文字を見た。
まだ。
それは、いつかがあるということだった。
彼はペンを置いた。
黒硝子の前へ行く。
硝子に映る自分は、確かに微笑んでいた。
子どもの笑みではない。
王の笑みでもない。
その手前。
暴君になるものが、まだ殻の中から外を見ているような笑み。
瞳の奥に、かすかな赤が滲んだ。
吸血衝動ではない。
血術でもない。
怒りでも、飢えでもない。
もっと静かなもの。
過去に奪われたものを、いつか奪い返すための赤。
クラウディオは、硝子の中の自分へ囁いた。
「割られる前に、孵ればいい」
夜の王城は静かだった。
だが、その静けさの奥で、誰かが彼を恐れ始めている。
誰かが彼を欲しがっている。
誰かが彼を壊そうとしている。
そしてクラウディオは、そのすべてを微笑みながら記録していた。




