第22話 夜会の屈辱
夜会は、王城でもっとも美しく、もっとも醜い場所だった。
黒硝子の大広間には、青白い魔導灯が幾つも吊るされている。天井は高く、壁には歴代王の紋章が刻まれ、床は磨かれた黒石で、歩くたびに靴音が薄く反響した。
卓には血入りの酒、赤い果実、薄く焼いた肉、薔薇の砂糖漬け、血色の菓子が並ぶ。
楽師たちは弦を鳴らし、貴族たちは笑い、女吸血鬼たちは黒や深紅の衣を揺らしながら言葉を交わしている。
どこを見ても、優雅だった。
だからこそ、気味が悪い。
優雅さは王城の覆い布だ。下に何が腐っていても、上から黒い絹を掛ければ、彼らはそれを格式と呼ぶ。
クラウディオは大広間の端に立っていた。
今日は王族の子として夜会へ出されている。
黒い礼服。細い銀糸。喉元まで覆う襟。袖口には王家の血紋。
まだ幼い身体には、衣装の重さがわずかに勝っている。
だが、背筋は曲げなかった。
末席に押し込められていた頃なら、彼はもっと壁際へ寄せられただろう。
今は違う。
稀血の噂。
黒薔薇の庭。
兄弟の杯。
保護契約の書面。
それらが、彼の立ち位置を少しずつ変えていた。
王城は現金だ。
血に価値があると分かれば、椅子の位置まで変える。礼儀作法とはつまり価格表なのかもしれない。嫌な発見だった。
王ヴァレンティヌスは上座に近い黒い椅子に座していた。
正妃エレオノーラはその隣にいる。白金の髪を結い、深紅の石を飾り、完璧な微笑みを浮かべていた。
アドリアンは古参血族たちに囲まれている。
穏やかな声、整った笑み、完璧な距離。
誰に対しても同じように柔らかい。
だからこそ、誰にも本心を渡さない。
セヴランは少し離れた場所にいた。
兄弟の杯の件以来、彼の周囲から何人かが消えた。完全に孤立したわけではない。正妃の子である限り、人は残る。だが以前より明らかに軽くなった。
その重さの変化を、本人も理解しているのだろう。
今夜の彼は、いつもより口数が少なかった。
リヴィアは母の近くにいる。
飾られた鳥のように美しい。
だが、時折クラウディオを見る目には怯えがある。
クラウディオは、そのすべてを見ていた。
誰が誰に寄るか。
誰が離れるか。
誰が彼を見てすぐ目を逸らすか。
誰が逆に、見すぎるか。
稀血の噂が広がってから、「見すぎる者」が増えた。
その視線は不快だった。
王座を見る目ではない。
血を見る目。
飲めるか。
奪えるか。
囲えるか。
利用できるか。
そういう目だ。
クラウディオは、それらを一つずつ覚えた。
今夜、最初に近づいてきたのは、オーギュスト・カリエス卿だった。
灰色の髪を後ろへ撫でつけた、年配の古参吸血鬼である。
かつては王城の外縁領を任されていた血族だが、近年は財政が傾いていると聞いたことがある。古い名だけは残っているが、中身は痩せた家。
衣は豪奢だった。
だが、近づくと分かる。
袖口の刺繍は古いものを直している。
指輪の宝石には細かな傷がある。
香油は高価なものだが、少しつけすぎている。
隠したい匂いがあるのだろう。
クラウディオは、彼が歩いてくる間にそれだけ見た。
カリエス卿は優雅に礼をした。
「クラウディオ様。今宵のご機嫌はいかがかな」
「カリエス卿」
クラウディオも礼を返す。
カリエス卿の後ろには、数人の古参吸血鬼がいる。
グラナート卿の姿も少し離れた場所にあった。
直接近づいてはこない。
だが、見ている。
イザベラはいない。
昨日の保護契約の件で、今夜は姿を控えたのだろう。
代わりに、このカリエス卿を出した。
あるいは、カリエス卿が勝手に出てきたか。
どちらでもいい。
目の前に立った以上、記録する。
カリエス卿は微笑んだ。
「黒薔薇の庭での血術、実に見事だったと聞いております。いや、この目で拝見できなかったのが惜しい」
「過分なお言葉です」
「ご謙遜を。一滴の血で庭を従わせたとか。王城中、その話で持ちきりですぞ」
大広間の周囲で、いくつかの耳がこちらへ向く。
クラウディオは微笑んだ。
「噂は、よく育つようです」
「王城は土がよい」
「養分も多いのでしょう」
カリエス卿の笑みが少しだけ深くなる。
この子どもは返す。
そう確認した顔だった。
そして、少し声を高くした。
「それにしても、稀血とは羨ましい。いや、王血に加えて稀血とは、まさに夜に愛された血ですな」
夜に愛された。
クラウディオはその言葉を胸の中で冷やした。
夜は王を選ばない。
王が夜を従わせる。
王の言葉を、この男は知らないのか。
あるいは、知らないふりをしているのか。
クラウディオは答えた。
「まだ確定した話ではありません」
「慎ましいことです。しかし、香りは隠せませぬ」
カリエス卿の目が、ほんの一瞬、クラウディオの指先へ落ちた。
気持ち悪い。
クラウディオは微笑みを崩さなかった。
カリエス卿は卓から銀の杯をひとつ取った。
中には薄い血酒が入っている。
儀礼用ではない。
夜会用の酒だ。
彼はその杯を持ち上げ、周囲にも聞こえる声で言った。
「せっかくの夜会です。クラウディオ様の稀なる血で、この場を祝福していただくというのはいかがかな」
空気が止まった。
数人が息を呑む。
セヴランが遠くで顔を上げる。
アドリアンの微笑みが消えないまま、目だけがこちらへ向く。
正妃は扇の向こうで静かに見ている。
王は動かない。
カリエス卿は笑っていた。
言葉の形は冗談だった。
だが、意味は明白だった。
お前の血は宴の余興にできる。
稀血なら、一滴垂らせ。
王族としてではなく、珍しい酒として。
公然と。
大広間の中で。
クラウディオは侮辱された。
喉の奥が、わずかに冷えた。
怒りは熱くならない。
最近、それにも慣れてきた。
本当に深い怒りは、冷える。
カリエス卿は杯を差し出している。
笑っている。
周囲も見ている。
ここで怒れば、子どもの癇癪。
拒めば、冗談の分からない未熟者。
応じれば、自分の血を余興として差し出したことになる。
謝罪を求めれば、場を乱す。
黙れば、屈辱を飲む。
よくできた浅い罠だった。
浅い。
けれど、人前では浅い罠ほど踏みにくい。
クラウディオは、ゆっくり微笑んだ。
カリエス卿の笑みが、わずかに揺れる。
なぜ笑う。
そう思った顔だった。
クラウディオは杯を見た。
「私の血を、夜会の酒へ?」
「もちろん、ほんの戯れですとも」
カリエス卿が笑う。
「稀血の王子が一滴祝福をくだされば、今宵の酒は語り草になりましょう」
「語り草」
「ええ」
「なるほど」
クラウディオは頷いた。
まだ声は柔らかい。
まだ怒りは見せない。
「では、カリエス卿」
「何ですかな」
「その杯は、陛下へ最初にお持ちしますか」
カリエス卿の笑みが止まった。
「……は?」
「私の血は陛下の王血を引くものです。その血を夜会の酒へ垂らし、祝福として回すのであれば、まず陛下へ捧げるのが礼に適うでしょう」
周囲が静まり返る。
カリエス卿の顔から、少しずつ色が引いていく。
クラウディオは続けた。
「それとも、卿は陛下の血を引くものを、余興として客へ回すおつもりでしたか」
「いや、そのような」
「冗談でしたか」
「もちろんです」
「でしたら、よかった」
クラウディオは微笑んだ。
完璧に。
「私も冗談として記憶いたします」
記憶。
その一語で、空気がさらに冷えた。
カリエス卿の喉が動いた。
彼も知っているのだろう。
クラウディオが「記憶する」と言う時、それはただ覚えるという意味ではない。
いつか取り出す、という意味だ。
カリエス卿は無理に笑った。
「いやはや、これは一本取られましたな。若い方は言葉が鋭い」
「卿ほどではありません」
「私が?」
「私の血を酒へ、とおっしゃる発想は、なかなか鋭い」
周囲の何人かが目を伏せた。
笑いは起きない。
起こせない。
クラウディオは、さらに柔らかく言った。
「ただ、次からはお気をつけください。王血を杯の余興にする冗談は、聞く者によっては不敬に響きます」
不敬。
その言葉は重い。
カリエス卿の額に薄く汗が滲む。
彼は深く礼をした。
「失礼を。あくまで場を和ませるための戯れでございました」
「ええ。存じております」
クラウディオは微笑み続けた。
「戯れとして、覚えておきます」
もう一度。
あえて。
カリエス卿の顔が引き攣った。
クラウディオはそれ以上追わなかった。
ここで潰しすぎる必要はない。
夜会の場で彼を完全に追い詰めれば、カリエス卿は被害者の顔を作る。
老いた古参血族を、稀血の子どもが言葉で辱めた。
そういう話にされる余地を残す。
だから、ここでは止める。
屈辱を飲んだように見せる。
怒りを見せず、微笑んで退く。
その方が、後でよく効く。
カリエス卿が離れた後、周囲の視線は変わっていた。
いくつかは感心。
いくつかは警戒。
いくつかは、残念そうだった。
クラウディオが怒るところを見たかったのだろう。
子どもの癇癪を。
稀血の暴走を。
目が禍々しい赤に染まる瞬間を。
見世物として。
見せるものか。
クラウディオは血酒の杯を一つ取り、香りを確かめただけで卓へ戻した。
飲まない。
今夜は飲まない。
血が揺れる場では、余計なものを入れない。
その時、背後から声がした。
「見事に受け流したね」
アドリアンだった。
彼はいつの間にか近くに来ていた。
相変わらず足音が薄い。
クラウディオは振り返らないまま言う。
「受け流したように見えましたか」
「違うの?」
「受け止めました」
アドリアンが少し笑う。
「それで?」
「後で返します」
短く言った。
アドリアンの笑みが深くなる。
「やっぱり」
「兄上は楽しそうですね」
「楽しいよ。お前は怒らない時の方が怖い」
「怒っていないわけではありません」
「知っている」
アドリアンは隣に立ち、カリエス卿の背を見た。
「カリエス卿は落ち目だ。古い名はあるけれど、領地収入はかなり落ちている。血糧管理にも手を出しているが、評判はよくない」
「血糧」
「外縁領の供給路をいくつか持っている」
アドリアンは、まるで何気ない話のように言った。
だが、情報だった。
彼はクラウディオへ与えている。
なぜ。
試しているのか。
誘導しているのか。
あるいは、カリエス卿を切りたいのか。
クラウディオは答えた。
「詳しいのですね」
「王城では、他人の弱みを知っておくと便利だから」
「その弱みを、私へ教えてくださる理由は」
「お前がどう使うか見たい」
正直だった。
嫌なほど。
クラウディオはようやくアドリアンを見た。
「兄上は、私を育てるつもりですか」
「利用するつもりかもしれない」
「どちらでも、私に得があるなら聞きます」
アドリアンの目が細くなる。
「賢いね」
「王城の教材が良いので」
アドリアンは笑った。
「本当に、嫌な育ち方をしている」
「育てたのは王城です」
「そうだね」
その言葉だけは、彼も否定しなかった。
夜会の間、クラウディオはカリエス卿を観察した。
彼は何度かグラナートと話し、二度、黒い衣の商人風の男と接触した。
商人風。
だが、歩き方が商人ではない。
武器を隠している者の重心。
袖口には外縁領の古い血糧庫で使う封蝋の匂い。
そして、わずかに獣臭い血の香り。
獣化種。
いや、完全な獣化種ではない。
獣化種の血を薄めたもの。
通常、王城の夜会へ持ち込むようなものではない。
クラウディオはその男の顔を覚えた。
左眉の傷。
右手の小指がない。
靴に赤土。
外縁南路の土。
カリエス領の近く。
つながる。
カリエス卿は財政が傾いている。
血糧供給路を持っている。
外縁の血糧庫。
獣化種の血。
商人ではない男。
夜会での過剰な香油。
隠したい匂い。
クラウディオは微笑んだ。
弱点が見えてきた。
まだ確定ではない。
だが、糸はある。
夜会が終わりに近づく頃、クラウディオはマルタを呼んだ。
彼女は壁際で控えていた。
「カリエス卿の供給路を調べろ」
小声で言う。
マルタの顔が強張る。
「カリエス卿の、ですか」
「外縁南路。血糧庫。獣化種の血。右手小指のない男。左眉に傷。赤土のついた靴」
マルタは息を呑んだ。
「そこまで」
「見た」
「……かしこまりました」
「直接は動くな。血糧庫に知り合いは」
「古い侍女仲間の弟が、外縁記録係におります」
「使え」
マルタは一瞬だけ躊躇した。
その躊躇に、クラウディオは目を向ける。
「できないのか」
「できます」
「なら、明朝までに糸口を」
「はい」
マルタは下がった。
彼女もまた変わった。
以前なら、そんなことはできませんと言っただろう。
今はできると言う。
クラウディオがそうさせた。
それが良いことか悪いことかは、今は考えない。
夜会が終わり、彼は自室へ戻った。
火は少なくしてある。
焼き菓子の匂いはない。
黒薔薇の香りもない。
それでも、今夜の大広間の屈辱は、指先に残っていた。
お前の血を酒に垂らせ。
祝福として。
余興として。
クラウディオは手を洗った。
温かい水。
白い布。
血は出ていない。
それなのに、指先を洗わずにはいられなかった。
マルタは何も言わなかった。
それだけは賢かった。
一人になると、クラウディオは机へ向かった。
床下の帳簿を開く。
新しい紙に書く。
夜会の屈辱。
カリエス卿。
稀血なら夜会の酒へ一滴祝福を、と公然と言った。
王血を余興にする冗談。
不敬に響くと返した。
その場では潰さない。
怒りを見せない。
微笑んで記憶した。
クラウディオはペンを止めた。
その場では潰さない。
この一行が、今夜のすべてだった。
昔なら、ただ耐えるだけだった。
火刑台の広場で、何もできなかったように。
王城の食卓で、焦げた肉を切っていたように。
だが今は違う。
耐える。
それは同じ。
しかし、耐えるだけではない。
相手を見て、匂いを拾い、弱点を探し、後で返す。
忍耐と計算。
それを覚え始めている。
クラウディオは続きを書いた。
カリエス卿。
過剰な香油。
古い指輪に傷。
財政難。
血糧供給路。
外縁南路。
右手小指のない男。左眉に傷。赤土。獣化種の血を薄めた匂い。
獣化種の血の違法混入、または横流しの疑い。
弱点になり得る。
まだ使わない。
握る。
握って、必要な時に締める。
その文字を見た時、クラウディオの胸の奥が冷えた。
握って、必要な時に締める。
それはもう、子どもの考えではなかった。
暴君になる前の、忍耐。
暴君になる前の、計算。
まだ直接殺さない。
まだ血で屈服させない。
まだ王座にも座っていない。
だが、相手の喉元に見えない指をかける方法を覚え始めている。
クラウディオは、机の奥の引き出しを開けた。
ロウェナの紙片。
また来てね、クラウディオ。
その隣に置かれた、いくつもの記録。
魔女ではない。
火を同じにしない。
裁かれる側にはならない。
血を覚える。
最初の命令。
甘い記憶は灰の下。
夜は王を選ばない。
後継争いの始まり。
王にふさわしくない子。
兄弟の杯。
王座に近い血。
微笑む暴君の卵。
そこへ、新しい紙を置く。
夜会の屈辱。
そう書いた。
そして、帳簿とは別に、一行だけ足す。
屈辱はすぐ返さない。
冷やして、形を変えて、相手の弱点として返す。
クラウディオはその文字を見つめた。
ロウェナなら、きっと悲しむ。
そんなことをしてほしくない、と言うかもしれない。
だが、ロウェナはもういない。
そして、彼女が優しくしてくれた世界は、彼女を守らなかった。
だからクラウディオは、別のやり方を覚える。
優しさを捨てたいわけではない。
ただ、優しさだけでは奪われる。
それを知ってしまった。
窓のない黒硝子の前に立つ。
自分の顔が映る。
まだ子どもだ。
だが、その目はもう子どものものではない。
今夜、公然と侮辱された。
笑って受けた。
怒りを見せなかった。
そして、相手の弱点を握った。
硝子の中の瞳の奥に、赤がほんの少し滲む。
吸血衝動ではない。
能力使用でもない。
怒りが血の底に触れただけだ。
禍々しい赤は、すぐに沈んだ。
クラウディオは、静かに微笑んだ。
大広間で見せたものと同じ笑みだった。
優雅で。
冷たく。
何も許していない笑み。
「覚えていろとは、言わない」
彼は硝子に映る自分へ呟いた。
「俺が覚えている」
夜は深い。
王城は眠らない。
誰かがまだ、どこかで彼の血の噂をしている。
誰かが彼を侮っている。
誰かが彼を欲しがっている。
そして一人、オーギュスト・カリエス卿は、まだ気づいていない。
自分が今夜、笑顔の子どもに喉元を渡したことを。
クラウディオは、その事実を急いで使わない。
握ったまま、冷やしておく。
暴君になる前の卵は、まだ殻の中で耐えている。
だが、その内側では、もう牙が形を持ち始めていた。




