第20話 王座に近い血
血は、隠していても匂う。
王城の者たちは、香油と礼服と古い格式で何もかも覆い隠そうとするが、吸血鬼である以上、最後には血へ戻る。
誰の血が濃いか。
誰の血が古いか。
誰の血が甘いか。
誰の血が王座に近いか。
言葉より先に、血が噂になる。
クラウディオの血についての噂が広がり始めたのは、兄弟の杯の件の翌日だった。
セヴランが仕掛けた浅い罠は、表向きには「儀礼血管理上の不備」として処理された。
便利な言い換えだった。
王城は失態を隠す時、いつも言葉を柔らかくする。
不正は不備になり、罠は行き違いになり、悪意は管理不足になる。ついでに責任も水で薄めた血みたいに散らす。大人って本当に器用だ。嫌な方向に。
だが、柔らかい言葉で包んでも、匂いは残った。
セヴランの側近の一人が外された。
給仕ジルは血糧庫から遠ざけられた。
フェルディナン・オルグの調査はまだ続いている。
グラナート卿は以前より口数を減らした。
正妃エレオノーラは、何事もなかったように微笑んでいる。
そして王城の廊下では、別の囁きが増えた。
「クラウディオ様は、杯に触れる前に気づいたらしい」
「血の匂いだけで?」
「黒香草も」
「兄弟の血まで嗅ぎ分けたとか」
「それだけではない。黒薔薇の庭が、あの方の一滴に従った」
「一滴で?」
「王血が濃いのでは」
「いや、濃いだけではない」
「甘いらしい」
甘い。
その言葉を聞いた時、クラウディオは廊下の影で足を止めなかった。
止めれば、聞いていると知られる。
だから歩き続けた。
だが、胸の奥で何かが静かに動いた。
甘い。
その言葉は、ロウェナの菓子に使うものだった。
蜂蜜の丸菓子。
月の欠片。
焦がし砂糖。
温かい水のあとに渡された、少し歪んだ焼き菓子。
それらを指す言葉だったはずだ。
それが今、クラウディオの血へ向けられている。
気味が悪かった。
血が甘い。
稀血。
その言葉は、古い本で見たことがある。
吸血鬼の血にも、人間の血にも、稀に異様な魅力を持つものがある。吸血衝動を強く刺激し、血術との親和性が高く、飲む者の記憶や飢えを揺さぶる血。
稀血。
レアブラッド。
さらに、王血と重なる場合、古い記録では王血稀血とも呼ばれる。
ロイヤルレア。
クラウディオは、それが自分と関わる言葉だとは思っていなかった。
思いたくもなかった。
彼の血は、ただ王城の者たちに見下される理由だった。
妾腹。
正妃の子ではない。
半端な血。
そう呼ばれてきた。
だが今、同じ血が別の名を持ち始めている。
甘い血。
王座に近い血。
惹きつける血。
恐れられる血。
人は本当に勝手だ。
同じものを、昨日は泥と呼び、今日は宝石と呼ぶ。しかも自分が言い換えたことを忘れる。脳の記録係、職務怠慢では。
クラウディオは北棟の血術訓練室へ向かった。
カルゼンはすでに待っていた。
今日の訓練室には、いつもより人が多かった。
血術管理官が三人。
古参血族の立会人として、メルキオル卿。
そして、王城血糧庫の鑑定官が一人。
年老いた女吸血鬼だった。
名はオルディア・ネシュ。
白い髪を高く結い、濃紺の衣をまとっている。目元は皺深いが、瞳は鋭い赤褐色をしていた。吸血衝動の赤ではない。本来の瞳の色だろう。だが、血の匂いを読む者特有の湿った光がある。
彼女はクラウディオを見ると、ゆっくり礼をした。
「クラウディオ様。血糧庫鑑定官、オルディア・ネシュにございます」
クラウディオは礼を返した。
「鑑定官が、何を見に」
オルディアは微笑んだ。
薄い唇。
牙が少し見えた。
「夜血の儀に備え、王血の反応を正確に記録するためでございます」
嘘ではない。
だが、それだけでもない。
クラウディオは彼女の目を見た。
この女は、自分の血を見に来た。
血術の才ではなく、血そのものを。
カルゼンが横から言った。
「今日は血量は最小限です」
オルディアはにこりとした。
「心得ております」
「本当に」
カルゼンの声は冷たい。
オルディアは笑みを崩さない。
「ええ。王血を粗末にはいたしません」
粗末には。
クラウディオはその言葉を胸の中で繰り返した。
つまり、彼の血は物として扱われ始めている。
粗末にしてはならないもの。
保管すべきもの。
鑑定すべきもの。
欲しがられるもの。
カルゼンはクラウディオへ視線を向けた。
「本日は、血の香気確認と軽い反応測定です。無理に動かす必要はありません」
「香気」
「血の匂いです」
「物みたいだな」
「王城では、血はしばしば物より重く扱われます」
「それで慰めたつもりか」
「いいえ。事実です」
それならいい。
慰めよりは、事実の方がましだった。
クラウディオは魔導円の中央に立った。
銀の小針が差し出される。
いつもより細い。
採血量を抑えるためだろう。
クラウディオは右手を出した。
針が指先に触れる。
痛み。
赤い血が一滴、膨らむ。
その瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。
オルディアの瞳が細くなる。
メルキオル卿が、面白そうな笑みを消した。
血術管理官の一人が息を詰める。
カルゼンだけが、表情を変えなかった。
だが、彼の指もわずかに動いた。
匂ったのだ。
クラウディオにも分かった。
自分の血なのに。
指先に浮かんだ一滴から、微かな甘さが立った。
血の鉄臭さの奥に、蜂蜜ではない甘さ。
砂糖でもない。
果実でもない。
もっと濃く、もっと古く、喉の奥を引くような甘さ。
吸血鬼にとって、それは食欲に近い。
同時に、危険の匂いでもある。
オルディアの瞳の赤褐色の奥へ、禍々しい赤が薄く滲みかけた。
吸血衝動だ。
彼女はすぐに目を伏せた。
さすが鑑定官だった。
自我を保ち、衝動を沈める。
だが一瞬でも、赤が滲んだ。
クラウディオは見た。
自分の一滴で、老いた鑑定官の目に吸血衝動が灯った。
気持ち悪い。
そう思った。
恐ろしいとは違う。
自分の血が、他者の欲望を引き出す。
その事実がひどく不快だった。
カルゼンが低く言う。
「鑑定官」
「……失礼いたしました」
オルディアは深く頭を下げた。
「これは、確かに」
「言葉を選びなさい」
カルゼンの声が鋭くなる。
オルディアは一度口を閉じた。
そして、慎重に言った。
「王血反応、非常に濃厚。血術伝達性、高。香気、異常に強い。吸血衝動誘発性あり」
血術管理官たちの筆が走る。
メルキオル卿は杖に両手を置き、じっとクラウディオを見ている。
クラウディオは指先の血を見た。
ほんの一滴。
これが、周囲の目を変える。
血術の庭では、庭が頭を垂れた。
今日は、鑑定官の目が赤くなった。
血は、彼自身より先に噂を作る。
オルディアが続けた。
「稀血の可能性がございます」
部屋が静まった。
言ってしまった。
カルゼンの顔が明らかに冷えた。
「可能性、です」
彼は強調した。
オルディアは頷いた。
「はい。正式な分類には、夜血の儀と複数回の確認が必要です。ただし……」
彼女はクラウディオを見た。
今度は目に赤を滲ませていない。
だが、欲を抑えている目だった。
「王血でありながら、この香気。この誘発性。極めて珍しい」
メルキオルが低く笑った。
「王血稀血か」
その言葉が、訓練室の石壁に反響した気がした。
王血稀血。
ロイヤルレア。
古い本の中の分類。
自分とは関係ないはずだった言葉。
クラウディオは、自分の指先を見た。
赤い血。
小さな一滴。
王座に近い血。
欲しがられる血。
恐れられる血。
それが自分の中に流れている。
自分の意思と関係なく。
母から受け継いだ身体。
王から流れ込んだ血。
その組み合わせが、王城の者たちを惹きつける。
かつては蔑まれた血が。
今は、欲しがられている。
クラウディオは、唇を引き結んだ。
嬉しくはなかった。
誇らしくもなかった。
ただ、状況が変わるのを感じた。
この血は武器になる。
同時に、餌にもなる。
カルゼンが指示する。
「血を戻しなさい」
クラウディオは血へ意識を向けた。
戻れ。
命令ではなく、呼び戻す。
赤い一滴が皮膚へ沈む。
傷はすぐに塞がった。
匂いも薄れる。
部屋の空気が少しだけ戻った。
だが、完全には戻らない。
全員が今の一滴を覚えた。
クラウディオはそれを見ていた。
オルディア。
赤が滲んだ。
稀血の可能性と言った。
メルキオル。
王血稀血と口にした。
血術管理官。
筆が止まらなかった。
カルゼン。
可能性と訂正した。
何を守ろうとしているのか。
クラウディオ自身か。
血の情報か。
王城の均衡か。
おそらく全部だ。
訓練が終わった後、カルゼンは他の者たちを先に出した。
オルディアは名残惜しそうに一礼したが、カルゼンの目が冷たかったため、何も言わず退室した。
メルキオルは去り際に、クラウディオへ囁くように言った。
「甘い血は、牙を呼びますぞ」
クラウディオは彼を見た。
「卿の牙もですか」
メルキオルは愉快そうに笑った。
「老いぼれの牙は、まだ自制を知っております」
「それは残念です」
「残念?」
「試せたのに」
メルキオルの笑みが、一瞬だけ止まった。
すぐに戻る。
「なるほど。危険ですな」
彼はそう言って出ていった。
扉が閉まる。
訓練室には、クラウディオとカルゼンだけが残った。
カルゼンはしばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「今日のことは、すぐに広がります」
「だろうな」
「稀血という言葉は、あなたを守る盾にはなりません」
「知っている」
「むしろ、欲しがる者が増える」
「それも分かる」
カルゼンはクラウディオを見た。
「分かっている顔ではありません」
「どういう顔に見える」
「吐き気を堪えている顔です」
クラウディオは黙った。
カルゼンは正確だった。
腹が立つほどに。
「自分の血が欲望を呼ぶのは、不快でしょう」
「慰めか」
「事実です」
「ならいい」
カルゼンは机の上に銀の小針を置いた。
「王血稀血であれば、あなたは今後、政治的な駒であるだけでなく、血そのものとして狙われる可能性があります」
「飲まれるということか」
「ええ」
「王城で?」
「王城だからこそ」
クラウディオは少し笑った。
冷たい笑みだった。
「王城は本当に上品だな」
「上品な化け物が多い場所です」
「教師がそれを言うのか」
「長く勤めておりますので」
カルゼンは淡々と答えた。
クラウディオは自分の指先を見た。
もう傷はない。
血も出ていない。
だが、さきほどの一滴の匂いは、自分の鼻の奥にも残っていた。
甘い。
それが嫌だった。
ロウェナの菓子の甘さとは違う。
あの甘さは、渡されたものだった。
この甘さは、奪われそうになるものだ。
「稀血は、隠せるのか」
クラウディオは聞いた。
カルゼンは少し間を置いた。
「完全には無理です。ただ、血を出さない、反応を抑える、吸血衝動を誘発しない距離を保つことはできます」
「夜血の儀では」
「隠せません」
即答だった。
「夜血の儀では、王血そのものが表に出ます。あなたの血が本当に王血稀血なら、そこで確定に近い形で見える」
「なら、隠すより使う方が早い」
カルゼンの目が細くなる。
「そう来ますか」
「欲しがられるものなら、値をつける。恐れられるものなら、近づく者を選ぶ」
「危険な考えです」
「王城で安全な考えをして、何か守れるのか」
カルゼンは答えなかった。
沈黙が答えだった。
安全な考えでは、守れない。
ロウェナは優しかった。
安全ではなかった。
だから燃やされた。
クラウディオは、その思考を胸の底へ沈める。
ロウェナが悪かったわけではない。
何度もそう言い聞かせる。
世界が悪かった。
だが、その世界で生きるなら、優しさだけでは足りない。
稀血。
欲望を呼ぶ血。
ならば、自分がその欲望を利用する側へ回るしかない。
カルゼンが静かに言った。
「あなたは、血を餌にするつもりですか」
クラウディオは教師を見た。
「餌にされるよりはましだ」
それだけ答えた。
午後には、もう噂が広がっていた。
王城の廊下は、いつもより甘い沈黙をしていた。
従者たちは目を伏せる。
侍女たちは道を開ける。
血術局の者たちは遠くからクラウディオを見る。
古参血族の何人かは、以前より露骨に彼を観察していた。
そして、いくつかの目には欲があった。
王座への欲ではない。
血への欲。
吸血鬼の本能に近いもの。
クラウディオは、その目を一つずつ見た。
見返すと、ほとんどが目を逸らした。
逸らさなかったのは、ヴェルナーだけだった。
彼は廊下の柱の側に立ち、クラウディオを待っていた。
「聞いた」
短い。
相変わらずだった。
クラウディオは足を止める。
「何を」
「稀血」
「早いですね」
「王城の壁は耳より口が多い」
「それは不便だ」
「便利でもある」
ヴェルナーはクラウディオを見下ろした。
「気をつけろ」
「皆、そればかり言う」
「なら、皆が珍しく正しい」
クラウディオは少しだけ眉を動かした。
ヴェルナーの声には、余計な甘さがない。
それがまだ聞きやすかった。
「卿も、私の血が欲しいのですか」
クラウディオは真正面から聞いた。
ヴェルナーは黙った。
逃げない。
考えている。
そして答えた。
「吸血鬼としては、惹かれる」
正直だった。
クラウディオは彼を見た。
「ですが?」
「私個人としては、面倒な血だと思う」
「面倒」
「飲めば、ただでは済まない血だ。欲しがる奴ほど、自分が喰われることを考えない」
喰われる。
血を飲む側が。
クラウディオは、その言葉を胸へ沈めた。
「私の血は、飲む者を喰うのですか」
「そういう血に見える」
「卿の感覚では」
「そうだ」
ヴェルナーは頷いた。
「甘いものほど、深い牙を持つ」
クラウディオは、少しだけ黙った。
甘いもの。
ロウェナの菓子。
あれは牙など持っていなかった。
だから奪われた。
彼の血は違うらしい。
甘く、牙を持つ。
それは皮肉なことに、今のクラウディオには必要な性質だった。
「覚えておきます」
クラウディオが言うと、ヴェルナーは低く笑った。
「お前のそれは、いつ聞いても妙に怖いな」
「ただの返事です」
「嘘だ」
ヴェルナーはそう言い、背を向けた。
「夜血の儀で、血を見せすぎるな。見せれば寄ってくる。隠しすぎれば、余計に嗅ぎたがる。ほどほどにしろ」
「ほどほど」
「一番難しい」
その通りだった。
ヴェルナーは去っていった。
クラウディオは、その背を見ながら記録した。
ヴェルナー。
吸血鬼としては惹かれる、と認めた。
個人としては面倒な血。
飲む者を喰う血。
甘いものほど深い牙を持つ。
見せすぎるな。隠しすぎるな。ほどほど。
使える助言。
部屋へ戻る途中、アドリアンが待っていた。
廊下の窓のない壁際。
青白い魔導灯の下。
彼はいつものように微笑んでいた。
「すごいことになっているね」
「何がです」
「お前の血」
クラウディオは歩みを止めた。
アドリアンは近づかない。
距離を保っている。
それも見た。
今までなら、彼はもう半歩近づいただろう。
今日は近づかない。
稀血の噂を聞いて、距離を測っている。
「兄上も、私の血が気になりますか」
「気になるよ」
アドリアンは素直に言った。
「だって、皆が急にお前を見る目を変えた。血だけで、人の態度が変わる。面白いだろう」
「面白い」
「お前は面白くなさそうだね」
「自分の血を勝手に値踏みされるのは、不快です」
「それはそうだろうね」
アドリアンは穏やかに頷く。
「でも、使える」
クラウディオは黙った。
アドリアンは本当に、嫌なところを真っ直ぐ突く。
「お前はもう、それを考えている」
「兄上は、私をよくご覧になる」
「見ているからね」
「なぜ」
「見逃すと危ないから」
クラウディオはアドリアンを見た。
はじめて、彼がはっきり認めた。
危ない。
クラウディオを。
アドリアンにとって。
「兄上は私を危険だと思うのですか」
「思う」
「なら、今のうちに潰しますか」
アドリアンの笑みが少しだけ薄くなる。
「正直に言うと、それはもう遅い」
クラウディオは、その言葉を聞いた。
遅い。
自分が何度も思った言葉。
今度は、アドリアンの口から出た。
「遅い?」
「お前をただの妾腹の子として潰す時期は、もう過ぎた。今やれば、王が見る。古参血族も見る。お前の血を欲しがる連中も、恐れる連中も黙らない」
「では、どうするのです」
「考えている」
アドリアンは笑った。
「お前を殺すか、利用するか、育てるか、敵にするか。どれも損得が変わってきた」
「私は品物ですか」
「王族は皆、品物だよ。値札が違うだけ」
クラウディオは、アドリアンを見た。
その言葉は冷たい。
だが嘘ではない。
アドリアン自身も、第一王子という品物として扱われてきたのだろう。
正妃の血。
王座に最も近い者。
整った血術。
整った笑み。
彼もまた、値札を貼られている。
ただ、それをうまく利用してきただけだ。
「兄上の値札は」
クラウディオは聞いた。
アドリアンの目が少しだけ細くなる。
「高いよ」
「誰が決めました」
「皆が」
「では、下がることもありますね」
沈黙。
青白い魔導灯が揺れる。
アドリアンは、しばらくクラウディオを見ていた。
そして、小さく笑った。
「お前は本当に、遠慮がなくなった」
「遠慮して、何か守れますか」
アドリアンは答えなかった。
代わりに、静かに言った。
「夜血の儀で、お前の血がどこまで見えるか楽しみにしている」
「兄上の血も、楽しみにしております」
「そう言うと思った」
アドリアンは去っていった。
クラウディオはその背を見送る。
アドリアン。
お前をただの妾腹として潰す時期は過ぎたと言った。
殺す、利用する、育てる、敵にする。損得を考えている。
自分も品物と理解している。
危険。
変わらず。
部屋に戻ると、マルタが待っていた。
彼女は妙に緊張していた。
手洗いの水も、布も、すべて用意されている。
ただ、今日はそれだけではなかった。
机の横に、小さな銀の護符が置かれている。
クラウディオはそれを見た。
「これは」
マルタが頭を下げる。
「血の香りを抑える護符です。カルゼン先生より」
カルゼン。
先に手を打ったらしい。
クラウディオは護符を手に取った。
冷たい銀。
だが、吸血鬼を焼く銀ではない。
魔導処理された封香用の銀だ。
血の匂いを薄くする。
便利だ。
同時に、首輪にも似ている。
「つけろと?」
「必要時のみ、と」
「必要かどうかは誰が決める」
マルタは答えられない。
クラウディオは護符を机に置いた。
「今はいい」
「ですが、廊下でも」
「今はいいと言った」
マルタは黙る。
「はい」
クラウディオは机へ向かった。
引き出しを開ける。
ロウェナの記録の隣に、新しい紙を置く。
王座に近い血。
そう書いた。
そして続ける。
血糧庫鑑定官オルディア。
私の血に吸血衝動を示す。瞳に禍々しい赤が滲んだ。
稀血の可能性。
メルキオル、王血稀血と言った。
カルゼン、可能性と訂正。
私の血は、甘いらしい。
気味が悪い。
だが、武器になる。
欲しがる者を引き寄せる。
恐れる者を遠ざける。
血を餌にされるより、餌にする。
ヴェルナー。飲む者を喰う血。甘いものほど深い牙を持つ。
アドリアン。潰す時期は過ぎた。値札が変わった。
クラウディオはそこでペンを止めた。
値札。
嫌な言葉だ。
だが正しい。
彼の価値は、王城の中で変わった。
妾腹の子どもから、王血稀血の可能性を持つ子へ。
蔑む対象から、欲しがり、恐れる対象へ。
それは地位が上がったというより、檻の種類が変わっただけだった。
以前は、隅に押し込めるための檻。
今は、奪われないよう囲うための檻。
どちらも檻であることに変わりはない。
クラウディオは、さらに書いた。
檻の種類が変わっただけ。
檻なら壊す。
その一行を書いた時、胸の奥で血が静かに反応した。
吸血衝動ではない。
能力使用でもない。
だが、血術の気配に近い。
瞳の奥に、かすかな赤が滲む。
クラウディオは黒硝子を見た。
映った自分の目の奥に、禍々しい赤が薄く灯っている。
強くはない。
まだ自我はある。
理性もある。
だから赤はすぐに沈む。
だが、自分の血が反応していることは分かった。
王座に近い血。
稀血。
甘く、牙を持つ血。
周囲はそれに惹かれる。
恐れる。
欲しがる。
なら、使う。
使われる前に。
夜が深くなると、王城は静かになった。
だが、その静けさの奥に、いつもより多くの息が潜んでいる気がした。
誰かが彼の血を噂している。
誰かが記録している。
誰かが欲しがっている。
誰かが恐れている。
クラウディオは、机の奥の紙片を一度だけ見た。
また来てね、クラウディオ。
ロウェナの丸い文字。
その隣に、自分の冷たい文字が増えていく。
魔女ではない。
火を同じにしない。
裁かれる側にはならない。
血を覚える。
最初の命令。
甘い記憶は灰の下。
夜は王を選ばない。
後継争いの始まり。
王にふさわしくない子。
兄弟の杯。
王座に近い血。
ロウェナの甘さと、自分の血の甘さは違う。
同じにしない。
彼女の菓子は、誰かを生かすための甘さだった。
自分の血は、誰かを惹きつけ、狂わせるかもしれない甘さだ。
同じにしてはいけない。
クラウディオは紙をしまった。
そして、静かに呟いた。
「俺の血は、俺のものだ」
誰に聞かせるでもない。
自分の血へ向けた言葉だった。
血は答えない。
だが、胸の奥で静かに沈んだ。
王城の夜は長い。
その夜の奥で、クラウディオの血は、甘い噂として広がり続けていた。
人々を惹きつける。
恐れさせる。
欲望を呼ぶ。
警戒を呼ぶ。
そして、王座に近いものとして、少しずつ王城の空気を変えていく。
クラウディオは黒硝子に映る自分を見た。
小さな身体。
白い肌。
琥珀色に戻った瞳。
その奥に沈む、禍々しい赤。
まだ誰も知らない。
彼の血が本当に何を喰うのか。
欲しがる者ほど、いずれそれを知ることになる。




