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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第19話 兄弟の杯



 王城では、杯ひとつにも序列があった。


 誰が先に受け取るか。

 誰の杯が深いか。

 誰の血が濃いか。

 誰の器に、どの紋が刻まれているか。


 食卓では些細に見えるそれらが、儀式の場では意味を持つ。


 杯は、血を受ける器である。


 血を受ける器は、その者の立場を映す。


 王城の者たちは、そういう面倒な理屈を好んだ。実に吸血鬼らしい。血を飲むだけなら喉があれば足りるものを、器にまで政治を盛る。文明の無駄遣いだった。


 夜血の儀を二日後に控え、王族の子らには「杯合わせ」と呼ばれる小さな儀礼が課された。


 本番前に、王血を持つ子らがそれぞれ儀礼血を受け、血の反応を軽く確認する。


 表向きは準備。


 内側は牽制。


 前日に血術の庭でクラウディオが黒薔薇を従わせたせいで、王城の空気はまた一段変わっていた。


 古参吸血鬼たちはもう、彼をただの妾腹の子どもとしては見ていない。


 正妃派は不快を隠さなくなった。


 グラナート卿は言葉を慎重に選ぶようになり、イザベラは扇の影でクラウディオを見る時間が長くなった。


 ヴェルナーは相変わらず無駄なことを言わない。


 メルキオルは面白そうに笑う。


 そして兄弟たちは、それぞれに変わった。


 アドリアンは静かになった。


 以前から穏やかではあったが、今の静けさは別のものだった。笑みはある。声も柔らかい。だが、彼はクラウディオを見る時、血術や言葉だけでなく、その奥にあるものを探ろうとする。


 リヴィアは母の後ろへ隠れることが増えた。


 美しい王女として飾られてきた彼女は、黒薔薇がクラウディオへ頭を垂れた光景を見てから、彼と目を合わせることを避けている。


 そしてセヴランは、苛立っていた。


 露骨なほどに。


 それは、分かりやすい怒りだった。


 第二王子として、自分より下に置いていたはずの妾腹の子が、庭で王の目を奪った。古参吸血鬼たちの視線を変えた。ヴェルナーに名を覚えられた。王に「見事だ」と言わせた。


 セヴランにとって、それは許しがたいことらしい。


 クラウディオには、その怒りがよく見えた。


 怒りは便利だ。


 隠せない者ほど、罠を仕掛けても粗い。


 杯合わせは、黒薔薇の間より小さな儀礼室で行われることになった。


 壁は黒石。


 中央には低い円卓。


 その上に四つの杯が置かれている。


 第一王子アドリアンの杯。

 第二王子セヴランの杯。

 第三王女リヴィアの杯。

 そして、クラウディオの杯。


 杯にはそれぞれの名ではなく、王家の血紋と個別の印が刻まれている。


 アドリアンの杯には青い石。

 セヴランの杯には黒鉄の縁。

 リヴィアの杯には赤い薔薇の細工。

 クラウディオの杯には、簡素な銀の線だけ。


 分かりやすい差だった。


 正妃の子らには装飾。


 妾腹の子には最低限の印。


 王城は本当に、こういうところで性根が出る。器まで意地悪い。食器棚から人生をやり直してほしい。


 クラウディオは自分の杯を見た。


 銀の線は細い。


 だが、王家の血紋はきちんと刻まれている。


 それだけで十分だった。


 余計な飾りは、時に邪魔になる。


 儀礼室には、王族の子らと、数人の立会人がいた。


 王は来ていない。


 正妃エレオノーラは来ている。


 その横にアドリアン、セヴラン、リヴィア。


 古参血族からはグラナート、ヴェルナー、メルキオル。


 血術教師カルゼンもいた。


 そして、血杯を扱う給仕が四人。


 クラウディオは、その給仕たちを見た。


 一人目。年配。白髪交じり。手つきが安定している。アドリアンの杯の前に立つ。


 二人目。若い男。右足を少し庇う。以前、儀礼血の不審な杯を運んだ者とは別人。セヴランの杯の側にいる。


 三人目。小柄な女。リヴィアの杯の前で緊張している。


 四人目。クラウディオの杯のそばに立つ男。


 細身。黒髪。左耳に小さな黒い石の耳飾り。手は白いが、爪の間に薄い赤が残っている。血を扱う給仕としては珍しくない。だが、彼は杯を見る時、一度だけセヴランの方を見た。


 クラウディオは、それを見た。


 覚えた。


 セヴランは視線を逸らしている。


 逸らし方が不自然だった。


 見ないようにしている者ほど、見ている。


 クラウディオは表情を変えなかった。


 カルゼンが儀礼の説明をする。


「本日の杯合わせは、夜血の儀前の軽い確認です。それぞれの杯に薄めた儀礼血を受け、血の濁り、拒絶、過剰反応の有無を見ます。過度な血術行使は禁止。杯への直接干渉も禁止。異変があれば、飲む前に申し出ること」


 異変があれば、飲む前に。


 クラウディオは、その言葉を聞いた。


 つまり、飲んだ後では遅い。


 儀礼血に何かが混じっていた場合、飲んだ者の管理不足とされる余地もある。


 子どもなら。


 妾腹なら。


 「勝手に血が乱れた」とでも言われるのだろう。


 正妃が静かに言った。


「杯合わせ程度で乱れるようでは、夜血の儀には耐えられません」


 それは誰に向けた言葉か。


 全員に向けたようで、クラウディオへ向けている。


 クラウディオは頭を下げた。


「承知しております」


 セヴランが鼻で笑った。


「随分と余裕だな」


「兄上ほどではありません」


 セヴランの眉が動いた。


 アドリアンが横で微笑む。


 その微笑みは、止める気のない兄の顔だった。


 リヴィアは不安そうに正妃を見る。


 杯合わせが始まった。


 最初はアドリアン。


 給仕が儀礼血を注ぐ。


 赤は薄く、香りも整っている。


 アドリアンは杯を持ち上げ、静かに唇をつけた。


 血が彼の中へ入る。


 彼の瞳の奥に、ほんのわずか赤が滲んだ。


 吸血ではない。


 儀礼血による血脈反応。


 赤はすぐに引く。


 彼は乱れない。


 カルゼンが頷く。


「問題なし」


 次にセヴラン。


 彼はやや乱暴に杯を取った。


 黒鉄の縁が月光を受けて鈍く光る。


 血を飲む。


 一瞬、彼の瞳が赤く光った。


 アドリアンより強い赤。


 血が荒い。


 だが、自我は保っている。


 セヴランは口元を拭い、クラウディオの方を見た。


 どうだ、とでも言いたげだった。


 クラウディオは何も返さなかった。


 カルゼンが言う。


「反応やや強め。許容範囲」


 セヴランの顔に不満が走る。


 やや強め。


 つまり、完全ではない。


 次はリヴィア。


 彼女は震える手で杯を持った。


 正妃が横で見ている。


 リヴィアが儀礼血を飲むと、彼女の瞳にも薄く赤が滲んだ。美しい赤だった。花弁の裏側のような、淡く整った赤。


 だが、すぐに揺れた。


 リヴィアが息を詰める。


 正妃の指が扇を握る。


 カルゼンが低く言った。


「息を」


 リヴィアは慌てて息を吐いた。


 赤は引く。


「問題なし。ただし、緊張が血に出ています」


 リヴィアは顔を伏せた。


 正妃の表情は変わらない。


 けれど、その指先にはわずかに力が入っていた。


 最後に、クラウディオ。


 給仕が杯へ近づく。


 左耳の黒い石。


 爪の赤。


 セヴランへの視線。


 クラウディオは、そのすべてを思い出しながら、杯を見る。


 儀礼血が注がれる。


 赤は薄い。


 表面は静か。


 匂い。


 まず、王家の古い血。


 薄められている。


 次に、儀式用の薬草。


 問題ない。


 その奥に、ほんのかすかなもの。


 自分の杯にだけ混ざっているわけではない。


 むしろ、匂いは薄すぎる。


 杯そのものにではない。


 縁。


 杯の外側。


 指が触れる位置。


 そこに、別の血の匂いがあった。


 セヴランの血。


 ごく微量。


 それから、血術反応を乱す黒香草。


 飲ませるためではない。


 杯を持った時、クラウディオの指に触れさせるためだ。


 クラウディオの血がセヴランの血へ反応すれば、干渉したように見える。


 つまり。


 クラウディオがセヴランの杯、あるいはセヴランの血へ何らかの血術干渉を仕掛けたように見せるつもりだったのだ。


 浅い。


 だが、儀礼の場では効く。


 妾腹の子が兄の血に触れた。


 夜血の儀前に兄弟へ干渉しようとした。


 後継争いに焦った。


 そういう物語が作れる。


 クラウディオは杯を持たなかった。


 給仕がわずかに動揺する。


「クラウディオ様」


 クラウディオは杯を見たまま言った。


「この杯に触れた者は」


 部屋の空気が止まった。


 セヴランの指がわずかに動く。


 アドリアンの目が細くなる。


 カルゼンは何も言わない。


 正妃も動かない。


 給仕は答えた。


「私と、血糧係でございます」


「他には」


「……存じません」


「存じない」


 クラウディオは繰り返した。


 給仕の喉が動く。


 クラウディオは視線を上げた。


「カルゼン」


 教師は静かに応じた。


「何でしょう」


「杯の縁を確認してください。内側ではなく、外側。右手の親指が触れる位置です」


 カルゼンの目がわずかに動いた。


 彼はすぐに近づき、杯へ触れずに匂いを確かめた。


 次に、銀の細い検査針を取り出す。


 杯の外側をなぞる。


 針先が、赤黒く染まった。


 ざわめきが走る。


 カルゼンは言った。


「血痕。ごく微量。儀礼血ではありません」


 クラウディオは静かに聞いた。


「誰の血か分かりますか」


 カルゼンは検査針を血術円へかざす。


 小さな赤い光が浮かぶ。


 その光が、セヴランの方へ細く伸びた。


 リヴィアが小さく息を呑む。


 セヴランの顔色が変わった。


「待て」


 彼は言った。


「俺は知らない」


 クラウディオは、ゆっくりセヴランを見た。


「まだ何も申し上げていません」


 セヴランの唇が止まる。


 言うのが早すぎた。


 知らない。


 その否定が、疑いを自分へ引き寄せる。


 クラウディオは静かに続ける。


「兄上の血が、私の杯の外側についていた。それだけです」


 セヴランの目が怒りで赤くなりかけた。


 吸血衝動ではない。


 血術でもない。


 怒りに血が反応している。


 禍々しい赤が瞳の奥に滲みかけ、すぐに沈む。


 だが、何人かは見た。


 ヴェルナーも。


 アドリアンも。


 正妃も。


 カルゼンも。


 クラウディオは、もちろん見た。


 セヴランは怒りで血を揺らす。


 杯合わせの場で。


 記録するには十分だ。


 セヴランが叫ぶ。


「お前がつけたんだろう!」


 クラウディオは答えた。


「私が?」


「そうだ! 俺を陥れるために」


「では、私がいつ兄上の血を手に入れたのです」


 セヴランが詰まる。


 クラウディオはさらに続けた。


「兄上の血を私の杯へ塗り、さらに自分でそれを指摘したと?」


「そういう小細工をするくらい、お前なら」


「兄上」


 クラウディオの声が少し低くなった。


 部屋が静まる。


「私は、そのような小細工をするなら、もっと綺麗にやります」


 沈黙。


 アドリアンが口元を押さえるように指を添えた。


 笑いを隠したのか、興味を隠したのか分からない。


 メルキオルは明らかに楽しんでいる。


 ヴェルナーは腕を組み、セヴランを見ていた。


 正妃の顔は美しいまま凍っている。


 セヴランは怒りで言葉を失っていた。


 クラウディオはカルゼンへ視線を戻す。


「黒香草の匂いもします」


 カルゼンが杯の縁を再確認する。


「……確かに。微量ですが、血脈反応を乱す薬草です」


 ざわめきが広がった。


 正妃が初めて口を開く。


「誰がそのようなものを」


 静かな声。


 だが、室内の温度が下がるようだった。


 クラウディオは給仕を見た。


 左耳の黒い石。


「お前の名は」


 給仕は震えた。


「ジ、ジルでございます」


「ジル」


 名前を呼ぶ。


 相手の逃げ場を狭くするために。


「この杯を用意したのはお前か」


「はい」


「黒香草を塗ったのも」


「違います!」


 声が大きい。


 大きすぎる。


 クラウディオは一歩近づいた。


「では、誰だ」


 ジルは震えている。


 視線が動く。


 セヴランへ。


 一瞬。


 だが、十分だった。


 セヴランが怒鳴る。


「見るな!」


 それで終わった。


 部屋中が理解した。


 セヴランは自分で自分の罠を閉じた。


 クラウディオは何も言わなかった。


 言わないことが、最も重い場面だった。


 カルゼンが低く告げる。


「杯合わせの場で、他者の杯へ血と薬草を仕込む行為は、儀礼妨害です」


 ヴェルナーが続けた。


「夜血の儀前なら、王族の血を乱す意図ありと見られる」


 メルキオルが笑う。


「しかも、自分の血を使った。若い」


 若い。


 その言葉は柔らかいが、意味は鋭い。


 浅い。


 未熟。


 怒りで動いた。


 そう言っている。


 セヴランの顔が赤くなる。


「違う! 俺は、こんな」


 クラウディオは静かに言った。


「兄上」


 セヴランが睨む。


「まだ、違うとおっしゃいますか」


 その言葉を言った瞬間、クラウディオの胸の奥で灰が動いた。


 私は魔女じゃない。


 違うわ。


 お願い、信じて。


 まただ。


 同じ言葉を使っている。


 違うと叫ぶ相手を、信じない側に立っている。


 だが、今は違う。


 今は、証拠がある。


 杯の縁。


 セヴランの血。


 黒香草。


 給仕の視線。


 セヴラン自身の「知らない」という早すぎる否定。


 違う。


 同じではない。


 そう思う必要があること自体が、クラウディオには不快だった。


 けれど、顔には出さない。


 ロウェナの言葉を汚さないためにも、ここで揺れてはいけない。


 セヴランは答えられなかった。


 正妃が静かに立ち上がる。


「ジルを下げなさい。調査を」


「いいえ」


 クラウディオが言った。


 正妃の目が、彼へ向いた。


 部屋が凍る。


 正妃の言葉を遮った。


 クラウディオは頭を下げた。


「失礼。ただ、ジルだけを下げるのは不十分かと」


「何が言いたいのです」


「給仕一人が、第二王子殿下の血を手に入れ、黒香草を用意し、私の杯へ塗り、兄上がそれを見て即座に私を犯人と断じる。偶然としては、少々整いすぎています」


 正妃の表情は動かない。


 だが、目が冷たい。


 クラウディオは続けた。


「兄上の名誉のためにも、杯、血糧庫、給仕、そして兄上の側近まで調べるべきでしょう」


 兄上の名誉のため。


 便利な言葉だった。


 セヴランを守る形で、逃げ道を塞ぐ。


 正妃がそれを拒めば、セヴランが疑われたままでよいと言うことになる。


 受ければ、セヴランの周囲まで調査が入る。


 どちらにしても傷は残る。


 正妃は、ほんの少しだけ笑った。


「ずいぶんと、兄思いなのですね」


「王族の儀礼が汚されたままでは、夜血の儀に差し障ります」


 クラウディオは正妃の目を見た。


「兄上のためだけではありません。王城のためです」


 王城のため。


 これも便利な言葉だ。


 クラウディオはもう知っている。


 王城では、個人の怒りを王城のためと言い換えると、急に通りがよくなる。


 正妃はしばらく黙っていた。


 その沈黙の間、セヴランは青ざめ、ジルは震え、リヴィアは泣きそうな顔で母を見ていた。


 アドリアンは、ただクラウディオを見ていた。


 青い目の奥に、奇妙な光がある。


 感心か。


 警戒か。


 あるいは、その両方か。


 やがて、正妃は言った。


「……調べなさい」


 それで決まった。


 ジルは下げられた。


 セヴランの側近も呼び出されることになる。


 杯合わせは中止。


 儀礼血はすべて破棄。


 新しい杯と血が用意されるまで、全員待機。


 セヴランは怒りで震えていたが、何もできなかった。


 殴れば終わる。


 叫べばさらに醜態を晒す。


 彼がどれほど怒っても、状況はもうクラウディオが作った形に入っていた。


 クラウディオはセヴランを見た。


 殺す必要はない。


 血で膝を折る必要もない。


 ただ、彼自身の未熟さを皆の前へ置けばいい。


 第二王子が、夜血の儀前に兄弟の杯へ小細工をした疑い。


 自分の血を使い、給仕を動かし、怒りで早々に否定した。


 その話は王城を回る。


 正妃派は火消しに追われる。


 古参血族たちは、セヴランの粗さを記録する。


 アドリアンは距離を取る。


 リヴィアはさらに怯える。


 そして王は、見る。


 直接殺すより、ずっと長く効く。


 社会的な傷は、血より乾きにくい。


 クラウディオは、それを理解していた。


 新しい杯が用意されるまで、誰も軽口を叩かなかった。


 セヴランは正妃のそばへ行こうとして、彼女に視線だけで止められた。


 その瞬間も、何人かが見た。


 正妃が、息子を庇わず止めた。


 守るより、これ以上の失態を防ぐことを選んだ。


 セヴランの顔が歪む。


 クラウディオはそれも見た。


 かわいそうだとは思わなかった。


 だが、少しだけ火刑台の広場を思い出した。


 誰も庇わない。


 誰も動かない。


 失敗した者を切り捨てる沈黙。


 王城と広場は違う。


 けれど、よく似た音を出す時がある。


 クラウディオは目を伏せた。


 ロウェナ。


 胸の奥で、声にならない名が沈む。


 彼女のことは誰にも言わない。


 だが、こういう時だけ思い出す。


 自分が今、どちら側に立っているのか。


 裁かれる側ではない。


 信じてと叫ぶ側ではない。


 では、何か。


 裁く側へ近づいている。


 その事実は、勝利の味だけではなかった。


 苦さもある。


 焦げた砂糖のような苦さ。


 やがて新しい杯が用意され、杯合わせは再開された。


 今度のクラウディオの杯に異物はなかった。


 儀礼血は薄く、整っている。


 クラウディオは杯を持ち上げた。


 周囲が見ている。


 今度は、誰も彼を軽く見ていない。


 彼は血を飲んだ。


 冷たい血が喉を通る。


 瞳の奥に、禍々しい赤がふっと滲む。


 吸血ではない。


 儀礼血と血術反応。


 赤は深く、静かだった。


 荒れない。


 揺れない。


 セヴランの怒りの赤とは違う。


 クラウディオの赤は、底に沈むような色だった。


 カルゼンが見ている。


 ヴェルナーも。


 アドリアンも。


 クラウディオは杯を置いた。


 赤はゆっくり引いていく。


「問題なし」


 カルゼンが言った。


 短い判定。


 だが、十分だった。


 杯合わせが終わると、セヴランはすぐに部屋を出た。


 足音が荒い。


 誰も追わない。


 正妃ですら。


 その代わり、アドリアンがクラウディオの横へ来た。


「容赦がないね」


 柔らかな声だった。


 クラウディオは杯の縁を見ていた。


「何がです」


「セヴランを、あの場で潰した」


「私は事実を申し上げただけです」


「便利な言葉だ」


「兄上もよくお使いでしょう」


 アドリアンは小さく笑った。


「たしかに」


 彼はクラウディオを見た。


「殺さなかったんだね」


 その問いは、ひどく静かだった。


 クラウディオは顔を上げる。


「殺す必要がありません」


「必要があれば?」


 アドリアンの青い瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。


 クラウディオはすぐには答えなかった。


 殺す。


 その言葉は、まだ遠くにあるようで、すでに近くにある。


 血術を使えば、膝をつかせられる。


 杯に仕掛ければ、血を乱せる。


 噂を流せば、社会的に落とせる。


 では、殺すことはどこにあるのか。


 遠いのか。


 近いのか。


 クラウディオは答えた。


「必要かどうかは、場で決めます」


 アドリアンの笑みが少しだけ消えた。


「怖い答えだ」


「兄上が聞いたのです」


「そうだね」


 アドリアンは視線を外した。


「セヴランはしばらく動けない。正妃も火消しが必要になる。古参血族たちは、あいつを少し軽く見るだろう」


「でしょうね」


「それを狙った?」


「兄上なら、狙いますか」


 アドリアンは答えなかった。


 沈黙が答えだった。


 クラウディオは言った。


「なら、私も狙ったのでしょう」


 アドリアンは、今度こそはっきり笑った。


「本当に、育っている」


「誰かに育てられるつもりはないと言いました」


「だから面白い」


 アドリアンは近づき、声を少し落とした。


「でも気をつけるといい。社会的に落とすやり方は、刃より恨みが長い」


「忘れられるよりましです」


 クラウディオは即答した。


 アドリアンの目が細くなる。


 まただ。


 彼は今の答えの奥を探っている。


 忘れられるよりまし。


 なぜその言葉が出たのか。


 どこから来たのか。


 アドリアンはそれを見つけたがっている。


 クラウディオはそれ以上何も言わなかった。


 ロウェナの名は渡さない。


 アドリアンは少しだけ残念そうに笑った。


「いつか聞くよ」


「答えません」


「答えさせる」


「やってみればよろしい」


 会話はそこで終わった。


 アドリアンは去り、クラウディオは儀礼室に残った。


 空になった杯が四つ。


 そのうち一つは、すでに別室で検査されている。


 セヴランの罠の証拠として。


 クラウディオは、自分の新しい杯を見た。


 銀の線だけの簡素な杯。


 飾りはない。


 だが、今日はその杯が最も多くの視線を集めた。


 部屋を出る前に、ヴェルナーが短く言った。


「今回は血を使わなかったな」


 クラウディオは見上げる。


「必要ありませんでした」


「そうか」


 ヴェルナーは頷いた。


「その方が厄介だ」


「褒め言葉ですか」


「警戒だ」


「覚えておきます」


 ヴェルナーは低く笑った。


「そう言うと思った」


 その夜、自室へ戻ると、クラウディオはすぐに記録を書いた。


 兄弟の杯。


 そう題をつける。


 そして、淡々と書いた。


 セヴラン。


 自分の血を私の杯の外側へ付着させた疑い。


 黒香草。


 給仕ジル。


 私を兄弟への血術干渉犯に見せようとした。


 知らない、と早く言いすぎた。


 給仕がセヴランを見た。


 正妃はジルだけを下げようとした。


 私は兄上の名誉のため、側近まで調べるべきと進言。


 調査決定。


 セヴラン、社会的失点。


 古参血族の前で未熟さを晒す。


 直接殺す必要なし。


 クラウディオは、そこでペンを止めた。


 直接殺す必要なし。


 その文字を見つめる。


 必要があれば、殺すのか。


 アドリアンの問いが戻る。


 必要かどうかは場で決める。


 自分はそう答えた。


 それは嘘ではない。


 だが、ロウェナが聞いたら、どう思うだろう。


 クラウディオ。


 そんな声が、灰の下から聞こえる気がした。


 彼は目を閉じる。


 火刑台の煙。


 焦げた砂糖。


 違うわ。


 私は魔女じゃない。


 誰も信じなかった。


 あの時、誰かがロウェナを社会的に落とした。


 噂で。


 疑いで。


 証明できないと言って。


 違うなら困らないだろうと言って。


 クラウディオは今日、証拠を持ってセヴランを追い落とした。


 同じではない。


 そう思う。


 そう思わなければならない。


 だが、似た形の刃を握った感触は、手に残っていた。


 クラウディオは新しい紙を取り出した。


 ロウェナの記録の隣に置くための紙。


 そこに書いた。


 同じ言葉を使う時は、根を見失うな。


 ロウェナは無実だった。


 セヴランは仕掛けた。


 同じにしない。


 だが、同じ刃を握ったことは忘れない。


 忘れれば、群衆になる。


 その一行を書いた時、胸の奥の灰が少し沈んだ。


 完全には消えない。


 消えなくていい。


 クラウディオは紙をしまった。


 床下の帳簿には、別に短く加える。


 セヴラン。


 兄弟の杯で失態。


 殺さず、落とした。


 その短い文字は、冷たかった。


 夜更け、クラウディオは黒硝子の前に立った。


 瞳は琥珀色に戻っている。


 儀礼血で滲んだ赤は、もう沈んだ。


 だが、血の底にはまだ熱が残っている。


 殺さない。


 今は。


 落とす。


 折る。


 孤立させる。


 信頼を奪う。


 その方が長く効く。


 そう理解している自分がいた。


 怖いとは思わなかった。


 ただ、灰の下の甘い記憶が、静かに彼を見ているようだった。


 クラウディオは硝子の中の自分へ告げた。


 忘れるな。


 お前が握っている刃は、かつて彼女を燃やした世界の刃と似ている。


 だからこそ、使い方を間違えるな。


 夜の王城は静かだった。


 だが、その静けさの奥で、セヴランの名が少しずつ軽くなっていく音がした。


 杯ひとつで、王子の重さは変わる。


 クラウディオはそれを知った。


 そして、次に誰の重さを変えるかを、もう考え始めていた。


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