表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/231

第18話 血術の庭



 王城には、夜にだけ開く庭があった。


 昼間は黒い枝ばかりが絡み合う、冷たい庭である。


 薔薇の葉は深い緑をしているが、光を好まない。花は固く閉じ、棘だけがやけに鋭く、白い石畳の上へ影を落としている。噴水はあるが、水音は小さい。まるで、庭そのものが息を潜めているようだった。


 だが夜になると、その庭は姿を変える。


 黒薔薇が開く。


 花弁の内側には血のような赤が滲み、青白い月光を受けると、濡れた硝子のように光る。庭の中央には古い魔導円が刻まれた円形の広場があり、そこを囲むように薔薇の垣根が何重にも続いている。


 名を、血薔薇の庭という。


 王族の血術披露に使われる庭だった。


 夜血の儀を二日後に控えたその夜、王族の子らと古参吸血鬼たちは、その庭に集められていた。


 表向きは、儀式前の軽い確認。


 だが、誰もそれを軽いものとは思っていない。


 古参血族たちは、誰が王血にふさわしいかを見るために来ている。


 正妃エレオノーラは、自分の子らの優位を見せるために来ている。


 王ヴァレンティヌスは、全員の反応を見るために来ている。


 そしてクラウディオは。


 見世物として置かれた。


 少なくとも、王城の多くはそう思っていた。


 妾腹の子が、どこまでできるのか。


 ラザールを膝まずかせたのは偶然か。


 儀礼血の小細工を見抜いたのは、たまたまか。


 王血を持つとはいえ、正妃の子らと同じ庭に立てるのか。


 その疑いが、庭の空気に混じっている。


 クラウディオは黒い礼装のまま、庭の端に立っていた。


 夜風が袖を揺らす。


 黒薔薇の香りが濃い。


 甘く、冷たく、わずかに鉄の匂いを含んでいる。


 焼き菓子の甘さとは違う。


 血の近い甘さだった。


 クラウディオは、息を整えた。


 火の匂いではない。


 だから大丈夫だ。


 そう思った瞬間、自分の中で「大丈夫」と確かめなければならないことに、少しだけ腹が立った。


 庭の中央には、王が座していた。


 黒い椅子。


 背には王家の紋章。


 ヴァレンティヌスは深紅と黒の衣をまとい、血石の指輪をした手を肘掛けに置いている。赤みを帯びた金の瞳は、夜の中で冷たく光っていた。


 その隣に正妃エレオノーラ。


 白金の髪を結い、今日は黒真珠ではなく、赤い石の首飾りをつけていた。薔薇の庭に合わせたのだろう。美しい。だが、その美しさは花ではなく刃に近い。


 アドリアンは王のやや左手側に立っている。


 青い瞳。


 穏やかな微笑。


 その立ち姿には隙がない。


 セヴランはその隣で、苛立ちを隠すように肩を張っている。


 リヴィアは正妃のそばに立ち、両手を胸の前で合わせていた。彼女の瞳には不安と期待が混じっている。


 古参血族たちも集まっていた。


 ヴェルナー卿。


 グラナート卿。


 メルキオル卿。


 イザベラ・ヴェイン。


 ほかにも、王城の血術局、財務、守備、古い血族の代表者たち。


 彼らは薔薇の垣根の前に立ち、王族の子らを値踏みしている。


 クラウディオを見た時だけ、いくつかの視線が少し軽くなる。


 まだだ。


 彼らはまだ軽んじている。


 夜の庭に出された小さな黒い影。


 王城の端に置かれた妾の子。


 たまたま血を動かし、たまたま罠を返した子ども。


 クラウディオは、その視線を見ていた。


 誰が侮っているか。


 誰が警戒しているか。


 誰が興味を持っているか。


 誰が正妃の顔を見ているか。


 全部、拾う。


 王が言った。


「始めろ」


 短い命令だった。


 最初に進み出たのは、アドリアンだった。


 彼は黒薔薇の庭の中央へ歩み、魔導円の中へ入る。礼をしてから、銀の小針で自分の指先を刺した。


 血が一滴、落ちる。


 その血はすぐに細い線になり、足元の魔導円へ広がった。


 赤い光が円をなぞる。


 庭の黒薔薇が、静かに揺れた。


 アドリアンは声を荒げない。


 顔色も変えない。


 彼の血は美しく流れ、魔導円の上で青白い光と混じり合い、薔薇の花弁を一枚ずつ開かせていく。


 整っている。


 カルゼンが言った通りだった。


 血の流れも、表情も、言葉も。


 アドリアンは何も乱さない。


 やがて、庭の一角にある黒薔薇が一斉に開き、赤い花弁の内側が月光を受けて光った。


 古参血族たちが感嘆の声を漏らす。


「さすが第一王子殿下」


「美しい流れだ」


「血が乱れない」


 アドリアンは静かに礼をし、円から出た。


 その青い目が、すれ違いざまにクラウディオを見た。


 見せたよ。


 そう言っているようだった。


 クラウディオは何も返さなかった。


 次はセヴランだった。


 彼は魔導円に入ると、迷いなく指を傷つけた。血が落ちる。アドリアンよりも量が多い。


 赤い光が強く走った。


 黒薔薇の枝が、音を立てて持ち上がる。


 まるで鞭のようにしなり、庭の一角へ向かって伸びた。セヴランの血術は美しさより強さだった。薔薇の棘が赤く光り、空中で絡み合い、鋭い冠の形を作る。


 力はある。


 確かに。


 だが、血の流れが荒い。


 薔薇の枝の何本かが暴れ、魔導円の外へ出かけた。


 カルゼンがわずかに眉を寄せる。


 ヴェルナー卿は腕を組んだまま、じっと見ている。


 セヴランは歯を食いしばり、枝を押さえ込んだ。


 やがて血の冠は完成した。


 古参血族たちが拍手する。


 アドリアンほどではない。


 だが、強さは示した。


 セヴランは荒い息を隠しながら礼をし、円を出る。


 クラウディオの横を通る時、低く言った。


「見ていろ」


 クラウディオは答えなかった。


 見ている。


 言われるまでもなく。


 次はリヴィアだった。


 彼女は少し怯えた顔で魔導円へ入る。


 正妃の目が、彼女を支えていた。


 リヴィアは指先を刺し、血を落とした。


 その血は細かい霧になった。


 赤い霧が薔薇の庭へ広がり、花弁の表面へ薄く降りる。


 すると、黒薔薇の花弁に赤い模様が浮かび上がった。


 繊細な紋様。


 まるで刺繍のようだった。


 美しい。


 正妃の血を感じさせる、華やかな血術だった。


 だが、長くは保たない。


 霧はすぐに薄まり、模様の一部が崩れた。


 リヴィアの顔が青くなる。


 正妃の指が扇を握る。


 アドリアンは静かに見ている。


 セヴランは少しだけ鼻で笑った。


 クラウディオは、それも見た。


 リヴィアは血そのものは美しい。


 だが、夜への耐性が弱い。


 集中が切れると形が崩れる。


 彼女は王座を争う刃ではない。


 ただし、正妃の象徴にはなる。


 使われる側だ。


 リヴィアは涙を堪えながら礼をして戻った。


 正妃はその背を軽く撫でた。


 優しい仕草に見える。


 だが、クラウディオには、出来栄えを確かめる手に見えた。


 最後に、王の視線がクラウディオへ向いた。


「クラウディオ」


 庭の空気が変わった。


 古参血族たちが一斉にこちらを見る。


 いよいよ、見世物の番。


 そんな視線もあった。


 クラウディオはゆっくり歩き出した。


 黒薔薇の香りが強くなる。


 足元の白い石には、兄弟たちの血の名残が薄く残っていた。


 アドリアンの整った赤。


 セヴランの荒い赤。


 リヴィアの霧の赤。


 その上を踏んで、クラウディオは魔導円へ入った。


 周囲の声が遠くなる。


 王。


 正妃。


 兄弟。


 古参血族。


 庭。


 黒薔薇。


 全部が彼を見ている。


 クラウディオは右手を上げた。


 銀の小針を受け取る。


 針先が指に触れる。


 痛み。


 赤い血が一滴、膨らんだ。


 ほんの一滴。


 グラナート卿が小さく笑ったのが聞こえた。


「控えめなことだ」


 クラウディオは聞こえないふりをした。


 血を落とす。


 赤い一滴が、魔導円の中央へ落ちた。


 何も起きない。


 一瞬。


 二瞬。


 庭は静かだった。


 セヴランが口元を歪める。


 リヴィアが不安げに目を伏せる。


 グラナートの笑みが深くなる。


 だが、アドリアンだけは笑わなかった。


 カルゼンも。


 ヴェルナーも。


 クラウディオは、目を閉じた。


 命じるな。


 呼ぶ。


 そう教えられた。


 だが今日は違う。


 今日は披露の場だ。


 夜血の儀の前に、自分がどう見られるかを変える場だ。


 呼ぶだけでは足りない。


 命じるだけでも足りない。


 血に記憶を渡す。


 血が覚えているものを、庭へ通す。


 クラウディオは胸の底へ沈めた記憶に触れた。


 温かい水。


 白い手。


 蜂蜜菓子。


 月の欠片。


 焦げた砂糖。


 火刑台。


 群衆。


 誰も止めなかった沈黙。


 ラザールの膝。


 フェルディナンの杯。


 グラナートの沈黙。


 後継争い。


 王座。


 夜。


 そのすべてを、赤い一滴へ沈める。


 クラウディオは目を開いた。


 その瞳の奥に、赤が滲んでいた。


 禍々しい赤。


 吸血衝動ではない。


 血術の赤だった。


 琥珀色の瞳の奥から、血の底の本性が光を放つ。


 その瞬間、魔導円が赤く灯った。


 遅れて、庭全体が震えた。


 黒薔薇の枝が、一本ずつ揺れる。


 だが、セヴランの時のように荒くない。


 アドリアンの時のように整いすぎてもいない。


 リヴィアの霧のように薄くもない。


 庭の奥から、血が呼吸するような音がした。


 薔薇の根が、クラウディオの一滴に反応している。


 古い庭が目を覚ます。


 カルゼンが低く息を吐いた。


「庭そのものに触れたか」


 誰かが小さく声を漏らした。


 黒薔薇の花が、いっせいにクラウディオの方を向いた。


 花が人を見るはずがない。


 それなのに、そう見えた。


 赤を内側に抱いた黒い花々が、庭の隅から隅まで、一つ残らず彼へ向きを変える。


 クラウディオは右手を下ろした。


 血はもう指先に戻っていた。


 だが、庭は動き続ける。


 薔薇の枝が持ち上がる。


 棘が光る。


 花弁が揺れる。


 何百という黒薔薇が、音もなく魔導円へ向かって頭を垂れた。


 膝をつくように。


 庭が、クラウディオへ礼をした。


 その光景に、誰も声を出せなかった。


 美しかった。


 異様なほどに。


 黒薔薇の花弁は夜の中で艶めき、内側の赤は血のように濃い。青白い月光を受けた庭は、まるで巨大な礼拝堂のようだった。


 だが同時に、危険だった。


 薔薇の棘はすべて外側へ向いている。


 クラウディオを囲むのではない。


 彼の外側へ、周囲へ、向いている。


 誰かが一歩踏み込めば、その棘は一斉に動くだろう。


 そう思わせる形だった。


 美しい庭。


 だが、近づけば裂かれる。


 クラウディオは、中央に立っていた。


 小さな身体。


 黒い礼服。


 白い肌。


 赤く滲んだ瞳。


 夜風に揺れる黒髪。


 その姿は、まだ子どもだった。


 けれど、庭の中央で彼に向かって薔薇が頭を垂れている光景は、子どものものではなかった。


 王の影。


 あるいは、王になる前の怪物。


 そのどちらかだった。


 グラナートの顔から笑みが消えていた。


 イザベラは扇を握りしめている。


 メルキオルは、初めて面白がるだけではない目をした。


 ヴェルナーは腕を組み直し、クラウディオを真っ直ぐ見ている。


 正妃の目は冷えている。


 アドリアンの微笑みは消えた。


 セヴランは怒りより先に、呆然としていた。


 リヴィアは母の袖を掴んでいる。


 王ヴァレンティヌスだけが、静かに見ていた。


 クラウディオは、庭へ命じた。


「戻れ」


 声は大きくなかった。


 だが、庭全体に届いた。


 黒薔薇が一斉に動きを止める。


 そして、ゆっくり元の位置へ戻った。


 枝は垣根へ沈み、花は夜風に揺れ、魔導円の赤い光も消えていく。


 何事もなかったように。


 だが、誰も何事もなかったとは思わなかった。


 庭全体を、一滴で従わせた。


 血術の形としては異常だった。


 出力が大きいわけではない。


 血を多く使ったわけでもない。


 むしろ、使った血は最も少ない。


 だからこそ異常だった。


 血で押したのではない。


 血で庭の記憶を掴んだ。


 この庭は王族の血術披露に使われてきた。


 何人もの王族の血を吸い、儀式を見てきた。


 その庭そのものへ触れ、頭を垂れさせた。


 周囲の評価が変わる音が、聞こえる気がした。


 妾の子。


 小さな異物。


 偶然血が動いた子。


 その程度ではない。


 王城の庭が礼をした子。


 その認識が、古参血族たちの間へ広がっていく。


 クラウディオは礼をした。


 王へ。


 正妃へ。


 古参血族へ。


 兄弟へ。


 完璧な礼だった。


 その礼が、かえってひどく冷たかった。


 王が口を開く。


「見事だ」


 短い言葉だった。


 だが、十分だった。


 王が認めた。


 この場で。


 古参血族たちの前で。


 正妃の前で。


 兄弟たちの前で。


 クラウディオは頭を下げたまま答えた。


「恐れ入ります」


 声は静かだった。


 瞳の赤は、ゆっくり沈んでいく。


 琥珀色へ戻る。


 だが、見ていた者たちは忘れない。


 赤くなった目。


 黒薔薇が頭を垂れた庭。


 一滴の血。


 小さな王子の冷たい声。


 戻れ。


 それだけで庭が従った。


 披露が終わると、庭の空気は以前とは違っていた。


 誰もすぐには話さなかった。


 拍手すら遅れた。


 最初に拍手したのは、メルキオルだった。


 乾いた、小さな音。


 それに続いて、ヴェルナー。


 それから古参血族たちが、ようやく手を叩き始めた。


 グラナートは遅れた。


 それもクラウディオは見た。


 遅れた拍手。


 認めたくないが、認めざるを得ない者の手。


 記録するには十分だった。


 アドリアンが近づいてきた。


 青い瞳は静かだった。


「庭に好かれたね」


 クラウディオは答えた。


「好かれたように見えましたか」


「違うのかい」


「従わせただけです」


 アドリアンの目が細くなる。


「普通、それを好かれたと言う方が聞こえはいい」


「聞こえのよい言葉は、よく事実を隠します」


 アドリアンはしばらく黙った。


 それから、ほんの少し笑う。


「本当に、可愛くなくなった」


 クラウディオは顔を上げた。


「前から可愛くなかったのでしょう」


「そうだね」


「なら、問題ありません」


 アドリアンは答えなかった。


 その沈黙には、以前より強い警戒があった。


 セヴランは近づいてこなかった。


 リヴィアは遠くからクラウディオを見ていたが、目が合うとすぐに母の後ろへ隠れた。


 グラナートは古参血族たちと低く話している。


 その顔に、もう侮りの軽さはない。


 かわりに、不快と警戒がある。


 評価は変わった。


 好意へではない。


 恐怖と警戒へ。


 それでよかった。


 今の王城で、好意など信用できない。


 恐怖の方がまだ正直だった。


 ただ一人、ヴェルナーが近づいてきた。


 彼はクラウディオの前で立ち止まり、短く言った。


「今のは、庭が膝をついた」


 クラウディオは見上げた。


「そう見えましたか」


「そうしたのだろう」


 ヴェルナーの声は低い。


 そこに媚びはない。


 恐怖も過剰ではない。


 ただ、見たものを見たと言っている。


「恐れさせるためか」


 クラウディオは少し考えた。


「いいえ」


「では」


「覚えさせるためです」


 ヴェルナーの目が、わずかに動いた。


 クラウディオは続けた。


「私がここに立ったことを」


 ヴェルナーはしばらくクラウディオを見ていた。


 そして、ほんの少しだけ口元を動かした。


「よく覚えておこう」


 その言葉は、侮りではなかった。


 警戒でもある。


 敬意にも近い。


 クラウディオは頭を下げた。


「卿が覚えるなら、無駄ではありません」


 ヴェルナーは低く笑って離れた。


 その背を見送りながら、クラウディオは思った。


 この男は、いずれ重要になる。


 敵にするか。


 味方にするか。


 まだ決めない。


 決めるには早い。


 だが、測る価値がある。


 その夜、自室へ戻ると、マルタが震えた声で言った。


「本日の庭園での血術、皆様が……」


「何と言っている」


 クラウディオは外套を脱ぎながら聞いた。


 マルタは慎重に答えた。


「……見事であったと」


「他には」


「王血が濃い、と」


「他には」


「危険だと」


 クラウディオは振り返った。


 マルタはすぐに目を伏せる。


 正直に言ったことを後悔している顔だった。


 クラウディオは短く言う。


「そうか」


 マルタは恐る恐る顔を上げる。


「ご不快では」


「事実だ」


 危険。


 そう見られたなら、今日の披露は成功だった。


 美しいだけでは足りない。


 強いだけでも足りない。


 危険でなければ、王城では軽んじられる。


 危険すぎれば消される。


 その境界に立つ。


 それが必要だった。


 クラウディオは机へ向かった。


 ロウェナの記録の隣に、新しい紙を置く。


 血術の庭。


 そう書いた。


 そして続ける。


 一滴。


 庭全体が反応。


 黒薔薇がこちらを向いた。


 庭が膝をついた。


 王が見事だと言った。


 グラナートは拍手が遅れた。


 アドリアンは好かれたと言った。


 従わせただけと返した。


 ヴェルナーは、庭が膝をついたと言った。


 覚えさせるためと答えた。


 評価は変わった。


 軽蔑から、警戒へ。


 警戒から、恐怖へ向かう。


 クラウディオはペンを止めた。


 そして、少し離れたところにもう一行書いた。


 美しいものは、危険でなければ守られない。


 書いた後、その文字をじっと見た。


 ロウェナの店は美しかった。


 小さく、温かく、甘い匂いがしていた。


 危険ではなかった。


 だから守られなかった。


 だから燃やされた。


 クラウディオは、唇を引き結んだ。


 違う。


 それはロウェナが悪いという意味ではない。


 守らなかった世界が悪い。


 だが、世界が悪いと泣いても、火は止まらない。


 なら、自分は危険でいる。


 近づけば棘が刺さると、誰もが知るように。


 黒薔薇の庭のように。


 美しく、危険に。


 クラウディオは紙をしまった。


 床下の帳簿には、別に短く書く。


 血術の庭。


 黒薔薇が礼をした。


 王が認めた。


 古参血族の評価が変わった。


 後継争い、次段階。


 短く。


 冷たく。


 記録する。


 夜更け、クラウディオは黒硝子の前に立った。


 今日は暖炉に火を入れていない。


 燭台も少ない。


 部屋は暗い。


 だが、鼻の奥には黒薔薇の香りが残っていた。


 甘く、冷たく、血に近い香り。


 焼き菓子の甘さとは違う。


 けれど、甘さという言葉だけは同じだ。


 クラウディオは目を閉じた。


 今日、庭は従った。


 庭は彼を選んだのではない。


 彼が従わせた。


 それでいい。


 夜は王を選ばない。


 王が夜を従わせる。


 黒薔薇の庭が頭を垂れた時、周囲の目が変わった。


 その変化は、火刑台の火を消さない。


 ロウェナを戻さない。


 閉ざされた店を開けない。


 それでも、クラウディオの足元を少しだけ変えた。


 もう、ただの妾の子としては見られない。


 もう、ただの見世物では終わらない。


 彼は黒硝子に映る自分を見る。


 瞳は今は琥珀色に戻っている。


 だが、その奥に、さきほどの赤が沈んでいるのを知っていた。


 血術を使った時に灯った、禍々しい赤。


 黒薔薇の庭が見た赤。


 古参血族たちが忘れられない赤。


 クラウディオは、硝子の中の自分へ静かに告げた。


 覚えさせた。


 次は、忘れられないようにする。


 夜の王城は静かだった。


 だが、その静けさの奥で、黒薔薇の庭がまだ彼へ頭を垂れているような気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ